第5話 quattuor

 昼休み、斎は数学の教科室内にて昨日の本を手にし、眺めていた。放課後に天弥と話をするために、すでに連絡はしてある。それまでゆっくりと続きを読もうと表紙に手を掛けたとたん、教室のドアを軽く叩く音がした。来訪者を確認しようと振り返ると、静かに開いたドアから一人の男子生徒が中へと入ってきた。その姿を見て、思わず立ち上がる。

 いきなり現れたその存在に、視線を逸らせなくなり一瞬で心を奪われた。

 そこには、白いワイシャツに黒のスラックスという制服姿が艶やかに映える少年が静かに立っていた。まだ衣替え前ではあるが、暑さに耐え切れない生徒達に上着を着ているものは少なく、すでに夏の装いが校内に溢れている。

「失礼します」

 そう言い、教室に入ってくる相手を、目で追う。そこに存在しているのは確かに成瀬天弥だが、斎が知る存在とはまるで違うものであった。同じ顔ではあるが、身に纏う雰囲気が異なり、別人なのではないかと錯覚さえ起こさせる。ただでさえ美しすぎる容貌であるのに、更にそれが凄絶なものに成っているのも、そう思わせる要因である。

 今の天弥をなんと表現してよいのかと、自分の中にある言葉を漁りだす。そして一つの言葉が浮かぶが、これは男に対して使う言葉ではないと何度もその言葉を否定する。だが、これ以外に上手く表現できる言葉を見つけることが出来なかった。

 ただ一つ……傾国の美女、その言葉が思い浮かんだのだ。その、国を傾けてしまうほどの美貌は、男だと分かってはいても、劣情をそそられずにはいられない。唯一人の女に惑い、国を滅ぼした者の想いが、今なら理解できる気がした。

「先生?」

 淫靡ともいえる美貌が、斎に向かって妖艶に微笑んだ。それを見つめながら、何とか平静さを装う。

 一歩ずつゆっくりと近づいてくる姿から目を放せず、斎は頭の中に10進法で174桁の数の素因数分解の問題を思い浮かべる。これは、複数の数学者と解読ソフトを使用して解答が出されたという難問であり、簡単に答えが出せるものではない。だが、今の状況では冷静さを取り戻すためには丁度よいものであった。

「どうしたんですか?」

 目の前で、艶麗な笑みを浮かべる天弥が尋ねる。

「あ、いや……、呼んだのは放課後だったはずだが……」

 無意識に後退るが、すぐ後ろは机の為にこれ以上は下がることが出来ず、斎はその場に立ち尽くす。

「すみません。僕の用事で来ました」

 少し動けば、互いの身体に触れそうなぐらいの距離となり、斎は戸惑う。

「僕の本を、返してくれませんか?」

 天弥の言葉に、机の上の本を手に取る。

「これか?」

 天弥は視線を掲げられた本へと移す。

「そうです」

 そう答えながら、ゆっくりと本へと向かって手を伸ばした。

「悪いが、俺の用事もこれなんだ」

 手を止めると天弥は、斎へと視線を戻した。

「先生には必要ない物だと思いますが?」

「いや、こういうのが好きなんで、もっと詳しく調べてみたいんだ」

 斎の答えに、天弥は少し考え込む表情をする。

「もしかして、それが読めるんですか?」

 向けられた問いに、斎はふと交換条件を思いつく。

「まあ、困らない程度には」

 斎の答えに、天弥の口元に笑みが浮かぶ。

「必要なら俺が訳すから、しばらく貸してくれないか?」

 笑みを浮かべたまま、天弥は斎が手にする本を掴んだ。

「hic sapientia est. qui habet intellectum, computet numerum bestiae. numerus enim hominis est: et numerus eius est sexcenti sexaginta sex」

 形の良い唇から、流れるように紡がれた言葉に、斎は耳を疑った。

「Apocalypsis B. Ioannis apostoli……altera bestia」

 震える声で、斎は天弥の言葉に答える。天弥が口にしたのは、使徒ヨハネの黙示録、地上より起こる獣の最後の一文だ。

「ラテン語、分かるのですね」

 そう言いながら、少し楽しそうな表情を斎に向ける。

「成瀬もな」

 答えながらも斎は、なぜ天弥がラテン語を理解するのかと考える。現在、この言語が公用語となっているのはヴァチカン市国だけだ。それ以外では、専門用語、学術用語として使われるだけである。ヨーロッパでは、ラテン語の授業もあるため、話すことが出来る者はそれなりにいるが、日本の高校生が学ぶには、敷居が高い言語だ。

「amoto quaeramus seria ludo」

「あ、ああ……」

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