メガネのこ

松原凛

メガネのこ

 メガネっ娘はもう何十年も前に消滅してしまった。

 一部の界隈にはまだかろうじて残っている。特定のキャラクターを真似て実際には必要のないメガネをかける、養殖のメガネっ娘だ。しかし、天然のメガネっ娘は別だ。そうそう出会えるものじゃない。

 たいていの視力の問題は治療をすれば正常値まで治せてしまう。弱視を持って生まれてきた子供はみんな、物心つく前に治療を受けて裸眼でも問題なく生活できるようになる。

 メガネは存在価値を失い、過去の産物になった。メガネをかけた女の子、いわゆるメガネっ娘は二次元作品のキャラクターか、もしくはメガネっ娘という概念でしかない。ツチノコみたいなものだ。

 しかしメガネっ娘を愛する者はまだ存在する。僕もその一人だ。彼女たちがメガネをかけながら過ごす日常の中でふとそれを外した姿は普段垣間見ることのできない非日常を感じさせ、それは素顔を晒す非日常であるのと同時に本来の素顔としての日常でもありそこにこそメガネっ娘の最大の魅力が……

「おい兄ちゃん、ひどい顔色だが大丈夫か?」

 麦わら帽子をかぶった男の人が声をかけてくる。眩しくて顔はよく見えない。

「ああ……はい……」

 全然大丈夫じゃなかった。

 かれこれ二時間近く船に揺られているが、到着はまだ通そうだった。メガネっ娘の魅力を誰にでもなく語ることで迫りくる吐き気から逃れようと試みたけれど、そろそろ限界が近そうだった。

 座り込んで雲ひとつない空を眺めていると、ようやく揺れが止まった。

 ほかの乗客に続いて船を降りる。ほとんどが観光客だ。都会の騒がしい景色から離れ、海に囲まれた小さな島のゆったりとした空気を吸いに来た人たち。

「いいところだなあ」

「ほんとうに。夢みたいな場所ね」

 観光客らしい夫婦が気持ちよさそうに目を細めている。僕はそれどころじゃなかった。

「お兄ちゃん?」

 ふいに声が降ってきた。海の色と同じような、透き通った声だった。

「え……? お兄……?」

 思いもよらない呼びかけに戸惑う。僕に妹はいない。いたらいいなと思ったことはあるけれど。

 訂正しようと顔を上げたとき、僕は目を見張った。

 船酔いなんて一瞬にして海の彼方に飛んでいくほどの衝撃だった。

 メガネっ娘が立っていたのだ。目の前で、僕をじっと見下ろしている。

 肩までの髪、前髪をピンで留め、メガネは赤い縁どりで分厚いレンズ。襟つきの白いワンピースが風でふわりと揺れた。

 僕にはわかる。これは養殖ではない。正真正銘、天然のメガネっ娘だ。

「め、メガ……メガ……」

「目が……?」

 彼女は不思議そうに両手で目を覆った。それはたぶん違うメガネの人だ。

「おい海荷。お前の兄ちゃんはこっちだろうが」

 いつの間にか背後に立っていた男の人が、呆れたように言った。

 振り向くと、さっき船で声をかけてきた麦わら帽子の人だった。

「お兄ちゃん!」

 彼女がメガネの奥の目を輝かせた。

「たく、実の兄をいきなり間違えるんじゃねえよ」

「じゃあ、あなたは観光の人ですか?」

 海荷さんが僕に尋ねた。一人でこの島に来る若者が珍しいのだろう。

「いえ、僕、これからしばらくこの島でお世話になる、小芝綾世といいます」

「ああ!小芝さんの息子さん!」

 思いいたることがあったようで、海荷さんはぽんと手を打った。

「いえ、息子じゃなくて、孫です」

「あっ!そうですよね。すみません」

 見た目だけじゃなく仕草までどことなく漫画っぽい人だった。

「そのメガネ、すごくいいですね」

 つい本音が出てしまった。

「あ、珍しいですよね、メガネ」

 海荷さんはメガネの縁に手をかけて、少し照れたように笑った。

「私、生まれつきすごい弱視で、治療でも治せなかったらしいです。だからこんな分厚いメガネしかなくて……」

 これ以上メガネの話をしていたら平常心が砕け散りそうだったので話を戻した。

「ええと、うちのおばあちゃんとお知り合いですか?」

「小芝のおばあちゃん、よく知ってますよ。うちのおばあちゃんと同級生なんです」

「へえ」

「この狭い島じゃみんな知り合いみたいなもんだからな。またすぐに顔合わせるだろ」

 と彼は麦わら帽子をとってなんだか意味ありげなことを言った。

 柄のついたシャツに細身のパンツ。歳は二十代前半くらいだろうか。兄妹というだけあって、顔立ちがよく似ていた。

「俺は日下港一。地元だが、今日こっちに戻ってきた」

 港一さんが海荷さんに目を向けた。

「妹の日下海荷です。よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げて海荷さんが言った。

 その拍子に、少しずれたメガネを直して、恥ずかしそうに笑った。


 祖母がテーブルに皿を並べる。

「お腹空いたでしょ。いっぱい食べなさいね」

 港の市場で働いている祖母は、髪は短く、七十歳を過ぎてもよく日に焼けていてつやつやと顔が光っている。

「おいしい」

 ようやく船酔いから回復した僕は、皿に並んだ海の幸を口いっぱいに頬張った。

「いい食べっぷりだ」

 祖母は満足そうに目を細めて言った。

 父の地元であるこの島に来たのは、小学生のとき以来だった。たまに電話で話すことはあったが、会うのは十年ぶりだった。

 突然連絡してやって来た僕に、祖母は詮索するようなことはしなかった。その代わり、人手がほしいからあるところに手伝いに行ってほしいという。

「そういえば、明日から行くところっておばあちゃんの市場?」

「いや。そういえばまだ言ってなかったね。あんたが明日から行くのはここ」

 祖母が地図を書いた紙を手渡す。

 そこには『日下書店』と書いてあった。


 島の風景は、僕が住んでいる街とは何もかもが違った。

 高層ビルも広い道路もない。細い道をたまに車やトラックがのんびりと通り過ぎていく。コンビニですら中心の市街に行かないとないという。うっかり未知の世界に迷い込んでしまったような気分だった。

 地図を見ながら、二階建ての建物にたどり着いた。扉の上の看板に、色褪せた赤い字で『日下書店』と書いてある。

 手動のガラス扉を開けると、そこは確かに書店だった。壁いっぱいに備えつけられた本棚に、本がぎっしりと並べられている。

「おお、来たか」

 港一さんが奥から顔を覗かせた。

「さっそくだが、俺は仕事があるんで後頼むわ。バイト代はちゃんと出すから」

「えっ、いやいや頼むって言われても……何を?」

「何をって店番だろう、そりゃ」

 何を馬鹿なことをと言いたげな目で見られる。

「客が来たら適当に対応して、わからなかったら呼んでくれ」

 それだけ言って、また奥に引っ込んでしまった。

 そのとき、階段を下りる音がした。

「綾世くん?」

 ひょっこりと顔を出したのは絶滅を危惧されていた天然のメガネっ娘、海荷さんだった。今日も赤縁のメガネが素敵だ。

「おおおはおはようございます」

 どもりながら挨拶をした。

「おはようございます。改めて、今日からよろしくお願いします」

 海荷さんはにっこり微笑んでお辞儀をした。兄とは大違いの慎ましさだった。

 海荷さんは丁寧にレジ打ちや本の整理などやり方を教えてくれた。

「ここ、なんというか、不思議な匂いがしますね」

「不思議な匂い?」

 海荷さんがキョトンとする。

「知らない匂いなのに、懐かしいというか」

「ああ、たぶん、古本の匂いだと思います」

「古本?」

「うち、古本屋なので。観光に来た人がよく珍しそうに見て行くんです」

 僕が住んでいる街に古本屋という店はなかった。古本はネットで買うものだと思っていた僕は、色褪せた表紙の本が堂々と店で売られていることに驚いた。

「古本には、前に読んだ人やその人の生活の匂いが染み込んでるんです。自分の家だから慣れちゃってるけど、私はこの匂いがすごく好きです」

 嬉しそうに語る海荷さんに、僕は思わず見惚れてしまった。

 お客さんはぽつぽつとやって来た。本を買いに来る人もいれば、売りに来る人もいた。物珍しそうに店内を見回して本を選んで買っていく観光客。

「私はこの島からほとんど出ることがありません。だから島の外のことを何も知らないんです」

 海荷さんは恥ずかしそうにそう言って、メガネの縁に指をかけた。癖なのだろうか。その仕草にいちいち、目を奪われる。

 海荷さんは僕と同じ高校一年生だった。だけどなんとなく、お互い敬語でよそよそしい感じだった。

 僕が前にこの島に来たのは十年前、小学校にあがって間もない頃だ。あのときは、祖父の葬式だった。ほとんど会ったこともない、よく知らないおじいさんが病気で亡くなったという認識しかなかった。船酔いすることもなく、初めて乗る船にはしゃいでいた小学生の僕。

 小学生の、やっぱりメガネをかけていたのだろう小さな海荷さんを同時にこっそり思い浮かべた。

「来ます」

 海荷さんがふいに顔をあげて言った。

「へ?」

 何事かと思ったとたん、勢いよく扉が開いた。小学生の少年三人が飛び込んできた。

「海荷ー。漫画ちょうだい!」

「新しいやつある?」

「売り物なので買ってください。新しく入った漫画ならそこにありますよ」

 海荷さんは漫画コーナーに移動して漫画をいくつか手にとった。少年たちがお宝を見つけたみたいに飛びつく。

 少年たちは百円の漫画を一冊ずつ買っていき、来たときと同じように勢いよく飛び出していった。

 ……小学生が相手でも敬語なんだな。

「本の配置は今日中に覚えてくださいね、綾世くん」

 海荷さんはメガネに手をかけて、ピントを合わせるように少し持ち上げて言った。


 この島に来て一週間が経った。

「こちら日下書店です!」

 電話をとって、相手が目の前にいるかのように笑顔で受け答えをする海荷さん。

 備えつけられた固定電話というのも、僕にとっては古い映像の中でしか見たことがない珍しいものだった。

 この島ではそういう過去の産物がたくさん見かける。波止場の小さな船や木造住宅。固定電話やメモ帳。古本屋。干物や惣菜が並ぶ商店街。それからメガネをかけた女の子。

「この島はずっと昔から変わらないんです。観光に来る人たちは、日常から離れた非日常を見にここに来るんです。だから私は、古臭くてもここの生活を守っていきたいんです」

 僕と同じ十六歳の女の子とは思えない言葉だった。

 きっと海荷さんは、ずっとこの島にいるのだろう。

 夏休みが終わって僕が日常に戻っても、大人になってもずっと……そんな気がした。

 夏休みは長いようで短い。いつまでもここにいられないのはわかっている。

 そんな焦りから、つい、欲を出してしまった。

「あの、海荷さん」

 僕は思いきって言った。

「はいなんでしょう?」

「よかったら、連絡先、教えてもらえませんか」

 海荷さんは驚いたように僕を見た。まるで意味がわからないことを言われたみたいに、数秒間止まっていた。

「あ、連絡先ですね。ないと不便ですよね」

 そう言って、レジの横に置いてあるメモ帳を一枚破き、サラサラと番号を書いた。

『日下書店』の番号だった。

「あの、できればスマホの番号を……」

「ごめんなさい。持ってないんです」

 即答だった。


 畳に寝転んで、メモ帳に書かれた番号を眺めながらため息を吐く。

 浅はかだった。一週間、ほとんど毎日あの店で隣にいたから、距離が近くなったように錯覚してしまった。スマホを持っていないなんて、どう考えても断るための言い訳だろう。

 連絡先を交換できたとして、僕は何を言おうとしたのだろう。お疲れさま、とか、明日もよろしくお願いします、とか、ありきたりな言葉しか思い浮かばなかった。

「あんた、いつまでいるつもりかね」

 市場から帰ってきた祖母が、僕を見下ろして言った。

「何があったか知らないけど、ちゃんと話はしなさいよ」

「……うん」

 ぽそりとつぶやいて、店の番号が書かれた紙をポケットにしまった。


 翌朝十時に店の扉を開けると、誰もいなかった。

「おはようございます」

 と言うと、奥の部屋からのっそりと気だるそうな港一さんが出てきた。

「海荷なら買い出しだよ」

 と半分しか開いていない目で言われた。本当にこの人何の仕事してるんだろう。

「お前、あいつになんか言っただろ」

「え」

「どうせ連絡先聞いて断られたとかそんなとこだろ」

「……海荷さんから聞いたんですか」

「全部聞こえてたからな」

「ぐうっ……!」

「あいつは携帯持ってないよ」

 港一さんは面倒臭そうにそう言って、じゃ、と言うとまた奥に引っ込んだ。

 それを言うために出てきたのか。

 というか、断る口実じゃなかったんだ。

 扉が開いて、ちょっと飛び上がってしまった。

「あっ、綾世さん。おはようございます」

 海荷さんがいつもみたいに笑って言った。

 僕は単純だ。スイッチで動くロボットみたいに。嬉しくて尻尾を振り回す犬みたいに。

「おはようございます……海荷さん」

 嬉しいと、自然と顔が緩んでにやけてしまう。

「今日は船が来る日ですね」

 と本を並べながら海荷さんが声を弾ませた。

 観光用の船は三日に一回、この島と本土を行き来する。

『日下書店』に通うようになって、本を眺めるお客さんの表情を見るのが楽しみになっていた。大人も子供も、みんな楽しそうに選んでいく。お客さんと接するときの海荷さんの表情も、楽しそうだ。

「来ます」

 海荷さんが来客の気配を察知して、素早く扉に目を向けた。

 入ってきた三人を見て、僕は唖然とした。

「な、なんでここにいるんだ」

 思わず後ずさりする。

「なんでって、お前が言ったんだろう」

 一人が放ったその言葉で全てを理解した僕は顔を覆った。

 そうだ、初めて海荷さんに会った日の夜、僕は興奮のあまり、つい趣味を同じくする同志たちとのチャットで洩らしてしまったのだ。

『メガネっ娘がいた!』と。

「おお……本当にいるぞ……」

「絶滅したと言われていたメガネっ娘が……」

「しかも書店員とはなんと神々しい……」

 三人はご尊顔を前にしたように手を合わせて拝んでいる。

「綾世くんのお友達ですか?」

「ええ、まあ……」

 できれば他人のふりをしたかったが、無理があるので苦々しくうなずいた。

 大、中、小と背の順で並べられる三人は、見た目を名で体現するごとく、大田、中沢、小村、という名前だ。ちなみに僕は小芝で、背の順でいえば一番前だった。

 学校はバラバラだが、みな同い年。ネットで繋がったメガネを愛する同志だった。ちなみに本人たちは誰もメガネをかけていない。

「メガネっ……いや、海荷さん」

 大田がグループ代表と言わんばかりに前に出て、まっすぐに海荷さんを見据えた。

「メガネが曇ってよく見えない……って言ってください!」

 最低だった。

 ほかの二人も負けじと続く。

「ブタ野郎って言ってください!」

「不愉快ですって言ってください!」

 なんで罵られる側寄りなんだ。そして元ネタが全部わかってしまう自分が哀しい。

 三人はこれから島を回る予定らしく、また後で来ると言い残して去っていった。もう来なくていいと思った。

「楽しい人たちですね」

 海荷さんが笑う。

「そういえば、綾世くんが欲しいものってなんですか?」

「えっ?」

「あ……さっき大田さんたちが言ってたから、ちょっと気になって」

「いや、大したものじゃないです。漫画とか、アニメのグッズとか」

「ほんとに好きなんですね」

「小さいときから漫画ばっか読んでたから」

 本当に欲しいものは、物ではないのだけれど。

「でも、最近、小説も読んでみようかなと思ってます。おもしろそうな本がたくさんあるから」

 そうつけ足すと、海荷さんは目を大きくした。

「はい!いっぱい読んでください」

 海荷さんはどんな本を読むんだろう。

 今度、おすすめを聞いてみようと思った。


 その夜は店の裏でバーベキューをした。芝生の庭に煙と肉が焼ける匂いがのぼる。

 海荷さんと港一さん、大中小の三人と僕。

 薄々気づいていたけれど、ここに住んでいるのは海荷さんと港一さんの二人だけだった。両親は早くに事故で他界していて、おばあさんは先月自転車で転んで骨折し、いまは市街の病院にいるという。

「おい中沢、肉が焦げてるぞ」

「はいお兄さん!」

「お兄さんはやめてくれ。気色悪い」

 港一さんはそう言いつつ、慕われてまんざらでもなさそうだった。

 中沢がせっせと肉を焼き、大田が焼けたそばからとっていく。小村は港一さんが飲んでいたビールをお茶と間違えて一口飲んでしまい倒れて寝てしまった。

 紺色の空にくっきりとした大きな月が浮かんでいる。

「あの、迷惑じゃなかったですか」

 騒がしい友人たちを眺めながら、隣に立つ海荷さんに言った。

「全然。色んな人に会えて嬉しいです」

 と海荷さんは首を振る。

「できるだけたくさんの人に会っておきたいんです。まだ、私の目が見えているうちに」

 え、と僕は海荷さんの顔を見た。その横顔は変わらず微笑んだままだった。

「それって……」

 それはいつか、見えなくなるということだろうか。

「月、きれいですね」

 海荷さんは僕の問いを遮るようにそう言った。

 はい。

 その一言が、言えなかった。

 それ以上、踏み込んではいけない気がした。


 三日後、夏休みを満喫しきった顔で友人たちが帰っていった。

 海荷さんはいつも通りだった。いつも通り店に出て、接客し、僕と他愛のない話をした。

『まだ、私の目が見えているうちに』

 きっと、その日は来てしまうのだろう。海荷さんの寂しそうな横顔が、そう遠くない未来のことだと物語っていた。

 僕にできることはあるだろうか。考えても、何一つ思いつかなかった。

 メガネをかけた女の子に憧れを抱いていた。彼女たちは漫画やアニメでしか見ることのできない架空の存在だった。アイドルよりももっとずっと遠くにいる、天使か何かのように思っていた。

 けれど海荷さんは、アイドルでも天使でもなかった。海荷さんは海荷さんでしかない。メガネが好きでメガネをかけているわけじゃない。

 それなのに僕は、

『そのメガネ、すごくいいですね』

 会っていきなり、そんなことを言ってしまった。

 どうしようもない馬鹿だった。メガネっ娘に幻想を抱いていた昨日までの自分を殴りたい。

「綾世くん。この本、近所のおばあちゃんが読みたがってたから届けてきますね」

 海荷さんが本を手に立ち上がった。

「えっ、それなら僕が……」

「大丈夫です。すぐ近くですから」

 やんわりと、近づくことを拒否された気がした。

『だから私は、古臭くてもここの生活を守っていきたいんです』

 本当に同じ年なんだろうかと驚いた。

 ときどき覚えた小さな違和感。

 ハッとした。まさか。

「港一さん」

 僕は奥の部屋にいる港一さんに言った。

 港一さんはパソコンで何か作業をしていて、僕の声で顔を上げた。

「よう、茶でも飲むか?」

 どうせ全部聞いていて、わかっているんだろう。

 最初からこの人は全部知っていて、黙っていたんだ。

「どうして言わなかったんですか。海荷さんの目のこと」

「聞かれなかったからだ」

 港一さんは当然のように言った。

 初めて会ったとき、船から降りた僕に、海荷さんは

『お兄ちゃん?』

 と言った。

 僕の後ろにいた港一さんにじゃない。あのとき彼女はたしかに、僕に向かって、そう言ったのだった。

 僕と港一さんは、背丈も顔も、全然違うのに。

 港一さんは間違えられたことに文句を言いつつ、当然のように受け流していた。知っていたからだ。

「海荷さんの目はもう、見えてないんですよね」

 そうだ。あれが僕に向けられた言葉だったとしたら、そう考えるのが自然だった。

「ああ」

 港一さんがうなずいた。今度は、茶化さなかった。

「メガネがあれば少しは見えるみたいだが、もうほとんど意味がない。あと数ヶ月もしたら完全に失明するらしい」

「そんな……」

 半年前にそう宣告され、しばらくは落ち込んで外に出られなくなっていたそうだ。そんなとき、二人のおばあさんが足を怪我して入院した。店は閉める予定だった。真っ先に反対したのは、海荷さんだった。

 色んな人に会って、話したい。見ていたい。

 まだ、少しでも目が見えているうちに。

 それで仕事がある港一さんの代わりに、僕がバイトに雇われたというわけだった。店番と、海荷さんの見守り役として。

 少しもそんな素振りを見せなかった。ほとんど機能していない目で、そうと気づかせずに、誰とでも笑顔で接していた海荷さん。

 僕は一体何を見ていたのだろう。

「海荷さん……遅くないですか」

 気づいた瞬間、血の気が引いた。

 店を飛び出して海荷さんの姿を探した。どこにもいなかった。もし事故にでも遭って、このまま二度と会えなくなったら。

 そんなことにはならない。させない、絶対に。

 汗だくになって走り回り、ようやくその姿を見つけた。

 堤防の向こう、波打ち際に海荷さんが立っていた。

「海荷さん!」

 届いてほしかった。僕のことが見えていなくても、声は届くはずだった。

 駆け寄って、海荷さんの手を掴んだ。白く細い手が、小さく震える。

「怖いんです」

 見えなくなるのが、ずっと怖かった、と海荷さんは言った。

「小さい頃からずっと、私はメガネでした。メガネをかけてるだけで、私は私じゃなくメガネの子として見られてきました。同じ子はどこにもいませんでした。でも、それでもよかったんです。メガネがあれば、見えたから。だけどメガネをかけててもだんだん見えなくなって、何もかもがぼやけて形を失っていって、自分がどこにいるのかわからなくなりました」

「僕がここにいます」

 僕は海荷さんの手を強く握りしめて言った。

「港一さんも、島の人たちも、みんな海荷さんの近くにいます。だから、一人じゃないです」

 海荷さんは、何かが折れたようにくしゃりと砂浜に座り込んだ。


 帰る前、僕は海荷さんを花火大会に誘った。

 断られるかと不安だったけれど、はい、と海荷さんは笑ってうなずいてくれた。

 花火を見たのは初めてだった。人工的なものばかりが溢れる僕の住む街には海もなく、安全性を重視して花火ができるのはごく限られた広い場所だけだった。

 息を吸い込むような音とともに夜空に一筋の光が伸びてゆき、ドン、と心臓を打つ音がして大きな火花が打ち上がった。

「いろんな色が見えます。すごく、きれいです」

 と海荷さんは空を見上げて言った。

 見えているものをそのまま言葉にして乗せることができる海荷さんは、とても美しかった。

 メガネの奥の瞳から、一筋の涙が静かにこぼれて、花火と一緒に落ちていった。


 僕は家に帰り、僕は夏休みの残りのほとんどを仲間たちと過ごした。

 狭い部屋に四人集まって、コツコツと緻密な作業に励む。

 もともとフィギュア作りを目的として集まった仲間だった。秋に開催されるフィギュアのコンテストに向けて、四人で協力して汗水垂らして作業に励んでいる。

 両親は僕たちがしていることを「無駄なこと」だと言った。そんなことをしても何にもならないと。

 それが家出の理由だった。飛び出したものの、頼れる場所はなかった。ただ一人、十年前に会った祖母のほかには。

 僕の熱意が伝わったのか、それとも諦めたのか、僕が帰ってから両親は何も言わなくなった。もしかしたら祖母が助け舟を出してくれたのかもしれない。

 バイト代を注ぎ込んで材料を買い込み、夏休みの終わり、ついにフィギュアが完成した。

 肩までの黒髪に、赤い縁のメガネをかけている。少し海荷さんに似ている。

 いつか海荷さんのフィギュアを作ってみたいと思ったけれど、それはたぶん実現しないだろう。

 実在する人物を細部まで想像するのはとてもできそうになかった。そして絶対引かれる自信がある。

 それに海荷さんはやっぱり漫画やアニメのキャラクターではなく、海荷さんだから。


 夏、僕は船で島に向かっていた。相変わらず地獄のような二時間だったが、その先には天国が待っている。

 海荷さんと港一さんが出迎えてくれた。

「よう、相変わらずちっこいな」

 港一さんの憎まれ口も相変わらずだった。

「お久しぶりです。綾世さん」

 海荷さんが笑って言った。

 晴れやかな笑顔が一年前と変わっていなくてホッとした。

 港一さんは仕事があるからあとよろしく、と言い残して帰っていった。ちなみに港一さんの職業は小説家だった。小説に疎い僕でも知っている名前で驚いた。

 海荷さんと二人で浜辺を歩く。貝殻が砂浜にひしめき合い、歩くたびに小さく割れる音がする。ほかに聞こえるのは、緩やかに寄せる波の音だけだった。

「メガネ、かけてるんですね」

 意外だった。役割を終えたメガネは、もうとっくに外されているものと思っていたから。

「メガネは私と世界を繋いでくれる、お守りみたいなものですから」

 と海荷さんは笑って言った。

 それに、とメガネの縁に手をかけて続ける。

「これがあれば、綾世くんが私をすぐに見つけてくれるから」

 メガネがなくたってすぐに見つけます、と言いたかったけれど、それを口にできるほど勇敢な僕ではなかった。

『僕がここにいます』

 よくあんな恥ずかしいことを言えたものだと苦笑する。

 ゆっくりでいいと思った。

 この夏の目標は、今度はちゃんと、海荷さんと手を繋いで歩くことだ。





























































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メガネのこ 松原凛 @tomopopn

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