Scene10-1
10
諸々の支度を終えて、俺はふたたび観客席へ。フィールド種目では男子の走り幅跳びが行われていて、黄色のユニフォームを着た選手が砂場に着地する瞬間が目に入る。トラックでは記憶が正しければ千五百メートルだっただろうか、数人の先頭グループの女子の集団がコーナーで凌ぎ合っていた。
「よ。ただいま」
「おかえりー」
渕が小型の扇風機を片手に持ちながらのんびりとした声音で云ってこちらへ顔を向けてくる。お昼になって気温が上がり、日陰でもやや暑いと感じるくらいになっていた。前日にそのことについて話したので、たぶんその対策をしてきたのだろう。
「いいなそれ」と俺は渕の横へ腰かけた。
「使う?」
「いや、いいよ」と俺は云った。「それがあるならいらないか。念のため、タオル持ってきたんだけど」
渕が首を傾げた。「タオル?」
「そ。こうするだけで、けっこう違うからさ」
俺はお手本でタオルを広げて頭から垂らした。帽子が似合わないと云っていたので、これで簡易的にでも日差しを防げるようにと自分の分とは別に渕の分も持ってきていたんだが、どうやら余計な気遣いだったらしい。
「い、いる。ほしい」
「ん。じゃあ……あげる」
渕が扇風機を慌ててバッグにしまい、タオルを大事そうに預かってから、頭にふわっと被せる。すると急に恥ずかしくなったのか、ちょっとうつむいてタオルの両端をきゅっと握った。
たぶん、渕もタオルは持ってきていただろう。この暑さだと自然と汗をかくだろうし、持ってきていないはずがない。だから自分ので同じことをすればいい。俺のをもらう必要なんてなかったはずだ。それなのに受け取ったのは、きっと、渕の優しさなのだろう。
「ま、まだ使ってないやつだから、それ。綺麗だから」と俺は早口でつけ加えた。
「うん。嬉しい。ありがとう……」
タオルに隠れて表情はわからなかったが、声を聞いただけで渕がいまどんな顔をしているのか透けて見えてきそうなほどで。俺はこそばゆい気持ちに耐えながら「昼、食べるか」と云った。
「うん……」と渕がタオルを首に下ろした。
朝に買ったコンビニの袋を漁り、おにぎりの包装を剥ぐ。あー梅、うっ、ま……。梅の酸味と、海苔のハリ、そして空いた腹にやさしく響くこの感じ。走ったあとって、なんでこんなに美味く感じるんだろう。
なんて味わいながら食べていると、横にいた渕がトートバッグからバンダナの巻いてある容器を取りだした。ほどいて蓋を開けると、タッパに隙間なくきれいに詰まったハムサンドとたまごサンドがでてくる。
たまごサンドを指で摘み上げ、はむっと口に入れる。と食べながら視線に気づいたのか、渕が口を隠しながら「ん?」と小首を傾げた。
「いや、なんでも」と俺はほほえんだ。
最後の一周を告げる鐘が鳴り響く。俺と渕はトラックのほうへ目を向けた。食べているせいか、会話はまるでなかったけれど、無言でいるのが苦ではなく、むしろ心地よさすら感じる。
午前中から、いや、きのうから張り詰めていた気がふっと緩む。このまま渕といっしょにレースを観戦していたい。そう思ってしまうくらいに、俺はリラックスしていた。熱を帯びた声援、激しく競り合う選手など、大会中ならではの気の激しさをそこら中から感じるのに、心がすごく落ち着いている。
「見てて、面白いか?」
「面白いよ。他のスポーツって、ルールがわからないと、よくわからないとき、あるけど、陸上は見ててわかりやすいから」
「たしかに、足の速い奴らが集まった運動会みたいなもんだからな」
渕が笑った。「そうだね。そんな感じ」
「なにが愉しくて走ってるんだろうって見てて思わないか?」
「ちょっとだけ、それ思った」と渕が口を隠しながら笑みを浮かべた。
「だよなぁ」と俺は笑い返した。
本心はどうなのか、ほんとうのところはわからない。俺に気を遣ってそう云っているだけで、実際は退屈なのかもしれない。表と裏があるのは当たり前のことで、そのことについて詮索してやろうなんて微塵も思わない。
俺は、渕がひとりで寂しがってないかが気がかりだった。
観客席のなかには、もちろん一人で見に来ている人もいる。だれかの親なのか、それとも近隣に住んでいて、たまたま観戦に来た人なのかはわからない。けれど大多数は、だれかといっしょにいることが多かった。同じ、もしくは異なるTシャツやジャージを着た人同士、夫婦あるいは父兄などなど。
そのなかにいて、居ずらさを感じていたとしたら、なんか申し訳なく思う。
だから、時間の許す限り、渕のそばにいたかった。そんなこと、渕が思っていなかったとしても。
と、そんな真面目なことを考えている最中に、視界にチラッとこちらのようすをうかがっている人達が目に入った。長距離メンバーの女子の先輩達で、ここからだとまったく声は聞こえないが「いたいたあそこ」「うわマジじゃん!」……と聞こえてきそうな仕草でこっちを見てくる。
じっとりした視線を送ったら「うわバレた」とでも云いそうな感じで退散していった。しかし今度は遅れて短距離メンバーの先輩と同級生達がやってきて、遠巻きにからかうように指をさしてくる。
渕もそこで察したようで「あの、稲田くん、あれ」とこちらを見てから、先輩達のほうへ視線を向けた。
「ああ……、さっき着替えに戻ったとき、俺が昼飯を待機所で食べないから、なんでって訊かれてさ」と俺は云った。「そのとき云ったんだよ。彼女が来てること」
「あ、そう、いう……こと」
理由を話すと、渕が首に巻いていたタオルを頭にかぶせた。うんまあ、そういう使い方もできるよな、と俺は納得しながら、その姿がなぜかすこしおかしくて声にださずに笑ってしまう。
あのとき、すんなりと「彼女と昼飯食べてくるんで」と答えられたのは、バレてもいいかなと自然に思えたからで。渕の可愛いところも見れたし、いまだけは茶化されるのも悪くはないかな、となんとなく思った。
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