翠天後宮の降嫁妃 〜その妃、寵愛を競わず平凡を望む〜

風乃あむり

第1章 あるはずのない後宮

1-1

 

 ――桃英とうえい、約束してね。


 まだ幼い私に、母は言った。


 ――あなたには、人とは違う力がある。それを絶対に隠し通して。


 いつもはおっとりとした母が、怖いくらい必死に私の両手を握っている。


 ――あなたも、それから熹李きりも『普通』でいてちょうだい。


 眼差しに込められた切実さが、私の心をぎゅっと縛った。私は、言われたことの意味を十分には呑みこめぬまま、ただ母を安心させたくてこう答えた。


「お母様、分かりました。約束します。桃英は力を隠します。ちゃんと『普通』でいますから」


 約束すると、母は微笑んだ。


 その儚い笑みを、私は今も忘れられないでいる。


  * * *

 

 初めて訪れた翠山すいざん国の宮城『翠天宮すいてんきゅう』。

 その宮城の奥深く、輿こしに乗せられ運ばれた先でこの国の王太子が待っていた。


 私は今日、この男に降嫁する。


 うやうやしく彼に手を引かれ、新たな住まいへと招き入れられる。


 豪奢ごうしゃな婚姻衣裳の裾を引きずりながら平伏する女官たちの間をしとやかに進み、たどりついたのは後宮の一角『百花殿』。


 そのやしきの中で、私は今、夫となる男を激しく問い詰めていた。


「後宮があるなど、わたくしは聞いておりません」


 最大限の怒気をこめた抗議のはずが、目の前の男はかけらも動じない。返ってきたのは余裕の笑みだった。


「たしかに後宮があるとは申しておりませんが、ないとも申しておりません」

「なっ……!」


 あまりの言い草に私は言葉を失った。

 いけしゃあしゃあと言い放った男こそ、翠山国の王太子、嵪星狼こうせいろう――私の夫となった男だ。


 陰影をつける鼻梁びりょうに、くっきりとした二重瞼ふたえまぶたの華やかな目もと。うなじで緩く束ねた長い髪は、翠山王族特有の銀色で、上質な絹糸のようだ。


 この作り物じみた美貌の男が自分の夫となる――本来なら胸をときめかせて喜ぶところかもしれない。けれど状況はそれどころではなかった。


 私、はん桃英は、大陸の東に冠たる大黄帝国の公主――しかも現皇帝の双子の妹だ。

 身分だけはこの上なく尊い私が、わざわざこの小国の王太子に降嫁したのには訳がある。


 翠山国は百年以上前に他国との国交を断ち、今もそれを続けている。

 長く鎖国体制を維持できたのは、山奥の辺境の国だから。要するに、侵略価値がないのだ。


 その事情が一変したのは数年前。

 我が大黄帝国の北方に広がる大草原地帯に『北玄ほくげん国』が台頭した。の国は強力な騎馬軍団を率いて瞬く間に領土を広げ、ついには帝国の国境をおびやかすまでに成長した。


 そんな折に、翠山国が数年後の開国を宣言したのだ。

 我が国の北西に位置する翠山は、北玄国とも国境を接している。

 鎖国を続けているなら存在を無視できるほどの小国でも、国交を開くのであれば話が違う。


 大黄帝国朝廷は、北玄よりも先んじて翠山国と友好関係を結びたい。

 強固な軍事同盟の締結で北玄を刺激するつもりはない。翠山にあくまで中立を維持させ、北玄との緩衝かんしょう国にしたいのだ。


 だからこそ現皇帝の妹である私が降嫁することになった。

 それなのに。


 目の前の美丈夫は完璧すぎてわざとらしい微笑みで私に語りかける。


「たしかに我が父、翠山国王は後宮を持ちません。だから王太子である俺も後宮を構えないと勘違いなされたのですね、お気の毒に」

「なっ……!」


 勘違いですって!?

 こちらに非があるかのような言い分に、腹の底から怒りがわいてくる。


 国防上の思惑があるとはいえ、皇帝の妹である私が降嫁するには、翠山はあまりに格下だ。

 この婚姻は、翠山国が一夫一婦制をとり、国王であっても妻を一人しかめとらないとされていたから成立した。王后の地位が約束されていたのだ。


 何より、皇帝陛下――兄の熹李きりは、王太子の唯一人の妻として大切にされ、幸せになって欲しいと願って私の降嫁を決めてくれたのに――。


 感情のたかぶりをおさえ、私は王太子に抗議した。


「誠実な翠山の方とは思えないお言葉に、わたくしいささか混乱しております」

「混乱する必要などございませんよ」


 王太子は変わらぬ微笑みで答えた。


「後宮があるとはいえ、それはただ『そこにある』だけのこと。あなたを唯一人の妻として大切にする――俺が皇帝陛下とのお約束を違えることは決してございません。あなたは大国の公主様らしく堂々となさっていればよいのです」

「し、信じられない……」


 あまりのことに目眩めまいがした。

 翠山の女官たちの口ぶりから、すでに幾人かの妃嬪ひひんが後宮で暮らしていることは分かっている。それなのに私を「唯一人の妻」だなんて――この男はどこまでこちらを愚弄ぐろうし、嘘を重ねるのか。


 怒りのあまり拳に力が入る。

 ぼきぼきと骨の鳴る鈍い音がして、はっと我に返った。

 感情的になってはダメだ。ましてや拳に訴えてはいけない。『普通』の公主はそんなことしないのだから。


 頭を使って考えましょう――そもそも、どうしてこの男は後宮を構えることにしたのだろう。「ないとは言ってない」なんて子どもじみた言い分が我が国の朝廷に通用するわけがない。


 翠山のごとき小国、帝国が本気になれば一ひねりで滅ぼしてしまえる。その危険を犯してなお、なぜ後宮を復活させたのか。


 ——もしかしてこの男は北玄国の姫も得て、私とその娘を天秤てんびんにかけようとしている?


 あり得るわ。開国に際し交わされる様々な取り決めにおいて、我が国からより有利な条件を引き出すため、敵対する二つの国を競わせようとしているのかも。


 王太子の顔を真っ直ぐ見た。

 華やかな面立ちに薄く笑みを浮かべ、感情をいっさいうかがわせない。

 この男、策士だ。さすが齢二十にして病床の国王に代わって朝廷をまとめるだけのことはある。


 ふぅ、と息を吐く。

 負けるわけにはいかない。私だって帝国の公主なのだから。


「分かりました、後宮の存在については承知いたしましょう」

「ご理解感謝いたします、公主様」


 王太子は両袖を高く重ね上げて腰を折った――洗練された揖礼ゆうれいだ。

 ですが、と私はすかさず切りこんだ。


「その代わり、今ここでわたくしへの愛を誓ってくださいませ」

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