スズとフク~僕、おじさんなのに可愛いんですか?~

チノミミ

第1話 僕、女装させられるみたいです

 タワーマンションの前に所在なく佇む。地味な色のジャケットは袖が少し余り気味で、ロングパンツは脚のラインが分かるものの美脚というよりは華奢。髪は短く散髪したてで、不安な表情がはっきり見える。


 こうしていると不審者だと思われないか気になり、マンションに人が出入りするたびビクリと反応してしまう。別におかしな出で立ちをしているわけではないから大丈夫だと分っていても、場違い感が拭えない。


 いつもならこんな風に待っている時間はスマホで本でも読んでいる。けれど、今日は新幹線の車内に居る時からさっぱり頭に入ってこなくて諦めた。今はほぼ時計代わりのスマホを確認すると、13時35分。


(まだ5分しか経ってない。すでに帰りたいんだけど。)


 右手に持った1輪の赤いバラを持て余す。それ以外はたぶん普通の見た目のはずだ。昨日、カット専門店じゃない床屋で髪を切ってもらった。服もネットで調べたコーディネートを一式そのまま注文したやつを着ているが、いつも着ているディスカウントストアのやつの4倍くらいはした。まぁ腕時計は完全に予算オーバーで買えなかったし、バッグも新しく買ったとはいえ安物だ。それでもパート勤めの自分なりに精一杯身だしなみを整えたつもりだ。


 しかし、今自分が周りからどう見られているかは分らない。

 昨日の床屋のおじさんには、「学生ですか?」と聞かれた。初めて入った店とはいえ39歳にもなって学生は無いだろうと、内心思ったが、別に相手が悪いわけでは無いので、「もうけっこう歳いってます」と濁して答えるしかなかった。「高校生くらいかと思った」と言われたときは苦笑いしか出なかったが。

 若く見られていいねなんて言う人もいるが、この年で高校生と言われる見た目はさすがに喜べない。少なくとも同年代の女性から相手にされないであろうことは想像に難くなかった。


 もっとも一番堪えたのは、数年前に1度、男子トイレで見知らぬ男性に、「ここ男子トイレですよ?」と言われた事だ。あの時は一瞬何を言っているのか理解できなかったが、「間違えてますよ」と言われて気づいた。どうも自分を女性だと思ったらしい。たしかにその時は上着がユニセックスだった。でも化粧もしてないし他は男物だったのだが。


 今だって、良くて背伸びした格好の少年か、下手をすれば無理に男装した少女と言われても納得する人がいるかもしれないくらいだろう。そんな自分の容姿は嫌いとまではいかないが、自信など欠片も持てなかった。


 もう一度スマホを確認する。時刻は13時40分を過ぎた。


(待ち合わせまであと20分もある。)


 そもそもこんなところにのこのこ来てしまったのが間違いだったのだろうか。


 なぜこんなところにいるのか、思い出してみる。数日前、半年ほど使ってマッチング0だった婚活アプリに、初めてマッチングした女性が現れたのが始まりだった。


 そもそも婚活を始めたのもただの思いつき。


 現状、前の職場をパワハラで辞めて、また働こうと思えるまで1年かかり、その後なんとかパートの仕事について2年程経っている。それで、収入は激減したのだが、多少心に余裕ができたせいで、結婚願望というのが芽生えてしまったのである。


 それから婚活アプリを使い始めてはみたものの、収入のせいか、顔のせいか、ともかくまったく相手が居なかったため、課金が切れたら諦めようと思っていたのだ。


 それがどういうわけか一人マッチングした女性が現れたのである。これを逃したら2度と結婚出来ないんじゃないかと、とりあえず当たり障りの無い挨拶と[メッセージのやり取りをしたい]とメッセージを送ったものの、数分後送られてきた返信は予想外であった。


[あなた、本当に私の夫になるつもりがある?]


 結婚出来れば相手は誰でもいいなんて、いい加減な気持ちを見抜かれたようでドキリとした。


 それでもこれを逃すわけには行かないと、[もちろんあります。]とすぐ返した。そしてさらに返ってきた返事には、次の日曜に会いたいということ、待ち合わせ場所の住所、時間は14時、目印にバラを一輪持って待っているようにということが書かれていた。


 こんな何もかもすっ飛ばした誘いがあるのだろうか。なにせ初めてマッチングした相手なので比較するような経験もない。でも明らかに普通ではないだろうことはわかる。ふと、相手のプロフィールを確認してみる。いや、まずメッセージを送る前に確認するべきだろう。自分だって順番が滅茶苦茶だった。


 名前は[フク]。たぶん、自分が[鈴之助]という名前から[スズ]という名前にしているのと同じように、名前にフクという音が含まれているのだろう。

 プロフィール画像は写真ではなく、ウィンクした三角帽子の女性を象った魔女のようなロゴマーク。

 あとは所在地が待ち合わせ場所と同じく都内。かろうじて関東の端に入ってる田舎に住んでいる自分が行くには、新幹線でも1時間ちょっとはかかる。

 あとは年齢が40歳と1つ上。結婚歴無し、身長は高め。それだけしか書かれていない。


 自分はといえば、アプリのガイドに従ってとりあえず書けるだけ書いて、プロフィールもなんとか書き込み、慣れない自撮り写真を付けたりと、とにかく必死だった。

 対照的に最低限しか書き込んでいない彼女は、婚活する気があまりないのか、あるいは個人情報を極力晒したくないのだろうか。


 とにかく相手の情報が少なすぎる。その後もメッセージを送ってみたものの、返信は詳細は会って話すという内容で、相手のことは聞き出せなかった。ならばと、自分に聞きたいことは無いか訪ねてみたところ、どういうわけか服と靴、あと頭のサイズを聞かれた。頭のサイズが何かピンとこなかったが、要は帽子のサイズらしくて、メジャーを買ってきて測り、サイズを送った。結局やり取りはその程度だったわけだが。


 マンションに時折出入りする人を横目に、スマホを確認する。

 時刻は13時55分を過ぎ、気づけば待ち合わせまであと数分。


 本当に相手は来るのだろうか。もしかして釣りで待ちぼうけさせられるだけで、どこかからその姿を見て笑っているのだろうか。あるいは宗教とかマルチ商法の勧誘とかだろうか。服とかのサイズは変な宗教の制服のものだったりして。

 無意味な不安と妄想がぐるぐると頭を巡っているうちについに待ち合わせの時間になった。


(相手は本当に来ているの?)


 周囲を見回してみるが見える範囲には誰も居ない。婚活アプリのメッセージですでに待っていることを伝えたほうが良いだろうか。そういえば相手のちゃんとした連絡先も聞いていない。もっとも、そういうことも含めて会ってからということなのだろうか。


 そんなことを考えながらマンションの入口に目が行くと、ちょうど出て来た人がいる。


 全身黒づくめで、長身のスタイルの良い女性。フクさんのプロフィール画像が魔女だったのを思い出す。なるほど、現代風の魔女と言われれば納得してしまう。それが誉め言葉かは分らないけれど。


 身体のラインが判る黒いドレスらしき服は上品なバラの刺繍とレースで飾られ、ムッチリとした太ももとお尻からしっかりとくびれがある腰までのラインが美しい。黒いタイツに黒いハイヒール。ただでさえ高い身長がさらに高い。155cmの自分からしたら頭一つ分は上では無いだろうか。そのまま並べばちょうど顔が胸にくる。その胸も片方で自分の頭くらいあるんじゃないかという、巨というか爆という字のつきそうな大きさ。いや、女性の胸をじっと見るものではないと目線を上げる。黒いサラリとした髪は背に届き、口元は服と同じバラの刺繍の黒いマスクで見えないが、切れ長の目が美しい。頭にはバラのコサージュが付いた帽子、これまた黒。


 彼女と目が合う。まるで痺れたように目が離せない。彼女はまっすぐ迷いなく自分の前まで歩いてくる。


「あなたがスズ?」


 凛とした声が上から降ってくる。この人がお相手なのか。その姿が目の前にあると圧がすごい。


「そう、です。あなたが、フクさんですか?」

 なんとか声を絞り出す。無意識にバラを差し出してしまう。


「そうよ。」

 彼女はそう言って赤いバラを受け取る。


「可愛いわね。」

 ぽつりとつぶやく。マスクのせいで表情は分からない。


「えっ?僕、おじさんなのに可愛いんですか……?」

 そんな風に言われたのは初めてだった。貶されているわけではないはずなのに、胸が少し苦しくなる。


「案内するわ。ついてらっしゃい。」

「は、はい。分かりました。」


 彼女がどういうつもりなのかさっぱり分からないが、それでも今はただついて行くしかないのだった




 インターホンのついた2重扉から広めの休憩スペースが付いたエントランスに、会釈してくるコンシェルジュ。未知の世界に軽く眩暈を覚える。

 それから入ったエレベーターは彼女が押した最上階に向かって止まらずに上がって行く。彼女について中に入ったが、こんな機会でも無ければ貧乏人の自分が高級マンションに足を踏み入れることなんてないだろう。


(何か話さないと。)


 ちらりと彼女の方をみるが、じっとこちらを見ていて慌てて視線をそらす。

 全身黒一色に赤い一輪のバラがまるでモノクロにそこだけ色がついているように見える。

 隣に立っている自分が身長差以上にちっぽけでもはや存在していないような気さえする。あるいはこのまま最上階についたら、自分は何かの生贄にでもされてしまうのだろうか。頭ではバカなことを考えていると分っていても、気分はまるで十三階段を登っている死刑囚のようだ。


 ほんの数分が永遠のように感じる。しかし無慈悲にもエレベーターは最上階へ到着し、扉が開かれた。目の前に広がるエレベーターホールは華美な装飾はないもののシックで上品な内装。そこからつながる短い廊下の先にはドアは1つしかない。つまり、この最上階すべてが彼女の住まいということだろうか。だとしたらまさに月とスッポンというか、天と地ほどもかけ離れた相手と言うことになる。


「さぁ、どうぞ。」


 優し気な声と共にドアを開けた彼女に促されるまま中に入る。ふわりと甘い香りが鼻孔をくすぐる。


「おじゃまします。」


 玄関もそこにつながる廊下も広くきれいで、新しく買った自分の革靴も彼女のハイヒールと並ぶとなんだかみすぼらしい気さえしてくる。


「まず顔を洗いましょうか。」

「えっ?あっ、はい。」


 意味がわからない。いや、言っている内容は分かるのだが、女性の家へあがってまずさせられるのが洗顔というのが意味不明すぎる。


 廊下の一番手前のドアを開くと広い洗面所で、洗濯機もあるのに2~3人は余裕を持って着替えられそうなほど。実家の一人立つのがやっとの洗面所とは比べ物にならない。奥側は曇りガラスのドアがあるのでそちらは風呂場なのだろう。

 ふと脱衣かごへ目をやったが、慌てて目をそらす。かごの中にはシースルーのネグリジェらしきものとレースの黒い下着。とくにブラの方は片方で自分の頭がすっぽり入りそうな大きさ。女性の下着を見てしまった罪悪感から何も考えられなくなり、言われたまま身体を動かすだけになる。

 ヘアバンドで前髪を上げられ、渡された洗顔料で顔を洗う。タオルで拭うと、何か顔に塗られる。2種類あったが、化粧水と何だったか。自分はその当たり全く無頓着だったから知識も無い。その後ヘアバンドを外される。


「次はこっちよ。」

「は、はい。」


 洗面所を出て廊下の突き当りのドア。

 彼女に付いて入るとそこはおそらくリビング。目の前に大きなガラス窓が広がり、窓の前にはソファーが一組とローテーブルが置いてある。窓からは都内の街並みを見下ろせるようだ。

 足元は柔らかい絨毯で、ふわりと足を心地よく受け止めてくれる。スリッパも無しに歩いて大丈夫だろうか。万が一汚したりしたらことである。


 彼女は止まらずにリビング内のすぐ横にあるドアを開く。ついて行き中に入ると、これまた広い部屋。

 床はフローリングで、中央には何も置いていないが、壁際には大きな机にミシンやらなにやら裁縫道具らしきものと、何冊ものスケッチブック、レースやフリルやリボンに様々な生地の端切れが所せましと置いてある。何枚か机に置いてある紙には服のデザインらしきものが描かれていた。

 机の隣には大きな化粧台があり、そこにはいくつもの小瓶やらブラシやら化粧道具がこれまた大量に置いてある。あとはトルソーとか服を掛けるスタンド。大きな姿見は3つ、同じ位置を角度を変えて映すように並べてある。

 床がきれいな分机の上の乱雑さが目についたが、片付けていないが掃除はしているといった奇妙な感じ。


「それじゃあ服を脱いでもらえる?下着まで全部ね。」


 彼女は机の上に持っていたバラと、帽子とマスクを脱いで置き振り返らずにそう言った。


「えっ?服を……ですか?……全部?」

「そうよ。」


 思わず呻くように言ってしまった言葉に、彼女はこともなげにそう返してくる。

 どうやら自分の聞き間違いでは無かったらしい。会って数分。女性の部屋へ入っていきなり服を脱げと言われるとは思うはずもない。彼女は机の上で何やら探している。いや、もはやここまで来て逃げることも拒否することも出来るとは思えない。ともかく、言われるままに服を脱ぐしかない。


 とりあえず下着以外を脱いで畳んで床に置く。あとは意を決して下着を脱ぎ服の上に畳んで置く。筋肉に乏しく華奢な自分の体は少しあばらも浮いてみじめではないだろうか。姿見に映りこんでいるようで目をそらし、申し訳程度に股間を手で隠す。


「これを着てちょうだい。」


 彼女は黒いレースの布地を渡して来る。脱衣かごにあった下着と同じような生地だ。


「っ!これって女性用の。」

「大丈夫よ、男性用だから。」


 黒いレースの下着。全裸よりはマシとパンツを履く。前は隠れるがお尻の方はもはやヒモである。男性用のTバックがあるらしいことは知っていたもののまさか自分が履くとは。さらに上は極端に短いシャツというか、もはやブラというか。いや、男性用ブラジャーなんてものもあった気がする。それも仕方なく身につけるが、ある意味全裸のほうがマシだったかもしれない。肌触りが非常に滑らかで良いのが、逆に未知の羞恥心を煽るような気さえする。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

「それじゃあ採寸するわね。腕を上げてちょうだい。」


 彼女に言われるがまま腕を広げて採寸される。もはやまな板の上のコイである。

 一通り採寸してメモを取り終えた彼女は、部屋の奥にある扉へ向かう。チラリとマスクを取った顔が見える。マスク美人なんて言葉があるが、彼女はマスクを取っても美人だった。いや、並みの綺麗な人というレベルではないだろう。明らかに自分が隣に立てる相手ではない。


 彼女は扉を開けて中に入る。その中はこちら側からでは奥まで見えないが、様々な服やら帽子やら靴やらがしまわれている。たぶんウォークインクローゼットというやつだろう。

 見える範囲の服は彼女が今着ているドレスのような物以外にも、彼女が着るには子供っぽい、というか少女向けのようなフリルやリボン、レースで飾られた衣装がいくつも見える。もしかしたら彼女が着るためではなく、彼女が作った服をしまっているのかもしれない。


 ほどなくして彼女がクローゼットから出てくる。


「っ!?」


 息を飲む。彼女の手にはドレスらしきものと毛の塊が。いや驚いてしまったが、冷静に見ればカツラ、というかウィッグというやつだった。黒い長い髪で彼女の髪ほどではないが美しい。


「これを着て。」


 彼女に渡されるままにタイツを履く。厚手で黒いタイツは今はヒモ程度の布しかない尻を覆ってくれて安心感がある。さらに大きく膨らんだスカート。ドレスはワンピースタイプでスカートまであるので、下履きのスカートを膨らませるやつだろう。確かパニエといったか。さらに短いズボンのような物はドロワーズだったか、これを履けばパンツはもう見えない。そしてドレスはクローゼットから見えていたフリルやレース、リボンに飾られた可愛らしい服。色は黒を基調に少しの赤がアクセントになっており、彼女が今着ているのと同じくバラの意匠が散りばめられている。

 所謂ゴスロリというやつだろうか。オタクと胸を張って言えるほどではないが、自分もゲームやらアニメ、漫画を嗜んでいる関係でなんとなく分る。いや、こういったファッションを愛好している人ににわか知識で言うべきではないだろうが。少なくともアラフォーのおじさんが着るべき服には見えない。それでも言われるままに着ていく。

 最後にチョーカーを首に巻き、ふと姿見が目に入る。ウィッグは付けていないがなんとなく髪の短い少女がドレスを着ているように見えなくもないのが悲しい。


 それからドレッサーの前に座らされ、彼女に言われるまま顔の向きを変えたり、目を閉じたりして化粧をされる。眉を剃られたり化粧道具が顔に当たるたびこそばゆいが、動いて彼女の手元が狂ってはいけないと体がこわばる。


 実に手際よく短時間で化粧が終わると、薄手のゴム状の網を頭に、その上からウィッグをかぶせられ、さらにヘッドドレスまで付けられて、姿見の前に連れ出される。そのまま服や髪を少し整えられ、肩に手を置かれて共に姿見を見る。


「思った通り、綺麗よ。」


 そこには歳のころ15~6歳といった感じの黒髪でゴスロリに身を包んだ美少女が立っている。おじさんの要素は皆無。まるで隣の魔女に魔法でもかけられたような。


「これが、僕……。」


 あるいはこの姿なら、夫と思われなくても彼女の隣に立つことが許されるだろうか。

 彼女が僕の前に立ち、顔を見つめてくる。こんな美女に正面から見られることなど人生で初めてだった。


「改めて聞くわ。本当に私の夫になるつもりがあるかしら?」


 婚活アプリでのやり取りで問われた質問と同じ。ならば答えも同じ。


「あ、あります。」


 ニヤリと彼女の口元が動く。


「じゃあ、2つだけ条件を飲んでくれるかしら。」

「条件、ですか?」


 何を言われるのだろう。まさか女性になれということだろうか。一度も本番に使われないまま股間の息子とお別れになるのでは。いや、この発想がおじさんなのか、童貞ゆえか。


「1つは私のデザインした服を毎日着てもらうこと。」

「デザインした服、つまり今着ているこのお洋服は。」


 チラリと自分の着せられた衣装に目をやる。素人目に見てもかなり高級な生地に、刺繍や装飾も凝っている。そもそも、こういうファッション自体相当なお値段だと聞いたことがあるような。今日着てきた服の何倍するかなんて考えたくもない。


「そうよ。私は自分のデザインのアパレルブランドを経営してるの。名前はWitchwink。プロフィールのロゴはうちのブランドのものなの。私はファッションデザイナー兼社長ってところかしら。」


 フクさんが服屋の社長さん、とダジャレで和める状態ではない。地位も経済的にも見た目も、分っていたが何一つ釣り合う要素がない。それに、彼女の服を毎日着るということは……。


「これから女装して過ごすということですか。」

「そうなるわね。うちは女性用しかやってないから。」


 いや、彼女の隣に立てるならこのくらいはお安い御用ではないか。少なくとも何一つ吊り合わないこんな取り柄のない自分でも、条件さえクリアできるのなら彼女の伴侶となれるかもしれないのだ。もう1つの条件だって頑張ればなんとかなるのではないか。


「もう1つの条件は?」


 ゴクリとつばを飲む。チョーカーで少し首元が苦しい。いや気分のせいかもしれない。


「もう1つは私と子供を作ってほしいの。どう?条件を呑んでくれる?」


 子作りということは少なくとも股間の息子とお別れする必要は無いようで一安心する。あるいは夜の営みをしないで子供を作る方法もなくはないだろうが、少なくとも去勢される心配はないだろう。しかし、ふと疑問に思う。


「どうして僕なんですか?」


 しまった、と思ったがすでに遅く、浮かんだ疑問を口にしていた。別に飲めない条件ではない。素直に受け入れていればいいものを、口から出た言葉はすでに引っ込められない。

 しかし、そんな心配とは裏腹に彼女は微笑み、そしてそっとこちらの頬に手を当てた。


「あなたは自分に自信がないのね。」


 美しい瞳に見つめられ目が離せない。まるで心の中を見透かされているようで……。


「僕はその、プロフィールにも書きましたが、経済的にも貧しくて、特に誇れる技術とか技能も無いし、立ち居振る舞いなんて全然分からないし、背も低くて華奢で、顔も男らしくないし、フクさんには全然吊り合わない男ですから。」


 言っていてなんだか悲しくなってくる。


「そんなこと。」


 彼女は優しく微笑む。


「お金は沢山稼ぐのは大変かもしれないけど、働けば稼げるわ。私と結婚するなら心配なんてさせない。技術も振る舞いも後から学ぶことだって出来る。身長も華奢さも私の服を着るなら問題ないでしょう。むしろ良いくらいだわ。それに、顔も整形って方法もあるけど、あなたはしていないでしょ?」

「し、してません。」


 むしろ出来る経済力も度胸もない。


「私もしてないわ。だってどんなに顔を整えたって産まれてくる子に受け継がれる遺伝子は変えられないでしょ?」


 彼女の指が頬から輪郭に沿ってなぞるように唇へ。


「あなたは綺麗よ。ぱっちりとした二重の目に、通った鼻筋、小さく整った小鼻とぷっくり形の良い唇。これは立派なあなたの才能だわ。私は産まれてくる子供には自由に生きて欲しいけれど、持って生まれてくる遺伝子は良いものを残してあげたいの。あなたとならそれが出来る。」


 彼女が顔を近づけてくる。触れ合うほど近くに。


「私にはあなたが必要なのよ。どう?条件を飲んでくれる?」


 ハッとした。

 コンプレックスだった容姿を才能と彼女は言ってくれる。自分を必要としてくれる。

 今の自分にあるのはパートの仕事と、母は幼いころ亡くなっているので男手一つで育ててくれた父、あとは幼馴染の親友が一人だけ。仕事なんていつ辞めたっていい。父と親友にはいつだって会える。なら、残りの人生は全て彼女に捧げよう。もう、自分の気持ちは完全に決まっていた。


「条件を飲みます。僕と結婚してください。」


 まっすぐ見つめて言った。彼女は顔を離すと、実に満足そうに頷いた。


「ええ。これからよろしくね。」


 まるで夢でも見ているかのよう。こんなに住む世界の違う人とあっさり婚約してしまうなんて。


「そういえば名前がまだだったわね。私は上市福江かみいちふくえ。あなたは?」

「僕は設楽鈴之助したらすずのすけです。」


 婚約してから名前を知るなんて順番が逆だが、もはやそんなことはどうでもよかった。


「それじゃ鈴。せっかく可愛く着飾ったのだし、デートに行きましょうか。」

「はい!」


 ただただ嬉しくて返事を返す。いや、実に浮かれすぎだった。

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