36年間の愛の行方は何処に
すどう零
第1話 三十六年間の愛
私が初めて、真子ちゃんと出会ったのは、今から三十六年昔のことだった。
それ以来、真子ちゃんの存在は、私の心に住む天使となっていた。
当時OLをしていた私は、家族で駅前のマンションに住んでいた。
二か月たった頃、真子ちゃんとその姉の玲子ちゃんが、私の家のベルを鳴らした。
ドアの除き穴から見えた二人は、可愛らしい人形のようだった。
当時五歳の真子ちゃんと、姉の小学校三年の玲子ちゃんが、二人並んでいた。
玲子ちゃんが「電話貸して」と言ったので、家にあげて電話を貸した。
電話の相手は、母子家庭である母親であった。
しかし、二人はやはり、ガラスケースからでてきたばかりの動かない人形ではなく、淋しさを伴った人間だった。
やがて、真子の母親の帰宅時間である夜中の二時になると、壁越しに怒声が聞こえるようになった。
真子姉妹の母親の叱る声と、玲子ちゃんの泣き声が丸聞こえだった。
「管理人さんから文句言われないようにして」と怒鳴る母親の声、そして玲子ちゃんの泣き声がまるで合唱のように、毎日目覚まし時計の如く、夜中の二時になると、いやがおうでも聞こえてくるのだった。
真子姉妹の母親の愛情と子供の泣き声が、暖かさとかすかな悲痛さを伴って、私の胸に響くようだった。
ある日、ベランダに玲子ちゃんが立っていたので、私は玲子ちゃんと真子ちゃんを部屋に迎え入れた。
自分の名前を覚え始めた真子ちゃんは、私のノートにひらがなで名前を書いた。
しかし、幼稚園に通っている形跡はなかった。
玲子ちゃん曰く
「玲子が四年になったら、真子は一年なの」と言った。
そうか、みっつ違いの姉妹だったんだ。
私はパソコンで、クラスメートにあてた玲子ちゃんの言葉を手紙にした。
「〇ちゃんとも遊びましょう。ローラースケートもしましょうという他愛ない文章だったが、友情が感じられた。
まあ、幸せな学校生活をおくっているのだろう。
私は安堵する気持ちで一杯だった」
ふと、左胸に刺激が走った。
五歳の真子ちゃんが、私の胸を触ったのだった。
真子姉妹の母親と同じように、思っているのかもしれない。
男性に触られるのと違う刺激が、私をとりこにした。
それ以来、私は真子ちゃんにパソコンで名前を打鍵することを教えた。
真子ちゃんは、小さな指でたどたどしく、打鍵しようとしたが、もちろんスムーズにいきそうにもない。
私はパソコンを離れベランダで、洗濯ものを干し始めた。
真子ちゃんはすっかり私になつき「お姉ちゃん、来てえ」とベランダまで駆け寄ってきた。
私は洗濯ものを中断して、真子ちゃんを見守るようにして、パソコンで真子ちゃんの名前を打鍵した。
真子ちゃんは、私を頼りにしているようだった。
そのとき、私は真子ちゃんを見守っていこうと決心した。
翌日の夕方、OL生活をしていた仕事から帰った直後、母親が待ち構えたように言った。
「今日、真子ちゃんが二回も来て、おねえちゃんは?と聞いてよ」
私は少し嬉しい気分だった。私と真子ちゃんとの間に、細い絆が結ばれたような気がした。
私の母親曰く
「小さい子って、面白いね。お姉ちゃんは、夜は働きにいかないの?だって」
まあ、真子ちゃんの母親が夜間労働をしているので、母親と同年代の私のことを、母親代わりに思ったのだろう。
やはり、家庭環境というのは、子供が初めてみる社会だと痛感した。
それから十分後、なんと真子ちゃんが私の部屋に現れた。
「ピーッとしてチューッとくるのがあるやろ」
昨日のパソコンのことである。
私は、部屋にあげるわけにはいかなかったが、玄関先でパソコンを教えることにした。
真子ちゃんは、満足そうだった。
私は、自分でも気づいていない母性本能が目覚めたような幸せな気持ちになった。
しかし、その幸せは大っぴらにできるものではなかった。
真子ちゃんが真子姉妹の母親に言ったのだった。
「おねえちゃん(私)の家はいいなあ。家族がいて、パソコンがあって」
するとたちまち真子姉妹の母親は
「あのおねえちゃんとは、話したらダメ。私はあの家がうるさくて嫌いよ」と言ったというのだ。
しかし、真子姉妹の母親から嫌われようが、シャットアウトされようが、私の真子ちゃんに対する愛は変わらなかった。
真子ちゃんは、いつも私に手を振ってくれる。
その仕草が、たまらなく愛らしかった。
私の心の中に、真子ちゃんに対する母性愛が芽生えたのだった。
ある日、真子姉妹の母親が夜九時に「玲子、玲子」と切羽詰まったような剣幕で名前を呼びながら、帰宅してきた。
真子姉妹が母親の職場に、姉の玲子ちゃんが帰ってこないと連絡して、心配した母親が息せき切って帰宅してきたのである。
幸い、玲子ちゃんは帰宅したばかりだった。
「心配したじゃないの。これだったら、もう店(職場)の方にも来なくていいと言われるわ」
そう言いながら、真子姉妹の母親はネオン街への職場へと戻っていった。
我が子を思う母親の思いに、私は感激した。
もし、職場を解雇されたら真子ちゃん姉妹はどうなるのだろうか?
私までハラハラ、ドキドキし、薄氷を踏む思いだった。
かといって、私が真子ちゃんの面倒を見るわけにはならない。
なぜなら、真子姉妹の母親は私を含む私の家族の存在を嫌っているのだから。
それから半年後、私たち家族は歩いて十分ほどの地域に引っ越すことになった。
これで真子ちゃんともお別れ、なんてことはない。
真子ちゃんは、私の母校である小学校に入学したのだった。
私は小学校二年になった真子ちゃんに会いに行った。
真子ちゃんは、私を覚えてくれていて、教室の後ろの貼り紙を指さした。
今年の目標というタイトルで、真子ちゃんの自筆で
「一、お姉ちゃんと仲良くできますように。
一、おかあさんが怒りませんように」
と記されていた。
ネグレストという言葉があるが、よく真子ちゃんの母親は、夜間労働しながら面倒をみるものだと感心していた。
しかし、真子姉妹の母親はやはり、夜間労働をしているだけあって、私にはとうていかなわないほどの魅力的な女性であった。
八代亜紀にムードが似ていて、色気があって、それでいて可愛らしさも兼ね備えていて、人の記憶に残る女性だった。
それは、玲子ちゃんと真子ちゃんを育てているという母性愛と、責任感から生じたものであろう。
私にとっては、真子ちゃんの存在は幸せのもとだった。
私の心に、天使として真子ちゃんが入ってきたのだった。
そして、私自身は独身でいて、いざとなると真由ちゃんの面倒をみたいとまで考えていた。
私の愛情が真子ちゃんに伝わっているのかどうかは、この際問題ではない。
私の机には、いつも真子ちゃんの写真が飾られ、スマホにも残していた。
それから四年後、真子ちゃんが小学校卒業間際、私が小学校の裏門で、偶然会った真子ちゃんに、消しゴムをプレゼントした。
真子ちゃんは、塾に通っていると言った。
やっぱり、真子ちゃんの母親は偉い。表彰ものだ。
私はただただ、感心するばかりだった。
帰り際にバイバイといって、背を向けて歩き出した。
急がなきゃと思いつつも、思わず振り向くと、真子ちゃんが振り向きながら私に手を振っているのだった。
その仕草が人懐っこくて、なんとも愛らしかった。
それから十五年余り、地元の商店街を歩いていると、真子ちゃんの母親が挨拶してきたのだった。
「久しぶりね」
初めは誰かわからなかったが、苗字を名乗ったので思い出した。
「ああ、そういえばご無沙汰しております。
あの頃は、グリーンのスーツを着てらっしゃいましたね」
真子姉妹の母親は、お世辞交じりで
「昔のことじゃない。よく覚えてるわねえ。やっぱり頭いいわ」と半分お世辞まじりで言って下さって
「今、なにしてるの?」と尋ねた。
「父親の介護をしながら、アルバイトしています。
玲子ちゃんと真子ちゃんは、お元気ですか?」
「玲子は結婚して、九州の方へ行ったの。お盆休みに帰ってくるわ。
真子ちゃんは、息子がいるの」
私はすかさず
「結婚したんですね」の返事に
「いや、結婚はしてないんだけどね、息子がいるの」
私は真子ちゃんの息子に会いたいと思った。
それからさっそく、私は地元の小学校の運動会を見学に行った。
なんと真子ちゃんとそっくりの小学校四年の男の子がいたのだった。
思わず、その男の子に「ねえ、ひょっとしてお母さんの名前は真子さんっていうんじゃないの?」
男の子は頷いた。
真子ちゃんとそっくりの、人懐こいあどけない男の子。
私は真子ちゃんの面影を見た気がした。
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