ブラッドムーン ー災害の予兆ー
@yume_mina
第1話
赤い大きな満月が目の前にある。
手を伸ばせば届きそうなほどの距離に。
それは大きすぎて私の瞳の中にすべてを映し出すことができない。
丸いと知っているから魅了されるのだろうか。それとも暗闇の中にあるから目が行ってしまうだけなのだろうか。
その月は私のことなど眼中にない。ただそこに存在している同士。違うのは私がそれを何か知っていること。もし近すぎて月だと認識できなかったら私はこれを何と呼ぶのだろう。
部屋の窓辺のへりに腰を掛け、ワイングラス片手に外を眺めて優雅な時間を過ごしていたら、空間ごと打ち砕くかのような不快な音がしてきた。部屋の戸を乱暴に叩く音。
またどうでもいい些細なことの許可を取りに来たのだろう。今からでも寝たふりをしようかな、と戸を黙って眺めていると、さらに強く叩かれた。
しょうがなく投げやりに返事をする。
入って来たのは新米の飼育係だった。またヤツが暴れたのだろうか。彼は目を見開いていて、恐れからか視点が定まっていない。体の右半分が血まみれで震えている。
私も会いたくはないが、こういう時は主任が来ればいいのにと思った。きっと嫌がらせで新米の彼を寄こしたのだろう。
血の臭いが部屋に漂ってくた。それを紛らわすように手元のワインを回す。同じ赤色なのがいただけないが、それも計算の上で血まみれの彼をここに寄こしたとなると主任はその面に関しては素晴らしい才の持ち主だ。会わずに間接的に神経を逆なでしてくる。
嫌われて当然のことをした私が悪いのだから、こちらからやり返すなんてことはしないが、主任には多分初めて会った時から嫌われていた。今こうして同じ城の中にいるのが不思議なくらいだ。彼女も他に居場所がないのだろう。
「お腹を空かせております」
震える声で新米の彼は言った。
私の瞳には燃えたぎるような真っ赤な月が映っていた。
「適当に掘り起こして食べさせてあげて。特別にニ、三人くらいやっちゃっていいよ。今日はこんなに奇麗な満月がなっているんだから」
「ですが、食料もなくなってきております」
あれから五十年。それぐらい経てば、貯蓄していた人間もいなくなって当然か。ほとんどがヤツの食料として消えていった。
「私に人間を作り出せっていうの? そういうことはお父様に言って」
「主任が……」
「なら彼女に言っておいて。不満があるならヤツを殺せって」
私になんとかしろと言われても無理なのだ。それができるならこんなところに長い間閉じこもってなどいない。私に無理なら、彼女にもヤツを殺すのは無理だろうけど。
「あいつに全部食べられればいい。そしたらあいつも食べるものがなくなって死ぬでしょ?」
そう笑いながら言うと飼育係は、何を言ってもダメだと察したのか、小声でわかりました、と足音を立てずにそっと出て行った。
その職に就いた彼が不憫だったが自分で志願して入って来たのだ。ヤツを崇めているのか知らないが何かしらの志を抱いてきたはずだ。
自分たちの未来を救ってくれたという勝手なこじつけをヤツに与えて神格化している人たちも多数いる。そんなヤツの世話をできるなんて光栄なことのはずなのに、ヤツを間近で見た時の新米たちのあの絶望した顔は滑稽だった。
彼らは勝手な希望を抱いて現実を目のあたりにし、自分の命を守るためにやめていく。だが、その前にヤツの食料になるのがオチだ。
ヤツのエサになることが光栄だと思っている人は噛み砕かれて、咀嚼される瞬間もそう信じ切っているのだろうか。それとも恐怖や後悔を感じるのか。それをいつか聞いてみたいと思った。だが答えは永遠に聞けそうもない。
ヤツは不死身で凶暴だ。誰も手を付けられない。人間をエサとして与えてなんとか餌付けている。それももう限界のところまできていた。
まだ見つかっていないあの人たちも食料となる日が着々と近づいてきている。私はその時どうするのだろう。選ばれたのは誰なのか、毎回後で報告が来ていた。身分証を持っていなければ見た目などを告げられる。あの人たちのはまだ来ていなかった。
見つけたら食料から取り除いて私の元へ連れてきて——、とは到底言えなかった。それは私の弱みになるから。強さを保たなくてはいけないのだ。
主任どうなのだろう。あの人は彼のことを殺せるのだろうか。
私がいるこの部屋は、街を一望できる一番高い所だった。この窓から見える景色はどんなに美しいものなのだろうと思っていた。
だが今は砂しかない。街は灰色の砂で埋まってしまった。
その上を生きながら埋められている人たちの幻が行き交っている。ヤツの食料として選ばれない限り、彼らはこれから何百年も砂の中で夢を見ながら生き続ける。私よりは幸せな毎日を送っているのだろう。中には埋められる前の行いが最悪過ぎて、悪夢に苛まれている人もいるかもしれないが、私の前で繰り広げられる現実よりはマシだろう。
何の刺激もないつまらない世界になってしまったけれども、元の世界はもっといらなかった。これでよかったのだ。そう自分に言い聞かせた。
その頃、森の奥まで食料となる人間を探しに行った隊員たちが黒い塊を掘り起こした。
「なんだこれ」
「魔物じゃないか」
わらわらと他の隊員たちも群がって来た。
「そんなはずない。魔物にはあの一族の血が通っているから埋められてるなんてありえない」
「でも俺、どっかで聞いたことがあるぞ。魔物があの一族に作られるよりもずっとずっと前に自然に存在していたんじゃないかって」
「それは噂程度の話だろ」
「あのドラゴンだってそうじゃないかって言われているし」
「あれはあの一族に関係あるから不死身なんだろ。じゃなきゃとっくに殺されてりゃ」
「でもおかしいと思わない? 他の魔物は死ぬのにあれだけ不死身だなんて」
「特別で濃密な繋がりがあるんだよ。王女様の兄弟だったりしてな」
「うぇ。王女様もトカゲのDNA持ってるかもってこと? 気持ち悪すぎ」
「ははは。魔力で人間の姿に見せているだけで実際は鱗まみれ」
「うわ。最悪」
中には「それでもあの王女様に虐げられたい」「あの美しさが偽物でもずっと騙されていたい」というコアなファンもいた。
「それよりこれ見ろよ」と隊員の一人が、スコップでその黒い塊をひっくり返した。
「うわっ」とどよめきが起きた。
懐中電灯で照らされたそれには大きな切り傷があった。血はもうすでに固まっている。
「こいつもう死んでんじゃね」
「だから出てこなかったのか」
「あの教育係たちに知らせたら、またいろいろ注文付けてくるぞ。何の魔物か調べろとか、魔力を取れるかやってみろとか。腐敗した生き物の後処理だって最近じゃ俺らにやらせるだろ。俺らの仕事じゃないのに。あのドラゴンを世話しているからって偉そうにしやがってさ」
「こんな面倒くさいの埋めとこうぜ。黙ってれば分かりっこない」
誰かが言ったその意見に全員一致の元、誰にも見つからないようもっと奥深く埋められた。
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