女将の名は。
赤根好古
第1話
青木が、電車運転士として、泊りの乗務を終え、一日の疲れを癒すための自分へのご褒美にと、一杯の酒を。そしてその店には、青木の憧れの女性が店番を。
その店は、駅から歩いて1、2分のところにあって、いつも賑わっているのだが、常連客がほとんど。で、一見さんは入りづらい。
店の中はコの字になっていて、その中央に女将がひとり。主におでんが売れるのだが、その出しで作った出し巻きが、また旨い。
朝から賑やかだ。店は10時半に開店し、それを待っていたかのように、客が続々と。
立ち呑みなので、ダークダックス、つまり客が斜めに構えると10人は入れる。今日も朝から6人が、もう一杯を呑み始めている。
店の近くには、電車の車庫があるので、泊りの仕事を終えてから、この店で一杯引っかけて帰るひとも。
そこへ、後輩4人を引き連れ、店に入ってくるなり青木が
「おはよう。女将、ビール3本と出し巻き5つ」
「あいよ」
「青木さん、昨日はたいへんでしたね」
「そうや、ろくに寝てないわ」
それを聞いた女将が、青木に
「なにか、あったの」
「昨日、人身事故があって」
「何処で」
「福島」
田渕が
「青木さんは、その影響をもろに受けて」
青木が
「運用変更といって、人身事故の影響で乗務員が廻らなくなって、休憩もできずにひらすら乗務」
「どれくらい?」
「4、5時間くらいかな」
「お疲れ様。ビール2本サービスするわ」
「ありがとう。やっぱり女将は、ええひとや」
女将が
「今頃、気付いたの」
と言うと、青木の仲間が大爆笑。
女将の年齢は、40に届くか届かないといったところか。客に聞かれても、絶対に年齢は言わない。スリムな身体で胸はないが、お尻が大きく安産形。顔は人並みだけど、瞳がとても大きい。そして髪は短く、男のように
7.3に分けている。
一方、青木は電車運転士をしていて、40歳で独身。身長は175㎝で中肉中背。目が細く、決して男前とはいえない。高校時代、バスケット部だったから鉄道会社に入社して、バスケット部を創設し、その監督をしていて、人望はあつい。そして、密かに女将に恋心を抱いている。けれど、ひとりでは店には行く事が出来ない性格なので、いつもバスケット部の仲間を引き連れて。
カウンターの反対側で、チビチビと酒を呑んでいる立花という老齢の男性客が
「青木君」
「あっ、おはようございます」
「4、5時間も乗務していてお疲れ様。ところでそんな時、トイレはどうするの」
「指令に無線飛ばして、そして行くんです。それも乗務員専用のトイレのあるところで」
「たいへんやなぁ。俺なんか自由業やから、いつでもトイレに行けるもんな」
女将が、すかさず
「それをいうなら、無職って言うんでしょ」
「そうとも言う」
お客さんは又も大爆笑だ。
同じく常連の、頭の禿げた友井という男性客が
「昨日は、寝れたの」
「はい、2時間ほど」
「2時間で非番は、たいへんやな」
青木が
「よくご存知で」
「当たり前や。しょっちゅう、ここに来る度に、あんたらの話しを聞いてるから。誰でもわかってくるわ」
女将が青木に
「たいへんな仕事をしてるのね。改めてお疲れ様」
青木は女将に、心のこもった挨拶をされて、照れっぱなしだ。その姿を、いつも青木について店に来ている田渕が心の中で
(女将は、青木さんの恋心をわかってくれてるんやろか)
友井が
「何で、睡眠時間が2時間になるの?素朴な疑問やけど」
青木のグラスに、ビールを注いでいた田渕が
「それがですね。青木さんは昨日、梅田泊りだったんですけど、その駅に人身事故の影響で、2時間遅れて着いたとしたらですね、明くる日のその駅の始発となると、運転士は青木さんしかいないので、結局いつもの所定時刻に起床して、車庫まで帰らなければならないという訳です」
青木が
「俺が説明しようと思ってたの、全部田渕に言われてしもた」
そこで、また大爆笑に。そんな青木を、女将はじっと見つめていて、ため息をついた。実は女将も青木のことが気になって、仕方がないのだ。女将の調理場と、青木を始め、酒を呑んでいる連中との間は、カウンターを挟んでらずか50㎝ほどだけなんだが、そのわずかな距離が近くて遠い。
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