雨受けの、溢れる先の、削ギ面の、口。
玉手箱つづら
1
雨を溜めこんだ
反射的に目をつむり、ハンドルを取られ、自転車ごと倒れこみそうになるのをどうにか踏みとどまる。さあ、と、雨音が、ようやく追いついたように背後でわき立った。
十月半ば、長く続いた夏は週の頭ごろ突然終わった。秋めく間もなく、既に乾いた空気が張り詰めはじめている。雨のなかでもそれは変わらない。唇が細かく割れて、時折小さく痛んでいる。
「
不意の声がした。顔を向けると、通り過ぎたと思った軽自動車が横に止まっている。
「やっぱそうだ。待さんですよね」
雨粒に覆われた窓が降りて、空の助手席の向こう、こちらへ笑う顔が覗く。線の太い黒縁の眼鏡に同じく黒のニット帽。年若く見えるけれど、薄暗いなかにも見えた髭は数日は剃っていなさそうに
知らない顔だ。
「……ええと」
「ああごめんなさい、判らないよね」
ちょっと待ってくださいね、と言いながら眼鏡を外す。帽子を脱ぐ拍子、横を向いた耳に空のピアス穴が覗いた。解放された髪が流れおち、ウェーブの向こうにそれらを隠す。
肩口まで伸びた黒髪に、ピンクのインナーカラー。俺はようやくその正体に思い至る。
バッグから眼鏡ケースを取り出して、黒縁から淡い青紫へ掛け替える。
「いつもお世話になってます。《オカル
「どうも……こちらこそお世話に……」
「あは、なんか変なかんじ。リアルでは初めましてですね」
シートベルトを外して、いやに懐っこい手が差し出される。俺はそれに応じながら、やっぱり仕事相手だったな、とひとり納得する。待という名前は業務用に使っているハンドルネームだ。会社の外では一切使っていない。
間を置いて、ワイパーが左右に雨をさらう。弧の外周に逃れた水が、楕円の玉となって膨らんで、ふよふよと揺れている。
「待さん、今から出勤されるんですよね?」
「まあ、はい」
「よかった。実は今日、待さんにお会いしたくて来たんですよ」
「……私にですか?」
「はい。あ、クレームじゃないですので!」
慌てたように顔の前で手を振って、ああ、でもそっか、と、もごもご何かつぶやきだす。
「ごめんなさい。送ってあげられればよかったんだけど、自転車は……」
「ああ、全然お構いなく。ここからはもう、そんなかからないので」
「すいません。あのこれ、よければ使ってください」
伸ばされた手からタオルを受け取って、どうも、と会釈する。神酒樋も、それに応えて小さく頷く。
機械音とともに、窓がせり上がっていく。
「じゃあまた後で。少し時間をおいてから伺いますので」
お気を付けて、と言った表情が、車の陰に隠れていく。
あの、と俺は声をかける。もう上がりきるところだった窓が止まり、戸惑ったようにまた少し下がる。
「なにか?」
神酒樋が不思議そうにこちらを見る。ワイパーの描いた扇に、水滴が割り入って落ちる。
「よくわかりましたね、私が待だって」
神酒樋が言ったように、俺たちは初対面だ。こんな業界では珍しいことでもないけれど、仕事のやりとりは、ほとんどメールかチャットで済ませている。連絡の中身をすべて覚えているわけではないけれど、少なくとも顔を見せ合うような機会はなかった。
大した疑問ではない。ただ、どうして、神酒樋は俺に気付くことができたのか。
「ああ、えっと……すいません」
訝るというほどでもない俺の目に、神酒樋は気恥ずかしそうな笑みを浮かべる。
「貧乏チャンネルなもので、編集スタッフとかもいなくって……全部僕が仕上げてるんですよ、うちの動画って。だからまあ、ずっとこう、写真と睨めっこしてましたから」
さすがにわかりますよ、と言って、眼鏡の縁を指でつまみ、わざとらしく凝らした目で俺を見る。それは、動画の中でも何度か見かけた神酒樋の決めポーズだった。
レインコートの淵、濡れて貼りついた前髪の先から、ぬるまった雨水が肌へ伝う。
「だって、待さんの横顔、もらった写真にそっくりでしたから」
そうして、まぶたの下を沿うように流れ、一筋の、
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