第25話 僕、覚悟を決めたみたいです
スタジオに戻り、午後の仕事を始めようというところでドアをノックする音。
「失礼します」
入って来たのは典子さんだった。
「鈴さん、少々お時間よろしいでしょうか」
「あっ、はい。ええと――」
「こっちはセッティングとかあるから大丈夫よ。用事済ませておいで」
誰に聞こうか迷う間もなく実奈さんが言ってくれる。
「すみません。それじゃ少し離れます。典子さん、お待たせしました」
「いえ。必要な書類をお持ちしましたので内容をご確認いただいて署名をいただけますか。こちらの机をお借りしましょう。ペンはお持ちしましたので」
「はい」
典子さんに促されるまま近くの机に座る。渡されたのは契約書や就業規則だ。福江さんの会社だからおかしな契約などないだろうが一応一通り目を通す。
気になったところがあれば今のうちに聞いておくべきだろう。
「ええと、勤務時間が1日8時間、週5日以下で変則というのは?」
「基本はほかの社員と同様の時間にしていますが、モデルとしての仕事ですと撮影が無い場合もありその場合は、他の部署でお手伝いいただくこともありますがそれも無い場合はお休みいただく事もあります。少々変則的な勤務時間になるかと思いますがご容赦ください」
「はい。手の空いているときは雑用でもなんでもおっしゃってくださいね」
「いえ、鈴さんにはモデルを中心に広報活動をしていただきたいと社長がおっしゃっていましたので、雑用をしていただくことは無いと思います。まだ具体的な活動が詰められていませんのでしばらくはお休みが増えてしまいますが、そのうち忙しくなることと思いますので今のうちに会社に慣れていただければと」
「わ、わかりました。善処します」
とは言ったものの広報活動なんて今一ピンとこない。その辺は後で福江さんに聞くとして、今は目の前の仕事に集中するしかないだろう。
「えっ、これ正社員契約なんですか」
「ええ。何か不都合がございましたか?」
「いえ、別に不都合なんてありません。その……、こういう勤務形態だと契約社員やパートなのかなと思っただけです」
自分も何度か転職した経験はあるが、最初から正社員で募集しているところはかなり少なく、だいたい資格が必要なものばかりだった。もちろん会社の方針とか地域差も考えられるだろう。もしかしたら社長の夫という立場のコネ入社だからだろうか。
「我が社は基本、正社員しかとっておりません。まだ小さい会社ということもありますが、フリーランスになっている実奈さん、真さん、彩子さんと、まだ学生であるつばささんがアルバイト契約になっている他は正社員しかおりませんよ。つばささんも来年卒業後は正社員となる予定ですし、来年からの募集も正社員だけの予定です」
「そうですか」
自分が特別扱いされていたわけではないと知って少し安心する。別に何が悪いということもないが、なんとなく心苦しく思ってしまうから。
必要書類も大した数はなく滞りなく記入が終わる。
「はい、お疲れ様でした。これで書類の方は問題ありません」
そう言って典子さんが書類をまとめる。そこで思い出したことがあり、ついでとばかりに口にする。
「あ、典子さん。実は、家事とか収納でお聞きしたいことがありまして。後でお時間をいただければと」
一応仕事中なので私的な事を聞くのはどうかとも思ったが、今のうちに要件だけでも伝えておくことにしたのだ。以前なら仕事中に私的な要件を話すのは迷惑かもと勝手に思い込んで、言葉を飲み込んでいたかもしれない。それを自然に話せるようになったのは、福江さんとの生活の中で、積極的に話すことを心掛けた成果と言えるだろう。
今までは言えない事があっても、自分が我慢したり諦めたりすることばかりだった。しかし、結婚した今は福江さんに迷惑をかけないよう、もっと周囲とコミュニケーションを取ろうと決めたのだ。
アラフォーのおじさんが変わろうとするのも今更という感じもあるが、福江さんのおかげで環境が一変した今が考え方を改める良いタイミングだとも思う。
「承りました。連絡先をお教えしますので、いつでも聞いて下さい」
「ありがとうございます。助かります。すみません、仕事中にプライベートなことまで」
典子さんはそのあたりをきっちりしてそうな印象だったのですぐに応じてくれたのは少し以外だった。
「いえ。仕事も含めてこちらから連絡させていただくこともあるかと思いますので、先に連絡先を交換していただければこちらも助かります」
そう言ってスマホを取り出す。こちらもあわててスマホを取り出し、連絡先の交換をすませた。
「撮影の方々とは連絡先の交換されましたか?」
「いえ、まだです」
典子さんに言われるまでそんなことは頭になかった。今までの職場ではせいぜい直接の上司の連絡先を聞くくらいで同僚と連絡先を交換するなんてほとんどなかった。一応数えるくらいはあったが、転職してからは一度も連絡なんて取っていない。
「実奈さん、少しよろしいですか?」
「はーい。どした?」
典子さんが大きな声で呼ぶ。クールな雰囲気の彼女がこんな呼び方をするのは少し――、いやこれも勝手なイメージか。先入観で見てしまうのはよくない。福江さんにも先入観を持っていて実際のギャップに驚いたものだが、勝手な思い込みに捕らわれず、確かめるよう心がけた方が良いだろう。
「せっかくですので鈴さんと連絡先の交換をしておいて下さい。福江さん経由の連絡でもいいですが、直接のほうが手間がないでしょう」
「ああ、そうね。うっかりしてたわ。んじゃ鈴君にみんなの連絡先教えとく」
「お願いします。それでは私はこれで。午後の撮影も頑張ってください」
「はい。ありがとうございました」
スタジオから出ていく典子さんを見送る。
「そんじゃ鈴君、連絡先教えちゃうね」
そう言って実奈さんは彼女自身だけでなく、真さんや彩子さんの連絡先まで教えてくれる。
「ありがとうございます。でも他の方の連絡先まで教えてもらってしまっていいんですか?」
すると実奈さんはパタパタと手を振って言う。
「ああ、いいのいいの。どうせグルチャで一緒に話してんだし。鈴君もグループ入れとくから後でみんなに相互登録しといてもらえばオッケーだから」
「すみません、いろいろと助かります」
「いえいえ。それじゃ、お仕事に戻りましょうか」
「はい、よろしくお願いします」
嬉しそうに笑う実奈さんにお辞儀しながら答えた。
「み、実奈さん、これはちょっと……」
「しっ。撮るからお口閉じて」
触れるほど近い顔、良い香りが鼻腔をくすぐる。
二人一緒に撮影とは言われたが、いくらなんでも近すぎる。
「次は後ろから抱きしめるからそこに座ってカメラの方向いて」
「あっ、はい。いや、あの。真さんこれはいろいろまずいのでは」
いくら仕事とはいえ、彼女の旦那である真さんが見ている前で、男の自分が密着しているのは良くないだろう。ただでさえ、福江さんにスキンシップは控えめにと言われているのだ。罪悪感がすごい。
「鈴君。撮影中だから指示通りにして動かないでね」
真さんは真剣にカメラを構えている。
(そうだよね、仕事なんだから真剣にやらないと……)
「じゃ次のポーズね」
実奈さんがまた僕の手を取りポーズを変える。やはり罪悪感や恥ずかしさはまったく消えないが、それでも気持ちだけはなんとか仕事に集中しようとする。
(気持ちに振り回されてないで、出来るだけのことをしなくちゃ。少しでも福江さんの為になるのなら……)
福江さんのことを考えると少し気持ちが落ち着く。女装することも、モデルとして撮影されることも、実奈さんに密着されることも、どうということはない。
こんなに誰かの事を思うのも、それだけで頑張れる気がするのも初めてだった。今までいろんな物語で見て来たが、実感を持つ日が来るとは。
それから様々なポーズを取りながら実奈さんとの撮影は続いた。
「うん、とても良い出来だと思うけど、ちょっと密着しすぎね」
3時の休憩と同時に入って来た福江さんは撮影した写真を確認しながらそう言った。
「いやいや、明日つばさちゃんが来たら3人で撮るんだし、とりあえず2人で撮ってみるのも雰囲気掴むのに大事でしょ。実際いい感じだし、とりあえずSNSで先に上げるのに使えそうじゃない」
お茶を飲みながら実奈さんが言う。しかし、今朝の揶揄っている雰囲気とは違い真剣だ。やはり自分の仕事には責任を持っているのだろう。
「そうね。とりあえず今日撮影した分も雲居君に渡しておいて」
「わかった。とりあえず今日撮影した分は先に渡しておくけど、この後はどうする?」
福江さんからカメラを受け取りながら真さんが言う。今日の撮影はここまでなのだろうか。定時まではあと2時間ほどある。
「そうねぇ。時間があるようなら、鈴の指導をしてもらえると助かるけど。鈴はどうしたい?」
福江さんと目が合う。ドキリとして思わず持っていた紙コップを両手で握りしめる。
(僕は……。僕に出来ることは……)
「そう、ですね。ご迷惑でなければ、モデルとして必要なこととか、お化粧も教わりたいです」
意を決して言葉を紡いだ。思えば、モデルとして人目に触れることも、普段女装することも、恥ずかしさの根源には自信のなさもあると思うのだ。
胸を張って福江さんの服を着られるようになるには、自分に自信が必要なのだろう。モデルの仕事もその為の布石と考えることも出来る。もしかしたら福江さんはそのつもりでこの仕事を僕に――。いや、単なる思い付きの可能性が高いか。1週間で彼女の行動原理は少し解ってきた。
「ふふ、真面目ね。もちろんお安い御用よ。鈴君を完璧なモデルにしてあげるわ。ね、彩子ちゃん」
不敵に笑う実奈さん。
「ええ。やる気があるみたいだしいくらでも教えてあげるわ。もちろん普段用のお化粧も含めてね」
そう言ってウィンクする彩子さん。
「それは頼もしいわね。真君、暴走しないように見ててちょうだい」
「了解です」
苦笑する真さん。
「ちょっと、もうちょい信用してくれてもいいでしょ」
「信用してるわよ。長い付き合いですものね」
そう言って笑い合う福江さんと実奈さん。気心の知れた和やかな雰囲気だ。自分もいつかこの中に入っていけるだろうか。
お喋りをしているうちにあっという間に休憩は終わる。
「さて、私は戻るわね」
「あっ、福ちゃん。今日終わったら皆でごはん行こ。典子ちゃんも捕まえといて」
「ちょっと、まだ月曜日よ?」
実奈さんの提案に怪訝な顔の福江さん。
「いやいや、そんな遅くまでやるつもりはないから。鈴君のプチ歓迎会ってことで。いいでしょ?」
「そうねぇ、鈴はどう?」
急に話を振られ二人が僕を見てくる。
「ぼ、僕は構いませんよ」
「まぁそれならいいけれど」
「決まりね。それじゃまた後で」
苦笑いの福江さんを満面の笑みで手を振って送り出す実奈さん。スタジオのドアが閉まるとこちらに向き直る。
「おっし、そんじゃみっちり鍛えてあ・げ・る」
「お、お手柔らかにお願いします」
僕は少しだけ自分の発言を後悔した。
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