Scene13-3



 階段を降りていって外にでると現実に戻ってきたような気分になる。足元がすこしふわふわとしていて、映画館で没入して映画を見終わった後のように上手く頭が切り替わらない。


 帰り際に、俺は振り返ってもう一度お店を見た。たしかにある。間違いなく。と当たり前のことをなぜだか確認してしまう。


「どうだった?」

「よかったぁ」と渕が満足げな表情を浮かべながら云った。「また、会いに来たいねぇ」


 渕の声がグリを相手にしていたときのようにへにゃへにゃになっている。それを聞いているだけでこちらも自然と顔がゆるんでしまい「そうだな」と俺は笑いながら答えた。


 俺たちは話しながら駅へと向かっていく。視界は濃い青に包まれ、通り過ぎる自転車のライトや車道の信号の色が目立つくらいに暗くなっていた。十月になったせいもあるのだろう、昼間と寒暖差があって、シャツでいるとやや肌寒く感じる。


「これから、勉強、しないといけないんだよねぇ……」

「だなぁ。はぁー、テスト受けずに、ずっとテスト前期間になんないかなぁー」と俺は身体を伸ばしながら云った。

「よくわかんないよ、それ。ただのお休み、だよ」と渕がくすくすと笑った。「稲田くんは、きょう、どれ勉強するの?」

「俺は、あー、そうだな。世界史か、英語かな?」

「苦手? そのふたつ」

「んー、ふつう。世界史はとりあえず教科書読んで、覚えるとこ先にまとめちゃおうかなって。英語はテスト範囲をざっくり把握するくらい」

「そっかぁ。わたし、どうしようかなぁ」


 歩きながら、渕が俺の手を取った。明るかったときに手を繋いでいるときと、いまで、気持ちに微妙な違いがある。触れ合っているのになぜか寂しくて、この手を離したくないなと思ってしまって。


 絡ませた指が解けないように、深く、繋いだ。


「渕」

「ん?」

「送るよ、きょう。家まで。暗いし」


 こみ上がってきた想いが溢れでてしまい、いまの顔を見られたくなくて、俺は渕から顔を背けた。やっちまったかなと焦る気持ちと、いや間違ってない、という思いの拮抗が頭のなかで繰り広げられる。


「……帰るの、遅く、なっちゃうよ?」

「いいよ」

「ほんとに、いいの?」

「うん」


 鈍いほうじゃないと思うので、いまのでだいたい察した。俺は恥ずかしさを堪え、もう建前なんかどうでもよくなって「……まだ、渕といたいんだけど。ダメ?」と、今度はちゃんと、渕のほうを見ながら伝えた。顔が、頭が、のぼせたときみたいに、急激に熱くなっていった。


 繋いでいた手に、わずかに、力がこもる。


「いい、よ……」


 消えてしまいそうなかすれた声で渕がつぶやくと、口のあたりに空いた手を添える。暗くて、はっきりとわからなかったけれど、たぶん俺も渕も、同じような状態になっているだろう。


 そのあと、俺はパタパタと手を仰ぎ、渕はほっぺたを触ったり、軽く咳払いをしたりして、駅までの道のりを進んでいった。


 駅の近くまでくると、派手派手しいほど光り輝くチェーン店の看板や、窓から見える飲食店の店内のようすなど、街はすっかり夜の雰囲気へ変わっていた。行き交う人の姿も大学生っぽい若い人達や、仕事帰りらしい大人達が連れ立って歩いている。


 人が忙しなく通り抜けている改札が見えてくると、俺たちは手を離し、駅構内を歩いていった。


「こっち」


 渕に手を引かれ、俺は誘導されながら乗りこむ路線へと進んでいく。ホームでは次の電車を待つ人たちがそこらで列を作り、俺たちは待っている人が少ないところへ移動してから電車が来るのを待った。


「見て、これ」

「ん?」


 待っているあいだ、スマホをいじっていた渕が画面を見せてくる。そこには一匹の猫が写っていた。茶色をベースに所々にしろが混ざっていて、ふわふわとしたタオルの敷かれた寝床で、身体を捻じ切らんばかりに曲げて眠っている。


「すごい寝相だなこれ」と俺は笑いながら云った。「名前は?」

「マロン。お母さんは、マロ様って呼んでて」と渕が笑いながら云った。「オス猫なんだけど、自分が家でいちばん偉いって、思ってそうだからって、そう呼んでる」

「なるほどな。それでマロ様か」と俺は云った。「でもたしかに、そう思ってなかったら、そんな寝方できないな」

「まだ、あるよ。え、と。これ、とか」


 渕がふたたび写真を見せてくれる。今度はソファの上で豪快に腹を見せて仰向けに寝ていた。それを見て思わず「なんだよこれ」と笑いながらツッコんでしまうほどで、渕が「すごいよね」とほほえみながら云ってくる。


 渕に何枚か写真を見せてもらっていると、あっという間に電車がやってきた。乗る人も多ければ降りる人も多く、幸運なことに隅の席が二人分空いていたので、俺たちは躊躇せずにそこへ坐った。


 ドアが閉まり、がたん、と電車が動きだす。席が詰まり、渕の髪から漂うシャンプーの甘い香りがして、肩を密着させているせいか、シャツ越しに腕の生々しい感触が伝わってきた。


 渕はリュックをクッションのようにしてスマホに文章を入力していた。画面を見ないようにしてはいたが、視界に入った範囲で判断する限り、だれかにラインを送っているっぽい。


 送り終えたのか、渕が画面を消した。電車に揺られているとバイブ音が鳴り、渕がふたたび画面を見たが、今度はなにもせずにスマホを胸ポケットへ。


 一駅すぎ、二駅すぎ――ていくと、渕の頭が、大きくかくんと傾いだ。


「う、ーん……」と渕が頬を触った。

「寝てても、いいからな?」

「乗り換え、ある、から」

「どこの駅?」

「庇杉(ひさしすぎ)」

「わかった。着いたら起こすよ。そこ以外に乗り換えある?」

「ううん、ない」

「ん。乗り換えたあと、渕の最寄りの駅、教えて」

「うん……」


 マジで眠たそうで、渕が簡潔な返事しかしてこなくなる。カフェでもすこし眠そうだったが、グリがいたことでそのときの眠気は吹っ飛んで、それがいま遅れてやってきたのだろう。


 安心したのか、肩に渕の重さがほんのわずかに乗った。揺れる電車の音と、渕の息遣いが耳にやたらと入ってきて、渕とは対照的に俺は目が覚め、心臓の音が静かに鳴りはじめる。


 なにも話さず、ただそばにいるだけなのに、胸が満たされていく。身を預けてもらっているということが、なぜだかすごく嬉しくて、俺はなるべく身体を動かさないようにしながら、乗り換える駅が来るのを待った。


 ちょっとしてから電車を降り、次に乗る電車が来るのを待つあいだ、渕はうとうとしながら俺のシャツを掴んでいた。そして乗り換えてからも、まだ眠そうで。渕が普段使っている路線は、さっきのように混み合ってはおらず、ぽつぽつと席が空いており、俺たちは座席に坐りながら、ふたたび電車に揺られていく。


 見慣れない車内と、自分の住んでいる地域とはまた違う人たちのようすなどを感じていると、渕がより身近な存在になっていくような気がした。こういうところに住んでいるんだなと、解像度が上がっていくというか、リアルに思えて。


 ちらりと渕のほうへ顔を向けると、住み慣れた土地でさらに安心感が増したのか、リュックを抱き締め、頭を俺の肩に預けて眠っていた。ここまで油断しきった姿は見たことがなく、俺はつい頬が綻んでしまって、腹が満たされたときのような溜息がこぼれでた。


 そんな状態のまま、何駅か過ぎていき、渕の最寄りの駅名がアナウンスされると、心苦しいが俺は肩を揺すって「渕」と呼びかけた。


「もうすぐ着くぞ」


 優しく声をかけると、渕がのっそりと頭をもたげ、鼻で深く息を吸いこんだ。まだ意識が朧げなのか、すこしだけぼーっとしていたが、はっと急にこちらへ顔を向けてくる。


「よく寝てたな?」


 満々の笑顔で告げると、渕が両手で顔を押さえながら「はああぁ〜〜……」と深い溜息を吐いた。


「渕?」

「う、ううん、ごめん。……うん。よく、寝て、ました」


 素直に認めながら、渕は真っ赤になった顔を見せないように逸らしながら鼻をすすった。ちょうど電車の速度がゆるやかになると、俺たちは立ち上がって、開いたドアへ進んでいく。


 駅からでると、馴染みのない街並みが新鮮に映った。整った駅前広場には仕事終わりのサラリーマンや学生っぽい人が歩いていて、正面に大きなスーパーがあり、右手には商店街らしきものが見える。ゲームで新たなマップへ進行したときのように、目に入ったところを逐一確認したくなるような好奇心が湧き上がってきた。


「すこし、歩くよ?」

「ん、ぜんぜん平気」


 渕に連れられるように手を繋ぎながら商店街方面へ。むかしからあるような個人の店と地元に根づいたチェーン店が半々くらいで、俺はそれらに興味を惹かれるなか、渕も含めて帰路を歩く人たちはもう見飽きたような感じで突き進んでいた。


 商店街から脇道へ抜け、電灯に点々と照らされた裏通りをまっすぐ進んでいく。閑静な住宅地で、マンションや一軒家が軒を連ねる小道を通り、ゆるやかな坂道を下っていったら「あの、ここ」と渕が立ち止まった。


 ライトが反応してぱっと明るくなる。渕の家へ目を向けると、ほんのりとした生成色の外壁で、玄関先を隠すように植木があるものの、その他には余計な装飾がほとんどないシンプルな造りの家だった。空いたスペースに車が一台と自転車が数台おいてあり、大きさは、そこそこあるほうかもしれない。


「そか」と俺は小さな声で云った。「……きょう、ありがとう。愉しかった」 

「わたしも。ぁ、と、……おく、ってくれて、ありがと」

「うん。あー、また、遊びに行こう」

「そうだね。今度は、休日が、いいね」

「だなぁ。短く感じる、学校帰りだと」

「ほんと、だよね」


 渕の家の前なのに、このまま何時間でも話せてしまいそうだった。


 お互いに、別れの言葉を告げるのを避けているような、先に云いだしたくないという空気が、秋の夜の風に混ざる。 


 だけど、名残惜しいけど、もう時間だ。夜も冷えてきたし、このまま薄着で外に居続けるわけにもいかない。俺は足の指に力を入れ、口を開いた。


「それじゃ、また」

「……うん、またね」


 繋いでいた手を渕がゆっくりと離す。最後の、最後まで、ほんのわずかでも長く触れていたい気持ちが指先から伝わり、思わずその手をふたたび掴みかけてしまいそうになった。


「気をつけて帰ってね」

「ん。了解」


 軽く手を振り合ってから、渕が家のなかへ入っていくのを見届ける。なんてことのない平凡な玄関のドアが、いまは堅牢な壁のように思えてしまって、俺は数秒ほど、その場に立ち尽くしていた。


 知りたくなかったな。

 付き合うって、愉しいだけじゃなく、こんなに切なくなるものなんだって。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る