「パラフィンのレインコート」
@totukou
第1話
1.雨やどり
東京郊外の住宅地の角に、ポツンと立つ古書店・荒地書林。
その書棚は、パラフィン紙のカバーが掛けられた本で埋め尽くされている。書棚の間には、古びた椅子が一つ。客がそこに座って、じっくり本を選べるようにというこの店の主人の心遣いだった。ただ、この古書店に、滅多に客は来ない。
にわか雨が降り出した。
大学病院に行った帰り、傘を持っていなかった鮎川裕実は雨宿りのため、荒地書林の扉を開いた。そのレトロな店構えを見て、喫茶店と勘違いしてしまったのだ。実際、かつて、ここは喫茶店だった。歳を取って廃業を決めた店主から、常連だった高崎杏子が店を買い取り、古書店に改装したのだった。それから、もう十年以上経っていたが、いまでも、荒地書林は、いかにも美味しそうなコーヒーが出て来そうなたたずまいを保っていた。
扉に付いたベルが涼しい音を立てたとき、裕実は自分の思い違いに気づいた。店内には、いくつも書棚が並んでいる。ここは本屋だ。慌てて踵を返そうとした彼女に、奥のカウンターに座る杏子が声を掛けた。とても優しい声だった。
「いらっしゃいませ。あら、雨? 濡れなかった?」
杏子の年齢はアラフォーといったあたりで、淡いグレーのシャツがよく似合っていた。彼女は戸棚からタオルを出すと、裕実の方へやってきた。
「よかったら、これ、使って」
遠慮するのもかえって失礼な気がして、裕実は頭を下げ、杏子が差し出したタオルを受け取った。
「ゆっくり、雨宿りしてってください」
杏子はそう言うと、奥のカウンターへ戻って行った。
裕実は、もう一度、黙って頭を下げた。
裕実が「ありがとうございます」と、お礼の言葉を言わなかったのには訳がある。彼女は喋れないのだ。生まれたときから障害があったわけではなく、歯が抜けたり、喉を傷めたりしたせいでもなかった。ある日、突然、声の出し方がわからなくなってしまったのだ。医者はストレスが原因だと言った。失業とか、失恋とか、いくつか思い当たる節はあったけれど、でも、この世の中、ストレスのない人などいるだろうか。なぜ、私だけがこんな目にあうのか。本当についてないと裕実は思った。心因性失声症というらしい。声帯を動かす神経が、すっかり麻痺してしまっているのだ。
「この病気は、一週間から数週間で、自然に治ります」
医者は、そう言った。「ふっとしたとき、突然、声が出始めることがよくありますから」と。
けれど、声を出せなくなってから、もう一月以上経っていた。
頭と肩についた水滴を拭い、タオルを杏子に返すと、もうすることは何もなくなってしまった。けれど、これですぐに出て行くのはあんまりな気がした。雨もまだ降っている。店の中に佇んでいると、裕実は、もう随分長いこと、自分が本を読んでいないことに気づいた。最近はスマホしか見ないし、それで事足りる。それでも、試しに、裕実は書棚から本を抜き出してみた。ページを開くと、それは詩集だった。詩なんて、高校の授業で読んで以来だ。まったく興味はない。裕実は本を戻し、別の本を抜き取った。ところが、それも詩集だった。裕実は、本を次々と確認していった。その書架に並んでいるのは、どれもみんな詩集だった。
裕実は振り返って、レジの前に座る杏子を見た。
裕実の驚いた様子を見て取って、杏子は言った。
「そう。うちはね、詩書専門の古本屋なんです」
裕実は、うなずいた。
「好きなだけ、見て行って。買えなんて言わないから」
裕実が店内を見て回ると、どの詩集にも、丁寧にパラフィン紙のカバーが掛けられていた。こんなに沢山の詩集が並んでいるのを見たのは、生れて始めただと、彼女は思った。そのとき、裕実の足がピタリと止まった。ある詩集のタイトルが、彼女の目に飛び込んで来た。
『言葉のない宇宙』
……言葉のない宇宙。まるで、いまの私のことだ。裕実は詩集を抜き取り、ページに目を落とした。
すると、書棚と書棚の間からレインコートを着た中年男が現われた。そのレインコートはパラフィン紙でできている。
中年男は言った。
「その詩集には、十一篇の詩が載っている。奥付を見ればわかることだが、森交社という小さな出版社から一九六五年四月に出版された。四月は一番残酷な月だから、詩集を出すのにふさわしいと、筆者は思ったのだ。当時、森交社は、日本における三大詩書出版社の一つだったが、いまはもう潰れて存在しない。詩専門の出版社が生き延びられる時代はとっくの昔に終わっている。……その詩集を出したとき、筆者はまだ三九歳で、その後、三度骨折し、四度離婚し、五度結婚し、数えきれないほどのバーボンの杯を上げた」
中年男は静かに椅子に腰かけると、ポケットからワイルドターキーの小瓶を出し、一口あおった。
裕実が詩集のページをめくっていくと、『ある後悔』というタイトルの詩があった。それは、こんな詩だった。
ことばのない宇宙に、
意味のない宇宙に、住んでいたら、
どんなに素晴らしかったろう。
ことばのせいで、
すべてに、意味が付され、価値が付される。
意味と価値の檻に閉じ込められて、
私は満足に息すらできないのだ。
ことばを介さずに、すべてが、
それそのままの姿で存在する。
そんな宇宙があったなら……
裕実は本を閉じ、目を閉じた。この詩集を買おう。そう決めて、レジのカウンターの上に本を差し出すと、杏子が尋ねた。
「お買い上げ?」
裕実はうなずいた。杏子は優しく微笑むと言った。
「ありがとう。でもね……値段は、見てくれた?」
……値段? 裕実は詩集の裏表紙に貼ってある手書きの値段表を確認して、驚愕した。詩集には、彼女がこれまでに買ったどんな本よりも高い値が付けられていた。ティファニーのネックレスよりも、ジミー・チュウのパンプスよりも、ステラ・マッカートニーのファラベラ・ミニトートよりも、その本は高かった。
裕実の様子を見て杏子は言った。
「そうなの。とんでもなく高いでしょう」
裕実はスマホを出して音声アプリにタッチして、画面に文字を入力した。裕実の代わりに、スマホが人工音声を話し出した。
「私は、声が出せない病気です」
「ええ、はい」と、杏子は少し驚いた顔になった。
「この本。なんでこんなに高いんですか? 初版本だからですか?」
杏子は答えた。
「一番の原因はね、私がその詩集に、相場の二倍の値段をつけてるから」
「相場の二倍? なぜですか。そんなことしたら、売れないでしょう?」
「理由は二つあるんだけど……でも、こんな話、聞きたい?」
「聞きたいです。ぜひ、聞かせてください」
「ちょっと長くなるから。よかったら、掛けて」
と、杏子は椅子を指さした。すると、中年男は立ち上がり、書棚と書棚の間に消えて行った。裕実は、椅子をレジの近くに持って来て腰かけた。
すると、杏子は言った。
「古本屋は、本が売れたら、どうするか、わかる?」
裕実は、首をかしげてみせた。
「普通の本屋なら、取次店に発注するわけ。『鬼滅の刃―片羽の蝶』十冊追加とかね。だけど、古本屋には問屋も卸業者もいないんです」
「そうなんですか」
「そうなの。だから、売れた本は、ただなくなっていくわけ」
「じゃ、どうするんですか」
「普通の本屋と違って、古本屋には、本を売りに来る人が来るでしょう」
「ああ。なるほど。買取で……」
「もちろん、それだけじゃ足りないから、古書店のための古本市が各地で開かれているし、宅買いもする」
「宅買い?」
「お客さんのお宅へ伺って、蔵書を買うわけ。国語の先生だった人が亡くなったときとか。その先生には貴重な宝だった本も、お家の人には、場所塞ぎなゴミになってしまうから」
「なるほど」
「だけどね、本が売れて空いたところに、闇雲に本を突っ込んでったら、その棚は、すぐに魅力のないラインナップに覆われてしまうわけ。どこででも手に入るような。わざわざ、私の店まで足を運ぶ必要のない」
裕実は、「ああ」と、気がついた顔を見せた。
「そうなの。だから、棚の顔になってくれる本には、高い値段をつけておくわけ。まだ、売れなくていいのよ。それに代わる魅力のある詩集を仕入れて来るまでは」
「わかりました。でも、理由は二つあるっておっしゃってましたよね」
「もう一つの理由はね、私のわがままです」
「わがまま?」
「単純にね、まだ手放したくなくて。もう少し、私のそばに置いておきたいの。『言葉のない宇宙』は、私の一番好きな詩集だから」
話を聞いて、裕実には、古本屋がとても素敵な商売に思えてきた。
「自分の好きなものに囲まれて暮らしてけるなんて、素敵ですね。羨ましいです」
「まさか。逆、逆。いつも自転車操業なんだから。ほとんど、食べてなんかいけないの。私は化粧もしないし、服だってここ数年、買ったこともない」
「たしかに、私も、詩集を買ったことなんて一度もありません」
「そうでしょう。……でも、ま、そんなふうに滅多に詩が売れないから、この商売が成り立ってるってところもあるけどね」
「売れないから、やっていける?」
「これが、不思議なもんでね」
「どういうことですか?」
「そうねえ。……あなた、宮沢賢治って、知ってるでしょう」
裕実は、大きくうなずいた。
「『春と修羅』は?」
「名前だけは。賢治の詩集ですよね」
「そう。賢治の第一詩集。だけど、『春と修羅』はね、ほとんど売れなかったの。賢治の名声は、全部、死後のものだからね。いまこの世に残っている『春と修羅』の初版本は、たったの三〇部しかない。もちろん、この店にもないわ。もし、それが古本屋に出れば、百万円は下らない」
百万円と聞いて、裕実はのけ反ったが、杏子は話を続けた。
「でも、反対に、初版で十万部も刷ってしまう村上春樹みたいな小説だと、そんなことは起こらない。初版でも、世の中に何万冊もあるんだから。いつまで経っても、レアになったりしないわけ」
「ああ」
裕実にも、杏子が言おうとしていることが分かりかけてきた。
「人は滅多に詩集を手にしない。でも、あるとき、ふと詩の前に立ち止まることがあるの。何がきっかけになるかは、人さまざまだけど。雑誌の広告で目にしたり、映画やアニメの台詞で耳にしたり。でも、時に人は、詩の言葉に、心臓を鷲掴みにされる。その詩人が、有名であろうとなかろうと」
「今日の、私が、まさにそうでした!」
「詩集はね、フォントの種類、大きさ、字間、置き位置、どんな紙にするかまで、全部こだわって作るんです。つまり、本全体が一つの作品なの。有名な詩人なら、文庫になったり、全集に入っていたりするけど。でも、心臓を鷲掴みにされた人は、そんな均一化され、味気ない情報になってしまった詩じゃ、満足できなくなる。詩人が、この世に送り出そうとした、その形そのもので味わいたくなる。でも、そのとき、その詩集は、もう普通の書店には並んでないのよ。多くの詩集は売れません。まったく売れない。ほんのわずかの間だけ、この世に現われ、瞬く間に消えてしまうんです。でも、それが見つかる場所が一つだけある」
「それが古本屋」
「そう。だから、詩集専門の古本屋って商売が成立するの」
「詩が売れないからこそ……」
そのとき、電話が鳴った。この店にぴったりの古風な黒い電話だった。
「ごめんなさい」と、裕実に断ってから、杏子は電話に出た。
「はい、荒地書林でございます。ああ、石神井書店さん。お世話になってます。ええ、ええ。あら、そうだったんですか。何冊くらい? 五、六〇。わかりました。いまからうかがいます。とんでもない。ご連絡ありがとうございました。じゃ、後ほど」
電話を切ると、杏子は言った。
「あなた、お名前は?」
「裕実です。鮎川裕実」
「私、これから、宅買いに行くことになっちゃってね。裕実ちゃん。よかったら、店番してくれない?」
店番!と、裕実は驚いた顔をした。
「これから、予約した本を取りに来るお客さんがいるの。これ」
と、杏子は『甘楽川』という詩集をカウンターの上に出した。
「これ、渡してくれると助かるんだけど。初対面なのに、随分、ずうずうしいお願いだけど」
裕実は、かぶりを振った。
「ありがとう。何かあったら、ショートメールでも送って。これ、私の番号」
杏子は裕実に名刺を渡すと、表の扉を開けた。
「よかった。雨、上がったみたい」
2.コカコーラ・レッスン
それから二週間が経った。
杏子に勧められ、裕実は、荒地書林でアルバイトを続けることになった。
その日も店番を任された裕実は、一人レジのカウンターに腰かけ、入荷した詩集にパラフィンのカバーを付けていた。
古書店の入口の前には、小さな黒板(スタンド・ブラックボード)が置かれていた。白墨で「谷川俊太郎『コカコーラ・レッスン』入荷しました!」と書かれている。
しばらくすると、亡命外交官のタネリ・オルポが、店の前に立ち止まった。外交官としてタネリが日本に赴任して、すぐに、母国でクーデターが起き、軍部が政権を握ったのだった。軍事政権は議会を停止させ、国名まで変えてしまった。しばらくすると、その新しい国から新しい大使と外交官が送られてきて、タネリは職を失った。いまや、祖国へ戻れば、逮捕、投獄される身だ。幸いなことに、日本国政府は、タネリに在留許可を出してくれた。だが、帰る国を失ったタネリは、無国籍者となった。日本に帰化するためには、日常生活に支障のない程度の日本語能力が必要になるが、タネリは、ほどんどまったく日本語を話せなかった。
日本語学校からの帰り、タネリも、裕実と同じように、荒地書林を喫茶店と間違えた。黒板には今日習ったばかりのカタカナが並んでいる。“コカコーラ”と。間違いない、ここはカフェだ。
彼は、そのドアを開けた。
だが、店内を見回すと、不思議なことに、店にはテーブルもカウンターもなく、代わりに、沢山の本が並んでいた。タネリが書棚に近寄って本を取り出し、ページをめくると、短い日本語が並んでいた。多分、これは詩だと、タネリは思った。
「いらっしゃいませ」と、裕実はタネリに声を掛けた。
「እዚህ የቡና ሱቅ አይደለም」
外国語だということはすぐにわかった。裕実はスマホの翻訳アプリを立ち上げ、ジェスチャーで、もう一度話すように促した。
タネリは、うなずき、もう一度「እዚህ የቡና ሱቅ አይደለም」と言った。
けれど、スマホの翻訳アプリは、「すみません、その言語は、私にはわかりません」と、答えた。
どうしよう。英語なら通じるだろうか。そのとき、裕実は、店の前の小黒板を使うことを思いついた。彼女は表に駆け出て、小黒板を持って来た。
黒板消しでそこに書いてあった文字を消すと、裕実は大きく「welcome」と書き、沢山のハートと花の絵を描き添えて、差し出した。
タネリは、微笑んでうなずいた。
3.パラフィンのレインコート
初老の女性客が持ってきた段ボールから、杏子は、本を一冊ずつ取り出し、買い取り査定をしていた。その脇に座った裕実は、査定の終わった本をカウンターの上に並べていった。
すべての本をチェックすると、杏子は客に言った。
「大変、お待たせしました。全部、引き取らせていただきます。これくらいで、いかがでしょう」
杏子が金額を紙に書いて渡すと、客は驚いた様子で言った。
「こんなに?」
「ええ。今日お持ちいただいたのは、状態がとてもいいですから」
「じゃ、これで」
客がうなずくと、杏子は言った。
「裕実ちゃん、お願い」
裕実はうなずき、レジから札を数枚、客に渡した。
客が帰ると、裕実はすぐにスマホの音声アプリを立ち上げて、杏子に尋ねた。
「いいんですか?」
「ん? 何が?」
裕実は、いま買い取ったばかりの小説と辞書をかざした。
「だって、これも、これも、詩集じゃないですよ」
「そっか。そういうことね」
杏子は何度かうなずくと、その説明を始めた。
「午前中、私、本の仕入れに行って来たでしょう。今日はね、神保町の古本市場に行って来たの」
「古本市場?」
「正式には『交換会』って言うのよ。古本屋同士が、本を持ち寄るわけ。要らない本を持って来て売り、必要な本を買って帰る。古本市場があるから、こうして私も、詩とは関係ない本を引き取ることができるの。市場に持って行けば、小説や辞書の専門店が買ってくれるから」
「なるほど」と、裕実は納得しかけたが、まだ、腑に落ちないところがあった。
「だけど、そんなの、はじめから、買い取らない方が楽じゃないですか?」
「でもね、『この本は要りません』って断ったら、そのお客さん、もう二度とうちには来なくなるだろうし、売れなかった本は捨ててしまうかもしれないでしょう」
「そっか。それじゃ、本が可哀そうだ。杏子さん。やっぱり、古本って、素敵な世界ですね」
「まあ、手間のかかる割に、さっぱり儲からないけどね」
「ウフフフフ」
「あら。裕実ちゃん、笑い声」
裕実自身、あっと気がつき、驚いた。声が出ている。まだ、笑い声だけだけれど。
そのとき、黒いシャツを着た若い男が入って来た。男は、カウンターにつかつかと歩み寄ると言った。
「お宅にさ、『言葉のない宇宙』って詩集があるって聞いたんだけど」
「え、ええ、ございますが」と、杏子が答えた。
「どこよ?」
「そちらです」と、杏子は壁際の棚を示した。
若い男は詩集を抜き出すと、パラフィン紙を乱暴に破り取って、指さし確認を始めた。
「カバーは背ヤケ、退色スレ。端ヨレ多少。三方には、ヤケとシミ」
それから、裏表紙を見て、彼は値段を確認した。
「ほう、これは、なかなか強気な」
そうつぶやくと、今度は、男は本の中身を点検し始めた。
その様子を見て、杏子は男に声を掛けた。
「セドリですか?」
セドリとは、漢字なら『競取り』と書く。同業者の間に入って品物を取り次ぎ、その手数料を取る者のことだ。ただ、いま流行りのやり方は、街の古本屋で安く買って、ネットで高く売るという方法だった。特に、バラバラに売っている本を全巻買い揃え、セットにして高額で売るというのが。
杏子の問いかけを無視して、セドリ屋は指さし査定を続けた。
「本文に、書き込み、折れなし、と。……よし」
本を閉じると、セドリ屋はカウンターの上に『言葉のない宇宙』を置いた。「じゃ、これ貰うよ」
杏子は、言った。
「セドリだったら、やめた方がいいですよ。その本、相場よりかなり高くしてありますから」
「そのくらい、ぼくが知らないと思ってんの? ぼくはさ、そんじょそこらのセドリ屋とはわけが違うんだよ。千円、二千円で喜んでいるようなね」
「どういうことですか?」
「来年は、上村慶一の生誕百年でしょうが」
上村慶一とは『言葉のない宇宙』を書いた詩人の名前だ。
「生誕百年?」と、杏子は聞き返した。
「おたく、本当に玄人かい? 来年になれば、上村慶一のブームが起こるんだよ」
「ブーム?」
「もちろん、俄かブームだけどね。でも、沢山の雑誌が特集を組むし、上村を主人公にしたドラマ化の話もあるんだ。そうなれば、この詩集は、この倍の値段だって売れる。ぼくはさ、そうやってさ、先を見越して、セドリやってんだよ」
裕実は、セドリ屋の隙を見て『言葉のない世界』を手に取り、胸に抱えた。
「な、何、キミ?」と、セドリ屋は、怪訝な顔で裕実を見つめた。
「この本は、私が買います!」
「おいおい、よしてくれよ。恥ずかしくないの、値段が上がるって聞いて、そんなマネするの」
「そんなんじゃありません。この本はね、この本は、とっても大事な本なんです」
「裕実ちゃん」と、杏子が諫めるように言った。
「だって、杏子さん。よりによって、こんな人に」
「こんな人?」と、セドリ屋が言った。
「すみません。失礼しました」と、セドリ屋に頭を下げると、杏子は、裕実に向かって手を伸ばした。
「さあ、本を渡して」
「だけど……」
「ありがとう、裕実ちゃん。でも、私は、いつか売るために、その本を手に入れたのよ。その日が来たってだけ」
裕実はパラフィンのカバーの取れた『言葉のない宇宙』を紙袋に入れると、セドリ屋に差し出した。
「うひゃひゃひゃ」
と、奇妙な声で笑うと、セドリ屋は長財布から札束を出して杏子に渡した。
「お買い上げ、ありがとうございます」と、杏子は頭を下げた。
「儲け、儲け」と、言いながら、セドリ屋は店を出て行った。
ドアが閉まると、まだ納得のいかない顔をしている裕実に、杏子は声を掛けた。
「私だって、広い目で見たら、転売で食べてるのよ。できるだけ安く買って、できるだけ高く売る。それで、この商売は成り立ってるの」
「そんなことありません。違いますよ。全然、違います!」と、裕実は言った。
「違う?」
「杏子さんは、埋もれていた本たちに、放っといたら捨てられ、燃やされ、この世からいなくなってしまう本たちに、もう一度、輝く場を与えてるんじゃありませんか」
「そんなの、買い被りよ」
「本だけじゃない。私自身が、そうじゃないですか!」
そのとき、ようやく二人は気づいた。裕実が、さっきから、自分で話していることに。
「杏子さん、私」
そのとき、本棚と本棚の間から、パラフィンのレインコートを着た中年男が姿を現わした。彼はバーボンのボトルを高く掲げると言った。
「いよいよ、私がこの店を去る時がやってきたようだね。長の御愛顧、感謝しますよ。まあ、別れの杯でも上げましょうや」
そう言って、中年男は三つのグラスに酒を注ぎながら、詩を口ずさんだ。
長いこと、来たきり雀だったパラフィンのレインコートは、
いまや、枯葉色で、皺だらけだ。
ただ、バーボンの小瓶の形だけが、ポケットに残っている。
パラフィンのレインコートを脱いで、
私はどこに行こう。
とっくの昔に、肉体を失った私は、
いったいどこに……
だが、気に病むことはない。
詩とは、自由の別名なのだから。
中年男はレインコートを脱ぐと、壁に掛け、グラスを高く掲げた。
「さらば、愛しの荒地書林」
杏子も、グラスを高く掲げた。
「さようなら、私の『言葉のない宇宙』」
裕実も、それにグラスを合わせた。
「さようなら、私の言葉のない宇宙」
「パラフィンのレインコート」 @totukou
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