第35話 決別の時


「はぁ、はぁ……」


 体が熱くて、足は筋肉が悲鳴を上げていて、必死に酸素を取り込む口の中はなんだか苦い変な味がしていた。

 しん、と静まる校内を駆け抜け、目的地である中庭に向かう。


 ――そして、


「やっぱここにいたか、伊万里」


「…………三好くん」


 ベンチに腰をかけ、空を見上げていた伊万里が俺に気が付いて立ち上がる。

 俺は息を整えながら、何を話すべきか言葉を探していた。

 俺が何かを言う前に、先に伊万里が口を開く。


「どうして追ってきたの?」


「それは……一人にしたらダメだと思ったから」


 一度出た言葉を皮切りに、思いが溢れてくる。


「昔さ、母さんが亡くなった時に父さんが浮かべてた表情と、ちょっと似てたんだよ。自分では抱えきれないほどたくさんの想いが溢れて、一人で逃げたいっていう表情に」


 伊万里は黙って俺の言葉に耳を傾ける。


「俺は知ってる。そんな顔をした人を、絶対に一人にしちゃいけないって。じゃないともっと――苦しいから」


 伝えたいことを伝え、一度息を吐く。

 ……俺が言いたかったこと、俺に伊万里を追いかけさせた理由はもっとあったはずだ。

 

 それこそ、伊万里に言うには最低で、傷つけるに違いないことだけど、でも言わなきゃ絶対に伝わらない俺の本心。

 なんとか必死に頭をひねり、直接伝わるように言葉を選び、やがて見つけた。


「それに、このまま伊万里を一人にしたら、もう二度と伊万里と話せない気がしたんだ。それは――絶対に嫌だったから」


 俺はあの時、俺と伊万里の間での関係の終わりを見た。

 それには十分に決定的な出来事だったし、伊万里が変であることは、そう思うに足る十分な理由だった。それは、俺が伊万里をよく知っているからこそ断言できる。


 ようやく言葉になった感情を確かに手のひらの中に掴む。

 伊万里は俺の言葉を受けて、はぁーと深い溜息をついた。


「ほんとさ、三好くんって最低だよね」


「っ⁉ いや、そ、それは……そうだよな。悪い」


「許さないよ、絶対。三好くんのせいで私、こんなにも辛い思いしてるんだからさ」


「うん……ごめん」


 俺が謝ると、伊万里は拳をギュッと握る。


「もうほんと、ひどいよ三好くんは。私の気持ちも知らないで、他の魅力的な女の子の話ばっかりして。鈍いって言うか、自己中心的って言うかさ」


 返す言葉もない。

 俺はやっぱり未熟だ。未熟だからこそ、こんなにも間違いを犯した。

 伊万里にいくら罵倒されようが、俺には何も言えない。言う権利がない。


「結構私、分かりやすかったと思うんだけどな? 実際奈良橋くんには、同じクラスになってすぐにばれたし」


「マジか……俺ってやっぱり鈍いのか」


「鈍いよ、ほんと鈍い! しかものほほんってしてるところあるから、無自覚に変なことするし、変なこと言うし……それに、胸ばっかり見るし」


「胸ばっか見てほんとごめんなさいッ!!!!」


「……はぁ、許してあげない」


 前は許してくれたのに……。

 落ち込む俺を見て、伊万里が小さく笑う。


「でも、私もさ、最低なんだよ」


「え?」


「言えば伝わる気持ちを分かってもらおうとしたり、三好くんにはしょうがないことに対して、三好くんを責めたり。自分に目を向けるのが怖いから、内心ではすっごい三好くんを恨んでた。人のせいにするってさ、やっぱりよくないんだよ」


「伊万里……」


 伊万里が俺に初めて言った弱音。

 俺は黙って、伊万里の言葉を待つ。


「ほんとはさ、私としてはこのまま三好くんと仲良く高校を卒業して、それからもずっと仲良くして、私が三好くんの唯一の理解者であれればいいなって思ってたんだ。……でも、現実はそう甘くないよね。だって、三好くんの傍にいたいと思うのは、私だけじゃないから」


 初めて伊万里が口にした、俺に対する好意の言葉。

 直接的なものじゃなくても、一線を越えるのに十分なものだった。

 

 つまり伊万里は、後戻りできない道を進み始めたのだ。


「だから、そういう甘い考えを抱いて、理想が簡単に崩れ落ちて、勝手に怒っちゃってたわがままな私はひどいんだよ。ほんと、ひどいんだよ」


「……伊万里、あのな――」



「――三好くん」



 伊万里が俺の言葉を遮る。

 いつも見る優し気な微笑みを浮かべて、ゆっくり口を開いた。




「私は三好くんが思ってるほど、強い女の子じゃないからね?」





 まるで俺の心を見透かしたような一言に黙らされてしまう。

 やっぱりそうだ。伊万里は、俺の心を分かっている。見通せてしまっている。


「だからさ、こうやって三好くんの悪口を言うし、他の人に聞かせちゃいけないくらいに情けない弱音だって吐くの。それに――欲しいものが手に入らないと思ったら、こうやって駄々をこねるんだ」


「え? どういうことだよ、それって」


 俺が聞くと、伊万里はそっと目を閉じた。


「もうね、後戻りはできないって分かってる。それは三好くんも分かってるでしょ?」


「それは……そうだけど」


 本音が曝け出された状態で、変わらないなんて無理だ。

 もうただの友達になんて戻れない。そんなのは分かっている。

 俺が顔をしかめると、伊万里が真っすぐ俺を見た。



「――でも、だからって言わない。私は、私の意思で、今だと思うから言わせて」



 伊万里は息を大きく吸い込み、春の陽気のような柔らかい表情で言った。







「好きだよ、三好くん」







 一時間目開始を告げるチャイムが鳴り響いた。

 風が吹き付け、ふわりと温かな空気が流れ込む。


 伊万里は風で乱れる髪を抑えながら、俺を見ていた。

 まっすぐな瞳で、俺を見ていた。

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