久遠の鐘
雪月
久遠精舎の鐘の聲
序 “彼女”
一面が黒の光沢を放つ漆塗りの飾り気のない函を開け、中身を見た瞬間であった。
無理もない。
函の中には、くり貫かれた眼球が2つ、電池式のカンテラのLEDの明かりに照らされてぬらぬらとした光沢を放っていたからだ。
函には他に、暗い色をした珠の入っていない鈴、それと10cm程の奇妙な紋様の鍵が収まっていた。
∴ ∴ ∴
睦月が助手というかマネージャーというか、そういうことをしていた相手。画家、暮井隆臣は一言で言ってしまえば変人であった。
画家というのは往々にして常人とはかけ離れた感性を持つものだが、隆臣はその中でも際立っていると言えた。
いや、変人というのは少し語弊があるだろう。
彼は自身が抱えるハンディの中、快適な環境を求めていただけであったからだ。
重度の色盲と、光に対する過敏症というおおよそ画家という職業にとって致命的なハンディを抱えながらも彼は第一線で活躍していた。
彼の作品……時代に逆行したかのような、黒い塗料の濃淡とキャンバスの余白だけで描かれた絵は、一見、水墨画のようにも見えた。
しかし、画材を用意していた睦月はその黒が墨などではなく無数の色を混ぜて作られたものだと知っていた。
「俺が求めているのは黒じゃなくて闇なんだよなあ」と、隆臣はよく口に出していた。
彼の描くモチーフは決まって一人の女性であった。
怪しく蠱惑的な微笑みを向ける美しい黒髪の女性像は白黒の色調にもかかわらず、艶かしくも怪しい魅力に満ちていた。
しかし、睦月はただの一度も、そのような女性がアトリエにやってきた姿を見たことは無かったし、また隆臣も記憶を、思い出を頼りに描いているのだと語っていた。
写実的でありながらどこか現実離れした、その美しい女性の絵は好事家達の間で異様な人気を博し、オークションではかなりの高値がついたという。
売りに出された絵は、しかし、「彼女の魅力を描ききれていない」と隆臣に手離されたものに過ぎなかった。
隆臣は美大生であった25年程前からその女性だけを描き続けており、その作品数は4000点を越えていた。
隆臣の自宅を兼ねたアトリエは郊外の、あまり日の当たらない山の影になる位置にあった。
コンクリート製の箱のような、窓一つない建物は外壁も内壁もベンタブラックで塗りつぶされ、外から見ればポッカリと四角い穴が空いているように見えるだろう。
電気こそ通ってはいるが、照明器具の類いが一切設置されていないアトリエ内はまるで暗室のように見通せず、睦月はいつも電池式のカンテラを持参していた。
「せんせー、いらっしゃいますかー?」
いつものように睦月が画材や生活用品などを積み込んだ幌付きのハイゼットをアトリエに乗り付ける。
中古とはいえEVだ。駆動音は至極静かなものだった。
合鍵を使ってアトリエに入り、隆臣に呼び掛けるが返事は無い。
とはいえ、これはいつものことであった。
「せんせー! 明かりを持っていきますからねー!」
光を嫌う隆臣に忠告を発しながら睦月はアトリエの中をカンテラで照らしながら進んでいく。
はじめの頃はその生活の異様さに戦慄したものだが、人間とは慣れるものなのだなと睦月は苦笑する。
実のところ多くの者が隆臣に弟子入りしようとアトリエを訪ねてはいたのだ。
しかし、半数はアトリエを見た瞬間に、もう半数はアトリエに入った瞬間に弟子入りを諦めた。
それだけそのアトリエは他人から見れば異様であった。
睦月は隆臣と同じ大学の出身であり評判は勿論なによりその作品に感銘を受け、卒業後すぐに弟子入りを望みアトリエを訪ねた。
だが暗視装置を持ち込むほどの熱意を持ってしても、隆臣がキャンバスに向かう鬼気迫る様に弟子入りを諦めざるを得なかった。
「この人は生命を削って絵を描いている」
睦月が隆臣に感じたのはそういう印象だった。
以降、7年程前から睦月は助手の真似事をしながら、隆臣の側にいる。睦月は隆臣の生き様に、あるいは異性としての魅力を感じたのかもしれなかった。
隆臣の役に立っているかは自信が無かったが、少なくとも画商は有り難がっていた。
「んう……またどこかに旅にでも出たのかな?」
睦月が作業場の机の上を照らすと漆塗りの箱の上に置き手紙があった。
隆臣は時折、こうして手紙を残してはぶらりと旅に出た。手紙といっても内容はせいぜい「3日程出る」程度の行き先もなにもわからないようなものであったが。
「どれどれ」
睦月は丁寧に折り畳まれた手紙を開いて読むことにした。
手紙にはこう書かれていた。
[描けた。これで彼女に会いにいける。函の中身は俺にはもう必要ないものだ。コチラに置いていく。好きに使ってくれて構わない。世話になった]
「せんせい……?」
睦月にはそれが今生の別れを告げる手紙に思えた。
∴ ∴ ∴
尻餅から立ち直り、睦月は再度漆塗りの函をあらためた。
「せんせいの……」
睦月には函の中の眼球は隆臣のものだと、なぜか確信できた。隆臣は外出時はサングラスを掛けていたし、アトリエは暗く、一度もまともに眼を見たことはなかったがそれでも、わかった。
「描けた……何を? 絵?」
睦月はカンテラを持ち直し、部屋の中をぐるりと見回す。
それはすぐに見つかった。
いつも隆臣が絵を描いていた位置にあるイーゼルに掛けられた黒い布が、四角いキャンバスの輪郭を浮かばせていた。
睦月はそっと布を取り払う。
キャンバスに描かれていたのは“闇”であった。
キャンバス全体が満遍なく黒一色に塗り込められている。それは可視光のほとんどを吸収するという内壁に使われている塗料よりもなお深く暗かった。
ズキリズキリと、睦月は眼に鈍い疼痛を感じた。
カンテラのLEDが電池切れ寸前かのように明滅し、明かりがどんどん弱くなっていく。
たまらず睦月が布をキャンバスに掛け直すと、徐々に眼に感じていた疼痛は治まり、カンテラも元の明るさに戻った。
「何……これ……?」
背筋に何かうすら寒さを感じ、睦月は体を震わせた。
キャンバスは黒一色だったが、睦月はその中に、確かにこちらに微笑みかける女性の姿を幻視していたからだ。
「彼女……彼女って誰なの?……何なの?」
隆臣の心中にずっといた……彼が描き続けた“彼女”とは何者で、そして彼は彼女に会いに何処に行ってしまったのか……全ての答えは、彼が追い求めた闇の中に沈んで、手の届かないところに行ってしまったと、そう感じた睦月はしばらく茫然と立ち尽くした。
あるいは、隆臣の遺した函の中身がその答えに導いてくれるのかも知れないが、それは常人が辿るには暗く危うい道であると睦月は無意識の内に理解していた。
挿し絵
“ある画家の最後の作品”
https://kakuyomu.jp/users/Yutuki4324/news/16818093075874066583
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