檸檬の花が開く時
殿下は相当変わっている➀
檸檬の蕾は、太陽の下でゆっくりとその花弁が開く時を待っている。
――――――――
「トニカ、君との婚約は破棄するっ」
その言葉は、既に彼の口癖となっていたもので、私も慣れた調子でやはり口癖のように言い返した。
「何度も申し上げておりますが、殿下お一人で破棄できるものではありませんわよ」
そんなやりとりは、私が彼と婚約した十八の頃から繰り返されていた。
初めて出会った時に言われた理由が「イブリンと共にここで一生を過ごすから」だった。
そして、最後に言われた理由が二年程前「イブリンの爪を勝手に切ったから」である。
はじめは、ほんの小さな十三歳の子どもだった殿下も、十七歳になられたからなのか、少し落ち着いてこられたようにも感じる。しかし、殿下はいつまでも白猫イブリンに首ったけなのには、変わりない。
いつまで経っても、私は殿下の二番目にもならない。
檸檬の木の下でお茶を侍女と共に飲んでいた私は、その視線を自分の膝にする。
殿下の愛情を独り占めする唯一の存在が、気持ち良さそうに眠っていた。白く柔く、温かい。甘えるような声を出し、膝にぴょんと飛び乗ってくる。そんな姿を見ていると、イブリンにとっての二番目になったのかもしれないとは、自然に思えた。
確かに、イブリンに勝てる気はしない。
別にこのままでも良い気がする。
私の居場所がここにあれば、それで。
ただ、殿下の愛猫であるイブリンの爪を、私が勝手に切って以来、その言葉は発せられていないのは確かだった。
おそらく、フィン殿下が婚約破棄を言わなくなった理由は、最後の『婚約破棄』から半年後の出来事が関係しているのだろう。
イブリンを抱えたフィン殿下が『婚約破棄』以外の言葉を第一声、私に向けたのだ。
「……イブリンの爪を切って欲しいのだ」
沈むような声がして、見つめた先にはその声色と同じく、暗いお顔の殿下が、イブリンを抱えて立っていた。
そして、どうしてそうなったのかは、彼の手の甲を見て察した。
「どうされたのですか?……その、急に」
「……トニカは、以前イブリンの爪を切っただろう?」
その明確な答えはなかったが、情報通の私の侍女であるナターシャに理由は見られていた。
正妃の御子である弟君ロン殿下と妹君であるメルバ殿下がイブリンを追いかけるのだそうだ。もちろん、十歳と八歳の二人はそれを遊びだと思っていたのだろうが、いつ自由なイブリンが彼らに爪を立てるか分からない。
だから、第一王子といえど、側妃の御子であった殿下はイブリンの爪を綺麗に切ったことのある私に頼みに来たのだ。
ともあれ、殿下の頼み事である。私に断る理由はない。
ただ、それはそんなに簡単ことではないのだ。私は以前イブリンの爪を切った時のことを思い出しながらも、侍女のナターシャにそのことを伝えると案の定、きっぱりと断られた。
「お嬢様、私は嫌ですよ」
「今度は私も手伝うから」
ナターシャがむすっとして付け足した。
「今度はお嬢様が切ってください。私がお手伝いの方です」
イブリンは爪切りをとても嫌がるのだ。桃色の肉球を押すと爪はぴゅっと出てくるが、切ろうとすると顔を手に近づけ、噛みつきにくる。
だから、ナターシャも私も何度も噛まれたし、引っ掻かれもした。それよりも、イブリンがするすると逃げてしまう。
どうしたらイブリンを怖がらせずに爪を切られるのか、厩の者にも尋ねたり、猫の習性が書かれた本も読んだりもした。
もしかしたら、このままイブリンにまで嫌われてしまうのではないか、と心配もしたが、イブリンが相変わらず私の膝を気に入り、私と一緒に日向ぼっこをしてくれることに変わりもなかった。
それだけが救いの日々。
「大人しくお爪を切らせて欲しいわ……」
溜息とともに言葉を零しながら、膝の上にいる彼女の手先にそっと触れる。こんな時は全く警戒せずに、イブリンは気持ちよさそうに私を見上げ、まるで「切れるものなら、切ってみなさいな」と余裕の笑みを浮かべて見えるのだ。
嫌われていない理由。それは単に彼女の食事運びを続けていたことかもしれない。ご飯係として、大事な人間だと思われていたのかもしれない。
とにかく、爪を切ってあげないとイブリンも殿下も護れない。
そんな風には思っていたけれど。
まさか、引きこもりがちのあの殿下の誘いを受けるとは思わなかった。
爪を切り始めて一年半。やっと爪切りもなんとか出来るようになってきた、この頃。
一週間前のことだった。
「トニカに付き合って欲しいところがある」
と伝えられたのだ。
「ナターシャ……いったいどういうことなのでしょう?」
侍女のナターシャに髪を梳かされながら、尋ねた。
「どうなさったのです? そろそろ婚約破棄を受け入れる気になられました?」
「いいえ」
ナターシャの忍び笑いが聞こえる。
「なによ」
「いいえ、お嬢様は小さい頃から頑固だったなと思い出しただけでございます」
年齢としては七つほど上のナターシャが年長者ぶってみせる。そうなると私には敵わない。だから、鏡に映る自分を見つめた。
一緒に出掛けることになった。
ただ、どうしましょう、という言葉が頭を巡る。
殿下は十七歳を迎えられ、私はかろうじてなんとか二十一歳。
……私はいったいどの立ち位置にいればいいのだろう?
「心配いりませんよ。トニカ様は美人と言うよりもかわいらしい顔立ちでございます。フィン殿下と並ばれてもそれほど年の差など感じられません」
なんとなく遠回しに美人を否定されたのだけど、ナターシャに悪気がないことは知っている。それに王妃様に比べれば、私なんてつくづく平凡なつくりなのだから、別に……うん、気にしない。
そして、思った。フィン殿下のお母さまはどんな方だったのだろうと。
国王様のお目に止まったのだから、お綺麗な方だったのだろうけれど。
雰囲気がイブリンなのであれば、気品のあるお方だったのだろうな、とは思うけれど。
「でもね、ナターシャ……やっぱり、ナターシャのお洋服を借りて歩いた方が……」
侍女として歩いた方が、格好が付くのではないだろうか。そう思えてならない。
私とフィン殿下は一応婚約中ではある。私が王族のマナーを学ぶために、ここに入ったのが四年前。そして、四年間同じ敷地内にいるにも拘わらず、二人の関係性は、何も変わっていない。
進むはずがないのだ。
殿下はイブリンさえいれば幸せなのだし。私もここにいるだけで、充分なのだから。
さらに殿下は何度も私に「婚約破棄だ」と言い放ってきたお方でもある。一般的な婚約者として歩いてもいいのだろうか?
「できましたよ」
ナターシャの満足そうな声に、もう一度自分を見つめると、白い小花の髪飾りがサイドにきらきらと光っていた。
「お若く見せたいのであれば、もう少し華美なものにしても良いと思いますけれど、トニカ様は目立つのがお嫌いでしょう?」
「目立ちたくありませんし、別に若く見せたいわけでもありません。それに、この髪飾りも本当は充分に分不相応のものですもの」
小さな作りではあるが、この髪飾りは婚約の記念だとして国王様が下さったものである。それに目立って良いことはない。
幼い頃、四つ上の兄の解けない問題を解いてしまった時も。
父が頭を悩ませていたので、領民の声を伝えた時も。
言うことを聞かない馬を乗りこなした時も。
兄嫁のつわりが酷いからと食べやすいものをと、レシピを用意して厨房に伝えた時も。
妹二人の嫁ぎ先にある心配事を伝えた時も。
みんな褒めてくれた。
でも、その後からなんとなく距離を感じるようになるのだ。母など、私のことをどこか怖がるようになっていた。
父は私が十八になって王家との縁談を結ぶことになり、少し私を認めたところはあったようだが、兄は今も事あるごとに対抗心を燃やしてくる。
「心配いりませんよ。トニカ様は胸を張って婚約者として歩かれればよろしいのです」
ナターシャのその言葉を聞いて、私はそっとその髪飾りに触れた。
檸檬の花を模したもの。フィン殿下が生まれた記念に植樹された木と同じもの。
その花言葉は「誠実な愛」と「思慮分別」
私に求められているものは、「思慮分別」の方だ、きっと。目立ってはいけない。
国王様は頭を垂れたままの私にその髪飾りを差し出し、こう仰った。
「損な役回りを押しつけていることは重々承知している。だから、婚約期間中、君がどうしても付き合いきれないと思えば、いつでも伝えるようにしておくれ」
本当なら小さな領地の領主の一娘に、さらには国王直々に掛けられるような言葉ではない。
この縁だって、父の遠縁が王家と繋がりがあって、ふと湧いてきたようなものだったのだから、余程頭を悩ませていらっしゃったのだろう。
国王様は父の爵位を二つも上げて、私との婚約を進めたのだから。
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