私は勇者に恋をする
明原星和
前半
「一泊20ゴールドになります。お泊りになりますか?」
海辺にある賑やかな港町。
町の一端にあるこの宿屋で、私は今日もあなたに同じ言葉をかける。
「はい」
爽やかな笑顔でそう一言だけ返したあなたは、私に代金の20ゴールドを手渡す。
「わかりました。ごゆっくりしていってくださいね」
いつも通りの言葉をあなたに返し、それを聞いたあなたはそのまま二階にある寝室へと足早に向かっていった。
そんなあなたの後姿を私は無言で見つめる。
段々見えなくなっていくあなたの姿を見ると、私の心はまるで握りしめられたかのように縮まってしまい、縮まった心の中で私はか細くつぶやいた。
(……勇者様)
* * *
目を開けると、そこにはいつも同じ光景が広がっていた。
いつもと同じ賑やかなお客さんたち。
いつもと同じ鼻をツンと突き刺すような酒と料理の混ざった臭い。
窓から見える外を歩いている人たちの姿でさえいつもと同じ。
私は、そんな光景を毎日眺めている、宿屋で働く受付嬢。
私の一生はこの宿屋と共にあり、この宿屋の中で終わる。
そんなつまらない一生を送るものだと思っていた。
そう思っていた私の前に、あなたは突然やって来た。
カウンター越しに映るあなたの姿は、一言で言うならば雄麗。
艶やかな金髪に、天を覆う空のような淡い水色の瞳。純白の煌びやかな鎧に身を包んだ目の前の男性の正体が勇者様だと私は瞬時に把握した。
「……っ! 一泊20ゴールドになります。お泊りになりますか?」
勇者様に一瞬見とれてしまっていた私は、慌てて勇者様に声をかけた。
声は上ずっていなかったかな? 変な表情になってないかな? 服装は乱れてないかな?
ただの一言にこんなにも丁寧になってしまうとは、私は思ってもいなかった。
私の最大限の丁寧を込めた一言に勇者様は「はい」と笑顔で答えると、私に代金の20ゴールドを手渡した。
わずかに触れることができた勇者様の手はとても冷え切っていて、なのに私にはその手がとても暖かいものに感じて。
勇者様の手が触れたあたりから、私の全身を駆け巡るようにして体温が上がっている……ような気がする。
ほんの一瞬。ほんのわずかに触れ合っただけで、何もない空っぽだったはずの私の心が、どんどん温かい水のようなもので満たされていくような。
「わかりました。ごゆっくりしていってくださいね」
最大限の笑顔と、できる限りの綺麗な声で、私は勇者様に言葉を返す。
それを聞いた勇者様は、足早に二階にある寝室へと向かっていった。
そんな勇者様の後姿を私は火照る顔でただ見つめる。
胸がこんなに高鳴るのも。顔がこんなに火照るのも。こんなに心が満たされるのも。何もかもが想定外だった。
こんな気持ち、抱くはずじゃなかったのに。
溢れる気持ちを必死に抑えながら、私はいつものように姿勢を正して受付に立った。
* * *
今日も今日とて見慣れた光景が私の視界いっぱいに広がっている。
窓からは、いつもずっと立っているだけの人や同じ道をぐるぐると繰り返し歩いている人たちが見えて、もっと他にやるべきことがないのかなと思う。
耳からは店内でずっと酒と料理を食べているお客さんたちが繰り返し同じ話題で盛り上がっている声が聞こえてきて、毎日毎日同じことを話して退屈にならないのかなと思う。
――なんて、私が言えたことじゃないか。
そんなことを思いながら私は今日も受付カウンターの前で勇者様の来店を心待ちにしている。
最近、勇者様はこの宿を毎日のように利用してくれるようになった。
それが私にとってはこれ以上ない喜びで、勇者様が宿を利用しにやってくることだけが私の楽しみになっていた。
ギィィ……
宿の扉が開く音が聞こえた。
待ち望んでいたその音の方に期待を膨らませながら顔を向けると、そこには勇者様が立っていた。
――勇者様‼
心の中で歓喜した。
勇者様がこの宿屋を訪れるたびに私の胸は跳ね上がり、心は雨上がりの虹のかかった空のように晴れていく。
勇者様が一歩一歩と私との距離を詰めるたび、緊張で身が震え、手汗がにじみ出てくる。
入り口から私のいる受付まで十歩ほどでたどり着く距離しかないのに、なぜだか私にはこの距離がとても長いものに感じられる。
深呼吸をし、姿勢を整えて私は勇者様に声をかけた。
「一泊20ゴールドになります。お泊りになりますか?」
私はいつものように、最大限の笑顔とできる限りの綺麗な声で、いつもどおりのセリフを喋る。
「はい」
そして勇者様はいつも通りさわやかな笑顔と共に返事を返してくれる。
勇者様のこの笑顔を見るたびに、もしかして勇者様はこの笑顔を私に見せるためにこの宿を使ってくれているのかもという淡い期待が生まれてしまう。
勇者様は革の財布から20ゴールドを取り出すと、それを私にそっと手渡した。
この時の私と勇者様の肌がほんの一瞬触れ合う時間。
その時間が永遠に続けばいいのにとどれほど願ったことか。
「わかりました。ごゆっくりしていってくださいね」
だけど、どれだけ願ってもその願いが叶うことはなく、勇者様の手は私の手から離されて勇者様は二階の寝室へと向かっていった。
今日の勇者様、ちょっと怪我をしていたみたいだけど。大丈夫なのかな?
今日の私、ちゃんと勇者様に綺麗な声で喋れたかな?
勇者様は今日の私をどういう風に見ていたのかな?
勇者様との会話が終わると、私はいつも頭の中でぐるぐると色んな事を考え、あっという間に一晩が経ち、勇者様が宿を出る時間になってしまう。
勇者様はどんな傷を負っていても一晩で完璧に治してしまう。
昨日まで傷だらけだった勇者様がたった一晩で万全の状態になるのを私は不思議に思っていた。
けど、私はそれ以上に勇者様が万全の状態で宿屋から出発していく姿を見れることが嬉しかった。
「おはようございます。では、いってらっしゃいませ」
私が勇者様を見送るとき、勇者様は必ず私に笑顔で会釈してから宿を出ていく。
そしてその笑顔を見て、私の中にまた淡い期待が生まれてしまう。
淡い期待が生まれて。積み重なって積み重なって。
いつしか小さなその期待は、溢れるほど大きな期待に変わっていた。
勇者様が私に見せてくれるあの笑顔は、私だけに送られる特別なものなのかも。
もしかしたら、勇者様は私のことを少なからず想ってくれているのかも。
――決めた。
私は、勇者様が好きだ。
だから、この気持ちを今度勇者様に伝えよう。
たとえ結果がどうなろうとも。
次に勇者様が宿にやってくるとき。
その時が、私が勇者様に気持ちを伝えるときだ!
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