ストックホルム症候群

茅原水脈(かやはらみお)

第一章 遭遇

第1話 事件の始まり

 十九時二十分、部活終わりで疲れ果てた私は、最寄りのバス停から重たい足取りで自宅へと向かう。

 低気圧による頭痛のせいでうつむきがちに歩いていると、泥で汚れたローファーが目に入った。硬いアスファルトの上に、いくつもの水たまりがある。暗いせいで色味がよくわからず、どことなく濁った表面がぬらりと光って見えた。そのまま地面を眺めていると、何かが引きずられたような跡がついているのが見えた。何となく不審に感じ顔を上げると、妙なシルエットがあった。立っている人物と、座り込んでいるように見える人物。立っている人物の手元には何かがきらめいていた。小さく上げた悲鳴に気がついてか、立っている人物は振り返り、その顔がぼんやりと見えた。

 目があった。その瞬間、その人物は長い髪を振り乱しながら暗闇の中にかけていった。

 置き去りにされた人物はピクリとも動かない。おそるおそる近づいて確認すると、腹部にはナイフが直角に突き立てられていた。震えた手でスマートフォンを取り出す。何度も落としそうになりながら必死に百十番を押す。ようやく電話がつながった時、私はうわずった声で伝えた。

「人が、殺されています……」


 その後、警察や消防が来て大きな騒ぎとなり、私も聴取やら検証やらしたと思うが、あまり記憶はない。人が殺害された現場を目撃し、その記憶を何度も反すうさせられたことで、なかなかにショックも疲れも大きかった。その後は普通の生活に戻らされたが、ひと月がたった今でもいまだにあの日のことを夢に見てしまう。学校のカウンセラーに相談すると、精神科の受診を勧められたが、両親に反対された。学生にそんな暇はない、と。

 両親は優しいけれど、そんな風に厳しく、少し前時代的なところがあった。また、共働きで両親とも多忙で、兄弟もいない私は昔から家で一人の時間を過ごすことも多かった。まあ、そんなに手をかけられて育った方ではないと思う。今回の件についても、心配してほしいとか、手をかけてほしいとか、そういうことは思わないが、私が傷ついているという事実を少しくらい受け入れてくれてもいいじゃないか、とは感じた。

 そんな私の様子に何かしら感じ取ったのか、友人の真由香はたいそう心配してくれた。真由香は小学校からの友人で、高校に入った今でも気の置けない唯一の友人だった。彼女には私が見たものについて詳しく話していないが、それでも無理に聞き出したりせず、いたわってくれた。

「律、相変わらず元気ないね。今日は私のうちでゆっくり休みなよ。愚痴なら聞くからさ」

 そんな言葉に甘え、放課後、真由香の家に遊びにいった。ゲームをしたりお菓子を食べたりして、ひと通り満足し、部屋でまどろんでいると、唐突に真由香が奇妙な話を切り出した。

「ねぇ、うちの学校の生徒が援交してるって話題になってたの知ってる?」

真由香は吹奏楽部の友人や先輩からこんな変なうわさを仕入れてくることがたまにあった。

「知らないけど、話題になるほどのことかな」

「それがさ、ホテルに入るところを盗撮された生徒がいたらしいの。いじめで不登校になった子らしくて、盗撮写真が生徒の間で拡散されてることからも、いじめの一環で無理やりやらされてるんじゃないかって。お金とかとられたりさ」

「ふーん、怖いね」

あまり興味がなかったのでスマホをいじっていると、真由香が写真を送信してきた。

「それ見て」

タップして開くと、ショート動画投稿サイトのスクリーンショットだった。非常に荒い画像だが、治安の悪そうな夜の繁華街で、二つの人影——おそらく若い女性と、貧相な身なりの男性——が会話しているように見える。

「これが、その現場らしい」

「うーん……でもこれ、画質が悪すぎてそもそも映ってる人が誰かよくわかんない」

すると、今度は真由香がURLを送信してきた。

「そのアカウント見て」

開いてみると、うさんくさい出会い系サイトだった。黒髪で眼鏡をかけた女子のブレた写真がアイコンに使われている。

「名前……霧崎、あか、子? 中二病くさいニックネームだね。へぇ、電話番号も載せられてるじゃん」

プロフィールの説明文には卑猥な罵倒語が混じっている。確かに、誰かが嫌がらせ目的で作ったようだ。不快感で顔をしかめると、真由香はこう付け足した。

「“べに子”ね。変わってるけど本名らしいよ。これがいじめで作られたアカウントのひとつなんだって」

「へー……で、さっきからこんな悪趣味なもの見せてきて、何がしたいのさ」

真由香はにやりと笑ってこちらを見る。

「この人、すごく美人なんだよ。律、そういうの好きでしよ? でね、うちの学年のさらに悪趣味なやつが真相を確かめるために救出作戦するんだって。ほら、物見高い律さんも混ぜてもらいなさい」

「なんだ。そんなことで釣られないけど……というか、本当に無理やり援交させられてる人がいるなら、さっさと通報したほうが——」

真由香がスマホを私の眼前に突き出してきた。画面全体に、証明写真かなにかが大きくが映し出されている。

「どうだ! 正直ここまでの美女だとは思わなかっただろう」

どうやらこれが先程の人物らしい。少し顔を引いてよく見てみると、なるほと整った顔をしていた。

「確かに、美人だけど……」

私はどことなくこの顔に見覚えがある気がした。そして、思い出した——あの街灯の光で薄暗く見えた殺人犯の顔ではないか、と。しかし、見覚えがあるだけで具体的にどこが似てるとは言えず、そもそも犯人の顔は一瞬しか見ていないため、さすがにこの人物が犯人であると言い切ることはできなかった。

「美人だけど、なに?」

真由香は不思議そうな顔で問いかけたが、適当にごまかすよりほかになかった。

「いや、なんでもない」

なんとなく気持ちが悪かった。とりあえずは気のせいということにしたが、直感的に、言葉にできない顔全体の雰囲気というか、印象が同じだと思った。

 かすかな疑念を抱きながら、私は翌日も平静を装って登校し過ごしていた。しかし、実際は頭の中に「うちの学校の生徒が人殺しかもしれない」という恐ろしい考えが駆け巡っていた。気分が優れず、部活を休んでまだ明るいうちに家路をたどる。事件からしばらく登校ルート変更し少し遠いバス停から帰っていたが、とにかく今はだるくて、最短ルートである以前の通学路を使った。バス停を降り、あの道を通りかかる。そしてすぐに後悔した。今にも物陰から殺人鬼が飛び出してくるのではないかと不安でしかたなかったのだ。

 一週間ほどたった頃、真由香を経由して頼み込み、例のおせっかい救出団の調査に同行させてもらうことになった。もし何かしら真由香に見せられた写真の女の子についての情報を得られて、犯人ではないと確信できたらすっきりすると思ったからだ。といっても、活動内容は盗撮画像が撮られた場所の周辺を歩き回るだけというもの。当然、画像の彼女を見かけることはなかった。しかも、救出団の一人が言うには、いじめられていたのは彼女が高一の時だけで、その時に不登校になって以来、三年の今まで学校の生徒にはほとんど姿を見せていないらしい。したがって、すでに退学か転学している可能性が高そうだ。つまり、いじめが発生したり、アカウントが作られたのはもう二年も前の話だということだ。しかし、例の盗撮についてはつい最近広まったものらしく、比較的新しいものである可能性も否めない。今の彼女の姿を、はっきりと見ることができたら……疑念が晴れるかもしれない。

 その夜、私は真由香にメッセージを送っていた。

『ほとんど情報なかった。がっかり』

『まあまあ、そこまで執着する案件でもないし。気軽にやればいいでしょ』

『実はさ……』

と打ち込みかけて、私は思いとどまった。あやふやな記憶のまま、他人にあらぬ疑いをかけることは避けたかった。

 それ以降、私は努めてそんな事件のことを忘れようとしていた。下校時にも、変にルートを変更するのをやめて、堂々とあの道を通り、平穏な日常を再確認する方がよいと思った。そして、夏休みを経て、三カ月がたった今では、私はほとんど完全に事件のことなど頭になかった。

 文化祭に向けて、わが美術部はポスター制作に外装の計画と、大忙しであった。私たち高一には美術部の宣伝ポスターの仕事が任されている。クラスの出し物にばかりに精を出して、部活に来てくれない同輩を尻目に、私は一人で黙々とポスターのデザイン案を準備していた。ようやっと納得できる形にできあがった時には、あたりは薄暗くなり始めていた。

 寝不足がたたり、明瞭さに欠けた思考を巡らせながら、家路に着く。今日はうちに親がいない。今から料理を作るのもおっくうなので、コンビニで何か買って行こうかと思う。バスを降りて、コンビニのある大通りを目指す。夜は交通量が多く、横断歩道をいくつも渡るのは嫌だった。少し遠回りして、裏路地から歩道橋を目指すことにする。シャッター街の隙間を縫うように路地に入った。

 その時だった。何者かが後ろから私のカバンのひもをつかんだ。そのまま背中側に引っ張られ、悲鳴を上げる前に口をふさがれる。私は手足をバタつかせ、必死に逃れようとした。激しく揺れる視界に、一瞬だけ人物の顔を捉えた。その表情を見て、直感的にわかった。あの時の殺人鬼だと。このままでは殺されると思い、必死に抵抗した。ふさがれた口をこじ開けて、相手の手のひらをかもうとしたり、相手の胴体を狙うつもりで、肘を背中側に向かってやたらと振ったりした。気がつくと、首元にナイフが当てられていた。ついぞ、それ以上の抵抗はしようがなかった。

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