人間魚拓

@yuhaito

人間魚拓

ホテルまでまだ長いだろうから1つ面白い話を聞かせてやろう。君と私の付き合いはまだ短いからね。色々聞かせてあげるよ。なに?助手として先生の話には興味があるって?助手でなければ私の話には興味はないのかな?失礼失礼、冗談冗談。これはある教授の話なんだがね。私と彼の関係性?直接話したことはないがよく知っているよ。なんで話したことがないのによく知っているかって?まあそう急ぐな、君も私も痩せているのだからもう少しこっちに寄りなさい。その方がよく聞こえるだろう。今日の学会は長くて疲れたな。あんなにダラダラ話すもんじゃないよ。君も飲むかね?今日は運転しないだろう。電車が揺れるからこぼさないように気をつけるのだよ。今は大学で教鞭に立つ彼がまだ大学生の頃の話だ。これはちょうど1週間の話だから君にも分かりやすいだろう。


1日目

梅雨の終わりと初夏の間。そんな時期のことである。当時の彼は大学3年生であった。彼は東北に住んでいたから梅雨明けが7月下旬である。昼夜の寒暖差があって夜は意外にもかなり冷える時があるらしい。日によっては日中は半袖でいても暑いのに、これが夜になってしまうと上着を着たくなることもある。その日は上着を着るほど冷えてはいないが、爪先から肩まで覆うように1枚の薄い毛布をかける、そんな日だった。


寝汗だ。


寝汗くらい誰でもかくって?当たり前だ。だがこれが大事なんだ。まだ時間はあるのだからゆっくり聞いたらどうだ。


とにかく彼は寝汗をかいたんだ。

必要以上の寒さ。寒さというよりも体をベタベタした冷たいもの。ちょうど私の大学の実験室の棚に保管しているタールが体に纏わりつくような違和感を感じて、目が覚めた。

そうだ言い忘れていたね。彼の当時の専攻、今では専門だね。それは私と同じくエネルギー資源だった。4月のゼミ配属が決まった時に石炭から生まれるタールを教授が見せてくれたらしい。無論、エネルギーを専攻としている学生ならタール云々のことなどとっくに知っているはずだが、あの独特の臭いや液体としての動きを初めて体感する学生たちを見るのがその教授は嬉しかったのだろう。

彼は目覚めた時、あの時に見たタールが全身に纏わりついているのを感じた。それは不快だっただろう。彼は布団から這い出る間も無く、すぐにそれが何かわかった。


寝汗だ。


爪先から頭までベッタリとした寝汗をかいている。完全に服は冷え切っており、寒いと感じるほどだった。

汗というと肥えた人間が汗をかくイメージがあるが、彼は痩せている。この寝汗には原因があるはずであり、おおよそわかってもいる。彼はよく酒を飲むのだ。進学と同時に一人暮らしを始め、少し経った頃である。安いアパートに住み始めた。隣の部屋から聞こえる男女の話し声。線路を滑るというよりも跳ねるような電車の音。スナックから聞こえる下手くそな歌声。人間が、街が生きている。その全てが聞こえ、聞き耳を立てつつも耳を塞ぎたくなるような矛盾の中、寝るために酒を飲み始めた。よく酒を飲む人間はよく汗をかく。

その夜、課題があったため酒を飲まなかった。医学を学んだ人間、もしくは健康に不安を感じたことがある人間ならわかるだろうが、常時アルコールが体内に入っているような人間のアルコールが限りなく0に近くなるとこのようなことが起きる。つまり禁断症状である。人によってはかなり大変らしいね。手の震え、吐き気、下痢、さらにひどい場合には幻聴や幻覚。そうなるともはや自立した生活は困難である。そして発汗。彼はすぐに着替えてシーツも取り替えた。

彼は周りから見れば清潔な方であるが、実際はゴミもため放題、掃除機も滅多にかけないような人間である。他人から見れば人並みの人間だな。シーツは夏・冬の転換期にかけるだけであった。

初めて禁断症状を実感し、禁酒を考えた。最初の1週間がきつい。よく聞く話だ。

1週間。悪くない。それを耐えれば酒など知らなかった幼い頃の自分に戻れる。これもいい機会だ。ちょっとした自慢にもなるだろう。大人になった時、友人と会って病院がどうだの、薬がどうだの、そんな話ばかりするのはくだらない。

少々きついかもしれないが彼はその日を1日目とすることにした。


2日目

学生はわかっているのかどうなのか知らないが、教壇に立つと鮮明に学生が見える。1番前の真ん中にいれば見えないなんてのは都市伝説である。

へえ、君は1番前の真ん中にいるタイプだったのかい。何、真面目に受けているだけだったと。嘘を言う必要はないよ。はっはっはっ。

義務教育、それに3年を追加した高校教育の教師までであれば注意するだろうが、大学ともなればそんなことは関係ないだろう。自己責任だ。彼の健康状態に変化があったのももちろん自己責任である。ふと昨夜のことを思い出した。あれは何時ごろだったのだろうか。人間の体はそんなに正直なのだろうか?不快であっても体は快調に向かっているはずだ。彼は今日の夜が楽しみで仕方なかった。

しかしその感情は家に帰って一変してしまった。

シーツにシミがある。確かにあの時シーツを取り替えた。そして朝はシーツにしみなんてなかった。まさか敷き布団に汗が残っていてそれがシーツに移ったのか?でも朝はなかったはずだ。たまたま夏用のシーツが1枚余分にあったから昨日は良かったが洗濯したシーツはまだ乾いていない。触った感じ、濡れてはいなかったのでそのまま寝ることにした。


また目が覚めた。昨日と同じだ。全身びっしょりと汗をかいている。時計を見ると午前1時前。シーツは乾いていなくてもシャツは早く乾くしまだ替えのシャツがある。すぐに起き上がって部屋の灯りをつけた。

シーツのシミは彼の形をしていた。まあ当然である。さっきまでそこに彼が寝ていたのだからな。だが不思議でもある。爪先から頭までこんなにも綺麗に、そして均等に汗をかくなどありえない。人間魚拓である。だが彼はこのことを小学生向けの怪談集の1つの話ぐらい幼稚な出来事であると考えていた。


3日目

昨夜は不自然さを感じたためよく寝られず、危うく酒を飲むところだった。3日坊主にすらなれないとはしょうもない人間だ。

朝になって汗は引けているが寝汗の跡は濡れた跡というよりもシミになっていた。意外にもシミになってしまえばあまり気にならないというのである。こういうところが本当に彼らしいと思う。3日目ともなれば日中の体への違和感は感じられず、むしろ心なしか好調な気さえし始めるようだ。やはり人間の体は思っている以上に正直である。

今日は課題を進めるために友人宅に集まり、そのまま1泊することを選んだのだ。集まってやればダラダラと時間だけが過ぎるかとも思ったが思いの外、順調だった。

2日間耐えたのだ。せっかくみんなで集まったのだ。少しくらい飲むのは悪くないだろう。

酔いと疲れのせいであろう。彼はすぐに眠りについた。夜中、体の水分が重力に伴い、全身から地球の核に落ちていく感じがした。その落ちた水分と引き換えに何かが下から体の中に入ってくるような気もした。おかしな夢だなと思った時、目が覚めた。あまりの喉の渇きに寝汗を疑ったが、全く寝汗はかいていなかった。乾燥していたせいかとにかく喉が渇く。

ちなみに君はなんでホテルの部屋があんなに乾燥しているのかわかるかい?ホテルの客室はプライバシーを守るために限りなく密室に近い。音が漏れないように作られている。そのため、空気が溜まり続け、あの目覚めた時の喉の乾燥を引き起こすのだ。

君は何か対策をしているかい?

風呂にお湯を張っておくのか。客としてはいいだろうがホテルの職員からしたら清掃の手間が増えるな。はっはっはっ。電車の中だというのに大きい声を出してしまったな。失礼。どこまで話したんだったかな?寝汗?そうだそうだ。

その日は寝汗をかかなかった。

寝汗をかかなかった理由は飲んでしまったからだ。意志の弱いやつだ。結局三日坊主にさえなれなかったのだ。だが、2日は我慢できた。明日からまた禁酒をすればいいと考えたようだ。


4日目

昼前に家に帰り、またも彼は驚愕した。

シーツのシミが濃くなっている。昨日は寝汗などかいていないし、そもそもこの布団では寝ていない。触ってみたが何も感じなかった。濡れてはいない。シミだけである。


何も感じない?


違和感があるだろう。彼の体温と同じなのだ。まるで布団に寝ている薄い自分を触っているようである。

さすがに初日洗濯したシーツも乾いたためすぐに変えた。洗濯したシーツにはもう寝汗の跡はない。このシーツはシミではなく、寝汗の段階で洗ったからだ。

彼は気持ちが悪くなり、家を出た。

気休め程度にしかならないとは思ったが自宅から10分ほどの喫茶店へ向かった。やはり日中の日差しは暑い。避けようのないジリジリとした日差しを受けながら歩いた。喫茶店に入る頃には背中にはじんわりと汗が滲んでいた。ドアを開けると鈴の音とともにエアコンの冷風が体に向かってきた。思いの外、その涼しさは寝汗のことで感じていた不安も流してくれた。

彼はいつも通りアイスコーヒーを頼んだ。

この喫茶店は普通のそれとは少し変わっていて、壁一面に様々な本が所狭しと並べてある。都会ならあってもおかしくはないがここは田舎だ。限られた客に一定以上の興味を与える。小説や雑誌はもちろんのこと。経済学。理工学。社会学。心理学。そして医学などの専門書もある。他に客もいなかったので自由に見ることができた。あまり小説は読まない方であるが、1冊、また1冊と背表紙をじっくり見た。すると単行本の間に数ページしか残っていないメモ帳を見つけた。

たった3ページしか残っておらず、その不可解さからどうしても目を逸らすことができなかった。


3日目

俺の上で誰かが寝ている夢を見た。

それとも俺の下に誰かいるのか?


4日目

奴を奴だと認識した。

奴が夢の中で俺に話しかけてきた。

俺はお前になり、お前は俺になると。


5日目

家に帰ると奴が俺の布団の上で寝ていた。

正確にいうと布団の上なのか、下なのか、中なのかわからない

声こそ出さないが奴は俺だ。

俺には確信がある。

奴は俺だ。


6日目

気持ち悪くて布団に横になる気分になれない。

まだ奴がいる。


7日目

そこでメモ?のようなものは終わっていた。変なポエムだ。その後のページは千切られて無くなっている。1日目、2日目のことを書かないような人間だ。その後のポエムが気に入らなくて捨てたのだろう。でもなぜ7日目は空白で8日目であるはずのページには何も書いていないのだろう。内容からして普通じゃない。イカれた人間が書いたのだろう。


その言い方は避けた方がいいって?そうだな。自分に関係なくても文句を言ってくる人間などそこら中にいるからな。気をつけよう。障がいのある人間が書いたのだろう。

そこで彼はメモ帳を本棚に戻し、家へと帰った。


部屋に戻ると相変わらずシーツにはシミがあった。やはり生温かさは消えていないが、もはや何か諦めのようなものを感じて今日はそのまま寝ることにした。夕食を食べてふと昼に喫茶店で読んだメモを思い出した。あのポエムだ。考えるほどのことは何もないが何か引っ掛かる部分があった。家に帰ると奴がいる。そして俺=奴。つまり幽体離脱というやつだろうか。だが幽体離脱は寝ている時に抜け出すのではないのか?なるほど幽体離脱して出かけたことを忘れて帰宅したのか。などと考えているうちに遅くなってしまったので寝ることにした。


俺はお前になり、お前は俺になる


夢の中で奴は言った。

奴は彼の形をしていた。


5日目

変な夢を見た気がする。昨夜は目を覚まさず、朝になるまでずっと寝ていたが相変わらずひどい寝汗である。大量の汗のせいだろうが体がだるい。脱水症状になりかけているのだ。冷蔵庫の水を飲み、少し落ち着くまで待つことにした。今日は休みなのだ。何も急ぐことはない。

何か大切なことを忘れている気がする。本当に今日は休みなのか?講義があったら?というような違和感。カレンダーを見たが休みで間違いない。だが、その違和感。これはなんだ。体の不快感以上に頭の中が不快である。大抵夢はいい夢、どうでもいい夢、悪い夢に分けられる。とは考えている。彼は大学に通ってこそいるが脳や精神の世界のことなどに詳しいわけではない。所詮大学生なんて専門分野でさえ十分には理解できないだろう。夢じゃなかったら?他に何があるというのだ。あんなものは現実ではないし、あんなものがどんなものかもわからない。

せっかくの休みだというのにあまり気分はすぐれないし、だからと言って家にもいたくない。そしてあの喫茶店にも何故だか行く気が起きない。その日は結局何をするでもなく、ショッピングモールでダラダラとウィンドウショッピングをした。

家に帰ると彼の形をした人間が彼の布団の上で寝ていた。

まさか自分はおかしくなってしまったのか?不安や恐怖どころではない。そもそも自分だろうが他人だろが自分の布団の上にいたら驚くのはもちろんのこといい気分ではない。逆に驚かない人間などいない。

さらにその顔が自分だったらどうだろう。ドッペルゲンガーというやつか。もしくは世界に2人いる自分と同じ顔を持った人間のどちらかが家に来たのか?待てよ、最近似たことを考えた記憶がある。そうだ幽体離脱だ。恐らく私は今、寝ているのだ。つまり寝ていることも起きていることも判断できないが自分(彼の形をした人間)の上で寝直せば彼の肉体に精神が戻るはずである。なんとなくだがそう思った。

そうして彼は自分(彼の形をした人間)の上にぴったりと重なるようにして寝た。


6日目

目が覚めた。昨日のままなのか、昨日を基準とした明日に変わっているのかわからない。友人との飲み会の後に2日休んでいるのであれば今日は講義がある。彼は奴の上にいた。だが上が精神で下が肉体なのか、上が肉体で下が精神なのか分からない。シミなどではない。自分がいるのだ。幽体離脱したままなのだ。精神と肉体が分裂したままなのである。戻れないのではないかという恐怖が襲ってきた。今日は何日だろう。大学に行かなくてはいけない日かもしれないのに、目の前で自分が寝ているという不可解な状態もわかっているのに、どうすることもできない。自分の上に寝ること自体不快だ。気持ち悪い。彼は壁に背をつけ、へたり込み、布団の上の自分を見ることしかできなかった。


7日目

いつの間にか彼は寝てしまった。外は薄暗く、寝ていた時間が一瞬なのか朝から夕方に変わったのか、日を跨いだのかわからない。起きあがろうとしたが動くことができない。幽体離脱に続き、金縛りである。もううんざりだ。今思うと禁酒を始めたあの日。大量の寝汗をかいたあの日からこのようなことになってしまった。唯一動かせる目を精一杯動かして部屋の中を見回した。壁にもたれるようにして自分が眠っていた。心臓の音が耳の中で鳴っているように感じるほどの恐怖だった。奴は自分なのだろうか。勝手に大学に行き、訳のわからないことをして自分のこれまで、そしてこれからの存在を傷つけるのではないだろうか。

その時、彼は奴が大学1年生の時のことを思い出した。奴は流行病にかかって1週間ほど高熱が続いた。大量の汗を流しながら寝る奴を、奴の下から見ていた。ちょうど1週間ほど経った頃。彼の熱は下がり、何事もなかったように動き回ることができた。しかし、それまでの記憶。生まれてからの生活などの彼のアイデンティティを形成する記憶は断片的にしかなく、あるのは記憶というよりも過去に覚えようとして身につけた知識のみだった。そのため記憶がなくてもなんとか大学生活を送れた。医者も原因は分からなかった。ただ、新型の感染症のため脳に記憶障害が発生したのだろうとのことだった。

奴は最初から奴だったのだ。

彼は一時的な存在でしかなかったのだ。

奴は大学に入学してから3年生の夏までの記憶はないが、奴はこれから彼として生きなければならなかった。


どうだい?面白い話だろう。君も寝汗くらいかいたことあるだろう。ところで君は生まれた時から君なのかい?私はどうかって?大学に入学してからゼミが決まるまでの記憶がなかったのは大変だったよ。1年間の休学で済んだのは幸運だった。今もこうして教授として働いていられるからね。


2人の医師が並んでいる。

君、この病室に来るのは初めてかな?

年配の方の医師がもう1人に問いかけた。

彼は毎日1人であの演説をするんだよ。自分を大学教授だと思っているんだ。

今後関わることになるだろうから、よく見ておいた方がいいよ。

あれを治せたら精神科医としていい結果につながるだろう。

この精神病院で働く仲間として応援しているよ。

そう言うと2人は部屋を出た。

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