川霧の町
床崎比些志
第1話
私は親友の七回忌に出席するため数年ぶりに地元に帰省していた。そしてその法事に出席したあと、バイクをレンタルして遠出をした。学生のころはバイクを乗り回していたが、社会人になってからはまったく乗らなくなっていた。ひさしぶりのツーリングは快適だった。おだやかな小春日和の午後、海辺の国道を二時間ほどかけて走り、私はとある港町に来ていた。
私は港を通り過ぎて、その町のはずれにある大きな川の河口に出た。そこには、大きな赤い開閉橋がかかっていた。その橋の上でバイクを止め、川の上流を見ると、急峻な山が両側に迫っている。その川は初冬の晴れた日に視界がまったくなくなるほどの濃霧がとてつもない冷気とともに上流から一気に押し寄せることで有名だった。
その日はまったくそれらしき気配はなかったが、川上を見つめていると、なんとなしに冷たく暗い異空間の気配を感ぜずにはおれなかった。一方下流は明るくのどかな海岸が広がっており、その川のどこかにこの世とあの世とを分ける境界があるかのように思われた。
橋のたもとにレトロな喫茶店を見つけた。私はそこの駐車場にバイクを止めて店に入った。扉を開けるとカランカランと昔風のチャイムが鳴った。客は私のほかに誰もいない。マスターらしき男性が、店の一番奥にある四人掛けの席に私を案内した。私は入り口に対して背中を向けて腰かけた。
「いらっしゃいませ」
そういってウェイトレスがすぐに水を運んできた。
私は顔を上げてそのウェイトレスの顔を見た。ビックリした。まばたきせずにまっすぐ相手の目を見つめる黒目勝ちのひとみとちょっとしゃくれた顎とポニーテール、その相貌は高校時代に仲のよかった同級生に瓜二つだったのだ。もちろん他人の空似とわかったうえで、それでも私は、そのウェイトレスに親近感と興味をおぼえ、この町の観光名所について質問してみた。
「観光名所ですか?――うーん」
と少女は首をかしげた。
「川霧は有名なんでしょ?」
「らしいですね。でも私はまだ見たことないです」
「そうか、せっかく来たけど、やっぱりそう都合よくは見れないのか」
するとウェイトレスは急に好奇心をあらわにして顔を近づけ、仕事中にもかかわらず私の向かいの席に腰かけた。そうした意表をつくパーソナルスペースの取り方も同級生によく似ていた。
「おじさん、それを見るためにこの町へ来たの?ひょっとして東京から?」
「うん、そう――かな。君はこの町の人?」
「うん、でも高校を卒業したら、東京の大学に行くの」
「じゃあ、はじめての独り暮らし?最初はちょっとさみしいかもね」
「ううん、大丈夫。彼も東京に行く予定だし、もう一人の親友もいっしょだから」
「そうか、希望でいっぱいなんだな」
少女はほんのちょっと表情を曇らせて、
「不安と期待、おんなじぐらいだよ……」
そういえば、自分が十代のころは、希望っていえるような希望はなにひとつなくてそれは今だからこそ希望だったと呼べるけど、当時の自分の認識では不安しか思いつかなかったことを思い出した。ただ今の若者とくらべると、当時の自分たちは前に進むしかないし、前に進みさえすればなんとかなるっていう漠然とした明るい未來感はあったような気がする。
「そうだね。でもきっといいことあるよ」
と私は当時の自分のことを思い出しながらそういった。
「うん」
少女は満面の笑みで笑った。その独特なカラカラとした笑い声もやはり同級生の声を思い起こさせた。私はブレンドコーヒーを注文した。
コーヒーを運んでくれたあとも少女は私の向かいの席に座り、彼氏のおのろけ話しを嬉しそうにした。そしてその彼がもうすぐここへ来るので母親に紹介するのだと言う。彼には特に興味はなかったが、母親には興味というか、ある種の希望的予感をおぼえた。彼女に瓜二つの高校の同級生というのが、実はこの町に昔住んでいたのだ。ということは、年齢からして、この少女は彼女の娘であってもおかしくない。この少女の母親というのは、ひょっとして三十年前に別れたきり会っていない、高校の同級生、メイコではないかという期待が胸によぎったのだ。
「ひょっとしてお母さんって――名前は?」
「……え?」
少女は不審そうな表情をうかべた。
「いや単にちょっと、昔、この町に知り合いがいたもんだから……」
「ふーん、そうなんだ。――お母さんの名前はね」
私は固唾をのんで少女の次なる口の動きに目を凝らした。
「あっ、お母さん!」
少女はとつぜん立ち上がって窓の外を見た。私は正直言ってこのときほど身の置き場に困ったことはない。まるでいたずらの現場を親におさえられ、逃げることもできなければ言い訳すらも思いつかない子供のような気持ちだった。
少女の母親は、チャイムを鳴らして喫茶店の中に入ってきた。そして少女にひきずられるように、私の背後から近づいてくる。その時は、心臓がほんとうにとびだしそうなぐらいドキドキした。
――高校時代、私はメイコというクラスメートと仲がよかった。しかし付き合っていたというわけではない。遊び仲間という感覚だった。六年前に亡くなった同じクラスの親友と三人でいつもつるんでいた。一回だけ親友が当日の朝に発熱したため、郊外の遊園地にふたりだけで行ったことがある。閉園の時間までふたりでこどものようにはしゃぎまわった。その時は、二人の距離はこのまま縮まっていくのではないかいう淡い期待も抱いた。しかし実際そうはならず、三人はずっと友達のままだった。そして高校二年の三学期に彼女は突然川霧の町に転校した。それっきり彼女からは手紙が一通だけ来たけど、私は返信も出さなかったし、会おうともしなかった。当時の私はまだ子供で、一方的に転校してしまったメイコの態度に納得できていなかった。親友は、なんとかふたりの仲を修復させようとしたけど、私はかたくなにメイコとの再会を拒んだ。メイコに会えばきっとメイコに自分の気持ちをぶつけずにはいられないと思ったからだ。でもそうすれば三人の友情も思い出もなくなりそうで怖かった。それ以上に自分の気持ちが傷つくのが怖かった。…そして自分の心にふたをしたまま三十年がすぎた。
「おじさん――私のお母さん」
と少女はとなりに立っているこぶとりの中年女性を紹介した。私は、おそるおそる顔を上げる。しかし、私は言葉を失ってしまった。その女性が、三十年間私の胸の中に生き続けた女性とは似ても似つかない顔つきをしていたからだ。――メイコとは全くの別人だった。
「――あさみって言うんだよ」
一瞬、だれのことだろう?と思ったが、それが少女の母親の名前だと理解したとき、私はその名をつぶやきながら一人笑いをうかべていた。客観的に見て、ぜったいに起こりえないような偶然の再会に本気で胸を高鳴らせていた自分が心底おかしかったのだ。
私はおもむろに席を立ち、そのままレジに向かい、マスターらしき中年の男性を相手に勘定をすませると、少女の顔を見ることなく店を出た。
「ありがとうございました」
――背中越しに聞く少女のなんのけれんみもない快活な声はドアチャイムの音とあいまって私の心の中で美しく反響した。
私は、駐車場に止めてあったバイクにまたがった。そのとき、急に背中に悪寒を感じた。振り返ると川の上流の方からうっすらと白い靄がせまっていた。それとともにさっきまでの暖かな陽気がうそのように思えるほどの冷気がゴーという音とともに川の流れに乗って山間から押し寄せてくる。そしてあたり一帯は、まるで地上からわきあがる雲のように白い靄につつまれ、やがて足元さえ見えなくなった。そのせいか、自分がこの世に立っているのかどうかさえ疑わしく思えた。それほど文字通り幻想的な光景だった。今おもえば、私はこの町に来た時から、すでに別の世界に足を踏み入れていたのかもしれない。
その時、おぼろげなライトが自分に向かって照射され、音もなく徐々に近づきはじめた。そしてそのライトは耳慣れたバイクのエンジン音とともに消えた。そして一人のヘルメットをかぶった男が視界に現れた。どこかで見たような男だった。その男の正体はすぐに判明した。ヘルメットを脱いだ男の正体は私自身だった。三十年前の自分だった。そしてそのもう一人の自分は私には気づく様子もなく、バイクを降り、ヘルメットをふところに抱いたまま喫茶店に向かって小走りでかけていった。見ると喫茶店の窓から少女が手を振っている。もう一人の私が自分でもまぶしくなるほどの笑顔で手をふりかえしていた。
私は呆然とその様子を見ていた。が、ふたりの笑顔もすぐに川霧に覆われて見えなくなった。
不思議なことに私は、目の前で起きているこのパラレルワールド的な光景を、格別な驚きや恐怖の感情もなくしごく自然に受け入れていた。そして、これはきっと今は亡き親友も生前見たがっていた三人の友情物語のハッピーエンドなのだろうと思った。
私は、バイクにまたがったままヘルメットをかぶった。すると、ミラーに金色の一筋の斜光が反射した。それとともにみるみるうちに霧が晴れ、視界が開けてきた。濃霧に包まれたときは、このまま永遠に視界が閉ざされるのではないかと思われたけど、霧が晴れてみると、その時間はほんの一、二分のことだったように思われた。あたり一帯の視界は川霧が大気中の塵や埃を一掃したのか、発生する前にも増して鮮明になった。
しかし、霧が晴れてみると、さっきまで少女といたはずのレトロな喫茶店は、見る影もなく同じ場所に朽ち果てていた。その様子はまるでとっくの昔に廃業し、誰も住まないまま数十年が過ぎたようなたたずまいだった。
どこまでが現実なのかよくわからず私は唖然とした。ただ三十年ぶりに触れたメイコの黒目勝ちの瞳とのびやかな笑い声はいつまでも頭の中に残っていた。そしてすっかり忘れかけていた高校時代の自分の痛々しいけどまっすぐな思いが心の中で共振した。それに呼応して、長年のわだかまりも川霧とともに払拭されたような感じがした。
背後から水平線をすべりながら照り付ける冬の日の残照がミラーにおぼろげに反射している。私は高校時代のメイコと亡き親友の顔を思いうかべながら、バイクのアクセルに手をかけた。
了
川霧の町 床崎比些志 @ikazack
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