例えばこんな婚約破棄、許されますか?

深月風花

例えばこんな婚約破棄、許されますか?


「トニカ、君との婚約は破棄するっ」

 もう、数え切れないくらい言い渡された、何度目かの婚約破棄宣言。だから、私は落ち着いてティーカップを下ろす。

 白いカップがソーサーに戻されると、紅いお茶の中に木漏れ日が映り込み、お茶を輝かせた。木漏れ日を作り出すのは檸檬の木だ。彼が生まれた日に植樹されたという記念樹の下には、彼の母親が好んで使ったテーブルと椅子がある。

「何度も申し上げておりますが、殿下お一人で破棄できるものではありませんわよ」

 できるだけ静かに、気持ちを穏やかに抑えながら視線をあげると、真っ赤な顔をしたフィン殿下が、その顔色に違わず憤慨していた。もちろんその腕の中には、イブリン嬢が当たり前のようにあり、殿下をうっとりと見上げていた。表情豊かに瞳の色を変える、そんなイブリン嬢に殿下は首ったけなのだ。ずっと。

 

 一応、この王国の第一王子でありながら、とても微妙な立ち位置にいらっしゃる、少し可哀想なお方。

 私の第一印象はまずそれだった。

「だが、しかし、君はいつもイブリンを怖がらせるではないかっ」

 御年十五歳。その五つ上の私は、その答えにも落ち着いて答える余裕もあった。

「イブリン嬢を怖がらせてしまったのは、お詫びしますが、そのお爪は殿下を傷つけてしまうのではと、心配したのです」

 イブリン嬢の爪はとても長く、その爪にさわるだけで誰かを引っ掻いてしまいそうだったのだ。だから、侍女に伝えた。「イブリン嬢のお爪を切って差し上げて」と。


「イブリンにとって爪はとても大切なものなのだっ。それを……私に無断で……」

「そうですわね。であれば、殿下がお手入れをしてあげてくださいませ」

 私はもちろん、フィン殿下にそのようなことが出来るとは思っていない。イブリン嬢が怒らずとも、「やめて」とかわいく声を出せば、彼が動けなくなることくらい分かりきっているのだ。


「う……イブリン…トニカは酷い女だ」

 その声にイブリンが殿下に顔を近づけ、その愛らしい声で彼を慰めた。

「やはり、私にはイブリンしかいないのだ……」

 敗北を受け入れた殿下がイブリンを連れて、とぼとぼと去って行ってしまった。


 確かに、酷いのかもしれないのだけれど。

 私の方がイブリン嬢よりも後からやってきたのも確かなのだけれど。

 彼女と同列に並べられる私の立場も考えて欲しいと思う。


 おそらく、こじらせてしまったのは、やはり殿下の生い立ちに関係があるのだろう。


 フィン殿下は待ち望まれたお子だった。ただし、正妃のお子ではなく、側妃のお子。子に恵まれなかった正妃に代わり、側室として迎え入れられたのが、フィン殿下の母君だった。もちろん、フィン殿下が生まれた時点で、身分は第二正妃と昇格されていたが、第二とはいったい何なのだろう……。まぁ、ここは国王が法律の国でもあるので、一応正妃ではあったのだろう。


 しかし、彼の幸運は生まれてわずか五年で破綻した。

 本来の正妃が身ごもったのだ。

 そして、男児が生まれた。さらに追い打ちを掛けるように、その翌々年には、姫まで授かり、国王はその姫君に夢中になったという。

 そして、その五年後に生みの親である第二正妃が身罷られたのだ。彼が十歳の頃の話だ。

 もちろん、第一子として大切に育てられていたのは、国王様とお妃様を見ていてもよく分かる。だから、きっと、私に白羽の矢が立ったのだろう、と思うのだけれど。


 先に妹二人の嫁ぎ先が決まり、このまま適齢期を過ぎてしまいそうだった私なら、逃げないだろうくらいの優しさだとは思う。


 私としては、いくら将来明るくない第一王子であろうとも、それで良かった。兄よりも頭が良いと幼い頃からちやほや言われ続けたせいで、その兄との関係もあまりよくなかったということもあり、手際の悪い兄嫁のいる実家よりは居心地が良かったのだ。


 彼との縁談が突然舞い込んだのは私が十八歳、彼が十三歳の頃だった。

 ちょうど、彼の母が亡くなって三年経った頃。両陛下が途方に暮れ果てた時だった。

 しかし、彼の傍には、その母と入れ替わるようにしてやってきたイブリンが既にいて、殿下は彼女にしか興味を持たず、誰にも心を開かなくなっていた。


「トニカ様。国王様も破棄を受け入れても良いと仰ってくださっておりますよ」

 私の国から一緒にやってきた侍女は私を心配しながら、紅いお茶を注ぐ。檸檬の花の香りが鼻腔をくすぐり、ほっと気持ちがほぐれた。

「大丈夫よ。でも、面白いものね、ああいった形ではありますが、部屋の外に出て私と話をされるようになりましたもの」

 それでもあの家にいるよりはまし。

 その言葉を呑み込んで、「太陽の下に出てくるということは、殿下のためになりますわね」と、彼との出会いを思い出す。


 彼は部屋に閉じこもったままこう言い放った。

「君との婚約はなしだ。婚約は破棄するっ」

「殿下、それはお一人でお決めになることではありませんわ」

「でも、私は、イブリンと共に一生をここで過ごすのだ」


 親としては傍に誰かを付けておきたいと思ったのだろう。

 そして事あるごとに話しかける私に、彼は同じ言葉を放つようになった。

 理由はさまざま並べられた。


 おかしかったのは、「婚約破棄とは、ビシッと指さし宣言するものだと書いてあった」と部屋から出てきてわざわざ言い放った時だった。


「どちらに?」

 笑いを堪えて、冷静に尋ねると、庶民の本だと言っていた。学び舎を卒業する時に宣言すると、叶うのだそうだ。

「殿下は、学び舎で学ばれたのですか?」

「いや、王族専属の家庭教師だ……」

「だったら、無効ですわね」



 そして、お茶を飲み終わった夕刻の今、私はその彼の部屋の扉の前に懲りずに立っていた。


「殿下、イブリン嬢にお食事を持って参りましたわ」

「分かった……」

 部屋の中から猫の声が聞こえた。

 扉が開かれる。部屋の奥にいるイブリンが目を輝かせていた。

 まさか、そのイブリンが毎回の食事を運ぶ私に懐いて、殿下をあの檸檬の木の下にいる私の元に連れてきているとは、思いもしていないのだろう。


 雪のように白い毛皮を纏う、高貴なイブリン。

 その瞳はブルー。

 彼の母によく似た色だと聞いている。


 だから、殿下。私はまだこんな婚約破棄など認める気にはなれないのです。



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