第10話 私、潮風は好きだけど嫌い

 住宅街だったところを出てから、何日も歩いた。あてもなく適当にブラブラと歩いて、他愛もない話をして、食事をして一緒に寝て……。そんなことを繰り返して、今がある。またこうして適当に歩いているわけだけど、結構遠くに来たらしい。潮の香りがしはじめた。


「海があるっぽいね、少年」

「ぽいな」

「私、潮風は好きだけど嫌い」


 お姉さんの言葉は矛盾しているけれど、わからなくはない。脳裏に浮かぶのは、忘れていた記憶。家族で車を走らせて海に行ったとき、開けっ放しにしていた窓から潮風が入ってきたときに感じた高揚感と鬱陶しさ。あのとき僕は、どうして潮風を鬱陶しいと思ったんだっけ。


「潮風ってさ、海に来たって感じがするけど、不快寄りの匂いしてるのよね」

「あー、それだ」


 お姉さんが眉の一つも動かさずに発した言葉が、僕の胸のつかえを取っていくようだった。僕が言葉にできなかった理由を、ハッキリと言葉にしてくれたことが心地が良い。


 そのまま潮風に当たりながら歩いていると、目の前に光が見えた。何かに反射する眩しい光……海だ。目の前に広大な水が広がっていて、その水に陽の光が反射している。こうして見る分には、海はすごく綺麗で、僕は駆け出したい気持ちをグッと堪える。


「海だね、少年」

「海だな……って、お姉さん!?」


 お姉さんが僕の手を引いて、海へと駆け出した。突然のことに転びそうになるのをなんとか踏ん張りながら、引かれるがままに僕も走り出す。砂浜のしっとりとした重量感が足に絡みついてうまく進まないけれど、それすらも僕の心を踊らせた。お姉さんも、口角を上げている。


「海は好きなのよ」

「わかるけど転けそうになった」

「ごめんごめん」

「海好きだったよなあ、お姉さ……ん?」


 好きだった? どうして僕は今、昔のことを話すように言ったんだろう。お姉さんが海が好きだと知ったのは、ついさっきの彼女の言葉がきっかけのはずなのに。何か、何かがおかしい。さっきの家族のドライブのこともそう。思い出としては思い出したのに、家族の顔にはモヤがかかっていて、思い出せない。


 僕に足りないのは、世界がこうなった日の記憶だけだと思っていたのに。


「どうした? 少年」


 気がつくと、お姉さんが僕の顔を覗き込んでいた。眉を下げて唇を尖らせているその顔にも、見覚えがある。


「いや、なんでも」

「そうかい? ま、ここに来ると思い出すよね、色々とさ」

「ん……?」


 お姉さんが唐突に走り出し、海に飛び込んだ。浮かび上がってこない。どうしたんだろうと海辺まで近寄って見てみると、お姉さんの顔が勢いよく水面から浮かび上がった。その清々しいまでの笑顔が、今、何かとダブって見えた。


「思い出したかい? 少年、私のことを」


 そう、今ハッキリと、ようやく、思い出した。


 彼女が何者なのか、自分が誰なのか。

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