第14話 セカンドオプションはパン屋さん
探査試験は――少なくともイシュカとラグナル的には――順調に終わりに近づいていった。
丸一日島にいられるのは今日だけ、という朝を迎え、イシュカは小鳥のさえずりで目を覚ました。
頭上に生い茂る木々の向こうの空は夜が残っていて、まだ薄い水色をしている。だが、雲一つない。今日も暑い、いい天気になるのだろう。
横で寝ていたはずのラグナルはいない。大岩のむこうからパンの焼ける匂いが漂ってくる。早々に起きて、朝食の準備をしてくれているのかもしれない。
(まただ……)
眉をひそめながら、イシュカは身を起こした。島の南西、内湾の向こうに見える火山に目を向ける。
朝焼けを映した西の空を背景に、山頂の火口からいつも上がっている薄い煙が、今は青みを帯びて見えた。山の中腹より上、植生の薄い山肌が朝日を受けてオレンジに輝いている。特に変わったことはないように見える。
(でもなんだろ、なんか妙なんだよね。しかもどんどん……)
日々強まっていく違和感に眉をひそめながら、むくりと身を起こせば、すぐ脇から小さく朝の挨拶が届いた。
「おはよう。うん、よく眠れたよ。気持ちのいい朝だね」
オークの木のすぐ脇に咲いた、百合の花に止まった朝露の妖精と朝の挨拶を交わして、立ち上がった。
「おはよう、ラグナル」
「おはよう、パン、もうすぐ焼けるぞ」
昨日用意しておいたパン生地には、島で採れた木の実を入れておいた。かまどの中からいつも以上に、香ばしい匂いが漂ってくる。
「おなかすいた」
「俺も。それで目が覚めた」
図ったかのようなタイミングで、イシュカのお腹が鳴った。思わず赤くなった瞬間に、ラグナルのお腹も騒ぎ出す。目を丸くして顔を見合わせた後、二人で笑い転げる。
「あ、焼き上がったって」
かまどの中から、『火蛇』の声がした。ラグナルがかまどの正面の石をどかし、中の召喚獣をねぎらって、パンを取り出す。
「やっぱり最高!」
こんがりきつね色にむらなく焼けたパンは、無人で出迎える朝のご飯としては最高のご馳走だった。
「ラグナルと一緒に調査旅行に行かなくなってから、うちの家のパンの失敗率、本当に高くなったの。黒焦げ、生焼け、その両方……。だから、今回一緒ですごく嬉しい」
「俺の価値はパン焼きか」
並んで腰を下ろし、パンにかじりついてしみじみ口にすれば、じろりと睨まれた。
「この国一番の幻獣使いとなられる、ガードルードさまにそんな畏れ多いー。でもパン屋でも国一番になれると思ってる。真面目に」
「……じゃ、その時はイシュカと、イシュカの家の家事妖精を借りて、生地を作ってもらわないと」
「うん……?」
目を瞬かせたイシュカを見つめた後、ラグナルは小さく微笑んだ。イシュカのまったく知らない、なんだかとても大人びた笑い方だった。
「集合は明日の正午だっけ?」
食後の紅茶を飲みながら、試験初日に渡された島の地図を広げた。
最初島の輪郭と大まかな地形しか書かれていなかったそれは、もう書き込む余地を探すのが難しいくらいに、精霊たちの情報で真っ黒になっている。
「時間になっても来なかったら、リマン教授が『雷鳥』を飛ばして知らせてくださるらしいから、それまではゆっくりしていよう」
「……それで船に乗り遅れたら、島に置いていかれるって知ってた?」
「コィノさんだろ?」
さすがイシュカの兄、と笑った後、ラグナルは表情を消した。
「ラグナル?」
「……それもいいかもな」
ぼそりとした呟きは、ひどく暗いものだった。
「……」
なんとなく、なんとなくだが、ラグナルは学園、というか日常に戻りたくないのだろう、と思った。イシュカにもその気持ちがよく分かったから。
静かに息を吸って、イシュカはラグナルの顔に両手を伸ばした。
逆に息を止めた彼の頬に触れる。
「イシュ、っ、……ひゃにふんだ」
指でつまんで左右に引っ張った。昔、父親であるガードルード公爵に厳しく怒られて、うじうじとする彼によくやったことだ。
「全然伸びない。昔はもちもちすべすべで、もっと引っ張れたのに」
「ひゃめろ……」
いつもすましている顔が、今はひどく間抜けだ。
自分でやっておきながら、イシュカは笑い声を立てて、手を離す。微妙に赤い頬を押さえて、ラグナルが睨んでくる。
「“家出するなら付き合うよ”」
これも昔通りのセリフだった。彼もそう気づいたのかもしれない、赤い目がまん丸になった。
だが、彼はそのままイシュカを見つめた後、微かに眉根を寄せ、唇を引き結んだ。
(あれ、昔もついこの前もにっこり笑ったのに……)
なぜそんな顔になるのだろうと焦って、
「いや、ほんとに。私と一緒なら、どこにいても中々死なないよ? 今回だって、木の実も魚ももらいたい放題だったでしょ?」
と慌てて言い足せば、一瞬、ラグナルが泣き笑いのような顔を見せた気がした。
「イシュカが死にそうになるのは、よく見かけるんだが?」
「う」
「今回の探査試験だって、崖から落ちそうになったし、波にさらわれかけたし、」
「ゆ、指折り数えるの、なし!」
すぐに明るい声で笑ってくれて、ほっとしたのも束の間――。
「……もし本当に家出したら、一緒にパン屋をやってくれるのか」
「え、あ、うん」
今度は彼がイシュカの頬に触れた。ひどく柔らかい表情に目を奪われる。見たことのない顔だった。
「……」
落ち着かないのに、なぜだろう、目が離せない。なぜだろう、心臓が痛い。なぜだろう、嬉しいのに離れたい……。
「じゃあ、火蛇に逃げられないようにしないと」
「っ、じゃ、じゃあ、私はシルキーのご機嫌を取っておく」
パン作りの得意な妖精の彼女は、ヴィーダ家の屋敷についているから、一緒に来てもらうなら、と考えて、なんとか意識をラグナルから逸らした。
そうしてしばらく未来のパン屋について、語り合った。
どこに店を開くか、どんな外観ならシルキーは居ついてくれるか、どんなパンを作るか、どんなお客さんが来るか――これがただの夢想になるということは、なんとなくわかっていた。
でもなんだかとても大事にしたくなる時間だった。
今日の調査地域は、島の中心から東寄りに位置する台地とすることにした。島の他の場所と比べて植生に乏しく、あまり精霊の気配がしないために、後回しにしていた場所だ。
「大きくはないけど、感じたことのない精霊の気配がする。ちょっとおもしろい界境があるかもよ?」
「……水の気配? いやでも微妙に火も」
鬱蒼とした森の中から、崖の上を眺めて呟けば、ラグナルが首を傾げた。その仕草もしゃべり方も十歳の時分とまるで一緒だった。
(なんかそんなのばっかりだな)
昔と同じラグナルを見つけてほっとして、違っているラグナルに気付いて落ち着かなくなって……。
「……」
木漏れ日を受ける、横の幼馴染の顔は、もう見上げなくてはならないくらい高い場所に行ってしまった。
それに、体だけじゃない、ラグナルは中身も成長している。
それに引き換え自分は、と思ってしまったら、自然と顔が下を向いた。
「イシュカ? どうした?」
「っ、な、なんでもないよ、温泉か何かがあるかもって思って。そうなったら入――」
「らないし、入らせないからな」
「なんで! 一週間ぶりのお風呂、お湯だよ!?」
「なんでも何もない。絶対だめだ」
ラグナルの目は時々ものすごく冷たい。切ない話、これも昔通りだった。
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