猫の手を借りた

西坂

書類の山が…

社労士事務所で事務として働く山根は、積もり積もった申告書類の処理に苦戦していた。


事務所に入って間もないうえ、書類に不備があってはいけないので、慎重に作業していたのが苦戦の原因だ。


自分の不慣れな仕事ぶりのせいで、この事務所の代表で社労士の寺内に迷惑をかけているのは心苦しかった。


山根をはじめ、事務員全員が四苦八苦していると、いつの間にか外は真っ暗になっていた。


もう太陽は退社していたのか。


お疲れ様と、山根が心のなかで囁いたとき、寺内がデスクチェアからさっと立ち上がった。


「皆、お疲れ。今日はもう帰っていいよ」


やっと帰れる…とは思わなかった。


まだまだ仕事は残っている。


いくら代表の命でも、それは忍びない。


「すいません、まだ処理しないといけない書類がたくさんあって…」


申し訳なく山根がそう言うと、寺内は大丈夫、大丈夫と山根を諌めた。


「仕事は置いておいて大丈夫だから。それに今日は華金だろ。どっか寄り道して美味いもんでも食べてこいよ」


寺内さん…。


なんて良い代表だろう。


その日は皆お言葉に甘えて事務所を後にした。


月曜日、先週の金曜日に置いていった仕事が待っていると考えると、通勤が憂鬱で仕方がなかった。


けれども出社するとそんな憂鬱さが吹き飛んだ。


山積みだった申告書類がデスクに一枚も残っていなかったのだ。


山根のデスクだけではない。


事務員全員のデスクから書類の山がなくなっていたのだ。


皆がどういうことだと顔を見合わせていると、おはようと寺内が事務所のドアを開けた。


山根は寺内にこの状況について尋ねた。


寺内はフっと笑みを浮かべた。


「すごいだろう。実はこの土日のうちにだな…」


「まさか一人で…」


いや…と寺内は首を横に振る。


「猫の手でも借りたとでも言っておこうかな」


寺内はそれ以上何も言わなかった。


仕事が終わっていたのに越したことはないが、事務員の皆は、どうやってあの膨大な数の申請書類を処理したのか気になって仕方がなかった。


結局この日はやる仕事もなく、早めに帰る者や事務所で資格の勉強をしたりと、それぞれ思い思いに過ごした。


仕事らしい仕事をしたのは、寺内が提出し忘れた申請書類を郵便局に出しに行った山根ぐらいだった。


提出期限まで余裕はあったが、できることは早いうちにしようと、山根自ら郵便局に行くと申し出た。


郵便局の受付で書類の入った封筒を渡して送料を払おうとしたとき、受付係の女性が、くしゅんと小さなくしゃみをした。


女性はそれを皮切りに何度かくしゃみを連発した。


大丈夫ですかと山根が声をかけると、受付係の女性は大丈夫と応えたが、再びくしゃみを連発したため、さすがに心配になった。


「本当に大丈夫ですか。もしかして花粉症か鼻炎持ちですか」


鼻をすすりながら女性が応える。


「いえ、花粉症ではないですし、鼻炎持ちでもないんです。強いて言うなら、猫アレルギーがあるぐらいです…へ…くしゅん…!」


猫は近くにいないのに変ですね…と女性は苦笑いした。


山根も返すように小さな笑みを浮かべた。


(まさかね…)


山根は鼻の下を掻くふりをして、封筒を持っていた手の指先を嗅いでみた。


飼っていたことがあるからわかる。


その臭いは猫特有の獣臭さだった。


もしかして本当に猫の手を借りたのかな。

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