第1話 イルとの出会い
マコトとジンの魔力修練を繰り返す傍らの日常で、ソフィアの買い物に付き合い市場に同行するマコトは、ある露天商の前で今にも殴り合いが勃発しそうな言い争いの場面に遭遇する。
少し遅れて、イルという女の子がまだ遠い位置からそんな騒ぎに気付き、その場を収めようと輪に近付いていく。この界隈で言い争いが起こるのはいつものことで、元はなんてこともない些細な話だったのが、誤解が拗れてまた新しい誤解を呼ぶことが多く、おそらく今回も他愛ない意見の食い違いから無用な争いへと発展しているのだから、それを丁寧に
輪に近付きながら、いつものように当事者たちの状況を見定めていくイル。一番大声を上げて激昂している露天商の現地人の若めの青年と、その付近に弟達なのか、赤ん坊を抱き抱える男の子。相対しているのは、買い物に通りがかったらしい、友人家族と連れ立っての金髪白人の中年女性とその娘らしきお淑やかそうな女の子、そしてその子が手に持つリードで繋がれた大きめの犬が1匹。その周囲には、状況を窺い様子を心配する者や、面白がって野次を飛ばす者などの輪が形成されていた。
犬によって、幼き我が弟が襲われる構図に憤る露天商の店主が、その犬の飼い主にがなり立てたことを発端に、その後はほぼ一方的に店主が罵声を浴びせかけている状況とイルは捉えた。まだ犬の飼い主側は冷静さを保てているように見えるが、今にも手が出そうな露天商だから、急いで仲裁する必要があると認識するイル。ただ、発端となった犬自体は、今は尻尾を振っておとなしい様子に見えるから、やはり何か誤解が生じていることを確信していた。そして、いつものように話の中核に入り込み、お互いの状況を引き出すことから始まる……のだが、フッとイルが進む少し前を横切るように割って入る幼い女の子の姿が目に入った。と思ったら、そのままその女の子は声を発する。
「お兄さん! 何をそんなに怒っているの?」
「なんだ、お前は。関係ないだろ、危ないから引っ込んでな」
「危ないって、ふふっ、お兄さん優しいんだね」
「や、優しい? ななな、なにがだ?」
「この状況、怒る必要なんて何もないし、怒ってたら見えるものも見えてこないよ?」
幼い女の子の意表を突く言葉に、一瞬で気持ちの刺々しさと勢いを削がれた店主だった。ふと声の発する方向に視線を向けると、声の主は黒髪のポニーテールで可愛らしい顔付きの幼い女の子だった。発した声もよく通る可愛らしいものだったから余計だが、振り上げた気持ちの行き場を失いそうなことに気付いて、自身を取り戻そうとする店主。
「な、何を言ってる。弟が犬に襲われ泣いてるんだ。ここで怒らないでどうするんだ?」
「うーんと、お兄さんは襲われている瞬間を見たの?」
「い、いやその瞬間は見てないが、視界の端で大きく吠えて小さな弟に襲いかかったのが見えたんだぞ? そのせいで泣かされてるんだ。そうだどこか噛まれたんだろ? って、あれ?」
声を張り上げていた店主をよそに、犬は尻尾を振りながら、泣く男の子の頬を舐め、赤ん坊はその姿を見てキャッキャと笑っている。男の子もいつの間にか泣き止み、それどころかすっかり男の子は気持ちが打ち解けて、笑い出す始末だった。
「ね? ワンちゃんは襲ってなんかないよ?」
「え? どういうことだ?」
抱いていた認識と現状との違いに心が揺れ惑う露天商の店主。
リードを握っていた女の子は状況の変化に付いていけず狼狽えていただけだった。犬の吠える声の大きさにびっくりし、さらに犬の突進で思いっきりリードを引っ張られて体勢を崩し、露天商の罵声に気圧されたためすっかり萎縮している状況だったから、赤ちゃんに向かって突進していった犬は、露天商の
「え? どういうこと? そういえば、あれ? 赤ちゃんがズレ落ちそうだった?」
犬のリードを握る女の子のそんな呟きを黒髪の幼い女の子は聞き逃さず、状況を振り返れる表情と判断したのか、そんな飼い主の女の子から証言を引き出せるよう、笑みを携え言を振る。
「赤ちゃんを助けてくれてたんだよ? ね? お姉さん?」
飼い主の女の子もまだ小学生くらいで十分幼いが、今声を掛けているさらに小さな幼い子からすれば、すっかり上のお姉さんだ。店主の張り上げる声にまんまと萎縮していたが、自分よりも幼い女の子が場を和ませた上に、ヒントめいた言葉から埋もれかけた記憶の映像がまざまざと蘇る。それにお姉さんと呼ばれたからには、と気持ちを奮い立たせて説明を切り出す。
「そそそ、そうよ。赤ちゃんが危ないってうちの犬が気付いて、助けようと向かったんだよ」
露天商には想像もしなかった状況説明だったが、そうなら今の状況にも説明が着くことに気付く。しかし、まだ合点のいかない部分を声にする。
「そうなのか? いや、でも大きな声で吠えれば……襲っているようにしか見え……」
自分がびっくりして大事な商品を粗相するほどに大きな声で吠えた犬がどうやら弟たちに襲い掛かる情景に結びついているようだった。黒髪の幼い女の子は被せ気味に別の解釈を呈する。
「それ、危ないって知らせたんだと思うよ?」
「えっ」
と、それを聞いた飼い主の女の子は少し驚くが、更なる納得と、そう考えるとうまく解釈できていなかった映像の記憶の欠片がつぎつぎとハマって連鎖していく感覚で、急速に鮮明さを増しながら記憶は蘇っていく。そんな脳内劇場では、光の残滓がハラハラと降りかかり、素敵なエフェクトのかかった演出まで巻き起こす、飼い犬のお手柄めいた記憶映像の状況が確立すると、興奮気味に語り始める。
「あ、ああ、そそそそうよ! お兄さんが怖かったから言い出せなかったけど、ウチの犬、ジョエルは賢いのよ。子どもを襲うなんてことはあるはずないわ」
言い掛かりを付けられ罵声を浴びせられていた少女の親たちは、成り行きを窺いつつも、娘が説明を開始したことで、再び沈黙を守りながら、聞き手に回る。そうして、飼い主の少女は記憶の断片を時系列に繋ぎながら、ことの成り行きを語り始める。その要約はこうだ。
赤ん坊を抱える男の子がうつらうつらと居眠りし、ふと抱える男の子が落ちそうになるところを、通りがかったこの家族の犬が気付いて、注意を促そうと吠え、それでも落ちかけるため、そんな急場に駆け込み、赤ん坊は犬の背中のクッションで優しく受け止められる。びっくりした男の子は慌てて赤ん坊を拾い上げ、抱き直すも、大きめの犬が怖いと感じて泣き出す。一方、大きな犬が急に動き出したため、急にリードが引かれてバランスを崩してしりもちをつく少女。咄嗟の出来事でぽかーんとしながら、泣き出す男の子を見ていた。
片や、吠える犬に驚き、泣き出す我が弟に気を取られたため、調理中の商品を地面に落としてダメにしてしまう露天商の青年。自身の商品をダメにした原因が子どもの泣き声を聞いて動揺させられたことと、さらにはそんな我が弟に襲いかかる大きな犬、という構図に見えればこそ、一瞬で血が猛り狂った露天商には、その犬の行動も凶行にしか見えなかったようだ。
「そんなわけで、
飼い主の女の子は言えることを全部吐き出すと、残る余韻と誇らしげな感情からか、顎を僅かに突き出した姿勢、『うちの犬もその飼い主の私もすごいでしょ?』な顔付きで鼻息を少しだけ荒くしていた。
「ワンちゃんカッコいい。お姉さんもよく見てたね?」
「ふふん。そうでしょ? でもあなたのおかげが大きいね。ありがとう」
「ううん。何もしてないよ」
互いを認め合う会話の飼い主の女の子と黒髪の幼い女の子。
そんなやり取りをしている間に、頭の整理が着いた露天商だが、自身は被害者、身内へと襲い掛かる凶行に対する憤りと、同時にぶちまけた商品の損失への怒りとで膨れ上がった感情だったから、今更引っ込めるのもいささか恥ずかしい思いで軽く八つ当たる言葉を小声で返す。
「な、なんでそれを早く言わないんだ」
しかし、黒髪の幼い女の子はズバッと切り捨てる。
「お兄さんが馬鹿デカい声を張り上げるからだよ?」
「そうなのか? もしかして一番悪いのはオレなのか?」
飼い主の少女の説明で、事態を認識する店主だが、発しかけた感情の行き場を急遽失い、どう振る舞って良いかも定まらず、この黒髪の幼い女の子を向き、確認の念を押すと頷き返す黒髪の幼い女の子。
「うん。周りの人は皆気圧されるからね。でも地声なら多少は仕方ないかな?」
「そうか……」
「うん!」
その小気味よい可愛らしい反応に気持ちの置き所が定まる店主。ひとまず謝るつもりになってはいるが、それ以外をどうしたら良いかがわからないでいた。そこへ成り行きを見届けていたイルが助け舟を出すかのように声をかける。
「お兄さん、お困りのようね?」
「お、イルちゃん来てたのか。いたのなら早く声を掛けてくれよ」
「あぁ、ごめんなさい。私が何かをするまでもなく、そちらの黒髪の幼い女の子が本質的な要点は全部突いてくれたみたいだから、私も聞き手に回ってたの。ところでまずは謝罪ね」
「おお、そうだな。それなんだが……」
店主はどうしてよいかわからない風で、イルの助け舟を期待する素振りだ。そこからは、イルに
「じゃあ、あとはお詫びの品も必要ね。もちろん言葉が重要だけど、やっぱり被害を受けた側には言葉以上のものも必要よね」
一折りの謝罪の形が為せたことを見届けると、続けて迷惑を掛けてしまった部分を気持ち良く収めるための形のあるお詫び、いわゆる誠意を尽くす必要性を耳元で説くイル。
「そうなのか。わかった。だが、オレは金品などのめぼしいものは、何ひとつ持ち合わせていないがどうしたらいい?」
「ばかね。あくまで気持ちなの。ホントに気持ち程度のものでいいのよ。だからお兄さんが商品として売っているものでいいから、お土産程度に包んで渡すの」
「そんなものでいいのか?」
「いいのよ。あくまで気持ちよ? これだけでも何かを渡すことになるから形として整うわね。それに、食べ物なら誰にだって、ちょっとしたおトク感が感じられてちょうどいいのよ」
「わかった」
店主は手早くお店の商品でもある食材を整え、お土産風の包みとして準備すると、軽いお詫びの言葉を添えて、手渡し見送った。言い掛かりを受けた家族だったが、その表情はすっかりおトク感で満たされ、気持ちよく去って行ったようだ。
「イルちゃん、ありがとう、助かったよ」
「いえ、穏やかに終われて良かったですね?」
「ほんと、あのままキれてたらとんでもないことになってたよ。それと黒髪のお嬢ちゃん? 君が指摘してくれたから状況がスッと頭に入ってきたよ。犬の飼い主の女の子があのあと説明を繰り広げてくれたけど、たぶん最初は見えていなかったっぽいからな。君もよく見ていたね。無事にことが済んだのは君のおかげなのが大きいと思う。ありがとう」
「そうそう、ホントよね? 私も途中から見ていたけど、本質的なところはすぐには掴めなかったもの。あなた凄いのね? お年とお名前は?」
露天商とイルは無事を喜ぶと、話の焦点は黒髪の女の子に移る。
「いや、あはは、たまたまです。目と耳がいいから、遠くから見えてたし聞こえてたので。それに動物が危険かどうかもなんとなくわかるから怖がる必要ないのにって。えっとマコトといいます。マコと呼んでください。今はまだ5歳だけど、来年小学校に入る予定です」
「マコちゃんというのか、オレはサム。いや最近の5歳児は凄いんだな? こんなにしっかりとした子は初めて会ったよ。イルちゃんも規格外だと思っていたけど、今は皆こうなのか?」
「いやサムさん、普通はこんなに喋れたりしないものよ? マコちゃん、初めまして、私はイル、7歳で小学生よ。よく見るとマコちゃん、とても可愛らしくて抱きしめたくなるし、とても賢そうに見えるからお友達になりたいな。あ、というか、さっき動物が危険かどうかがわかるって言わなかった? どういうことなの?」
出会った初日ながら、イルはマコトをとても気に入ったようだ。
「ああ、なんでかな、動物が怒っているときはその周りに棘棘しさを感じるの。さっきの犬はそんなのが全くなくてむしろ優しい気持ちに溢れているようにしか見えなかったの。あぁ、お友達ね。マコもなりたい。イルって呼んでいい?」
「ん、いいよ。うーん、棘棘しさかぁ、よくはわからないけどマコちゃんにはとても興味が湧いたわ。マコちゃんは年下になるけど、そうは思えない物腰だから、対等でいたいな。それにすっごく可愛らしいから、私はマコちゃんって呼ぶね?」
「うん、わかった。よろしくね? イル」
それからイルとマコトは意気投合する。たくさんの話題はどれも楽しいものばかりで、時間が経つのも忘れて話し込んだ。帰る方向が同じだったことから、マコトは買い物途中の母、ソフィアに友達と帰ることを告げ、イルと一緒にのんびり歩きながらの帰路につく。
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