4-5


 星狼殿下も賢妃も腕が治るまで私をたびたび見舞ってくれた。最近はあの老齢の侍女以外も賢妃の介添に慣れてきたようで、彼女は以前よりも活発に後宮を動き回るようになっていた。

 力が明らかになっても、こんな風に接してくれる人たちがいることを私は奇跡のように感じていた。


 もちろん、誰からも受け入れられたわけではないけれど。


 *


「桃英様、また侍女が一人いなくなったようです」


 就寝前、夏泉が言いづらそうに報告してくれた。私はため息をついた。


「そう、また逃げちゃったのね……余計に夏泉に負担がかかっちゃうね。ごめんね」

「私のことはいいですが、さすがに人手が足りません」


 あの熊騒動の後、私に仕えていた者たちの何人かがこの百花殿を去ってしまった。なんやかやと都合を作って暇を告げる者だけでなく、何も言わずに消えてしまう者もいた。

 私みたいな化け物公主に仕えるのが怖いのだろう。


 先日、事態を憂慮した殿下が侍女を補充した、その矢先のことだった。

 ここに来る以前のことを思い出さずにはいられなかった。皇帝である熹李ですら、私を排除する動きを止められなかった。


 どんなに大きな権力を持とうとも、人の心を完全にぎょすることはできない。それを私はよく分かっている。


 けれど、事実として知っていることでも、直接見聞きするのは想像以上に心にこたえるのだと、私はその翌日に学ぶこととなった。


 *


 その日、私は井戸の水をもうと庭に出た。侍女が減っているので自分でできることは自分でやろうと決めたのだ。

 そこで、宮女たちが三人、私に気づかずひそひそとささやきあっていた。


「いいわよね、逃げられる人は」

「私たちだってあんな公主様、怖いのに」

「帰るところがあるなら私だってとっくに逃げてるわよ」


 ひゅっと血の気が引く。慌てて植栽の影に隠れた。

 心が痛むのは、私と同じように帰るところのない宮女がおびえていることだった。居場所がない彼女たちが恐怖におののき震えながら自分に仕えているのだと思うと胸が痛む。

 どうしよう、と苦悩する私の耳に、凛とした声が響いた。


「あなたたちの声、来客にまで聞こえているよ」


 声の主は獅子の刺繍の深衣しんいひるがえし、颯爽さっそうと現れた。

 劉徳妃だった。すぐ後ろに恋人の桂鈴も控えている。


「も、申し訳ございませんっ!」


 宮女たちはその場に平伏した。主への不満を聞きとがめられた彼女たちは顔面蒼白だ。


「と、徳妃、あの、先ほどは、その」


 宮女の一人が申し開きをしようとして口をぱくぱくさせている。見ていられない。彼女たちが劉徳妃に叱責しっせきされる前に、助け舟を出さねば。


 けれど徳妃は意外にも彼女たちを優しく抱き起こした。


「心配しないで、私はあなた方に罰を与えようというわけではない」


 桂鈴とともに三人を近くの椅子に座らせて、徳妃は彼女たちを落ち着かせた。


「あなたたちは公主様を恐れているのだね」


 宮女たちの無言は、肯定を意味していた。


「それは仕方がないことだ。人間は自分の理解できない者に嫌悪を抱き、遠ざけようとするもの。あなたたちのその気持ちを否定はしないよ」


 徳妃は宮女たちの間に腰掛けて優しく語った。男装の麗人の甘い言葉に、彼女たちの瞳はとろけたようになっている。


「だがこれだけは覚えておいてほしい。星狼殿下も、そしてこの私も、公主様のことを恐ろしい方だとは思っていない」


 言い切った徳妃の迷いのない表情に私は驚いた。徳妃が、私をかばってくれている?


「彼女は大黄帝国の公主様だ。我々と異なる並外れたお力を持つのは、当然だと思わないか?」

「は、はい……」


 彼女たちはひとまず頷いた。


「大きな力をお持ちにもかかわらず、公主様はこれまでそれをひけらかすことも、他者をおびやかすこともなかった。唯一傷つけたのは襲ってきた熊だけだよ」


 茶目っ気たっぷりに徳妃が片目をつむると、いよいよ三人は頬を赤くした。


「立派な心映えだと私は思う。どうだい、まだここで働くことができるなら、続けてみてはどうだろう? 今は恐ろしい方だと感じていても、きっといつか私のように公主様をお慕いする時が来る。私はそう確信しているよ」


 その言葉に三人は頷いて、徳妃への感謝を述べて仕事へと戻っていった。

 彼女たちが去ったのを確認して、徳妃が声をあげた。


「公主様、もう出てきてもいいですよ」

「……私がいるのに気づいていらっしゃったのですね」


 植栽の裏から出て行くと、徳妃は誇らしげに笑う。


「私は武人として育ちましたから、人の気配にさといのです。公主様がそこに隠れておろおろされているのには、もちろん気づいておりました」


 驚きすぎて言葉が出てこなかった。先ほどの宮女たちのように自分の頬も染まっているのではないかと思う。私はなんとか声を振り絞った。


「で、では私が聞いているのを知っていて『公主様をお慕いしている』なんておっしゃったのですか?」

「えぇ、だってそれが本心ですから。おっと」


 桂鈴が背後から徳妃に抱きついた。その頬がぷくりとふくれている。


「心配しないで、もちろん私が愛しているのは君だけだ」


 恋人の膨らんだ頬を指でつつき、徳妃は私に向き直った。


「立派な心映えの方だと公主様を敬愛している。だから彼女たちに誤解されているのを見過ごせなかったのです」

「あの……私は徳妃に好かれてはいないと思っていたのですが」

「それは私のせいです」


 徳妃に抱きついていた桂鈴が、改まって揖礼ゆうれいをした。


入輿にゅうよした公主様がとてもお美しい方だったので、私の涼様を奪われるのではないかと、心配で」

「う、美しい……?」

「そういうことだ。桂鈴が嫉妬しっとするので、安心させるために公主様を遠ざけていた。不快な想いをさせてしまい、申し訳がなかった」


 突然色々なことが明かされて私の頭は混乱した。


「だからって、どうして私を庇ってくださったのです? 『敬愛』だなんて、そんな、私は徳妃に何もしていないのに……」


 徳妃と桂鈴は顔を見合わせてくすくす笑った。


「あなたのそういうところが敬愛に値するのです」


 徳妃は不意に真顔になった。


「公主様は我が風光殿に訪れた時のことを覚えておいでですか?」

「も、もちろんです」


 思い出しただけで恥ずかしくなる。あの時私はこの二人のなまめかしい口付けをのぞき見してしまったのだ。


「私たちの関係を知って、あなたは『殿下への裏切りだ』と叱責した――それが嬉しかったのですよ」

「い、意味がわかりません」

「分からないでしょうね……」


 徳妃の表情に苦々しいものが混じる。


「これまで私たちは女同士で愛し合うことを否定され続けてきました」


 私はハッとした。頷く桂鈴の瞳が悲しみに濡れている。


「公主様は私たちの関係を『女同士だから』という理由で責めたてなかった。男女の愛と全く同じように扱ってくださった――それが嬉しかったのです」


 劉徳妃はまぶしそうに微笑んだ。


「あなたは、星狼殿下に似ていらっしゃる。殿下も、いつだって私たちの想いを尊重してくださいます」


 あの、と私はずっと気になっていたことを切り出した。


「星狼殿下はあなたに恋人がいると知ってなお、後宮にお迎えされたのですよね? それはいったいどういうお考えからなのでしょう?」


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