第37話 好き
雲一つない青空の下、俺は額に汗をにじませながら走っていた。
普段なら授業が行われている平日のこの時間。
閑散とした街を俺は駆け抜ける。
向かう場所はただ一つ、愛する人のもとへ。
頭の中でぐるぐると巡る感情を整理しながら、息を切らす。
この道も、雪音と最近歩いていた。
家を出ることが嫌なはずなのに、俺と一秒でも一緒に居たいという理由で俺を学校まで迎えに来て、話しながら一緒に帰った。
その時の自分を追い越すように、勢いよく地面を蹴る。
あっという間に家に到着し、玄関をくぐった。
靴を脱ぎ捨てて二階に上がり、雪音の部屋の前にたどり着く。
しんと静まり返った家の中で、俺の荒い息の音だけが響いていた。
だが、間違いなく雪音はこの扉を挟んだ向こうにいる。
大きく息を吸い、そして吐いて、俺は扉をノックした。
「雪音? 今いいか?」
しかし、俺の言葉に返事はない。
思い出されるのは、初めてこの家に来た時のこと。そして初めて、雪音に会った日のこと。
そうだ。俺は初め、雪音に会いたくて、雪音と話したくてこの扉を何度も叩いたんだ。
それでも全然出てきてくれなくて、試行錯誤を重ねてようやく顔を合わせることができた。
なんだか、もはや懐かしいそれも懐かしいと思える。
「雪音、俺の話を聞いて欲しい。頼む」
荒い息が混じった俺の声だけが反響する。
雪音は出てこない。出会った頃に戻ってしまったかのように、時が巻き戻ってしまったかのように。
でも俺は諦めるわけにはいかなかった。
それに諦めたくなかった。
「まずごめん。俺、雪音の気持ちにちゃんと向き合えてなかった。雪音は俺にちゃんと伝えてくれてたのに、正面から受け取れてなかった。ほんとにごめん」
俺は一度深呼吸をし、続ける。
「雪音の兄さんだとか言っておきながら、雪音のことを傷つけてた。人の気持ちはぞんざいに扱っていいものじゃないのに……雪音は、俺の妹である前に一人の女の子なのに……ごめん」
謝らなければいけないことばかり頭に浮かぶ。
その一つ一つを言葉にしては、扉の向こうで聞いているであろう雪音に届ける。
「こんな兄さんでごめんな。でも俺、これからちゃんとするから。中途半端にしないで、物事にちゃんとけじめをつけて、触れるのが怖いくらいに繊細な人の気持ちにも、正面から向き合えるように強くなるから」
人の気持ちとは、矛盾している。
触れようとすればバラのように棘があって痛いけど、抱きしめると温もりがあってもっと抱きしめたくなる。
抱えきれないほどに重くて、大きくて、でも些細な一言や物の見方ですっぽりと手の中に納まるようになる。
そんな人の気持ちをちゃんと扱えるような人間に、俺はなりたい。いや、ならなければいけない。
伊万里がそうできるように、雪音がちゃんと理解できているように。
「お前なんかにできんのかって、そう思うかもしれないけどさ……でも、人の人生を幸せにするなら、それくらいの強さは当たり前に持ってなきゃいけないと思うから」
誰かを守るためには、強さが必要だ。だから。
「大事な人を守れるように、大事な人を助けられるように、その意思を、その決意をこれからの行動で示していくから。――だから、俺に言う権利をくれ」
俺のような弱い人間に、その重みを返せるだけの権利はきっとない。
だけど、今じゃないとダメだから。この先、変わると誓うから。
俺は拳を握って覚悟を決め、その言葉を口にした。
「雪音、俺は雪音のことが好きだ」
俺の口から送られた好きの二文字が温度を持って色づく。
まるで味がするみたいに、鼻からすり抜ける。
「だから雪音。これからも、雪音の傍にいさせてくれないか?」
――俺がそう言った刹那。扉が空気を力強く押して勢いよく開いた。
ふわりと風が舞い、体に重みがのしかかる。
鼻腔をくすぐる、いつもの香り。
銀色の艶やかな髪が頬に触れ、くすぐったかった。
首に回された雪のように白い腕の柔らかな感触。
俺は雪音の背中に腕を回すと、赤子を抱くように優しく、そっと抱きしめた。
「……兄さん」
「雪音……」
数秒の沈黙の後、雪音が少し離れて俺を見る。
ダイヤモンドのようにキラキラと輝く瞳には薄っすらと涙が滲んでいて、その曇りなき瞳には俺の姿が歪んで映っていた。
「兄さん、その言葉、本当だよね?」
「あぁ、本当だ。嘘なんかつくかよ」
「責任、取ってくれるんだよね? もう私、兄さんのことなんか離してあげないよ」
「いいよ、その覚悟はしてる」
「ほんとにほんとだよ? 兄さんも知ってる通り私、重い女の子だから」
「それでもいいよ。むしろそこが好きだよ」
「兄さんが他の女の子と一緒に居たら怒るし、私を大切にしてくれなきゃ拗ねるし、兄さんにずっとベタベタくっつくよ?」
「望むところだ」
だって、そんな雪音も好きだと思うから。
好きな人の全部が、俺は好きだから。
「ふふっ、じゃあ私、私でいていいんだよね? このままの私でいていいんだよね?」
「いいよ。全部俺が受け止める。今は分不相応な言葉かもしれないけどさ、俺、雪音の人生を幸せにする予定だから。だから、ありのままの雪音を好きでいるよ」
「っ! 兄さんッ!!!」
雪音が俺を強く抱きしめる。
俺も同じくらいに抱きしめ返して、好きを分かち合った。
もう俺たちに、障壁はなかった。
「これからもずっと一緒だよ、兄さん」
「あぁ、そうだな、雪音」
――こうして、俺たちは二人だけの世界で抱き合った。
確かになった愛を感じて。
これが好きという気持ちなんだと、叫ぶように。
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