拳闘士の棺  COFFIN FOR THE PUGILISTS

眼鏡Q一郎

拳闘士の棺  COFFIN FOR THE PUGILISTS

【PROLOGUE】


 がろろろろろろ。振動が体の芯まで伝わりハンドルを握る手が震える。くっそ暑いというのにエアコンの調子が悪いものだから窓を半分ほど開けておかなければならないし、そのせいで髪の毛がばさばさと耳障りな音を立てながら踊っていて鬱陶しい。

いまだにカセットテープの音楽を吐き出す古い2CVが、広大な埋立地を突っ切るように伸びる旧国道を駆け抜ける。助手席の男は音楽に合わせて唸り声のような鼻歌を歌う。

All the world seems in tune, on a spring afternoon, when we’re poisoning pigeons in the park…

何て歌だ、彼女は小さく鼻を鳴らす。顔の半分が隠れている大きなサングラスを押し上げると、ずっと続く一本道を見る。対向車はもうずっと見かけない。こんな場所で事故るには目を閉じてハンドルを握って電柱に突っ込むぐらいしかないだろうから、法定速度を無視した運転を続けていても助手席の男は咎めない。仮にもこの国の法を守ると誓った者の運転態度ではないなと彼女は鼻を鳴らし、ぐんとアクセルを踏み込む。

 土埃。生暖かい風。舞い上がる前髪。広大な埋め立て地には草がまばらに生え、バッタの群れが飛び跳ねている。遠くには送電塔が並び、上空を無数の送電線が迷路のように張り巡らされている。

Every Sunday you’ll see my sweetheart and me as we poison the pigeons in the park…

前髪をはためかせながら彼女がたずねる。「課長の話は何だったんです?」今朝、刑事部屋を出ていく前に課長に呼び止められた男は車に乗ってからも鼻歌以外ずっと無言を貫いている。男はじろりと彼女を横目で見たあと吐き捨てるように言う。「お定まりの小言さ。新人が辞めたのは俺のせいだとよ」ああ、と彼女は鼻の頭にしわを寄せる。「事実ですよ」「向いてないから辞めろと言っただけだ」「同意はしますが、普通は面と向かって言いません」「俺が言わなくとも誰かが言っていた」「わたしにそう言ったのはあなただけでしたけど」「だがお前は辞めなかった。辞めろと言われて辞める方が悪い」「ちょっと、」彼女は小さな鼻の頭までずり下がったサングラス越しに男を睨みつける。「あんないたいけで繊細な少女に酷いことを言ったのに、反省はなし?」

ばたばたばたばたばた。彼女の髪の毛が風にあおられる。

「要は続けられるかどうかだ。誰でも最初は使い物にならない。だが必死に続けていけば、そのうちにそれなりにはなる」あら、彼女は片眉を吊り上げる。「ありがとうございます」「褒めてない」「褒めましたよ」「褒めてない。あと、お前は繊細でもない」「それには同意しかねます」「お前は初めて会った時、俺の左頬を張った。それのどこが繊細なんだ?」そういえばそんなこともあったな。遠い昔、隣に座る男との最初にして最悪の出会いを思い出して彼女は笑う。

The sun’s shining bright, everything seems all right, when we’re poisoning pigeons in the park…

「歌、やめてもらえます?」彼女の言葉に男は怪訝そうに聞き返す。「この曲嫌いか?」そうじゃなくって「音痴」う、る、せ、え。男がオーディオの音量を最大まで上げて、彼女は目一杯アクセルを踏み込む。

「あれだな」

 しばらく走ったところで男が言う。真っすぐに延びる道路の右手に大きな看板が見えてくる。ガソリンスタンドが併設された二十四時間営業のダイナーの看板はネオンがところどころ切れている。駐車場には夜通し走っただろう長距離トラックが並んで停まっているのが見える。ダイナーの前を通り過ぎると彼女は車を路肩に停める。

 サイドブレーキを引き運転席のドアミラー越しに後方のダイナーを見る。「車があるかどうか確認出来ませんでしたね」彼女の言葉に男は「少し待て」と低い声で言う。「玄関の靴の並びが変るだけでも落ち着かなくなる奴だ。夜勤明けには必ずあの店で朝食をとる。習慣を変えるはずがない」必ずあの店に来ているはずだ。ダイナーが良く見えるようにルームミラーを動かしたあと、男は座席にぎっと背もたれる。喉が張り付くような感覚。座席のスプリングが立てる音が不快で動けなくなる。窓ガラスに反射した自分の顔に思わず鼻先まで下がったサングラスを押し上げる。何て顔だ。緊張しているのか? 「外せよそんなもの」見透かしたような男の言葉に彼女は答える。「これ、ブランド品ですよ」「だが似合ってない」でも、と言い返そうとするが念を押すように男が言う。「似合ってない」

サングラスをケースにしまい、少しだけむっとしながら彼女は言う。「今年に入って逃げ出した新人はもう三人目です。末期的ですね」「この仕事は特別な仕事ってわけじゃないが、誰でもが出来るわけでもない」辞めたい奴は辞めるべきだと言いたげな男に彼女は問う。「誰もが東方日明になれるわけじゃない?」男は口の端を吊り上げると小さくふんと鼻を鳴らす。「俺だってわかるものか。私生活は悲惨、いずれ駄目になる。その時が来ればお前が言えばいい」「刑事を辞めろって?」「出来の悪いお前でも、それくらいは出来るだろう?」それってまるで、「それってまるで、遺言みたい」彼女がぽつりとつぶやくと、男は表情一つ変えずに答える。「あいにくまだ、死ぬ予定はない」

 かちゃり。カセットテープが終わりまで来てB面の再生が始まる。

There’s antimony, arsenic, aluminum, selenium, and hydrogen, and oxygen, and nitrogen, and rhenium, and nickel, neodymium, neptunium, germanium, and iron, americium, ruthenium, uranium…

そろそろ涼しくなってもいい季節なのに背中が汗でじっとりと濡れる。エンジン音だけが沈黙の車内に響く中、彼女はぽつりとつぶやく。

「あの人の時もそうしたんですか?」

 男は無表情のままルームミラーを睨みつけている。答える気はないらしいと察した彼女は、すいませんと小さく言う。

「俺は何も言っていない」しばらくして男が不愛想に答える。「あいつは自分で選んだんだ。泥船が沈む前に飛び出した」あいつは頭が切れ過ぎる。皮肉めいた口調でそう続けたあと、男は低い声でつぶやく。「あいつは正しかったのかもな」

わたしはそうは思いません。

 強い口調で言うと、男は初めて視線を彼女の方に向け、それから、ああ、と答える。「お前はそうだろうな」

 その口調が優しくて、彼女は何故か自分が責められているような気分になる。

「わたしで、ごめんなさい。彼じゃなくて、ごめんなさい」

 彼女の言葉に心底面倒くさそうに男は返答する。

「お前にも意味はある。花嫁に地味な付き添いをつけるのと同じだ。お前が隣にいることで俺の優秀さが際立つ」

 皮肉屋なりの精一杯の思いやりに彼女は何かを答えようとするが、男はそれをきっぱりと拒絶する。「よせ、何も言うな。この会話は終わりだ」

 じりじりと無線機からは小さな雑音が聞える。先発隊は客を装いとっくに店内に入っているはずだ。彼女がふと視線を向けた瞬間、無線機から待ち望んでいた報せが届く。

『対象を店内で確認した。入口から入って右奥の窓際、黒いキャップに茶色いデニムジャケットを着ている。武器の所持は不明。一人のようだ』

「東方さん、」彼女の言葉に男は低い声で答える。「俺にも耳はついている」それから男は無線機に手を伸ばして言う。「店内に入る。俺が合図するまで誰も手を出すなよ」

 二人は背広の内側の銃をたしかめると顔を見合わせ無言でうなずく。運転席と助手席の扉が開き二人が車から下りると、わずかな時間差で左右に揺れたあと車体が持ち上がる。ばたむ、ばたむ。扉が閉じる音を背中で聞きながら、東方日明と水沼桐子はダイナーに向かって歩き出す。


1997/9/17 Wednesday


「いらっしゃいませえ」

 扉を開くと金髪のウェイトレスがガムをくちゃくちゃと噛みながら立っている。派手なオレンジ色のストライプの制服にフリルのついた純白のエプロンがまぶしい。

「禁煙席ですかあ、それとも喫煙席ですかあ?」

「どっちでもいい」

 東方はそう答えると店の右手奥へと歩き出す。あ、ちょっと、ウェイトレスが思わず声をかけるが無視。すいません、あっちの席にします。水沼はウェイトレスに一礼すると東方のあとに続く。

 午前九時二十二分。東方は脇目も振らずに店内を歩いていく。カウンターに並ぶスツールは客達で埋まっている。コーヒーマシーンのこぽこぽという音に交じって厨房の奥から聞こえるパティが鉄板で焼ける音に思わず捜査を忘れそうになる。今朝から唯一口にしたのが刑事部屋の不味いコーヒーだけだなんて、ほんと、素敵な仕事。水沼は床に落ちたケチャップがついた紙ナプキンを踏みつけながら東方の背中を追う。

店の一番奥のテーブル席に男が一人で座っているのが見える。黒いキャップに茶色のデニムジャケット。東方は男に断りも入れずに向かいの席に腰をおろす。突然のことに男は呆気にとられた表情を浮かべる。

「ここ、いいかな?」東方がたずねる。

「もう座っている」男は怪訝そうな目で言い返す。

「それは、このテーブル席にはおたくがもう座っているという意味か。それとも、座ってから座っていいかと聞くなという意味か?」

 男は一瞬考え込んだあと、まあ、両方だなと答える。

「それで、君は誰だ?」男は目の前のステーキにナイフを入れる。こぼれ落ちた肉汁がまだ熱い鉄板の上で食欲をそそられる音を立てる。

「美味そうだな」

「ここの名物だよ。君も注文するか?」

東方はそれには答えずテーブルに両肘をつくと男の顔を覗き込む。水沼がテーブルの横に立つと、男はちらりとそちらに視線を寄こす。

「人を探している」東方が言う。「三十代男性、平均以上の知能に異常なまでのきれい好き。一度立てた計画は完璧に実行することにこだわるタイプ」

「質問に答えていないな」男はフォークを口に運びながら指摘する。「君は一体、何者なんだ?」

 東方はテーブルの上に警察手帳を置く。革の手帳は端がめくれ上がり擦り切れている。

「市警察捜査一課の東方だ。殺人犯を探している」

 殺人犯。

耳をそばだてていた周囲の客達の視線が一斉に集まる。ちょうど水を運んできていたウェイトレスの口元で膨らんだガムの風船が弾ける。

「殺人犯?」

 男が復唱すると、水沼がテーブルの上に写真を並べていく。人相の悪い男達の写真。皆、オレンジ色のシャツを着ている。

「わかっているだけで三十人以上。お前が殺した」

 ふむ。男は一度眉を吊り上げたあと、手元の鉄板に視線を落とす。こぼれ落ちたソースが熱せられてぷつぷつと表面が弾けている。再びステーキをゆっくりと時間をかけて切ったあと、目の前の殺人課刑事から視線を逸らすことなく口の中に肉片を運ぶ。二度、三度と咀嚼したあと男は刑事に言う。

「なるほど。もし僕が君の探している人間だとして、もちろん人違いだが、もしそうだとしたら、君は僕をどうするつもりなのかな?」

「一緒に来てもらうことになる」

「それは困ったな。趣味で小説を書いていてね。このあと図書館に行く予定なんだ」

「残念だが図書館はあきらめろ」

 そう言うと東方は窓の外を見る。ダイナーの駐車場にはいつの間にか赤色灯を回すパトカーが何台も並んでいる。

「状況が飲み込めたかな?」

「君の探している人物は余程大物らしい」男はそう言うと紙ナプキンで口元を拭く。「話はわかった、東方刑事。だが出来れば話は君からしてほしい。君は何故ここに来た? 何故、君の探している男が僕だと思った? 納得のいく答えが聞ければ、大人しく君に従ってもいい」

「こちらが話せば、そちらもすべて話してくれるのか?」

 東方の問いに、男はふっと笑うと、再び鉄板の上に残るステーキにナイフを入れる。ぎりぎりぎりぎりぎりぎり。肉が切れ鉄板に刃先が当たっても手を止めることなく、男は何度も何度も鉄板の表面にナイフの刃を擦りつける。一心不乱にナイフを動かし続ける異様な姿を、ウェイトレスはガムを噛むのも忘れて凝視する。金属と金属が擦れる不快な音を響かせながら空想のステーキをようやく切り終えた男は手を止め大きく息を吐く。それから満面の笑みを浮かべて男は刑事に言う。

「食事の間だけだ。食事が終わるまでなら君の話に付き合おう」

 東方日明はテーブルに両肘をついたまま、顔の前で祈るように両手を合わせると、二本の人差し指を唇に当てて不敵に笑う。いいだろう、話を始めよう。

「始まりは今から二年前。奥田由紀子が殺害された」



【COFFIN FOR THE PUGILISTS】



【ONE】


「いや、それは違うな」

 東方は顔の前で祈るように両手を合わせたままで言う。

「殺すことが目的ではなかったはずだ」

 そう言うと東方はぐるりと部屋を見回す。事件現場となったマンションの一室。女性の一人暮らしの1DKは今、刑事や制服警官で溢れかえっている。

「被害者は玄関に向かう廊下に倒れていたが、鍵はこの部屋の中に落ちていた」

背後の開け放たれた扉の先に玄関に向かって真っすぐ廊下が延びている。廊下の先には被害者をかたどったテープが床に貼られているのが見える。

「被害者はうつ伏せで倒れ背中を刺されていた。帰宅し一度この部屋に入ったところで鍵を落とし、それから玄関に向かったところを背後から襲われた。一体何があったのか?」東方は合わせた両手の人差し指でとんとんと唇を叩く。「決まっている。被害者はここで犯人と鉢合わせたんだ。そして玄関に向かって逃げ出した。では、被害者が帰宅した時、犯人はこの部屋で何をしていたのか」

「被害者を襲うために、ここで待っていたのでは?」刑事の一人が口を開く。

「違う。犯人には殺す以外に目的があった。殺すつもりがなかった可能性すらある」

「ええっ?」刑事の一人が思わず聞き返す。「ですが犯人は現場に凶器を持ち込み、被害者の背中を複数回刺しています。明確な殺意の現れでは?」

「検死報告書を読め。凶器の刃渡りはかなり小ぶりだ。台所には包丁もある。現場で調達すれば足がつかないというのに犯人はそうしていない。凶器は護身用に持っていただけだろう。これは衝動的な殺人だ。犯人には別の目的があったはずだ」

 現場がざわめく。こいつは何を言っているんだ。現場をかき乱すために来たのか。疑いの眼差しが注がれる中、東方は部屋の隅に立つ制服警官にたずねる。

「玄関にあった靴のサイズは二二・五センチだ。被害者の身長は一五〇? 一五五?」

「一五二センチです」

「小柄な女性だ。殺すためならわざわざ部屋に押し入るまでもない。通り魔を装って暗がりで襲うでも、車に連れ込むでもいくらでも方法はある」

「単に人目につくのを恐れただけなのでは?」

「机の上の写真立てを見ろ。被害者には恋人がいる。待ち伏せしている間に恋人がやってきたらどうする? 自宅に忍び込むのはリスクが高過ぎる」

「恋人の存在を知らなかっただけでしょう」半分、苛ついたような口調で刑事が言うが、東方は首を振る。

「違う違う、そうじゃない。犯人は被害者のことを十分に下調べしている、それは明らかだ。恋人の存在を知っていたのなら、殺害現場に自宅を選ぶなんてあり得ない」

「ちょっと待って下さい。どうして犯人が被害者のことを下調べしていたとわかるんですか?」

 刑事の問いを無視して東方は合わせた手を唇に当てたまま黙り込む。犯人の目的が殺人だけではないことはたしかだ。犯人は一体この部屋で何をやっていたのか。東方はゆっくりと部屋を見回す。犯罪とは本質的には何かを奪う行為だ。現場には被害者の財布も携帯電話も残されていた。物盗りじゃない。命を奪うためでもない。それでは一体、犯人は何を奪いたかったのか。

ふと東方の視線が一点で止まる。横倒しに倒れているキャスター付きのデスクチェア。おもむろに歩いていくと倒れたイスを引き起こし、それから刑事達に問う。

「一五二センチの女性が使うイスがどうして一番下まで下がっているんだ?」

 イスはレバーを引くと高さが変えられるが、座面は今、一番下まで下りている。

「写真の恋人が使ったのでは?」

 違う。「食洗器には食器が一人分、洗面台の歯ブラシも一本だけ、事件前夜に恋人が泊まった形跡はない。イスを最後に使ったのは被害者だ。少なくとも事件前夜にはこのイスに座っている」

「ちょっと待って下さい。どうして前夜に使ったとわかるんです?」

 いい加減にしてくれ。東方はうんざりしてくる。どうして頭を使わないんだ。東方は苛つくように机の上の日記帳を手に取りぱらぱらとめくる。「捜査資料によると、日記帳の最後のページは事件の前日だったはずだ」栞が挟まれた最後のページを開いて刑事達に突き付ける。「日記は普通、夜に書く。少なくとも事件前夜、彼女はここで日記を書いている。誰かがこの部屋に泊ったのでなければ、最後にこのイスに座ったのは彼女以外にあり得ない」だがイスは今、一番下まで下がっている。「つまりこのイスには、」

東方の言葉に刑事達がはっとした顔で思わずつぶやく。「犯人が座っていた?」

「決まっている。被害者と犯人が争ったのは玄関なのに、この部屋の中でイスだけが倒れていたんだ。被害者と鉢合わせた時、犯人はこのイスに座っていた。逃げ出した被害者を追うために慌てて立ち上がった際にイスが倒れたんだろう。そして犯人がイスに座っていたのなら、犯人の目的はこの机の上にあったはずだ」

 机の上を見る。日記を書いただろうペンはペン立てにきちんと収められている。引き出しを開ける。几帳面に文具が並べられている。引っ掻き回して何かを探した形跡もない。だとすると。東方は机の左奥に押しやられたノートパソコンを手元に引き寄せる。答えはこの中にあるはずだ。


「なるほど、犯人が被害者のことを下調べしていたという根拠はそれですね?」

 えっ、と俺は顔を上げる。

 自分を照らす照明に、一瞬視界が真っ白になり思わず顔をそむける。何度か強く瞬きをしたあと俺は再び光の方を向く。目の前にはすり鉢状の講義室の机に、制服に身を包んだ警察学校の訓練生が座っているのが見える。

「犯人がパソコンのロックを解除出来たということは、前もってパスワードを知っていたことになりますよね」

 俺は自分が今いる場所を思い出す。未未市警察学校第二講義室。俺は小さく頭を振ると、誰から発せられたかもわからない問いに返答する。

「面白い指摘だがそれは違う。被害者の冷蔵庫にはマンションのごみ収集日の手書きのメモが貼ってあった。こういうタイプの人間は、通販サイトごとに変えたIDやパスワードをご丁寧にメモで残しておくことがめずらしくない。案の定、日記の裏表紙に貼り付けてあったメモに、ノートパソコンのパスワードもあった。犯人が被害者のことを下調べしていたと言ったのは別の理由からだ」

 俺はそれから背後のスクリーンの画像を切り替え、事件現場となったマンションの外観を大写しにする。

「事件現場は十三階だ。被害者の部屋のベランダに行くには、他の部屋のベランダを通る必要があるが、高層階は外からの視線を気にする必要がないため日中はカーテンが開いていることも多い。誰にも気付かれずに周囲の部屋のベランダを通過するのは現実的じゃない。ではどうやって犯人は十三階の部屋に忍び込んだのか。もちろん玄関からに決まっている。だが鍵には壊された形跡もピッキングの跡もなかった。つまり犯人は合鍵を持っていたことになる。合鍵まで作ったのなら、犯人が被害者の帰宅時間など下調べをしていたのは明らかだ」

 合点がいったのか学生達がうなずくのが見える。

「だが犯人が合鍵を持っていたのなら別の問題が出てくる。事件の第一発見者は宅急便の配達員だ。時間指定の配達にも関わらず、インターホンにもノックにも応答がなかったため、ノブを回してみたところ玄関に倒れていた被害者を発見した。鍵はかかっていなかった。では何故、犯人は合鍵を持っているにも関わらず、現場から立ち去る時に鍵をかけていかなかったのだろうか」


 東方のその言葉に、現場の刑事達が息をのむ。お互いに顔を見合わせ、それからつぶやくように言う。

「まさか、犯人は動揺していた?」

「遺体の発見が遅れれば遅れるほど犯人には有利になる。普通なら犯人は現場から立ち去る時に鍵をかけていくはずだ」

 東方は部屋から出ると玄関に向かって歩き出す。刑事達が慌ててそのあとに続く。

「帰宅した時に扉の鍵が開いていれば被害者は不審に思ったはずだ。何の疑いも持たず部屋まで入ったということは帰宅時には鍵がかかっていたのだろう」

 東方は被害者をかたどったテープの前で立ち止まると踵を返し刑事達の方を向く。それから両手を顔の前で祈るように合わせると両手の人差し指を唇に当て、事件当日の光景を思い浮かべる。

「あの日、何があったのか。被害者が帰宅する。玄関の鍵を開け、靴を脱ぎ、廊下を歩いて部屋に入り、犯人と鉢合わせた。合鍵が作れたのなら犯人は被害者の身近にいる人間だ。だが被害者は犯人を一目見て逃げ出した。顔見知りの可能性が高いのに被害者が身の危険を感じたということは、犯人は男性だろう。犯人は慌てて被害者を追いかけイスが倒れた。イスの高さから犯人は大柄だ。犯人は玄関前で追いつき被害者を組み伏せた。大柄な男性と小柄な女性、難なく制圧したはずだ。だが体格差があるにもかかわらず犯人は何度も何度も被害者を刺している。動揺していたんだ。パソコンを開くのに手間取ったのか、あるいは被害者の帰宅が予定よりも早かったのか。想定外の事態にパニックになり、犯人は思わず被害者に襲い掛かり夢中で刺した」

 東方は手をおろすと、刑事達を睨みつけるように見る。

「結論。犯人は被害者の身近にいる身長一八〇センチ以上の男性。行動力はあるが行き当たりばったりで綿密な計画を立てるのは苦手。感情的になると冷静さを失うタイプ。きっと今頃は犯す予定のなかった殺人に怯えているはずだ。普段と違う行動をとる人間がいたら手当たり次第に取り調べろ。きっとすぐに自白する」


 その瞬間、ブザーが鳴り響き、俺は再び目を覚ます。

 目の前に並ぶ学生達に、俺は事件現場にいるのではなく殺風景な講義室に立っていることを自覚する。まったく。俺は自嘲的に笑うと、それから彼等に向かって不愛想に告げる。

「授業を終わる」


1996/3/13 Wednesday


 講義室を出ると、一人の男が待ち構えるかのように仁王立ちで立ちふさがっている。禿げ上がった頭と対照的に豊かな口髭、黒縁眼鏡の奥から俺を睨みつけている。俺はふむと首をかしげてたずねてみせる。

「これはこれは校長殿、一般講義棟にお出ましとは何かありましたか?」「自分の胸に聞いてみて下さいよ、東方警部補」どうやらご機嫌斜めらしい。一体何の悪さがばれたんだ。「まだ誰も殺していないぞ」おどけた調子で言うが一切取り合うつもりのない様子で彼は言い返してくる。「厄介ごとはごめんです。どうして彼等がここにいるんですか?」「彼等って?」おい、と校長は険しい顔で俺の目を覗き込む。「本当に、誰も殺していないんでしょうね?」そこまで信用ないのかよ。「多分。眩暈の薬のせいで時々記憶が曖昧になるんだ」「私は真剣に聞いているんです」「こっちもそうだ」俺は若干苛つきながら改めて聞く。「一体誰が来ているんだ?」

 校長が振り返った先、廊下の向こうに一人のスーツ姿の男の姿が見える。目が合うとにっこり笑ってみせるが知らない顔だ。まだ若い。だが男が抱えているファイルの端を指でとんとんとノックする姿に俺は理解する。ファイルの表紙には桐の紋章。「法務省の役人が何の用だ?」俺は男の方を向いたまま校長にたずねる。「知りませんよ」校長は俺の横顔を睨みつけながら言う。「あなたを引き受けたことについて、いまだに好ましく思っていない連中は少なからずいます。問題が起きれば私の立場も危うくなる」「校長には心から感謝していますよ」「必要あらば、私は容赦なくあなたを切りますよ」俺はぽんぽんと校長の肩を叩く。「聞き飽きたよ」

 さて、もちろん俺も厄介ごとや揉め事はごめんだし心当たりは何もない。この半年間、俺はマスコミの目を気にして優等生に徹している。信号無視はおろか歩きタバコもしていない俺が、法務省の役人に目をつけられるいわれはないはずだが。俺が近寄ると、前髪の長い優男はにこにこと笑顔を浮かべたまま会釈する。猫のように大きな目がこちらをじっと見ている。

「法務省から参りました九一桜と申します」イチジクカズオ? 変わった名前だな。「東方警部補にお願いしたいことがありまして、少し、お時間をいただけませんか?」お願いしたいこと? 嫌な予感しかしない。「あいにく午後から講義が、」「本日の講義は先程の午前中の一コマだけだと確認しております」「午後の講義がないのはカウンセリングの予約が入っているからだ。定期的に受診するのがこの仕事を継続するための条件だ。家のローンも残っているし仕事を失うわけにはいかない」俺は饒舌に語るが男は笑顔を崩さない。「あなたのカウンセリングは毎週火曜日と金曜日ですし、今住んでいるのは借家です。以前住んでいた自宅も離婚した際に元奥様の名義に変更されており、あなたにローンの支払い義務はありません」「そこまで知っているのなら、教官室の机の一番下の引き出しに隠してる物も知ってそうだな」「知っていますが、ここで答えましょうか?」こいつ。「答えなくていい」俺の言葉に満足そうに男はうなずくと、それではこちらにどうぞと一言、踵を返して廊下を歩き出す。俺は黙ってそのあとに続くことにする。



 法務省から来た男は講義棟を出ると、待たせていた黒塗りの車の後部座席の扉を開く。俺は促されるままに座席に乗り込み、男はぐるりと反対側に回ると俺と並ぶように後部座席に座る。車体が沈み運転手とルームミラー越しに目が合うが、相手は表情一つ変えない。男が出して下さいと能天気に告げると、運転手は無言でサイドブレーキを下ろし、車はゆっくりと動き出す。

「お忙しいところすいません。話はすぐに終わりますので」九一桜はにこにこと笑いながら俺に言う。密談するなら動く車の中というのはありがちだが、あいにくそんなB級映画的リアリティなど俺はもう二度と御免だ。ため息まじりに革張りの後部座席に深々と背もたれると、ふと助手席の背面のポケットに入っている一冊の雑誌が目に入る。手を伸ばすと、見慣れた仏頂面がカメラのフラッシュを避けるように顔の前に手をかざす写真がでかでかと表紙を飾っている。「くだらない演出だな。それとも単なる嫌がらせか?」俺は横目で睨みつけるが、九は面白そうに目を細めると、そのどちらでもありませんよと笑う。「ここに来る道中に読んでいたんです。あなたのことを知りたくて」俺は雑誌をぱらぱらとめくる。当時は嫌がらせのように市警察の至る所にこの雑誌が置かれていた。我ながら大した嫌われ者だな。「警官殺しを解決した市警察の英雄の正体に迫る。興味をそそられますね」九の楽しそうな声に、俺は一年前のあのくそったれ事件を思い出す。

 連続警官殺害事件。

 未未市警察史上、最低最悪の一週間。それはただの殺人事件と呼ぶにはあまりにも凄惨で、警察組織と犯罪組織による戦争と言うべきものだった。だが戦争である以上、勝っても負けてもこちらの負けは端から決まっている。あの事件に関わった者に勝者は一人もいなかった。事件を解決した俺ですら徹底的に敗者だった。本当に、徹底的に。

「連続警官殺害事件。戦争を終わらせた捜査一課を世間は称賛しましたが、犯人側の弁護士によって事件の背景が明るみになると一転、掌を返して市警察をバッシングし始めた。一体何があったんです?」俺は九に雑誌を投げると睨みつけて言う。「ここに全部書いてある。読んだんだろ?」「ええ。ですがあなたの口から聞きたいんです。あなたがあの事件をどう認識しているか、そこが重要なんです」何故。「ねえ東方さん。一体何があったんです?」俺はこの優男に殺意が沸き上がる。「一年前、市警察は証拠を捏造した」

 一九九五年五月。市警察は犯罪組織を壊滅させるために証拠品を捏造した。それが組織に知られることとなり、何の罪もない警官達が復讐の犠牲になった。あの戦争は市警察が始めた戦争だった。

「市警察の証拠の捏造が明らかになり、世間からの非難は熾烈を極めた」「それから市警察はどうなりましたか?」「戦争の責任を取らされた。本部長は辞任、捜査一課長は罷免、」「それだけじゃないでしょう?」「何のことだ」「あなたの相棒のことを言っているんです」がちり。俺は割れるほど強く奥歯を噛みしめる。「あいつは、」あいつは、「あいつは市警察に愛想を尽かせて警察手帳を置いた。仕方がないことだ」「あなたの父親代わりでもあった捜査一課長が異動し、最大の理解者であった相棒も辞職した。あなたは多くを失いましたが、そんな中、あなたは突然市警察の英雄と呼ばれるようになった。ここがわからないんです。警官殺しの実行犯を逮捕したのはあなたではないですよね。どうしてあなたが市警察の英雄になったんです?」何が英雄だ。笑わせるな。「それは俺が、」「俺が?」「裏切者を逮捕したからだ」そう、俺は証拠を捏造した汚職警官を逮捕した。仲間に手錠をかけ、そして英雄に祭り上げられた。だがそれは、市警察は警官の汚職を自らの手で正した、市警察は過ちを反省し正しい道を歩むことが出来る、そうアピールするために市警察の広報課が作り上げた張りぼての虚像に過ぎなかった。

「マスコミに取り上げられテレビのトークショーにもゲスト出演したというのに、」九はぱらぱらと雑誌をめくりながら言う。「警官殺しを解決した市警察の英雄、常軌を逸したパワハラの過去。ずいぶん扇情的な見出しですね」九は俺の写真が載ったページと俺の顔をまじまじと見比べ、写真写りはいまいちですねと笑う。「あなたの相棒は余程優秀だったのでしょうね。相棒を失ったあとにあてがわれた新人の無能さに耐え切れず、あなたは新人を苛め抜いた。誤算だったのは彼が市警察の懲戒委員会に駆け込んだことと、マスコミにその一件がリークされたことでした。あなたは一夜にして市警察の英雄から市警察の汚点の象徴になった」

 そう、あの頃の俺は本当に馬鹿だったのだ。皆にちやほやされ、勘違いし、酔いしれていた。そして、「俺は身内に売られた」

 因果は回る。仲間に手錠をかけた俺は、結局仲間に売られることになった。

「大衆は力を持つ者を叩くのが大好きだからな。大きく持ち上げられた者ほど、引きずり下ろす時の快感は大きくなる」

 俺の自嘲的な言い方に、九はなるほどとつぶやく。

 俺は身内を刺し、そして身内に刺された。刺した相手はわかっている。事件のあと、新たに赴任してきた捜査一課長の神経質そうな顔が脳裏に浮かぶ。俺に肯定的だった前任者とは犬猿の仲だったと聞くその男は、未未市警察の叩き上げで警視まで上り詰め、市警察に忠誠を誓う保守的な人間だ。市警察が非難を受ける中、仲間に手錠をかけた挙句に一人英雄視される俺があの男にとって面白く映らなかったとしても不思議はない。そして皮肉なことに俺の醜聞がマスコミに出た途端、世間は俺を叩くことに夢中になり、市警察への非難はぴたりと止んだ。言ってみれば俺は、市警察の身代わり羊だった。

黙り込んだ俺に、九は小さく微笑みながら言う。

「未未市警察は特別な存在です。四大政府直轄都市に設置されている市警察は、この国の警察組織からは独立した存在ですが、その誕生の経緯はご存知ですか?」

さあな。「大学の授業はさぼりまくっていたからな」

「現行の警察組織は、戦後、戦勝国の占領下に押し付けられたものです。そういう出自を良しとしない一勢力にとって、政府直轄都市に自治体警察を導入することは悲願でもあったわけです。未未市警察は近代自治体警察の第一号であり、この国の新しい警察の象徴たる存在です。特別な存在なんですよ」

 九の言葉はろくに頭に入ってこない。どうしてそんな話をしている。

「自治体警察は市警察本部とそれを管理・運営する警察委員会の二つの組織から構成されています。そして警察委員会が法務省の天下り先でもある以上、市警察本部はわれわれの意向は無視出来ません。つまり自治体警察は市議会の直轄組織でありながら本質的にはわれわれ法務省の管理下に置かれています」

 何だ、だからそれがどうしたと言うんだ?

「未未市警察が特別と言ったのは、われわれにとってと言う意味です。平時は市議会が管理・運営をしますが、非常時にはわれわれが介入する。例えば、世間を揺るがすような汚職事件が発覚した場合などは」

 ぎしり。俺は頭の奥の方で何かがきしむ音を聞く。

「もしかして東方さんは市警察の誰かに逆恨みされて足を引っ張られたと思っていませんか? あなたは勘違いしています。これは最初から仕組まれていたことなんです」

 がたん、と小さく車が跳ねる。窓の外を見ると、車が高速に乗ったことがわかる。どこに向かっている? 俺はそれから九の方を見る。

「今、何て言った?」

「シナリオを描いた人間がいるんです」

 俺は努めて感情を押し殺しながら言う。

「言っている意味がわからない」

「またまたあ。東方さんはとっくにわかっているはずですよ。あなたが汚職警官に手錠をかけた時点で、市警察が世間から非難の嵐にさらされることは決定事項でした。事態の収拾には生贄が必要だったんです。ご自分でおっしゃったじゃないですか。大衆とは成功者の堕落を望むものなんです。あなたを英雄に仕立て上げ、一番いいタイミングで市警察の非難を一身に背負ってもらう。あなたが身代わり羊に堕とされるシナリオは、最初から仕組まれていたことなんです」

 誰だ。俺は思わず九の方を向くと、牙をむく。「誰がやった?」

「ぼくです。ぼくがこのシナリオを書いたんです」

 この野郎。

 俺はためらうことなく拳銃を取り出すと九の額に押し当てる。

「殺すぞ」

「無理ですよ」

 そう言うと九はにっこりと笑う。

 もちろんこれは俺の妄想で、俺は拳銃なんて持っていないし後部座席にもたれかかったまま身動き一つしなかった。俺が九の言葉に暴力で返すことなくただ一度、小さく唇を鳴らしただけだったのは、こいつの言葉に疑問があったからだ。考えるべきことがあったからだ。

 こいつはどうして俺にこんな話をしているんだ。どうして俺を陥れたと告白するんだ。どうして俺は今、ここにいるんだ。「むかつくぜ」一しきり考えたあと俺は小さく喉を震わせる。こいつはわかっているんだ。俺が今、何に恐れ何に怯えているのか。市警察の身代わり羊になってからの俺の悪夢は、誰が敵で誰が味方かわからなくなったことだ。味方のふりをしてマスコミに俺のネタを売った奴は何人もいた。本当に俺のことを気遣ってくれたのに俺が拒絶し壊した関係もあった。俺は誰も信じられなくなり、家族すら失ってしまったんだ。だからこそ、こいつは屈託なく手の内を晒した方が俺の信頼を勝ち取れると踏んでいるんだ。信頼を勝ち取る、何のために? 決まっている、俺と取り引きをするつもりなんだ。だが俺は敵と味方の線引きが出来ない限り取り引きには応じない。一方でその線引きさえ出来ればたとえ敵であっても取り引きは成立し得る、こいつはそのことをきちんと理解しているんだ。だからこそこいつは俺にこんな話を聞かせている。九一桜、本当にむかつくぜ、こいつは俺のことをよく理解している。本人よりもずっとよく。それが何よりも腹立たしい。

 俺は憤りと若干の諦めとない交ぜのため息をつく。

「もういい、条件を言えよ。俺が飛び付くような餌を用意しているんだろ?」

 九は一瞬呆気に取られたような表情を浮かべるが、すぐにまたあの柔らかい笑顔を浮かべて言う。「想像以上です。話が早くて助かります」

 だが、本来なら時間をかけて俺を懐柔すればいいのに、こうやって車に連れ込み、交渉が決裂するリスクを負ってまですべてをさらけ出しているのは、事態が切迫しているということだろう。そして俺に何かを求めているのなら、生憎俺に出来ることなど一つしかない。俺は九に向かって手を差し出して言う。

「出せよ。誰が殺されたんだ?」

 九は警察学校で見せた桐の紋章が刻印されたファイルを小さく振って見せる。

「東方警部補。あなたにこの殺人事件を捜査していただきたい。この事件を解決していただければ、あなたを元の地位に戻すことをお約束します」

 俺は困惑する。そんな餌に俺が飛び付くと思うのか?「俺は今でも捜査一課だぜ」

「書類上はそうです。ですが捜査権は奪われています」

 それは正しい。市警察の殺人捜査は捜査官二人一組が義務付けられているが、俺に相棒はいないし、他にあぶれている刑事もいない。

「誰かが急に捜査一課を辞めるか殉職でもしない限り、あなたにあてがわれる可能性があるのは新人だけですが、その新人を潰したと懲戒委員会で認定された以上、あなたとは組ませられない。事実上、今のあなたに殺人事件の捜査権はありません」

 そして、唯一許されている仕事が警察学校での講義だなんて、殺人課刑事を名乗るのもおこがましい。

「東方さん。ぼくならそれを変えられます」

「どうやって? 市警察は俺が新人と組むことを許さないし、俺自身、もう二度と新人なんかと組む気はない。おたくが市警察上層部に圧力をかけて解決する問題じゃない」

「ですから用意すると言っているんです。あなたに従順で、あなたの元相棒にも負けず劣らず優秀な刑事をぼくが手配します」

「市警察は独立した自治体警察だ。どこかの署から異動させるなんてことは簡単には出来ないはずだ。それともあの警察学校の出来の悪い連中が一人前になるまで待てと言うのか?」

「お忘れのようですが、この国の政府直轄都市は全部で四つ、それぞれに自治体警察が存在しています。警察委員会同士は一定のルールの下で提携していますし、いずれの警察委員会にも法務省の意向は届きます。出来のいいのを手配するのは容易いことです」

 不可能ではないだろう。だが、

「さてどうします? このまま話を聞くも、口うるさい校長の元に戻るもあなたの自由です。ご希望あればいつでも車は引き返します」ですが、と九はつけ加える。「これは法務省からの正式な捜査依頼です。それを断ればあなたは警察委員会と明確に敵対することになります。そうなれば、あなたはこれから一生、殺人事件の捜査を奪われる」

 なるほど。俺に何を与えるかじゃない、俺から何を奪うのか、それがこの取り引きの本質だ。今の俺はすべてを失ったように見えるが、実際にはまだ持っている。殺人課刑事に戻れる可能性。そして俺が俺を取り戻すにはそうするしかないことを、俺がその日が来るのを渇望していることを見抜かれている。くそったれ。俺に選択肢を与えないつもりか。

「どうします? このファイルを受け取りますか」

 九の笑顔に俺は小さく舌打ちをしたあと努めて冷静に言う。

「二つ確認したいことがある」

「欲張りですねえ。一つにして下さい」

「駄目だ。二つ答えろ」

「仕方ないなあ。東方さんだから特別ですよ」

「まず一つ目、どうして俺なんだ? 市警察には俺以外にも優秀な刑事はいくらでもいる。俺でなければ解決出来ない事件など存在しないし、俺を頼る理由がわからない」

「それは簡単です。先方があなたを指名しているんです。あなたの評判は世間では地に落ちていますが、市議会を始め一部の方々からは絶大なる信頼を得ているようですね。被害者側があなたを是非にと推薦してきたんです」

「もう一つ、おたくが提示した条件が守られるという保証はあるのか?」

「ぼくが法務省自治体警察の担当局に赴任した最初の仕事が、一年前の未未市警察汚職事件のダメージコントロールでした。あなたが法務省にとって重要な存在になるなんて当時は想像すらしていませんでした。あなたを使い捨ての駒に選んだのは純然たるこちらの過失です。自らの失態は自ら挽回しなければなりません。だからこうして、わざわざ未未市まで自ら出向いてきたんです。それ自体がぼくの本気度の証明とはなりませんか?」

 食えない奴だ。あけすけ過ぎるが嘘をついているようにも思えない。

 俺はファイルを受け取ろうとするが、そこでふと疑問が頭をよぎる。

「被害者側が俺を指名したって? 一体誰が殺されたんだ?」

「事件の舞台は東洲区重警備刑務所です」

 その答えに俺はようやく腑に落ちる。俺をいざなう殺人事件の舞台。

「まさか、D区画か?」

「はい。半年前、あなたは脱走犯を見つけ出した」


1995/10/2 Monday


 朝から課長室に出頭するよう命じられた東方は、ノックもせずに捜査一課長室の扉を開く。机についている背の高い神経質そうな男が、無言で手招きして自分の元に来るよう促すが、東方は扉を閉じた後ろ手でノブを掴んだまま扉にもたれかかり近寄ろうとしない。

「市警察への非難の視線が厳しい中、マスコミに持ち上げられ調子に乗った挙句、このような失態を晒すとはな」

 そう言うと課長は一冊の雑誌を東方に見えるようにかかげてみせる。

「一方的にやり玉に挙げられるのは納得出来ませんね。あの新人がいい加減な捜査をしたことは事実です。それを咎めたら懲戒委員会に訴えるなんて無茶苦茶です。こんな話が通るなら、どうやって一緒に捜査をしろと言うんですか」

「お前の言い分は懲戒委員会で十分聞いた。二カ月の減給で済んだんだ。ありがたく思え」

「その雑誌には俺が懲戒委員会にかけられたことも載っています。市警察内の出来事を外部に漏らすなんて服務規程違反でしょう。あの新人こそ罰せられるべきです」

「彼はすでに辞表を提出し正式に受理されている。今更彼を罰することなど出来ない」

「俺一人が悪者ですか?」

課長は件の雑誌をゴミ箱に投げ入れ、それから東方に冷たい口調で告げる。

「今後一切のマスコミへの接触は禁ずる。お前は今や市警察の面汚しだ」

 東方は小さく唇を鳴らすと、課長に向かって言う。

「俺が袋叩きに合ってずいぶんとうれしそうですね」

 課長は答えない。

「あなたが親父とどんな因縁にあるかは知りませんがね、俺に当たるのは筋違いですよ」

「御厨の失敗は、お前みたいなはねっ返りに好き勝手をさせていたことだ。事件解決率が高いことは認めるが、お前の代わりなどいくらでもいる。それをお前は自分が重要な人間だと勘違いしスタンドプレーに走ってきた。御厨はそれを許したのだろうが私はそうではない。ここは未未市警察、この国最初の近代自治体警察だ。われわれはすべての自治体警察の模範になるべき存在だ。それがわからなかったから御厨は職を失った」

「あんたに親父の何がわかる」

「見上げたご忠信のようだが、お前に汚職警官の取り調べをさせ、告発をさせたのもまた御厨だ。この意味がわかるか? お前を信頼していたと言えば聞こえがいいが、あいつは結局のところ自分の手を汚すことを嫌い、お前に仲間を断罪させた。汚職警官をお前は裏切者と呼んだが、お前自身が他の刑事達からどう思われているのか考えたことはないのか? 仲間を背中から刺した男。お前は、背中を裏切ったんだ。彼等にとっては、お前の方こそ裏切り者だが、お前にそうさせたのがその親父殿だ」

 東方は言い返せない。すべて本当のことだからだ。

 あの事件以来、東方は殺人課刑事ではなくなった。彼等の仲間ではなくなった。どんなに世間でもてはやされても常にどこか焦燥感が蝕み、周囲に苛つきをぶつけるようになり、挙句あの無能な新人に当たり散らして東方は自分の人生にとどめを刺した。改めてその事実を突きつけられ、東方は何も言い返せなくなる。黙り込んだ東方に課長は言う。

「お前が誰も信じないのは勝手だ。相棒を作らないのも好きにすればいい。だが、自治体警察では殺人事件の捜査は二人一組が原則だ。一人である以上、殺人事件の捜査は禁止とする。異常死体の検分は許可するが、殺人事件と判明すれば他の人間に担当させる。話は以上だ。仕事に戻れ」

 課長室から出ると、刑事部屋の自分の机に戻る。ご丁寧に件の雑誌が机の上に開いた状態で置かれている。反応を見ようと遠目に観察している視線に、東方は無言で雑誌を手にすると、刑事部屋の窓を開いておもむろに外に向かって投げ捨てる。ばさばさとページがあおられる音が遠くに消えたあと、職員駐車場から、おい、という怒声が上がるのが聞こえる。呆気に取られている同僚達を無視して、東方は通信係の机から異常死体の通報のメモを適当に一枚ひったくると刑事部屋から出ていく。



 市警察の駐車場に停めてある古い2CVに乗り込むと東方はメモを見る。第三埠頭近くの工業用水路で上がった不審死体。事故か病死か自殺かあるいは。いくらこの街が悪名高い凶悪犯罪都市とはいえ、不審死体の多くは殺人事件などではない。それを判別するのも捜査一課の大事な仕事だが、相手はホームレスなど身元不明の死体も多く、労力を要するだけで手柄にならないこんな仕事は誰もやりたがらない。普通は配属されて間もない新人がやるべき仕事だが、今の東方には唯一ともいえる現場仕事であるため選択肢はない。とはいえ、「朝っぱらから溺死体かよ」東方は悪態をつくとキーを回しアクセルを踏み込む。

 第三埠頭に向かう車を小雨が打つが、ワイパーのゴムが劣化しているためどれだけ拭ってもフロントガラスを雨の幕が薄く覆っている。第三埠頭近くには工場が多く、工業用水路が張り巡らされている。近くには公園や小学校もあるというのにコンクリート製の用水路の多くにはガードレールやフェンスが設けられていない。深さ、幅共に二メートルはあるだろう巨大な溝にはこれまでも子供や老人が転落した事故が起きている。フェンスを作れ、簡単なことだろう? 用水路の水深はせいぜい数十センチだが、転落した際に受傷すれば容易にそのまま溺れてしまう。身元不明ということは大方酔っ払ったホームレスでも落ちたのだろうが、酔っていればなおさら簡単に命が奪われる。まいったな、溺死体かよ。どれだけ時間が経過しているかもわからない。損壊が激しければ身元の確認が困難を極めるのは火を見るよりも明らかだ。貧乏くじだったかな。東方は小さく舌打ちをすると乱暴にハンドルを切る。

 たたらんたたらん。いつの間にかフロントガラスを打つ雨音は激しくなっている。道路の先に黄色い規制線と制服警官達の姿を見つけ、東方は出来るだけ近くまで車をよせてから停車する。傘は持っていない。車から出ると制服警官の方に駆け寄り強引に警官がさす傘の下に体をねじ込ませる。

「状況は?」東方の口から白い息が漏れる。「そこの用水路に浮いているところを犬の散歩中の老人が発見、通報してきたのが四時間程前です」すでに死体は引き上げられシートがかけられたままストレッチャーに乗せられている。「第一発見者は近所に住んでおり、事情聴取のあと一度帰宅させています。話をお聞きになりますか?」いいやと東方は答え、用水路を覗き込む。雨で水かさが増した濁った排水が流れている。水深は現場検証中の鑑識官の膝くらい。雨で水深が増す前にこの高さから落ちれば、外傷が致命傷になってもおかしくない。「死後かなり時間が経過しており含水で損傷もひどく、鼠にかじられたような跡もあります。顔貌もはっきりしませんが、引き上げた死体を見ますか?」冗談じゃない。東方はいいからさっさと運び出してくれと告げる。「財布や身分証、携帯電話は所持していませんでした。水路底をさらっていますが今のところは何も」用水路の濁った水面に雨の波紋がぱらぱらと生まれては流れ消えていく。時間が経っているならかなりの距離を流されてきた可能性もある。用水路は複雑に入り組んでいる。ここで用水路に落ちたのでなければ、落下地点の特定はかなり厄介な作業だ。まったく。どうしてフェンスを作らないんだ。

東方はそれから制服警官に手早く指示を出すと車に戻る。まずは検死、話はそれからだ。キーを回し、エンジンをかける。雨が打ちつけるフロントガラス越しに、黄色い規制線の向こうで制服警官達がこちらを見て何やら話しているのが見える。ここでも俺は有名人か。東方はもう慣れっこになっていて無感情のまま車をバックさせる。



翌日。東方は観察医務医院に向かって車を走らせる。今朝、受け取った検死報告書には別段不審な点は認められなかった。工業用水路に浮かんでいた死体は三十代から四十代の男性、死後数週間が経過。死体には複数カ所の骨折を認め、頭蓋骨骨折及び脳出血が致命的になった可能性が示唆されていた。肺内に白色泡沫は認めず、溺死よりも外傷が直接死因の可能性が高いと思われたが、水路に転落したことで受傷したのか、事故などで頭部を打撲したあと水路に落ちたのかは判別困難。事件性についての最終結論には時間がかかる見込みであるということだった。目撃証言でもあればいいが、何しろ身元がわからない。損壊されており生前の顔も不明だ。厄介なことは違いないが、それにしても何故、俺は観察医務医院に呼び出されたのだろうかと東方は訝しむ。

 監察医務医院地下の死体安置室に入ると、部屋の奥の机についている白衣姿の大きな背中が見える。何かをむさぼっている背中に東方は呆れたように声をかける。

「用があるなら電話で言えよ。どうしてわざわざ呼び出すんだ」

 振り向いた白衣の男は、手術用のキャップをかぶり、マスクを顎までずらしたままサンドイッチをほおばっている。ハムやらレタスやらがはみ出したサンドイッチを右手に、左手の指についたケチャップを舐りながら男は愉快そうに笑う。

「よお早かったな」

「検死報告書ならもう読んだぜ。わざわざ呼び出した理由を教えろよ」

「どうせ暇だろ。それより見たよ」

 監察医は机の上の雑誌を手に取って振って見せる。こいつもかよ。東方はうんざりするが、鈍感な監察医は意に介さず汚れた手でページをめくりながらまじまじと雑誌を見る。「それにしても、酷い写真写りだな」

「それを言うためにわざわざ呼び出したのか?」

「そんなわけないでしょうが」

 立ち上がった監察医の張り出した腹が揺れる。こいつは会うたび何かを食べており、まともに解剖している姿を見たことがないが、どういう仕組みで給料が支払われているんだ。

「内臓はほとんどが健康体、軽度の脂肪肝に胃内のポリープ以外、明らかな肉眼的異常は認めなかった。健康な死体だよ。病死は除外していいと思う」

「だから、どうして呼び出したんだ」

「肺内に残ったプランクトンや藻類、化学物質を分析して用水路に落ちた場所を特定しようと思っていたんだけど、その必要がなくなったんで、まず君に知らせようと思ってね」

「落ちた場所がわかったのか?」

 監察医は東方の方を見ると真ん丸な顔に笑みをにいっと浮かべる。

「君はやっぱり持っているね。これでまた、君はヒーローに返り咲きだ」

 監察医は死体が安置されているロッカーの扉に手をかけるとぐいっと手前に引き出す。金属製の引き出しにはカバーのかけられた死体が横たわっている。

「まずはこれを見てくれ」

監察医がカバーをめくり、東方は思わず顔をしかめる。損傷が激しい死体だが、監察医が指差す死体の右肩に、刻まれた何本かの線が見える。

「バーコード?」

「大昔、若者のファッションで流行ったものだけど、今でも一部のストリートギャングのチームで、仲間を認識するためにチームごとのバーコードタトゥを彫る文化は残っている」

「じゃあこれをスキャンすればこいつの個人情報でも出てくるのかよ」

「まさか、スーパーのレジじゃあるまいし。ただね、どうもこのバーコードを入れていた連中は、四年ほど前に捜査三課によって逮捕、解散させられているんだ」

「じゃあ、三課に問い合わせれば、」

「要はさ、犯罪歴がある可能性が高いってことだ。そして死体が見つかったのは第三埠頭。ぴんとくるだろう?」

 東方が怪訝そうな顔で突っ立っていると、え、わからない? と監察医は机の方へと歩いていきファイルを一冊手に取って戻ってくる。「何だよこれ」ファイルを開くとそこには何枚かの写真が挟まれている。

「監察医務医院に来たらすぐに衣類は脱がされるでしょう? ぼくが解剖台でご対面する時にはすでに素っ裸なわけだ。通常は衣類なんて気にしないんだけど、すぐに確認したよ。二枚目を見なよ、死体が着てたシャツ、胸元に縫い込まれたワッペン」

 排水で汚れた手術着のような半袖シャツの写真。たしかに左胸にあたる部分にワッペンが縫い込まれている。灰色と茶色が入り混じったような泥で汚れて読みにくいが、アルファベットが刺繍されている。

「T、、、H、、、これはSか、S、P、THSP、聞いたことがないな」

 俺の言葉に呆れたように監察医が声を上げる。

「おいおい、テレビを見ないのか? この二週間、散々画面に出ているだろう?」

「知らん。マスコミに追いかけられてからテレビはずっと消している。自分の顔なんて見たくないからな」

「THSP、Toshu-ward heavy security prison. 東洲区重警備刑務所だよ。これは囚人服だ」

「囚人服、」

 おい、まさか、と東方は顔を上げる。

「そう、この死体はね、斉藤雅文だよ」

 


それから事態は急転する。

 東方が市警察への一報を入れた十五分後にはサイレンが鳴り響き、監察医務医院の前に何台ものパトカーが集結する。刑事達が足音を響かせ地下の解剖室へと乱入してくるなり、東方と監察医の前にずらりと並ぶ。

「捜査一課の東方警部補だな」

 中央の男は威圧感をまき散らしながらたずねる。捜査二課の近藤警部、男はそう名乗るがそんな奴は知らん。

「東洲区重警備刑務所から取り寄せた斉藤雅文の医療記録から、歯型と右足の傷跡が一致、現在DNA鑑定も指示しております」

 監察医が直立して慇懃に答える。こいつ、俺に対する態度とは大違いだ。

「最終的な結論を待つまでもなかろう。この死体を斉藤雅文と断定し、この先は捜査二課が引き継ぐ。東方警部補、異論はあるまい」

 ご随意に。東方がやれやれといった様子で肩をすくめると、何だその態度はと警部の取り巻き達がいきり立つ。

「貴様は今、いろいろと大変そうだからな。こんな大事件は荷が重かろう?」

 近藤警部の言葉に取り巻き達が一斉に笑う。どこかで練習してきたのかよ。それから手早く捜査資料と検死記録をかき集めると、刑事達一行はぞろぞろと監察医務医院をあとにする。あとに残された見慣れた顔の二人に東方はたずねる。

「どうしてお前らまでここに来たんだ? 囚人の脱走事件は二課の管轄だろ」

 東方と同じ捜査一課の刑事が二人、大島と杉本が不愛想に突っ立っていた。

「課長に言われたのさ。お前が近藤警部に失礼な態度を取らないように子守しろって」

 背の高い方、短髪でがっしりとした体つきの刑事が言う。

「ご苦労なことだな。誰が好き好んでこんな事件を欲しがるかよ。謹んで二課に譲るさ」

「お前が関わっていることが知られれば、こぞってマスコミが押しかけるからな。お前は目立つなよ」

 杉本の言葉に東方はふんと鼻を鳴らす。それにしても、まさか通信係のメモから適当に引き当てたのが例の脱走犯だったとはな。斉藤雅文か。数週間前に東洲区重警備刑務所から脱走し、懸命な捜査にもかかわらず一向に手がかりは掴めずにいた。警官殺害事件から半年、ようやく落ち着きを取り戻したところに降って湧いた災難、二課の警部殿が慌てて出張ってくるのもうなずけるが。

「課長からの伝言だ。午後、管理委員会の特別捜査官が事情聴取に来る。丁重に対応しろとよ」

「管理委員会? 何だそれ」

 東方の言葉にもう一人の刑事、派手なネクタイの男は心底驚いたような表情を浮かべる。「お前、本当に何も知らないんだな」大島は侮蔑した視線を送りながら東方に言う。「囚人が脱走したのは東洲区重警備刑務所のD区画だぜ」

 D区画。どこかで聞いたなその名前。そして東方は思い出す。「ああ、例の本か」そういうことだと杉本がうなずく。数年前、T県の刑務所内医務室に勤めていた医者が一冊の本を出版した。刑務官による常習的な囚人虐待の事実を告発したその本はベストセラーとなり、その後、芋づる式に全国の刑務所で囚人虐待の事実が発覚し社会問題となった。本が話題になったあと、医者は人権派弁護士と組んで政治団体を設立、政府に囚人の人権保護と待遇改善を要求した。世論の支持を受け社会的にも無視出来なくなった政府は海外の先例に倣い、試験的に新しい囚人更生プログラムの導入を決定した、とかなんとか。

「まず、首都圏の刑務所三カ所に実験区画が設けられ、運用が軌道に乗ったところで、二年前に東洲区重警備刑務所に実験区画が設置された」四番目の実験区画。通称D区画か。「社会実験と言えば聞こえはいいが、まあ早い話が人権保護団体の圧力に負けて囚人達の楽園を作っちまったと言うことだが、」杉本はふんと鼻を鳴らすと苦々しく言う。「囚人達に感謝されるどころか、飼い犬に手を噛まれたということだ」

「東洲区刑務所自体は市議会が運営しているが、D区画は法務省の管轄だ。管理委員会の捜査官に会え。ちゃんと伝えたぞ」

 そう言うと、杉本と大島の二人は踵を返す。

「お使いご苦労さん」

 東方の言葉に、振り返った大島が盛大な嫌味を言い放つ。

「お前の醜聞が三流雑誌どまりなのは、脱走事件があったからだぜ。脱走犯の脅威がなくなれば世間はすぐに次の獲物を探し始める。お前はその候補の筆頭だ。せいぜいサンドバックになる心の準備をしておくんだな」

 二人の刑事が死体安置室から出ていくと、監察医がのんびりした声で言う。

「君達って本当に仲がいいねえ」

「この死体を引き当てた俺は、ヒーローになるんじゃなかったのか?」

 ぼくに当たらないでよと監察医は肩をすくめてみせると、白衣のポケットからチョコバーを取り出し一齧りする。 

 一九九五年九月十三日。法務省直轄特定刑務所第四実験区画、東洲区重警備刑務所通称“D区画”より囚人斉藤雅文は姿を消した。D区画内の捜索にて、ボイラー室の壁が破られ、壁の裏の下水管内に侵入した形跡が発見された。下水管は刑務所の敷地から百メートルほど南に下ったところで工業用水路に合流するが、その地点は落差が三メートルほどあり、斉藤雅文はそこを飛び降りるか落下した際に頭部を打撲し死亡したと、市警察捜査二課は結論づけ、実験区画管理委員会の特別捜査官もそれを支持し事件は解決した。

 それが半年前の話。


**********


 俺は隣に座る法務省から来た男を見る。

「法務省直轄の実験区画で起きた事件だろ。管理委員会の特別捜査官だけでどうして対処しないんだ? 脱走事件の時もそうだぜ。こっちが頼んでもいない実験をこの街で始めておいて、尻拭いはこちらかよ」

「おっしゃりたいことはわかりますが、まず脱走事件は本質的には刑務所の中と外、両方で起きた事件です。実験区画の内側の捜査についてはこちらで対処しますが、外側の捜査にはわれわれは不向きです。土地勘のある市警察のご協力を仰ぐのは当然と言えば当然ですよ」

「だが今回の事件はおたくらの庭の中で起きたんだろう?」

「その通りです。囚人同士のいざこざならこちらで粛々と対処しますが、今回は特別です。何しろ殺害されたのは囚人ではなく、東洲区重警備刑務所の刑務官なんです」

 刑務官、だと。俺は思わず聞き返す。

「D区画は法務省直轄の政府機関ですが、実務についている刑務官は東洲区重警備刑務所の職員ですからね、つまりこれは法務省マターであると同時に市議会の問題でもあるわけです。市警察を通さずにことをすすめるわけにはいかないでしょう?」

 あの実験区画で刑務官が殺害されたのか。

「脱走事件はわれわれにとっても大きな痛手でした。あの悪夢を繰り返さないためにも、何としても解決しなければなりません」

 九の言葉は事実だろう。半年前には凶悪犯が脱走し今度は公僕たる刑務官が殺害された。対応を誤れば実験区画その物の存在が危うくなる。そして、だからこそ俺なのだろう。本来なら管理委員会の捜査官だけで内々に処理したかったはずだが、殺害されたのが市の職員である以上、事件をなかったことには出来ない。なかったことに出来ないのなら、事件が表沙汰になった時の保険が必要だ。マスコミの目を逸らし世論を誤魔化すための身代わり羊、それには過去にスキャンダルにまみれた刑事ならうってつけだ。笑えない。笑えるはずがない。俺はまたもやこいつらの生贄にされようとしている。

「そんな目をしないで下さい。この一件は、法務省から正式に市警察に依頼され受託されました。あなたがここにいるのは捜査一課の了承の元です。恨むならぼくではなくお仲間にして下さいね」

 何が取引だ。これはそんな上品な物じゃない。捜査を断れば職を失い、捜査をしても解決出来なければマスコミの餌食になる。つまり、速やかに事件を解決する以外に俺の殺人課刑事としての未来はない。

「本音を言えば、あなたの力を借りるということは自分の失敗を認めることに等しいので個人的には避けたかったのですが、刑務所の方からあなたに捜査をと懇願されましたからね。仕方ありません。ぼく自身も本意ではありませんし、ここはお互い様ということで」

 そう言って九はにっこりと笑う。

何がお互い様だ。猫のような目をした前髪の長い優男。きっとこいつは他人の人生を踏みにじることに何の迷いもためらいも感じないのだろう。こいつにとっては実験区画の存続と保身がすべてだろうが、事件の解決のためにはどんな手も使うという点において俺はこいつを信用出来る。信用することにする。

「それで、心は決まりましたか?」

 俺が今置かれている状況は特別でも何でもない。俺がこれまで好き勝手やりながらも市警察を首にならなかったのは、前の課長が部下への慈愛にあふれていたわけでも俺が上層部の弱みを握っていたからでもない。俺が殺人課刑事として優秀だったからだ。誰よりも事件解決率が高かったからだ。だから俺はこれまで生き延びてこられた。殺人事件が解決出来ない殺人課刑事に存在意義などない。そうやってずっと生きてきた。そう、だから、 

「事件を解決すればいいんだろう?」

 俺はそう言うと乱暴に捜査ファイルを受け取る。

 九は満足そうにうなずくが、俺はそんな法務省から来た男に釘を刺す。

「言っておくが二匹目の泥鰌を狙っているのなら大間違いだぜ。そもそも脱走犯を発見したのは犬の散歩中の老人であって俺じゃない。俺は運が良かっただけだ」

「今、必要なのはそういう幸運なんですよ、東方警部補」

 話は決まった。九は上機嫌な様子で件の雑誌の表紙をまじまじと見ると、可笑しそうに笑う。

「それにしても、本当に酷い写真写りですね」

 ああ、それには同意するよ。


【TWO】


未(うら)未(ずえ)市という街がある。

 先の大戦の後、政府主導で特別行政区として再建された四大政府直轄都市の一つであり、人口459万人、208万世帯がひしめくこの国第二の都市である。正式名称を未未市と言うが、戦後六十年、今ではその書き文字を音読みしてバツバツ市、『××市』と呼称されることも少なくない。

 未未市が××市と呼称されるにいたる経緯は諸説あるが、戦後、目覚ましい発展を遂げる一方で、急激な人口増加に伴い凶悪事件件数が爆発的に増加し、この国有数の犯罪都市に成り下がった蔑称というのが通説になっている。

 未未市警察はこの巨大犯罪都市の治安維持を一手に担っており、警察官9941名、職員3631名を抱えている。これは首都警察および他の大都市圏の警察組織と比較し、警察官一人当たりの人口が462名と極めて多く、劣悪な労働環境であることは否定しようのない事実である。未未市警察は慢性的な人員不足に悩んでおり、それでも凶悪犯罪の解決率が他の大都市における警察組織と同等の数値を維持出来ているのは、ひとえに警察官個人の犠牲によるところが多い。


**********


 まるで、俺が捜査を承諾することが最初から決まっていたかのように、車は一度もスピードを緩めることなく中央高速道を走り続けている。俺はずっとこいつの手の平の上で踊らされている。俺は踵がすり減り表面に細かなしわや傷がいくつも刻まれた足元のローファーをちらりと見ると、たしかめるようにきゅっきゅとつま先でタバコを消す仕草をしてから捜査ファイルを開く。どうせ踊るなら自分のリズムで踊りたい。

 ファイルの最初には、機密保持同意書と書かれた書類が挟まれている。

「D区画は政府機関であり、捜査で入手した情報はすべて法務省に帰属します。外部への持ち出し、第三者への漏洩は重罪に当たる可能性があります。D区画勤務の職員はみな、機密保持の宣誓をしています。サインをいただけますか?」

俺は黙って同意書にペンを走らせると改めて捜査資料に視線を落とす。資料の一枚目には極秘と赤い判が押され、『水曜日計画(仮称)第四実験区画刑務官殺害事件概要』と記されている。

「水曜日計画というのは?」

「特に意味はありません。この実験区画プロジェクトが最初に動き出した時の仮称がそのまま残っているだけです。お役所仕事ではよくある話ですよ」

 巻き込まれるにしてはふざけた名前だと俺は苛つくが、気にせずページをめくる。そしてそこには凄惨な事件の様子が、淡々と記載されている。

被害者は加藤貞夫、四十二歳。三月十二日(昨日)十七時から十三日九時までの勤務についていたが、午前三時に、D区画内の図書室で背中を刺されて死亡しているところを同僚の夜勤勤務者によって発見された。ファイルにはその背部をめった刺しにされた無残な死体の写真が収められている。まったく。これを見れば善良なる未未市民が実験区画に対して非難の声を上げるのは目に見えている。そもそも半年前の脱走事件の時点で、市民団体によってD区画の閉鎖の嘆願書が出されたが市議会はそれをはねのけた。件の人権保護団体が未未市議会最大会派に一定の組織票をもっているという身も蓋もない政治的理由があるからだが、市の職員である刑務官が殺害されたとなるとさすがにかばい切れなくなる可能性は高い。市議会の後ろ盾を失えば、いくら法務省でも未未市での実験区画の継続は困難になるはずだ。

「犯行時刻は真夜中か、」俺は思わずつぶやく。だとしたらおかしいな。

資料をめくる。次のページには殺人の舞台となったD区画および東洲区重警備刑務所の見取り図が載せられている。東洲区重警備刑務所はこの国にあるセキュリティレベルが最高ランクの刑務所の一つで、多くの重罪犯が服役してる。巨大なコンクリートの壁に囲まれた広い敷地に巨大な囚人監房棟が並んでいるが、「D区画だけ他の監房棟からずいぶん離れた場所に建っているんだな」

「元々その場所は、未未市が政府直轄都市として再編された際に、戦争犯罪人を収容する施設として使用されていました。役目を終えたのちは閉鎖され、これまでずっと放置されていたんです。刑務所の敷地内にありながらさらに何重ものフェンスで覆われて隔離されていますし、実験区画としては申し分ない環境です」

「半年前に脱走されたのはどこの誰だよ」

俺の悪態に手厳しいですねと九は肩をすくめてみせる。「しかし、そもそも首都圏で行っていたこの社会実験を未未市でも採用することになったのは、東洲区重警備刑務所に都合よく閉鎖された監房棟があったからです。この国の刑務所は今やどこも満員状態ですからね。実験のための区画を確保するのは重要課題の一つです。実験区画の導入に際して老朽化していた建物は改装、改築がなされましたが、脱走犯は戦前に建てられた際の青写真を手に入れたようですね。壁の奥の配管の配置図から、最も壁が薄い場所がピンポイントで狙われました。完全にこちらの落ち度です。脱走事件後、大規模に改築、補強工事が行われており、現時点では警備体制は万全だとお考え下さい」

「つまり外部犯の可能性はない、と?」

 もちろんです、と九は笑顔で答える。「現在、D区画に出入りするには刑務所の中央管理棟と連結する地下通路のみです。中央管理棟側とD区画側の二カ所に電子ロックのかかった扉があり、通過すればすべて記録に残ります。被害者の最終生存確認時刻の昨夜二十四時以降、D区画から出た人間はいません」

 そもそも殺害されたのが囚人ではなく刑務官である時点で外部犯はあり得ない。勤務が終われば刑務所から出て来るのにわざわざセキュリティ強固な刑務所に侵入して刑務官を殺害する必然性はない。だが外部犯が否定されるとなるとやはりおかしい。連絡通路を通る人物がすべて記録されるなら、当然、昨日の日勤帯の勤務者が潜んでいた可能性などはとうに除外されているのだろう。とすると、犯人は昨夜の夜勤帯にD区画内にいた人物に限られることになる。だが、そうだとすると、

「囚人の所在は全員確認しているんだよな」

「もちろん、今回は誰も脱走していませんよ。夜勤帯勤務者もまだD区画に残しています」

 ここまでの話を信じるならやるべきことはおどろくほど単純だ。問題があるとすれば。俺はちらりと腕時計を見る。遺体の発見は午前三時、すでに八時間が経過している。犯行現場が脱出不能な広義の密室である以上、証拠の散逸は最小限におさえられているはずだが、一分一秒、関係者の記憶は不鮮明になっていく。殺人事件の捜査は時間との勝負だ、足枷にならなければいいが。

 俺の仕草に言わんとすることを察したらしい九が弁明するように言う。「遺体発見後、速やかに刑務主任に報告され、刑務所長を通して実験区画管理委員会に通達されました。直ちに管理委員会と市議会による臨時会議を招集、特別捜査官が朝一番で到着し現場検証と夜勤勤務者への聞き取り調査を終えたのち、正式に他殺と認定しました。事態の早期収拾を図るべく速やかに市警察に通報、法務省からの捜査協力依頼が受託されたのが一時間前。こちらも決して遊んでいたわけではありませんよ」

 べらべらよくしゃべる。俺は苛つくように言い返す。

「しわ寄せを食うのはこっちなんだ。半年前の脱走事件の時だって、市警察への通報が半日以上も遅れたために初動捜査で脱走犯の足取りを完全に見失った。犬の散歩中の老人が見つけるまで脱走犯の手がかり一つ掴めなかったというのに、反省していないのか?」

「これでも東方さんをお迎えに上がるために、車を飛ばしてきたんですよ」悪びれた様子もなく言うと、九はふふと薄い唇の端を吊り上げる。「それに、脱走事件の際に市警察への通報が遅れたのはぼく達ではなく刑務所側の落ち度です。こちらへの通報も囚人が行方不明になってから半日近く経って、脱走事件が発覚してからでしたからね」

 え、と俺は思わず聞き返す。「どういう意味だ?」何がです、と九。「行方不明になって半日が経ってから脱走事件が発覚した、というのはどういう意味だ?」

 ああ、そのことですかと九はうなずく。「朝の点呼の際に囚人の一人が行方不明になっていることが発覚しましたが、当初刑務所側は囚人が刑務所内のどこかに潜伏していると考えたようですね。過去にも囚人同士の抗争から身を守るために囚人が洗濯室に身を隠していたという事件があったんです。セキュリティが強固なあまり、脱走など起きるはずがないと思い込んだことで捜査が出遅れたのは皮肉な話です。結局、ボイラー室の壁の一部が破られているのが発見され、脱走事件が発覚しました」

「ご立派。今回は死体を発見してすぐに通報してきたんだから大した進歩だ、」言いながら俺は困惑する。「今、朝の点呼の時点で行方不明になっていたと言ったな。監房から消えていたのならその時点で脱走にならないのか?」どう考えてもボイラー室の壁を破るより監房の鉄格子を破る方がハードルが高いはずだ。

 だが俺の疑問に九はわかっていませんねえと首を振る。「水曜日計画の基本理念は囚人達の自主自立です。刑務所の本来の役割は囚人達から基本的人権を奪うことではなく、囚人が更生し社会復帰をする手助けをすることです。釈放後も自らの生活を律する能力を身に着ける。そのために、D区画の監房には夜間でも鍵はかけていません」

 平然と言ってのける九に俺は殺意を覚える。脱走事件の際に、飼い犬に手を噛まれたと言った奴がいたが、囚人達を自由にさせた挙句に刑務官が殺害されたのなら手を噛まれたどころの話じゃない。こいつらは一体何をやっているんだ。だが同時に、俺はようやく腑に落ちる。事件が夜間に起きたと聞いてから俺にはずっと違和感があった。夜間なら通常囚人達は檻の中、犯人は夜勤の刑務官でしかあり得ない。だが刑務官が刑務官を殺害するのなら外部犯の場合と同様、普通なら刑務所の外で殺すはずだ。刑務官じゃない、自由を与えた囚人が刑務官を殺害したから実験区画の存続が危機にさらされているんだ。だからこそ、身代わり羊として俺が呼ばれたんだ。

 俺は怒りを押し殺して九に問う。

「脱走事件まで起きたのに、どうして監房に鍵をかけないんだ?」

「崇高な理念の実現のためには多少の犠牲はつきものですよ」

「そしてその尻拭いを他人にさせるのかよ」

「他人だなんて傷つくなあ。今となってはぼくとあなたは一蓮托生ですよ」

 九はすました顔でそう言うとにっこりと笑う。

捜査資料によると昨夜の夜勤帯刑務官は被害者を含めて六名。現在のD区画収容人数は百余名。コンクリートの要塞の中にいる、百人を超える容疑者の中から犯人を見つけ出せというのかよ。

「管理委員会の特別捜査官とやらは使えるんだろうな?」

「これまでの実験区画がすべて首都圏に設置されていた都合、特別捜査官はすべて首都警察からの選りすぐりの捜査官で構成されています。腕はたしかですからご心配なく。仲良くして下さいね」

 腕はたしかです、か。「誰が信じるんだ、そんなこと」

がたがたと車が揺れる。高速道路を下りると埋め立て地を突っ切るように延びる旧国道を車は走る。遠くには送電塔が並んで建っているのが見える。しばらく進むと、東洲区重警備刑務所まで三キロメートルの看板が見える。

「正門のところで刑務所の職員が待っています。そこからはお一人で行っていただきます」

「おたくは一緒に行かないのか?」

「嫌だなあ、東方さん。ぼくは法務省の官僚ですよ。囚人だらけの危険な場所なんて恐ろしくて恐ろしくて」

 その薄っぺらい笑顔の下で他人の人生を平気で弄ぶ残酷な素顔を隠しているくせに何を白々しい。俺はもうこいつと同じ空気を吸うことに心底うんざりしている。

「さ、見えてきましたよ」

 砂埃の向こうに巨大なコンクリートの城が見えてくる。その禍々しい姿に呆気に取られている俺に、九ははしゃぐように告げる。

「ようこそ、水曜日計画へ」


1996/3/13 Wednesday 捜査第一日目


「開門」

 ブザーが鳴り響き巨大な鉄の扉がゆっくりと開かれる。

 扉の向こうには刑務官二名が待ちかまえており、東方の姿にお待ちしていましたと一礼する。こちらにどうぞと踵を返した刑務官達のあとを俺は大人しくついていく。

 正門からまっすぐに伸びる道の両脇を高さが三メートルはあるだろうフェンスに挟まれ、上方には鉄条網のらせんが巻き付けられている。俺の前を歩く刑務官の腰には警棒が下げられ、ゴム弾用のライフルを肩から下げている。物々しいことだ。非致死性兵器でも至近距離でくらえば致命傷になり得る。戦争でも始めるつもりかよ。

 しばらく進むと、レンガ造りの古い建物が見えてくる。中央管理棟らしいその建物に入ると、入念な身体検査と金属探知機のゲートを抜け、俺は八階の刑務所長室へと案内される。刑務官が分厚い木の扉をノックし、お連れしましたと声をかけると、入れ、と鋭い声の返答がある。扉を開くと、モザイクタイルが敷き詰められた床と、重厚な木製の机の向こうに大柄なスーツ姿の男が座っているのが見える。短髪で皺だらけの顔、イスに座る姿勢は軍人のような佇まいを思わせる。冗談が通じる相手ではないだろうな。所長が手で合図すると、俺を連行してきた刑務官は一礼して部屋から出ていく。

「遠いところをご苦労。東洲区重警備刑務所所長の貝沼だ」

 俺は慇懃に頭を下げて答える。「市警察の東方警部補です」

「脱走事件の際には世話になったようだな。今回もよろしく頼む」

 内心はどう思っているのか。半年前の脱走事件。捜査が進展しない原因は通報が遅れたためだという態度を隠そうともしなかった市警察と、東洲区重警備刑務所との関係は今でもこじれたままと聞く。こちらにいい感情を持っていないのは当然で、本音では市警察の協力など仰ぎたくもないのだろうが、刑務官が殺害された以上、そうも言ってはいられない。その妥協点が、記録上、脱走した囚人を発見したことになっている俺の召喚というところなのだろう。

「D区画は政府機関だが、刑務官は皆、市の職員だ。市長もずいぶん心を痛めておられる。早急な事件の解決を市長はお望みだ。必要なことはそこにいる三神から聞くといい」

 振り返ると部屋の隅に小柄な男が立っている。存在を消すかのようにそれまで身動き一つしていなかった小柄でお腹の出たその中年男は、鰐のように目をぎょろぎょろさせながら俺に一礼する。

「D区画刑務主任の三神です。お噂はかねがね、お会い出来て非常に光栄です」

「緘口令は敷いているが、脱走事件の時のこともあるからな。マスコミに漏れる可能性は念頭においておく必要がある。早急な事件を解決することを期待する」

 そういえばそんなこともあったな。刑務所長は、話は終わりだと言わんばかりに無言で扉の方を顎で指す。俺は素直に失礼しますと一礼して部屋を出る。

廊下に出るとすぐに小柄な刑務主任が俺を追って部屋から出てきてぺこりと頭を下げる。

「改めましてよろしくお願いいたします。D区画の刑務主任の三神です」

 こんな状況にもかかわらず、若干はしゃいでいるような態度に、俺は出会って三十秒でこの男を嫌いになる。

「早速事件現場にご案内します。ささ、こちらです」

 短い足をちょこちょこと動かしながら鰐のような小男は歩き出す。俺は小さくため息をつくと無言でそのあとに続く。歩きながら男は快活にしゃべる。

「東洲区重警備刑務所は現在収容人数1503名、敷地面積は14万平方メートルでこの国で五番目の敷地面積を誇る巨大刑務所になります。総延長1.8キロメートル、高さ6メートルの塀で囲まれるこの国で最高ランクのセキュリティレベルを誇る難攻不落の刑務所です」脱走事件のことはどうやらみんな忘れてしまっているらしい。「一般男性囚人棟、一般女性囚人棟は地上で行き来出来ますが、D区画は法務省直轄の政府機関であり完全に隔離されています。地上から立ち入ることは出来ず、入るにはこの中央管理棟の地下とつないだ連絡通路を通る必要があります」

「事件の話をしましょう。昨夜の刑務官の勤務状況を教えていただけますか」俺は前を歩く鰐男の背中に問う。

「D区画の夜勤は十八時から翌朝八時までの十四時間勤務です。刑務官六名が二名一組の三チームで勤務に当たります。日中は自由に監房を出ることが出来ますが、夜勤帯にあたる十八時から翌朝八時までは囚人達は監房にいることが義務付けられています。消灯は二十一時です。D区画は円筒状の建物でして、地上部分が囚人の監房エリア、地下部分が管理エリアになります。地上部分には横付けされるように懲罰房や保護房などの特別監房エリアの建物があります。夜勤帯では監房エリア、管理エリア、特別監房エリアの三カ所を三チームで管理することになります」「勤務エリアは固定されているんですか?」「いえ、十四時間勤務のうち夜勤帯の始まる十八時からの一時間と、夜勤帯の終わる朝八時までの一時間は、点呼と食事の配膳および日勤帯との申し送りに当てられています。それ以外の十二時間を三チームで四時間ごとにローテーションします。市の条例で夜勤勤務者の仮眠、休息が義務付けられていますから、管理エリアの担当の時にそれぞれ休憩を取っています」まあ、それは好きにすればいい。

「昨夜の被害者の担当はどうなっていたんですか?」「加藤君は最初の四時間、十九時から二十三時まで監房エリアを担当し、二十三時から翌朝三時までが管理エリア担当でした」「最終生存確認は?」「二十四時頃です。二十三時に相棒と共に管理エリアに下りてからは、相棒は仮眠室に入り、そこからは単独行動をとっていたようです。その後、三時になり特別監房エリアの担当時間になっても姿を現さず、無線機にも応答がなかったため、夜勤帯勤務者全員で捜索したところ、管理エリア内の図書室で背中を刺されているところを発見されました」なるほど、と俺はうなずく。

「死体発見後、すぐに通報し全員で囚人の点呼を取りました」「D区画の出入り口は本当に連絡通路だけですか?」「はい。連絡通路にはD区画側とこちら側の二カ所に電子ロックがあり刑務官のカードキーがないと開けられなくなっています。こちら側には二十四時間体制で刑務官が扉を警備しており、刑務官以外が通過することは不可能です」外部からの郵便物や備品類もこの中央管理棟で受け取ったあと、刑務官によってD区画に搬送されていますとその徹底ぶりを鰐男は強調する。いずれにせよ犯人はまだD区画内にいることは確実なようだ。だが、

「監房に鍵がかかっていれば、話は簡単だったんですがね」俺が皮肉めいた口調で言うと鰐男は立ち止まり唾をまき散らしながら反論する。「刑事さん。お言葉を返すようですが、ここは囚人に罰を与えるための場所ではありません。彼等に社会復帰させることこそが目的なんです。われわれには崇高な理念があります。夜間でも監房には鍵をかけない、それこそがD区画がD区画たる所以なのです」短い両手を必死にばたつかせながら鰐顔の男は熱弁する。「建前はわかりますがね、実際のところはどうなんです? 本当に囚人の更生を信じているんですか? 監房に鍵をかけなければ危険にさらされるのはおたくら刑務官です。本当に納得してやっているんですか」想定していなかっただろう俺の言葉に、鰐男は動揺した様子でぎょろぎょろと両目を動かす。わかりやすい奴だ。彼等も言ってみればこの崇高な社会実験とやらの犠牲者だろう。貧乏くじをひかされたのは俺も同じだが。「まあ状況は大体わかりましたよ。とにかく現場に行きましょう」

俺がそう言うと、鰐男ははい、とうなずき再び歩き出す。スキップをするような軽い足取りで歩いていく姿は、背中にゼンマイがついている子供のおもちゃのように見えてくる。この馬鹿馬鹿しい刑務所の案内人にはぴったりだな。

 地下の連絡通路に向かうため、俺達はエレベーターが到着するのを待つ。

「すでに遺体は運び出され、鑑識作業も終えています。管理委員会の特別捜査官が東方刑事をお待ちですよ」

「現場が荒らされてなければいいがな」

「脱走犯を見つけていただいた時から、ずっとあなたには注目してきました。あなたならこの事件を解決してくれると私は確信しています」

 おや、と俺は思う。俺を推薦したのはあの刑務所長ではなくこいつなのか。たしかに刑務所長の口ぶりは俺が来ること自体、あまり歓迎していないようだったが。

「それにしても、加藤君は本当にすばらしい刑務官でした。勇敢で仕事熱心で同僚からも信頼の厚い男でした。そんな彼があんな無残な姿に、」

 そう言って鰐男は黙り込む。ちらりと覗き込むと大粒の涙を流しており俺はぎょっとする。冗談だろ、何なんだこいつは。それから鰐男は突然こちらを向くと俺の足にすがりついて言う。「仇をとって下さい。D区画はたしかに政府機関ですが、私達刑務官はあなたと同じ市の職員です。同じ正義のために命を懸けて戦う仲間、いえ、言ってみれば私達は家族です。どうか、どうか家族の仇をうって下さい。お願いします、お願いします」

 勘弁してくれ。俺が顔を引きつらしたところで、ちん、とエレベーターが到着を告げる。扉が開くと、さ、こちらですとそれまで泣いていたのが嘘のように涼しい顔で鉄の箱の中に入っていく。ころころと感情が入れ替わる様子に、本当に機械仕掛けの子供のおもちゃみたいだなと思う。やれやれと鉄の箱に入ると俺は鰐男の横に立つ。

「檻の中の動物に餌を与えないで下さい」

 俺がつぶやくと、何です、と鰐男が顔を上げる。

「それが今回の教訓だ」

 扉が閉まりエレベーターはゆっくりと下がっていく。



 地下二階でエレベーターは停まる。エレベーターの目の前には鉄格子の扉があり、すぐ横に刑務官が二人控えるカウンターテーブルがある。鰐男がご苦労様と手を上げると、刑務官達はお疲れ様ですと声を揃えて背筋を正す。

「こちらの箱に財布、携帯電話、鍵、腕時計、ペン、その他武器になり得るものをすべて入れて下さい。靴紐も凶器になりますので、こちらで用意した靴に履き替えて下さい」

「靴紐はない」

 俺の言葉に刑務官が怪訝そうに足元を覗き込む。スーツにローファーがマナー違反なことは知っているが、あいにく俺にストレートチップを履く習慣はない。まあいいでしょうとうなずき、金属探知機で俺の身体検査をしながら刑務官が説明する。

「ここから先は政府機関になります。この先は、いかなる物も許可なく持ち出すことは禁じられています。いかなる理由があっても許可なく録画、録音することは禁じられており、見聞きしたあらゆる情報は法務省に帰属し、政府の許可なく口外することは機密情報漏洩と見なされ重罪となる可能性があります」

「心得ている」

 身体検査を終えると、もう一人の刑務官が壁のボタンを強く押す。ブザー音が鳴り響き鉄格子の扉が開く。

「どうぞ。D区画へお進み下さい」



 幅二メートル、高さ二メートルの空間がまっ直ぐに伸びる連絡通路を歩き出すとすぐに、背中で鉄格子が閉まる音が聞こえる。しばらく歩いたあと俺は目の前の小柄な背中に、ずっと聞きたかったことをたずねる。

「これほど厳重に隔離しているのに、どうして監視カメラを設置しないんです?」

 俺の言葉に驚いたように鰐男は足を止めて振り返る。

「半年前の脱走事件の際に、当初囚人がD区画内に隠れているのではないかと捜索していたと聞きました。監視カメラがあればもっと早く結論が出ていたはずですし、今回の件にしても夜間に監房を抜け出した囚人がわかればすぐに事件は解決です。賭けてもいいがD区画に監視カメラは設置されていない。何故です?」

「さすがですねえ東方刑事」鰐男がにんまりと笑う。「したくとも、D区画には監視カメラは設置出来ないんですよ」

「物理的に? それとも予算の都合でも」

「D区画は管理委員会が定める囚人の人権保護規定に則って運営されています。人権保護の観点から、ここでは囚人の同意なく彼等を撮影することは、不可能なんです」

 当然、囚人達が同意するはずがない。だが監房に鍵をかけず監視カメラもないのなら、事実上囚人達は野放しだ。そこで何が起きても自らが招いた災厄に違いない。

 しばらく歩くと二つ目の鉄格子に辿り着く。今度は鰐男が鉄格子横のセンサーに自らのカードキーをかざすとけたたましいブザー音が鳴り響き、鉄格子が開く。D区画は円筒状の建物だが、鉄格子の先は緩いカーブを描く廊下が左右に延びている。

「ここは地下二階、管理エリアの一番下の階になります。現場は地下一階の図書室です」

 ぐるりと建物の外周を回る廊下に沿って、円筒の内側に部屋が並んでいるらしい。向かって左側に廊下を歩いていく。捜査資料にあった見取り図によると、連絡通路出口を時計の十二時として、六時の位置に階段があり、そこから地下一階、そして地上の監房エリアに上がれるようになっている。実際廊下を歩いてみると思ったより円筒は大きい。

「地下二階には刑務官の控室、備品室、洗濯室、ボイラー室などがあり、こちらは囚人達が立ち入ることはありません。地下一階が主に囚人が利用する図書室、礼拝堂、食堂、ジム、シャワー室が配置されています」

「監房エリアから地下に下りる階段は、夜間でも素通り出来るんですか?」

「はい。ですが管理エリアのすべての部屋は夜間施錠されており、入るには刑務官の持つカードキーが必要になります。どうせ鍵がかかっていますし、監房を抜け出したことが発覚すれば懲罰房行きですから、夜中に出歩く囚人はいませんよ」

 鰐男は楽観的に言うが、事実夜中に管理エリアで刑務官が殺されたのだからその認識は改める必要がある。六時の場所に着いたのか右手側、円筒の内側に階段が現れる。階段を上がろうとしたところで、下りてきた刑務官と鉢合わせる。刑務官は鰐男に敬礼して言う。

「主任、監房エリアの問題はようやく片付きました」問題? 俺が聞き返すと刑務官ははい、と背筋を伸ばして答える。「三十分ほど前、囚人達が監房の鉄格子を一斉に叩き抗議の声を上げるという事態が発生しました。非常事態措置マニュアルに基づき、昨夜の事件発生後より監房は施錠されており、囚人達のフラストレーションは限界近くまで溜っていると思われます」

監房に鍵をかける、それは普通のことなんだがな。

「困りましたねぇ」鰐男は俺を見上げて言う。「監房エリアの捜査が終わるまでは刑事さんの安全確保のために監房から出すべきではないと思うのですが、」そう言うと鰐男は目をぎょろぎょろと動かす。「もしよろしければ先に監房エリアを見ていかれますか? このままでは暴動が起きる危険性もありますし」

「暴動が起きたらどうなるんです?」

「万が一の時は、地上の監房エリアをロックダウンします。地上部分の電源を落としますと、通常は解放されている管理エリアへの階段入口の鉄格子が閉じ電子ロックがかかり、完全に地上部分が隔離されます。そうなると監房エリアの捜査どころではなくなってしまいますが、」

 厄介だな。これまで囚人に散々好き勝手させたおかげで、たった一日でも監房に閉じ込められるのは我慢出来ないらしい。囚人達の機嫌に捜査が左右されるのは気に入らないが、囚人が監房を抜け出して犯行に及んだ可能性が高い以上、監房エリアの捜査は必須だ。ロックダウンされれば捜査も足踏みすることになる。

「刑務官は武装しているんだろう? 囚人と間違って俺を撃ったりしないでくれよ」

「刑事さんは私達の家族です。銃口を向けることはあり得ませんよ」

「そう願いたいね」それから俺は小さく息を吐く。「監房エリアに行こう」



 階段を二階分上がると、ぱっと目の前の空間が開ける。

 そこは禍々しい巨大な筒状の構造体で、見上げると円筒の外壁に沿ってびっしりと監房が並んだ四階建ての吹き抜けの空間が広がっている。壁面を埋めつくす監房の前には円筒の内側に手すりのついた廊下がぐるりと回っており、円筒の十二時、三時、六時、九時の計四カ所に一階から四階までの廊下をつなぐ階段が設置されている。今、各階の廊下には銃を装備した刑務官達が、監房の中を監視するように歩いて回っている。囚人達は今のところ大人しくしているように見えるが。

 監房は二階から四階の壁面に沿って設置されており、一階フロアは囚人達が共同で過ごすラウンジのような空間が広がっている。中央には四角形のカウンターテーブルが置かれ、周囲を取り囲むように四人掛けの丸テーブルがいくつか置かれている。テーブルの上には誰かがこぼしたコーヒーの染みやチョコレートの包み紙が見える。壁の方を見れば図書室の返却ボックスと書かれた大きい箱状のワゴンや自動販売機があり、大きな柱には二カ所、テレビが吊り下げられている。俺はふと、壁際の一画に透明なガラス張りの空間を見つけ眉をひそめる。

「喫煙室まであるのか?」ガラス張りの空間の中には分煙機も見える。「未未市の公的機関内では全面的に喫煙は禁止されているはずだぜ」

「もちろん職員は禁止されています。喫煙が許可されているのは囚人だけですよ」

 あっそ。俺はもう驚かなくなっている。そのままテーブルの間を歩いていき、中央の四角く配置されたカウンターテーブルの中に入る。

「刑務官詰め所です。ここからだと監房エリア全体を見回すことが出来ます。夜勤帯はここから周囲を見上げる形で監視をしています」

 なるほど。俺はカウンターから監房を見上げる。見る人は見られる人。俺は監房の奥から注がれる無数の視線に気付く。自分達の自由を奪った者に対する敵意のこもった視線は居心地のいいものではない。

「監房は各階に二十四部屋、三階分で七十二部屋。各監房は囚人二人の相部屋になりますので最大百四十四名が収容可能です。D区画での実験企画は最長四十八カ月と定められています。三カ月に一度審査があり、重大な違法行為や病気、怪我などで実験の継続困難と判断された場合は、他の刑務所に移送され、新たな被験者が入所します。現在、D区画の収容人数は百六名、一般監房エリアに百一名と特別監房に五名が収監されています」

「特別監房はどこに?」

 あちらです、と鰐男が指し示す先に金属製の扉が見える。「扉の先で懲罰房や保護房のある別の建物とつながっています」

「格子を掴むな」

 突然怒鳴り声と共に、警棒で格子を叩く金属音が響き渡る。はっと顔を上げ音の方を向くと、刑務官が囚人に監房の奥に行くように命じている姿が見える。囚人達の不満はぐつぐつと煮えいつ沸騰するかわからない、そんな気配がひしひしとコンクリートの円筒の中に漂っている。

「夜間の監視は基本的にここから行い、一時間に一度は監房の前をすべて回って監房内を確認します」

たしかにこの場所に立てば、四階の監房まですべて死角なく見回すことが出来るな。だが、「消灯後でも監視出来るんです?」

「消灯後も監房前の廊下の常夜灯はついていますので、監房から出れば気が付きます」

 それは多分事実だろう。監視がきちんと行われていればだが。

「これまでに夜間、囚人が監房から抜け出したことはありますか?」

 素朴な疑問だったが、鰐男は苦々しい表情を浮かべる。

「半年前の脱走事件が初めてです。もちろん刑務官に気付かれずに監房から出て、再び気付かれることなく監房に戻ることが可能であれば、私達の関知していないケースが存在した可能性もありますが」

 物理的には可能かどうか、まずはたしかめてみるか。

 俺は腕時計を見るとつぶやくように言う。

「用意、スタート」

「何です?」鰐男がたずねるが無視。俺は監房前の廊下を歩く刑務官をじっと観察する。十秒、二十秒、「あの、刑事さん?」俺は時計と刑務官との間を、視線を往復させながら、少し待て、と言う。二分十一、二分十二か、それから俺は鰐男に向かって言う。「今、見回りをしている刑務官が一度も足を止めずに監房前を一周するのに二分十二秒かかった。二階から四階まですべて見回ると七分から八分かかる。夜間、薄暗い監房内を観察しながら歩き、各階の移動も考えれば所要時間は約十分。一時間ごとに監房を回るなら、残りの五十分は二人でこの詰め所にいることになります」

 まあそうなりますかねえと鰐男が他人事のように言う。

「この詰め所から見えるのは監房の出入り口だけで、監房内までは見えません。消灯後なら尚更です。監房の見回りが一時間ごとなら、監房前を見回りが通り過ぎたあと、一時間は監房内にいなくても気付かれない」

「それはそうかもしれませんが、監房を出入りすればわかりますよ」

「ちゃんと監視していれば」

 俺はそう言うと詰め所のカウンターテーブルの上に乱雑に置かれている新聞や飲みかけのコーヒーカップを指差す。ウォークマンに水着姿の女性が表紙の雑誌。「こんな物が監視に必要とは思えませんがね」

 鰐男は大きな目をせわしなくぎょろつかせながら、それは、とつぶやいたあと喉からきゅっと音を立てる。

「刑務官が二人ここに揃っていれば、どちらか一人が居眠りをしていても囚人の出入りに気付く可能性は高い。ですが、一人が見回りをしている十分間なら、詰め所には監視は一人しかいない。その間に音楽を聴きながらコーヒーを飲み、裸の女性に夢中になっていれば見逃した可能性は否定出来ません」

 十分間で監房を抜け出し地下に下りて鍵のかかった図書室に入り刑務官を殺害してまた監房に戻ることが現実的かと言われれば、もちろんかなりの困難であることは間違いないが、物理的に不可能じゃない。それが確認出来ただけでもここに来た甲斐はあった。それにしても。俺は新聞を手に取り裏面を見るとはっと笑う。「クロスワードパズルを途中まで解いている。余程暇だったらしいですね」監房には鍵をかけず監視カメラを設置しない上に夜勤の監視もいい加減ときたら、まったく、犯人が誰であろうとどんなに被害者ぶろうと、責任の一端は間違いなく彼等にある。

 俺の冷ややかな視線に鰐男は短い手を振り回しながら必死に反論する。

「お言葉ですが、その新聞や雑誌は囚人がラウンジに忘れて行ったものを回収しただけでしょう。彼等は皆、真面目な刑務官です。いい加減な仕事をしたとは思えません」

 この男の立場ならまあ、そう言うしかない。だが仮に、監房エリアの監視が本当に機能していたのなら囚人が犯人ではあり得なくなり、必然的に犯人は夜勤帯の刑務官の中にいることになる。一方で囚人がここから抜け出して殺人を犯したのなら、それはつまりここの監視がざるだったことを意味し、自分達の怠惰が仲間の死をもたらしたことになる。どっちに転んでも彼等にとっては悪夢でしかない。

 俺はいま一度、クロスワードパズルが解きかけだった新聞に視線を落とすと、それを丸めてぽんぽんと肩を叩きながら鰐男に言う。

「まあ、実際の勤務がどうだったのかは夜勤者に直接聞くとして、見たいものは見れましたし、そろそろ現場に行きましょう」

 そう言うと、俺は監房からの視線が追うのを背中で感じながら、さっさと地下への階段の方へと歩いていく。慌てたように小走りに追いついてきた鰐男は、鼻息荒く俺に言う。

「ここの監視に穴があった可能性は認めます。しかしここは重罪犯が集められた実験区画で刑務官達は常に危険と隣り合わせです。部下達は皆、常日頃から過度の緊張とストレスにさらされています。夜勤達の勤務形態も法務省作成のガイドラインに則っていますが、そもそも二人でこの監房エリアを監視すること自体に無理があるんです。囚人が騒ぎ出し刑務官一人で対処出来なければ、応援が来る間は監視が中断されることになります。そもそも百パーセントの監視は不可能です」

「なるほど。昨夜、何か騒ぎがあったと?」

「その報告は受けていませんが、」

「それならば監視が出来てなきゃおかしいことになります」

「脱走事件以降、責任は現場に押し付けられ予算も削られています。人手が足りない中、必死に仕事をしている部下達を私は攻めようとは思いません」

 俺は階段を下りながら声を張る。

「だったら監房に鍵をかけろ。簡単なことだろう?」

「ですから、」鰐男は顔を真っ赤にして声を上げる。「それは法務省が定めたことで、私達はそれに従うしかないんですよ」

 俺は足を止めると鰐男を振り返る。ようやく本音が出たな。

「おたくらの言い分は理解出来ますがね、それを受け入れたなら同じことですよ」

 俺が冷淡に言うと、鰐男はぎゅうっと相貌を引き締め答える。

「刑事さん、私達は家族を失いました。ですが、死んだ加藤はあなたの家族でもあるはずです。お願いですから彼等を気遣って下さい。家族を失った彼等を責めるようなことは間違っても言わないで下さい」

「事情聴取ではきちんと彼等に敬意を払う、それは約束しますよ」

 俺の言葉に納得したのか、行きましょうと鰐男は歩き出す。

その背中を見ながら俺はどこか白けた気分になる。たしかに囚人達が売店で買った新聞をラウンジに残していった可能性はある。だが、囚人にとっては貴重なお金で買った新聞を、しかも解きかけのクロスワードパズルをそのままにして放置していくとは思えない。刑務官の怠慢の証である丸めた新聞を唇に当てながら俺は思う。決してこいつらは犠牲者じゃない。自らの堕落が仲間を殺した。そのつけはどこかで払うことになるだろう。

 地下一階におりると右手に曲がり、緩やかな曲線を描く廊下を歩いていく。しばらく進むと、目の前に立ち入り禁止と書かれた黄色い規制線が現れる。

「図書室、か」

 規制線をくぐるとその先には横にスライドするタイプの分厚い金属製の扉が鎮座している。「管理エリアにある部屋はすべて刑務官のカードキーで施錠されているんでしたね」

「はい。扉が閉じると自然に鍵がかかりますので、日中は囚人が使用出来るように扉は開けっ放しになっています。解放しておくのはトラブル防止の意味もありますが」

 そう言うと鰐男は首から下げたカードキーを扉脇のセンサーにかざす。小さくぴっと音が鳴る。余程扉が重いらしく、鰐男は全身を使って扉をスライドさせる。扉はゆっくりとだが音もなく開き、その先に本の貸し出しカウンターと横に並ぶ本棚が見える。

「現場は奥になります」図書室に入ると鰐男は再び全身を使って扉を閉じる。五列ほどの本棚の脇を通り過ぎると、その先には大きな机が並んでおり、さらにその先に本棚の列が見える。そしてその本棚の前に立つ人物の背中に気付き、俺は足が止まる。肩で切りそろえられた黒髪に小柄な体躯。管理委員会の特別捜査官は女性なのか。

「捜査官、お待たせしました。市警察の東方警部補をお連れしました」

「東方さん?」

 素っ頓狂な声を上げて女性が振り返る。おかっぱ頭に大きな黒縁眼鏡をかけた十五歳にしか見えない少女が呆気に取られてこちらを見ている。

 まさか、そんな。

 水沼、桐子?


【THREE】


 未未市はこの国の東の果ての半島部に位置している。東側の千間川、西側の五月川、南側の末末湾によって囲まれ、周辺都市とは東西の一級河川をまたぐ複数の橋によって繋がっている。未未市は戦後に人工的に設計された四大政府直轄都市の一つであり、市の中央には巨大な人工的な公園の中に、市庁舎、中央裁判所、市警察本部、消防本部などの公共機関が集められた地区が設置され、そこから東西、南北に直線をひいて四つの行政区に分けられている。十字によって区切られた四つの行政区(右上から時計回りに東洲区、高白区、水王区、彩楼区)は二度に渡る政府主導の再開発計画により機能が振り分けられており、東洲区には主に工業団地や機械工場が誘致され、高白区には証券会社や銀行が並ぶ金融街が作られ、水王区には巨大な劇場や美術館などの文化的施設が集められ、彩楼区は高級住宅地と大学、研究所の中心地となっている。

 政府主導の再開発計画のたびに未未市は大きく発展してきたが、約十年前に行われた第二次再開発計画ではその途中で計画が凍結される憂き目にあう。再開発事業を巡る巨額の裏金と不正入札に関与したことで当時の市長が告発され、政府が謝罪する事態にまで発展した第二次再開発計画は現在も無期限の凍結中となっている。

 第二次再開発計画は数年間かけて全部で四つの工期にわけられていたが、計画の凍結は最終の第四期、すなわち東洲区の再開発中に起こり、東洲区のあちこちで大規模な工事が行われている途中での計画中断は、取り壊し途中の廃墟や、テナントや企業が撤退し放棄された無人のビル群を産み出すことになり、経済状況の悪化と犯罪件数の増加から東洲区では人口の流出が続き、忘れられた街と呼称されるようになる。

一連の市長の汚職事件と再開発計画の頓挫は未未市に暗い影を落とし、地図上はまるで巨大な十字架が描かれる宗教的意匠になぞらえて、××市が転じて罰罰市と揶揄されることも少なくない。


**********


まさか、そんな。

水沼、桐子?

彼女の姿を見た瞬間、俺は二年前に立ち返る。

自分がまだ殺人課刑事という仕事を盲目的に信じることが出来た若く美しい季節。刑事部屋の喧騒の中で分厚い前髪に光の輪が浮かんだおかっぱ頭の少女がダンボール箱を抱えてやってきたあの日。あの頃とまったく変わらない彼女の姿に俺は否応なく忘れたはずの時間に立ち返る。

「水沼、桐子」

「東方さん」

 あの日の続きをしようというのか? 俺は思わず彼女の方へと歩み寄ろうとして立ち止まる。彼女の足元に広がる黒々とした血痕に、俺は現実に引き戻される。ここは殺人事件現場。そして俺はその捜査をするためにここに来た。俺はここが現実の続きだと確認するように足元の古びたローファーを見る。大丈夫、俺はちゃんと自分の足で立っている。それから彼女をもう一度見る。目が合うと、彼女はじっと俺の方を向いたままにっこりと笑い一礼する。

「法務省直轄特定刑務所管理委員会より派遣されました特別捜査官の水沼桐子警部です」

「未未市警察捜査一課東方警部補です」

 恭しく慇懃に頭を下げたあと、彼女はわざとらしく敬礼をしてみせ、それから小声で「よろしくでーす」とふざけた調子で言うものだから俺は何だか妙にいらついて盛大に舌打ちをする。

「お二人はお知合いですか?」

 鰐男がたずねるが俺達はほぼ同時にいいえと否定する。それから彼女は、それでは早速事件の話をしましょうと手帳をめくる。困惑を隠すように俺は頭を振る。とにかく今は事件、事件だ。集中しろ。

「殺害されたのは加藤貞夫四十二歳、昨日D区画の夜勤勤務者でした」それはもう聞いた。「D区画での夜勤者は全部で六名、通常は二人一組で勤務に当たります」それはもう聞いた。「D区画の三カ所のエリアを三組が交代で担当します」「それはもう聞いた。被害者と相棒が管理エリアにいたのが二十三時から翌三時までの間ということも、交代時刻になっても姿を現さず全員で捜索してこの図書室で殺害されていた被害者を発見したということも、もう聞いた。続き」俺は指を回しながら本題まで早回しを要求する。おっけーです、と彼女は言い、手帳をめくる。「被害者の死亡推定時刻は二十四時から一時の間、背部に複数カ所の刺創を認めました。死因は多臓器損傷による失血死です」複数カ所の刺殺、余程恨みを買ったらしい。「凶器は?」「現場に残されていました」彼女は近くの机の上に置かれていたファイルを手に取る。同じ机の上には何冊かの本が積み上げられている。俺は手渡されたファイルをめくる。ここに来るまでに見た捜査資料に追加するように、様々な証拠写真や現場写真が収められており、その中の一枚に、生々しい血液が付着したナイフの写真がある。

「手製、か?」「はい。金属板を削って作った粗雑な物です」「凶器から手がかりは?」俺の問いに鰐男がこれはですね、と口を挟む。「囚人達が喧嘩で使用する手製のナイフによく似ています」手製のナイフか。「刑務作業でナイフを作れるような器具を扱っているのか?」鰐男はぶんぶんと首を振り否定する。「いいえ。D区画ではプログラミングなどの出所後の社会復帰支援のための職業訓練が主であり、一般囚人監房区画で行われているような木工作業や金属加工などの刑務作業はありません」だとすると、手に入れた金属片をそれこそコンクリ―トの壁か何かで手作業で削って作ったのだろうか。「凶器から犯人を絞り込むのは難しいでしょうね」と彼女が言う。「先端が折れているな」俺が写真を指差すと、彼女は俺の方へとやって来て、背伸びしてページを覗き込む。「気付いてなかったのか?」「まさか。ここを見て下さい」そう言って彼女は別のページに印刷された写真を指差す。「遺体のCT写真です。折れた先端が脊椎に刺さったまま残っています。ナイフの出来は良くないですね」「近い」「近い、何がです?」「お前だ。近寄るな」「もしかして照れてます?」俺は彼女の鼻先でファイルを乱暴に閉じると、片眉を吊り上げながら彼女にたずねる。「凶器から指紋は?」「犯行後に拭き取ったあとがありました。ほんと、」そう言うと彼女は唇を尖らせる。「ざーんねん」

 戸惑いを隠すように俺はゆっくりと歩き出す。失ってしまったはずの美しい季節に迷い込んでしまったかのような錯覚を振り払うように、俺は事件について考える。

「遺体発見時、被害者の背中にはナイフが刺さっていた。犯人はわざわざ凶器を現場に残していったのか?」血痕の横に立ち尽くしたまま彼女は答える。「はい。ここは刑務所ですから凶器の処分は難しいと思います。監房内の捜索や身体検査で凶器が出れば犯人だと自供するようなものですし、罪を着せるために誰かの監房内に隠したくとも、夜間ではみんな監房内にいるためそれも難しい。死体を隠すことも出来ない以上、遅からず持ち物検査や身体検査が行われるのは想定の範囲内だったはずです。とすると凶器を現場に残すのが一番安全だというのは理にかなっています。ただ、」そう言うと彼女は尖らせた唇に右手の人差し指を当てる。「囚人が喧嘩に使うような手製のナイフをこれみよがしに被害者の背中に突き立てておくというのは、ちょっとあからさま過ぎる気がしますけど」

 彼女の言葉に鰐男がゼンマイ仕掛けのように飛び跳ねる。

「どういう意味ですか? あなたは、これが囚人による犯行だと思わせるための偽装工作だとおっしゃるのですか?」

鰐男の言葉に彼女はうーん、と首をかしげたあと、「はい」とにこやかにうなずく。

 その態度を挑発だと受け取った鰐男は顔を真っ赤にして短い両手を激しく振り回す。

「刑事さん、聞きましたか? 彼女は所詮、法務省側の人間。私達の気持ちなどわからんのですよ。家族が殺されたというのに、それなのに私達の中に犯人がいるなんて、」そう言うと鰐男は大粒の涙をよよよと流す。「ひどすぎるうう」体中の水分が全部流れ出すんじゃないかというほどの洪水に、彼女は呆気に取られ固まってしまう。初めて見たのなら仕方がない。

「その爬虫類の肩を持つわけじゃないがな、」俺は仕方なく仲裁に入るが、鰐男は私のことですかと素っ頓狂な声を上げる。当然無視。「刑務官が犯人である可能性は除外してもいい」俺の言葉に彼女はへえと嬉しそうな表情を浮かべる。「でも、捜査は始まったばかりですし、今は全員を疑うべきで予断を持つべきではありませんよ」生意気な態度だが俺は大人だから十五歳の少女の態度を一々気にはしない。代わりに俺は努めて冷静に説明する。「まず一つ。ここは刑務所だ。外部から物を持ち込むのが最も難しい犯行現場だとも言える。凶器を持ち込むよりも刑務所内で調達する方が現実的だとすると、凶器の選択肢は多くない。犯人が誰であろうと、刑務所内で調達出来るナイフを使うことは不自然じゃない」「なるほど、それには同意します」俺は鰐男にたずねる。「昨夜、囚人がナイフの不法所持をしていたという報告はありましたか?」いいえと鰐男は首を振る。「とすると刑務官が被害者と揉め事を起こした時、偶然その夜押収したナイフで刺したという可能性は除外出来る。前もって用意していた凶器を使用したのであれば、これは計画的な殺人だ」「それにも同意します」「計画的な犯行なら、刑務官が犯人であるはずがない。数時間経てば勤務が終わるのに、どうしてわざわざ刑務所中で殺すんだ?」

 俺の言葉に彼女はしばらく考え込んだあと、「激情にかられたのかも、」とつぶやく。「

たまたま過去に囚人から押収したナイフをどこかに隠し持っていて、激情にかられてその凶器を取りに行ったという可能性はありませんか?」「却下。押収したナイフを刑務所内に隠し持つ理由がない」「護身用ですよ。ここにいるのは凶悪犯ばかりですから」「却下。刑務官は腰に立派な装備品をぶら下げている。粗悪なナイフを隠し持つ意味がない」「誰かを殺した時に、その罪を囚人になすりつけるために持っていたのかも」「どうしてめげないんだ? 囚人に罪を着せたいならどうして囚人が自由に行動出来る日中に殺さないんだ」「たしかに」とにかく、「刑務官が激情に駆られたという線は捨てろ。そして刑務官が計画的に殺したというのなら、何故昨夜、刑務所内で殺さなければならなかったのか、その理由が必要だ」「ではそれを見つけましょう」

ちょっと待って下さい。鰐男は納得がいかないといった様子で彼女に再び噛みつく。

「あなたは私の部下の犯行だと決めつけているのですか?」

「え、だって背中だけを刺されているんですよ。揉み合いの最中に刺したのなら普通はお腹を刺しますし、相手は屈強な男性です。抵抗した跡や争った跡が残るはずです。それがないのは、被害者の隙をついて近寄り背後から致命的な一撃を与えたことになります。犯行時刻は夜中です。監房にいるはずの囚人に向かって背中を向けていたはずがありません」

「気付かれずに近付いただけでしょう」鰐男は反論するが、彼女は人差し指を立てて言う。「あり得ません。だってここ図書室ですから。刑務官のカードキーがないと入れません」

 彼女の言葉に鰐男は唸り声を上げて黙り込む。一見、彼女の言葉は正しいように聞こえるが俺には納得出来ない点がある。

「突然犯人に襲われ図書室に逃げ込んだ可能性はある。被害者が開けた扉から被害者に続いて犯人も入り、背後から刺したとしたらどうだ?」

 なるほど。彼女は考え込む素振りのあと、小さく首を振る。「やっぱりあり得ません」

それから彼女はしゃがみ込むと血痕の近くに散らばっていた本を拾い上げ、俺に向かってずいと突き出す。

「これ、どう思います?」「知らん、読んだことない」「本の中身はどうでもいいです。背表紙の下のシール、図書室の整理番号が書かれています」「そうだな」「床に落ちている本の整理番号はすべてCから始まっています」そして彼女は被害者が倒れていたすぐ先の本棚を見上げる。本棚の上には大きく『C』と書かれたプレートが貼られている。「遺体近くに落ちていた本はすべて、この本棚の本なんです」俺は彼女から本を受け取ると本棚の前まで歩いていく。「襲われた際に本棚にぶつかって落ちたのか?」「いいえ。本棚に血痕など被害者が接触した形跡はありませんでした。本は本棚から落ちたんじゃありません。本棚に戻されるところだったんです」そう言うと彼女は先程ファイルが置いてあった机の方へと歩いていく。「この机の上には他に八冊の本が重ねて置いてありました」彼女はくるりと積み重なった本の背表紙を俺の方に向ける。「上からKで始まる本が四冊、Nが二冊、そしてBとFが一冊ずつあります。棚の整理番号ごとに並べられているということは、被害者は本をしまおうとしていたと考えるのが自然です。この推理どう思います?」

「それだけ自信満々で話しておいて、どうせすでに裏は取っているんだろう?」

「正解です。昨夜の夜勤帯勤務者の証言によりますと、二十四時頃に一度、被害者は一階の監房エリアに上がって来ているんです。図書室の返却BOXの中の本を片付けると言い、本を抱えてまた地下に下りていったそうです」

 被害者の最終生存確認時刻が二十四時というのはその時か。そして、被害者が本を片付けようとしていたことは確定的らしい。

「ちなみに、」彼女は鰐男にたずねる。「刑務官の持つカードキーの管理は厳重にされていますよね」「もちろんです。出勤時はD区画に入る前に書類にサインしカードキーを受け取り、勤務を終えると再びサインしカードキーを返却します。これまでにカードキーの紛失の報告はありません」「事情聴取の際に、夜勤の皆さんのカードキーは確認しましたし、被害者の首からもカードキーの入ったパスが下げられていました。昨夜この部屋に入ることが出来たのは、やはり刑務官だけです」彼女の言葉に鰐男がぐうと唸る。「あ、でも囚人がカードキーを刑務官から盗んで被害者を殺害後にまた刑務官に気付かれずにカードキーを返すなんてことが出来れば囚人の単独犯もあり得ますが、そんないい加減な管理されています?」挑発的な物言いに鰐男は顔を真っ赤にして黙り込む。

彼女は正しい。だが俺は別の可能性を考える。刑務官と囚人が共犯で、カードキーを手渡したのだとしたら。被害者は監房エリアから本を持ち出している。監房エリアにいた誰もが、被害者が図書室にいることを知ることが出来たと考えるべきだろう。もし監房エリアの刑務官が囚人を使って殺害させたのであれば。カードキーを手渡し、監房エリアから出ていくのを黙認すれば犯行は可能だ。

いや、そんなことよりもまず、本当に囚人は図書室に入ることが出来なかったのか、それをたしかめるべきだろう。俺は扉の方へと歩いていくと取っ手に手をかける。一度閉じた扉には鍵がかかっている。

「取っ手の横のつまみを捻って下さい。部屋の内側からはカードキーがなくとも鍵が開きます」鰐男の言葉に従い俺はつまみを回す。かちっと開錠の音がして俺は取っ手を握る手に力を込める。扉を半分ほど開けたところで俺は手を放す。日中は囚人が出入り出来るように扉は開けっ放しになっていると言っていた。見たところ特別なストッパーなどはない。何よりもこの部屋に入った時、あの鰐男はわざわざ扉を閉じていた。つまり図書室の扉は手を離しても勝手に閉まってしまうような構造にはなっていない、と思っていたが案の定手を離した扉は開いたままその場所にとどまっている。

「床に落ちている三冊、そして机の上の八冊、被害者は少なくとも十一冊の本を抱えて監房エリアから下りてきた。監房エリアの一階には図書室の返却ボックスと書かれたワゴンが置かれたままになっていた。D区画の見取り図にはたしか貨物用のエレベーターとあったはずだが、本を運搬したあとカートだけをもう一度管理エリアに戻しに来たのか?」俺の問いにいいえと彼女は首を振る。「刑務官の話では、本だけを抱えて階段を下りていったようです」「だが十一冊を抱えていたとなると当然両手を使う。図書室の扉はかなり重い。いったん床に本を置いて扉を開けたのか、あるいは扉に押し付けるようにして片手で本を持ち首から下げたカードキーで開錠し、本を両手で持ち直して体を使って扉を開けて図書室の中に入ったのかのどちらかだろう。いずれにせよ両手に本を抱えた状態で図書室の扉を通過したあと、わざわざ苦労してまた扉を閉じるより、そのまま扉を開けっぱなしにしておいたと考える方が自然だ。そして扉が開けっ放しになっていたのなら、囚人でも被害者に気付かれずに近付くことが出来たことになる」

 彼女は唇を尖らせたあと、ですが、と反論する。

「被害者はこの場所で本棚に本をしまっていたところを襲われています。入口からここまでは数メートル。いくら片付けに夢中になっていたとしても気配でわかるでしょうし、一目でも囚人の姿を確認すれば当然警戒して背中を向けたままにはしなかったはずです」

「床にはカーペットも敷かれていて足音はほとんどしない。現にお前は俺が図書室に入って来た時、声をかけるまで本棚の方を向いていただろう」

 俺の言葉に彼女はきょとんした表情を浮かべ、それから数分前のことを思い出したのか、にっこりと笑って言う。「ですね」

 話はこれで振り出しに戻る。

 刑務官であれ、囚人であれ、犯行は可能だった。

「整理しよう」俺は彼女と爬虫類に向かって言う。「被害者が監房エリアから本を持ち出したのであれば、監房エリアにいる不特定多数が、被害者が図書室にいると知ることが出来た。また図書室の扉が開けっ放しになっていた可能性がある以上、犯行現場から犯人を絞り込むのは難しい。昨夜、囚人からナイフの押収はなかったという証言を信じるならば、これは計画的な犯行だ。犯人は隠し持っていたナイフと明確な殺意を持って図書室にやってきた、ここまではいいな?」

ここで、「はい」と彼女が手を上げる。「無差別殺人の可能性はどうですか? ナイフを手に監房を抜け出た囚人は誰でもいいから最初に目についた刑務官を殺害するつもりだった。偶然、図書室の扉が開いていたところに通りかかり被害者を刺した、とか?」「却下だ。最初に目にした刑務官を襲うならどうして監房エリアの刑務官を襲わない?」「ですよね。ほら、一応あらゆる可能性を考える必要がありますので。続けて下さい」

 まったく。俺はふんと鼻を鳴らすと話を戻す。

「次に考えるべきは、昨夜犯行が行われた理由だ。刑務官であるならば刑務所の外で殺害することが可能なのに、何故昨夜でなければならなかったのか」「囚人にしても同じことが言えます。たしかに囚人なら刑務所内でしか殺害出来ませんが、夜間に違法な武器を所持して監房から抜け出すのを見咎められれば懲罰房は免れません。しかも図書室の扉が開いているかどうかは賭けでしょうしリスクに見合いません。殺すなら日中の方が簡単なはずです」そうだな。仮に刑務官と囚人が共犯であっても同じことだろう。「つまり刑務官だろうが囚人だろうが、昨夜、計画的に被害者を殺害するには余程の理由が必要となる。昨夜でなければならない理由があったはずだ」

 俺の言葉に彼女はうなずく。

「例えば被害者が別の刑務所への異動が予定されていて、これが最後のチャンスだったという可能性はありませんか?」彼女の質問に鰐男はいいえと首を振る。「加藤君の異動の話はありませんでした」「でも何か引き金があったような気がします。元々抱いていた殺意を後押しする何か。昨夜、被害者と揉め事があったということはありませんか?」「囚人と揉め事があったのだとすると監房エリアの監視中しかあり得ないが、そうなれば少なくとも相棒は知っているはずだし、次の監房エリアの担当刑務官にも問題があると伝えたはずだな。被害者が昨夜、囚人と揉めたという報告はあったか?」鰐男はいいえと首を振る。「囚人でないのなら、やっぱり刑務官と揉めたんじゃないですか?」あくまで彼女は刑務官が犯人である可能性を追っているのか。「夜勤帯は基本的に二人一組で行動している。刑務官同士で揉めれば、当然お互いの相棒の知るところになる。そういう証言は、」再び鰐男はいいえと首を振る。「被害者が誰にも知らないところで揉めたとするとその相手は相棒しかあり得ない。だが犯行時刻、地下にいたのは自分と被害者しかいない状況で犯行に及んだとするとあまりに直情的だ。自分の武器で殺害したならまだしも、隠し持っていた囚人手製のナイフを持ち出す冷静さがあるのなら、自分が最も疑われる状況下で殺害するとは思えない。刑務官同士で揉め事があった可能性は低いだろうな」

 つまり、もっと特殊な理由があったはずだ。昨夜でなければならなかった理由。犯人を殺人に駆り立てた理由。彼女も黙って考え込んでいる。すぐに答えが出るとは思えない。だがとっかかりとしては十分だろう。俺は二人に向かって言う。

「知りたいことは三つだ。昨夜、被害者が刑務官あるいは囚人と揉め事があったかどうか、囚人が監房から抜け出すことは本当に可能だったかどうか、そして、昨夜、被害者を殺害しなければならなかった理由とは何かだ。そんな物があればだが」

 俺は鰐男に向かって言う。「夜勤勤務者はまだ刑務所内にいるんですよね」

「はい、全員を待機させています」

「だったら全員雁首揃えてもらうのが一番手っ取り早いな。異論はあるか?」

 彼女にたずねると、人差し指で唇をとんとんとノックしたあと、「いいんじゃない」と能天気に言う。

 俺は鰐男に昨夜の夜勤勤務者を連れてくるように言う。鰐男はわかりましたと背筋を伸ばすと跳ねるように小走りで扉に向かい、開けっ放しになっている扉から廊下に飛び出していく。

 そして被害者の大量の血痕が床に残る図書室に二人の刑事は取り残される。

鰐男の足音が遠ざかると、俺は彼女の方を向く。まるで十五歳の少女のようにしか見えない法務省から来た特別捜査官が唇を尖らせながら立っている。目が合うと俺は一度うなずき、それから彼女の名前を呼ぶ。

「水沼、キリコ」

「トウコです」

「どっちでもいい」

 俺の言葉に彼女は鼻の頭にしわをよせたあと、「ま、いっか」と言う。

それから彼女は心底不思議そうに俺の顔を覗き込む。

「こんなところで何をしているんですか、東方さん」「それはこっちのセリフだ。研修中にしょっちゅう泣きべそをかいていたお前が大した出世だな。首都警察に戻って今では立派な法務省の犬だ」「泣いたことはありませんが、素直にありがとうございます」「褒めてない」「褒めましたよ」「褒めてない」「褒めたくせに。こんなところで何をしているんです?」「知らん。頼まれたから来ただけで俺の本意じゃない」「東方さんとまた殺人事件の捜査が出来るなんて光栄です」「嫌味か?」「もしかして、わたしの方が階級が上になったので怒ってます?」「いつからそんなにおしゃべりになった?」「女性は三日会わないと変わるものですよ」「いつまで経っても十五歳にしか見えない」「わたしに会えてうれしいって素直に認めたらどうです?」「口数が多いのは緊張している証拠だぜ」俺は唇を鳴らすと彼女を見る。「何か隠しているな?」

 両目を見開いて俺を見たあと、彼女は小さくうなずき、さすがですねと笑う。

「東方さん」水沼は鼻先までずり下がった眼鏡をくいっと押し上げると相貌を引き締める。「わたしはこの二年間、法務省直轄特定刑務所管理委員会直属の特別捜査官の任務に従事してきました。これまでは首都圏の三つの特定刑務所での事件の捜査をしてきましたが、ここは異常です。東洲区重警備刑務所D区画は、他の実験区画とは明らかに違います」

 ほおと俺は机に寄りかかると、十五歳の少女をまじまじと見る。

「具体的には?」

「東方さんはすでに監房エリアを見ましたか?」

「ああ。囚人の不満が爆発しそうだというので、最初に案内されたな」

「首都圏にこれまで設置された三つの特定刑務所は、軽犯罪や詐欺罪、政治犯など知能は高くとも暴力犯罪とは縁のない比較的社会性が保たれている囚人集団で構成されていました。それでもかなり細かい厳密なガイドラインが設定され運営されていました。首都圏で法務省の監視も行き届いた状況で管理されていましたが、ここは首都圏から遠い上、実験区画初めての重罪凶悪犯への社会実験が行われています。そんな不安定な状況下で、夜間にも監房に鍵がかけられないなんて初めての事態です」

 何だと。俺は思わず眉をひそめて彼女に問う。どういうことだ。監房に鍵をかけないのは水曜日計画とかいうふざけた名前の社会実験の重要な理念の一つじゃなかったのか。

「監房に鍵をかけないのは法務省の意向じゃないのか?」

「法務省の許可を得ているのはたしかでしょうが、実験区画の共通ガイドラインには記載されていません。施設ごとに刑務官の人員など異なりますから、共通ガイドラインをベースに、細かい規定は刑務所ごとに法務省と調整しています」

「つまり、夜間に監房に鍵をかけないというのはこのD区画からの提案で、そんな馬鹿げた申し出を法務省も許可したということか?」

「おそらくは。馬鹿な決定とは思いますが、囚人の人権が拡大する方向の申請であれば簡単に許可が下りると聞いています。刑務所自体が管理出来ると考えているであれば、法務省としては反対する理由はありませんから」

 だがそうなると話は大分変わってくる。あの爬虫類はこのD区画の現状は法務省から押し付けられたかのように言っていたが、単に仲間が殺された責任を法務省に転嫁したかっただけなのだろうか。あるいは、

「こんな凶悪犯監房の鍵をかけないようにするなんて異常です。この先も想定を超えたことが起きる可能性は覚悟しておいた方がいいと思います」

「何が言いたい?」

「捜査中のわたし達の安全は、何も保障されていないということです」

 なるほどな。

 俺は思わずため息を一つつく。まったく。休暇明けの身には荷が重過ぎる。

「嫌な予感がしてきたよ」

「わたしは朝からずっとしています。わたし達はまさに、死なばもろとも、ですね」

 不吉なことを笑いながら言い、彼女はぺこりと頭を下げてみせる。

「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」

よろしくお願いします。パンツスーツにリュックを背負ったおかっぱ頭の小柄な少女が、未未市警察の刑事部屋で深々と頭を下げたのは二年ほど前のことだった。首都警察から来た三カ月間限定の研修生。この国最初の自治体警察であり、この国で最も過酷とも称される未未市警察捜査一課で彼女は殺人課刑事としての産声を上げ、そして首都警察へと帰っていった。その後の彼女はその能力をいかんなく発揮し、元々上級国家公務員試験一種合格の幹部候補生ということも相まって、あっという間に出世の階段を駆け上がったと風の噂に聞いていた。たった二年前だというのに十年も昔のように感じられる。あの頃の俺は若く殺人課刑事の仕事を信じていた。だが仲間の堕落を目にし、殺人課刑事の仕事を信じられなくなった俺は、それでも仕事を辞められずに、生きているのか死んでいるのかわからない日々を過ごしている。もうずっと忘れていたはずだったのだ。それなのに。

水沼桐子と俺はこうして再び出会う。

まるで悪い冗談だな。

俺がそうつぶやくと、ほんとにね、と彼女が笑った気がした。



「刑事さん」と呼ぶ声に俺は振り返る。

図書室の扉の所に鰐男を先頭に屈強な体格の刑務官達が並んで立っているのが見える。でっか、踏みつぶされちゃいそう。彼女がそうつぶやくのを聞いて、俺はまったくと首を振る。「それじゃあ、事情聴取を始めよう」

 鰐男が連れてきたのは五人の刑務官で、皆、一睡も出来なかったのか顔には疲れが浮かんでいる。俺達の方までやって来ると、鰐男は一人ずつ紹介する。

「こちらが松井君。亡くなった加藤のパートナーです。大きいでしょう?」

 見上げるほど身長が高く、首が埋まるくらいに盛り上がった僧帽筋と分厚い胸板の男がむっつりと一礼してみせる。窪んだ眼窩の奥の三白眼が粗暴な印象を与える頭が、鍛え上げられた体の上に乗っている。こんな男に睨みつけられたら凶悪犯でも歯向かう気は失せるだろう。

鰐男は続いて松井の横に立つ四人の刑務官を順次紹介していく。「河西君に間宮君、そしてこちらの二人が田上君と山崎君です」

「死亡推定時刻、監房エリアの担当が河西刑務官と間宮刑務官、特別監房エリアの担当が田上刑務官と山崎刑務官でしたね」

うなずいた刑務官達に彼女は改めて質問する。

「一部、先程の話と重複しますが、再度お話を聞かせて下さい。まず確認ですが、二十三時、被害者と松井刑務官は管理エリアに下り、松井刑務官は当直室に、被害者はシャワー室に向かった。そうでしたね?」ああ、と松井がうなずく。「続いて二十四時、被害者は監房エリアに現れ、図書室の返却BOXから本を持って地下に下りていった。その際に河西刑務官と間宮刑務官のお二人は被害者と話をしていますね?」はい、と河西が代表してうなずく。「監房エリアの本を図書室に戻すのは、夜勤帯で行うことになっているのですか?」そういうわけではありませんと河西は首を振る。「大抵は日勤帯の業務ですが、手が回らない時は夜勤帯で片付けることもあります。加藤は夜勤の休憩時間には、図書室のビデオライブラリーにある映画を見ることが多かったのですが、昨夜もそのついでに本を片付けようとしたのだと思います」

 なるほど。ちらりと彼女を見ると、手帳のページをめくり、とんとんとペンの後ろでこめかみを叩いている。

「次にお聞きしたいのは皆さんのカードキーについてです。カードキーを紛失したという事態はこれまでなかったそうですが、昨夜、皆さんはカードキーを一度も手放したりしていませんか?」どういう意味です、と怪訝そうに松井が眉をひそめる。「つまり、誰かがカードキーを置きっぱなしにしていて、それを囚人が手にしたという可能性はありませんか?」彼女の問いに、松井はあからさまに不服そうに答える。「あり得ませんよ。カードキーは肌身離さず持っているよう決まっていますからね」「ちなみに今は、」彼女の言葉に四人はそれぞれ上着の内ポケットの中や首から下げているパスの中からカードキーを取り出して見せる。「ありがとうございます。しまってもらって結構です」

 ふうむ。俺は考える。仮に被害者が夜勤の休憩時間に図書室で映画を見ることが習慣化していたとすると、それこそが昨夜被害者が狙われた理由にはならないだろうか。被害者が一人でいるなら犯人にとっては絶好の殺害の機会だ。ただ、被害者が図書室で過ごすことを刑務官は知り得ても囚人は知らないはずだ。監房エリアに本を片付けに来た姿を見ただけでは、相棒と二人で図書室にいる可能性を除外出来ない。囚人がそれを知るには刑務官からそれを聞かされるしかない。

「では、次に亡くなられた加藤刑務官ですが、昨夜、誰か囚人と揉めているというようなことはありませんでしたか?」彼女の問いに刑務官達は互いに顔を見合わせる。だがすぐに、いいやと全員が揃って首を振る。「囚人とは揉めていない、と」彼女はペンを走らせながら言う。「ちなみに昨夜、皆さんとは何か揉め事とかありませんでしたか?」

 ざわり。空気が音を立てて引き締まるのがわかる。

「俺達のことを疑っているんですか?」

 松井が敵意むき出しの口調ですごむ。

 彼女はきょとんとした顔で平然と答える。

「わたしはただ揉め事があったかどうかをおたずねしているだけです」

「主任、」松井が強い口調で抗議するが、鰐男は苦々しい口調でお答えして、とたしなめる。「揉め事なんてありませんよ。俺達はずっと上手くやってきた」まあ揉め事があったとしても認めるはずがない。彼女はくるりとペンを回すと、「了解です」とにこやかに笑い、では次の質問に行きましょうと告げる。

「被害者の死亡推定時刻は二十四時から一時の間です。その間に、何かいつもと違うこと、異変がありませんでしたか?」

 彼女は全員にそうたずねたあと、ペンの後ろでとんとんと唇を打ち、それから件の時間帯に特別監房を監視していた二人の刑務官にペンを向ける。「山崎刑務官、いかがです?」

 青白い顔をした白髪交じりの痩せた男は、横に立つ鼻の大きな男、名札に田上と書かれた刑務官と顔を見合わせ、それから答える。

「私達は特別監房の監視をしていました。監房エリアの一階とつながってはいますが、特別監房と一般監房の間には、廊下といいますか、一つ部屋を挟んでいますので何も聞こえないんです。ですから、私達は何も、」同僚が殺害され刑事に事情聴取されるという、経験したがことがないだろう異様な状況にどこか挙動不審に見える。「特別監房には現在五名が収監されています。懲罰房に四名、保護房に一名です。五人共その時間は眠っており、特にトラブルはありませんでした。私達は一度も特別監房エリアから席を外していません」

「俺達が保証しますよ。彼等は一度も監房エリアの方には出てきていませんでした」

 監房エリアの監視をしていた間宮が答え、横に立つ河西も同意するようにうなずく。

「わかりました。では次はお二人です。監房エリアに問題はありませんでしたか?」

 さあ、ここからが重要だ。監房エリアの監視に穴があったのか、囚人が監房エリアを抜け出すことは現実的に可能だったのか。

「問題と、言われましても、別にいつもと変わりませんでしたよ」

「いつもと、ですか」そう言うと彼女はずり下がった眼鏡の奥から相貌を引き締めて言う。「この事件、あなた達刑務官が犯人でないのなら、犯人は監房エリアから抜け出た囚人ということになります。囚人が監房エリアから抜け出すことが可能かどうか、それが最も重要な条件なんです。たしか、一時間に一度、すべての監房を確認し、それ以外の時間はお二人で一階から監房全体を監視していたんですよね」

「はい、その通りです」と河西がうなずく。

「消灯後の監房エリアは、監房前の廊下の常夜灯がついているだけとお聞きしました。囚人が監房から出入りしたとして、確実にそれに気付くと言い切れますか?」

「もちろんです」と言ったあと、自信なさげに間宮がつけ加える。「多分、」

「多分、ですか」彼女はふむと唇を尖らせたあと、再びペンの後ろで唇をノックする。「今朝、監房エリアを見せていただきました。事件後より監房エリアも現場が保存されています。詰め所には飲みかけのコーヒーカップがありましたが、二十三時から三時までの四時間、お二人は一度もトイレに立つことはありませんでしたか?」

「それは、」途端に河西は口ごもる。助け舟を出すように間宮が答える。「もちろんトイレに立つことはあっても、二人同時ということはありません」

「なるほど。では、居眠りをしたということは?」

にこやかな口調でずけずけと尋ねる彼女に、俺は思わず小さく鼻を鳴らす。

「私達は仕事中に居眠りなんてしません」

「うーん、でも詰め所には新聞や雑誌がありました。それに夢中になっていれば、見逃した可能性ってありません?」

「あれは昨夜、囚人がラウンジに残した忘れ物ですよ。私達は勤務中にさぼったりしません。監視には問題ありません」強い口調で河西が言う。

「では、囚人が犯人であることはあり得ない、と?」

 彼女の問いに刑務官達は黙り込む。それを認めるということは自分達の中に犯人がいると主張することになる。不穏な空気の中、彼女はじっと彼等の表情を観察している。睨み合いのような膠着状態に、俺はやれやれと首を振り、一ついいかな、と口を挟む。彼女は俺をちらりと見ると、手帳で顔を半分隠しながらにんまり笑って、どうぞと答える。

 俺はゆらりと河西の方へと歩み寄ると、襟首を掴み、顔を近付けくんくんと鼻を鳴らす。

「何ですか?」

「いいにおいをさせているな」

 気味悪そうに後ずさる河西の顔に俺は人差し指を突き付ける。

「歯肉の黒ずみから見てかなりのヘビースモーカーだが詰め所には灰皿がなかった。ここでは刑務官の喫煙は禁止されているはずだが、おたくの制服にはにおいが染みついている。勤務中に喫煙しているのは明らかだ」

「囚人の煙の臭いが移っただけでしょう」

「本当に四時間もの間、一本も吸わずにいられるのか? 監視の途中にタバコを吸いに席を立ったんじゃないのか?」

 ええ、と彼女が驚いた声を上げる。やはり気付いていなかったか。まあ、タバコを吸わない人間なら仕方はない。

「俺も喫煙者でね、市警察も全館禁煙で肩身の狭い思いをしている。まあ、守っちゃいないが。監房エリアの一階には喫煙所があったな」

「あれは囚人のための、」

「まったく、ふざけた話だよな。ここは囚人の人権が最も優先される場所だ。刑務官は喫煙が禁止されているというのに囚人達には許可されている。やってられない、そうだろう?」河西は青白い顔をさらに青くして黙り込む。「日勤帯なら無理でも、夜勤帯なら囚人用の喫煙所は使い放題、」そう言って俺は河西の胸ポケットを叩く。ポケットはタバコの箱と同じくらいのふくらみがある。

「私は勤務中に喫煙したりしません」

「正直に言った方がいい。さっき彼女が言っただろう? 事件発覚後、監房エリアも現場は保存されている。つまり喫煙所のタバコの吸い殻も昨夜のまま残されている。唾液と指紋を調べればすぐにわかることだ。だから無駄な会話は省きましょう。昨夜、勤務中にタバコを吸いましたか?」河西は答えない。「日中は囚人達が使用するため喫煙室は使えない。使うなら夜勤帯しかないが、市の条例で夜勤勤務のあとは二十四時間の休息が義務付けられているため、昨夜以前のあなたの夜勤勤務は二日以上前ということになる。そんな昔の吸い殻が残っているなんて都合のいい言い訳はしませんよね?」

 俺が淡々と詰めるように言うと、観念したのか河西は下を向いたまま答える。

「昨夜、二度ほど持ち場を離れてタバコを吸いに行きました」

「何ということですか」

 鰐男が顔を真っ赤にして激怒の声を上げる。短い手を振り回しながら河西に向かって言う。「勤務中に喫煙するなんて甚だしい服務規程違反ですよ河西君。まさか君がそんなことをするなんて信じられない」

 たしか鰐男の話では夜勤帯勤務の最初と最後の一時間は日勤帯と勤務が重なる時間帯だ。そしてその時間帯は、囚人達は監房内にいるため、厳密には日勤帯勤務者でも喫煙所を使うことは可能だろう。つまり、河西の吸い殻が残っていたとしても、昨夜の物ではない可能性はあったが、引っかかってくれて何よりだ。

 河西は言い訳もせずうなだれる。喫煙所に行ったのは二回でも、一本吸ってすぐに持ち場に戻ったとは思えない。河西が喫煙所に入り浸っている間にもう一人がトイレに立てば監房エリアは刑務官が不在だった時間があったことになる。

 それが聞ければ十分だ。俺が彼女を見ると、彼女もぱたりとメモ帳を閉じる。鰐男は険しい顔で黙り込んでいる。

「あの、」鰐男に叱責され青色を通り越して土気色の顔色をした河西が彼女にたずねる。「もしかして加藤が殺されたのは、俺がタバコを吸ったからでしょうか?」

 そうとは限りません。彼女は白々しく言うが、仲間の死の責任の一端が自分達にあることを突きつけられ、刑務官達は皆、一様に肩を落としている。仲間意識が強いのは本当らしい。

「では、そろそろこの辺りにしましょう。遅くまで残っていただきありがとうございました。また聞きたいことが出来ましたらご連絡します。帰宅されてかまいませんが、連絡だけはつくようにしておいて下さい。何かご質問は?」

彼女の言葉に刑務官達は誰も口を開かない。鰐男はいまだ怒りがおさまらないのか真っ赤な顔をして鼻息荒く彼等を睨みつけている。「では、行きましょう」鰐男の言葉に、刑務官達は失礼しますと口々に言いながら部屋から出ていこうとする。

「ああ、そうだ、もう一つだけよろしいですか?」

 唐突に彼女が呼び止める。

「確認なんですが、皆さんのその腰の装備品、普段からそのような物を装備しているんですか?」

「どういう意味です?」

 松井が怪訝そうに聞き返す。

「ああ、いえ。ほら、いくら凶悪犯相手とはいえ彼等は丸腰です。そんな物騒な物が必要なのかなと思いまして」

「水沼捜査官。これは法務省が定めたガイドラインによって規定された装備品ですよ」

 鰐男が言い終わる前に、松井は強い口調で彼女に威圧的に言う。

「あんた本当に管理委員会の捜査官か? ここがどういうところかわかっているだろう?」

「んー、わかりません」

「このD区画に収容されているのは凶悪犯ばかりだ。囚人達は徒党を組み、縄張り争いで囚人同士の暴力事件も日常茶飯事だ。あいつらと付き合うにはこちらも命懸けなんだ。これは身を守るための正当な装備品だ」

「なるほど。つまりその装備品はあなた達にとってはここで勤務するにあたって必要不可欠な物なのですね」

「そうだ」

「勤務中に装備品をおろすことなんてあり得ない」

「当たり前だ」

「だとしたらそんな大事な装備品を何故、被害者は殺害された時に所持していなかったのでしょうか?」

 何だと。俺は思わず彼女を見る。そして先程見たファイルの中の被害者の写真を思い出す。背中の傷、流れ出た血液、青白い顔、そしてそう、被害者は腰に武器を所持していなかった。

「遺体発見の報告後、管理委員会から現場の保存と写真の撮影を指示されましたよね。発見直後の写真では被害者の腰に装備品はありませんでした。身を守るために必要な武器を、彼は何故所持していなかったのでしょうか?」

「そんなこと、俺に聞かれても、」

「犯人が持ち去ったとは思えません。凶器のナイフすら残していった犯人が、そんな大きな武器を持ち去るのは現実的ではありません。それに刑務官の武器が奪われたとなると、とっくにD区画はロックダウンされ、今頃は武装した特殊部隊がここに押しかけているはずです。被害者の装備品はどこにありましたか?」

 彼女に問われて、鰐男は動揺した様子で宙空を見たあと、それから思い出したかのように両手を叩く。「そうでした、加藤君のロッカーに装備は残されていました」

「シャワーを浴びたのか、あるいは寝ようとして装備品をおろした可能性はあり得ます。ですが被害者はそのあと本を取りに監房エリアに向かっているんです。鍵のかからない格子のすぐ向こうには凶悪犯がいるんです。先程の言葉を信じるなら、そんな場所に装備品を持たずにいくとは思えません。彼が監房エリアに上がって来た時に装備品をしていたかどうか、覚えていらっしゃいますか?」

 彼女の問いに、監房エリア担当だった間宮と河西は再び顔を見合わせる。

「いえ、どうだったか、ちょっと覚えていません」

 彼女は鼻先までずり下がった眼鏡をくいっと押し上げる。

「わざわざ本を抱えて地下に下りて、装備品をロッカーにしまってから図書室に行くとは思えませんからもちろんその時点で装備品はおろしていたはずです」

 そうか。もし、被害者が丸腰で監房エリアに上がってきたところを目撃してきたのなら、それこそ殺害のチャンスと犯人は思ったのかもしれない。何故、昨夜でなければならなかったのか。それが答えなのか?

「それにしても犯人は幸運でしたね。被害者が武器を装備していれば、あるいは反撃をくらって致命傷になったのは犯人の方だったかもしれません」

「だから何だと言うんです。武器を持っていなかった加藤を責めるんですか?」

「問題は、あなた達がいい加減な仕事をしているということなんです。鍵がかからない監房エリアの監視中にタバコを吸うために席を立った。被害者にしても監房エリアに上がるのに装備品を外すのは法務省の定めるガイドライン違反です。正直あなた達の仕事ぶりは信用が出来ませんし、今、ここでお聞きした話もどこまで信用していいか迷っています」

 おい、もうよせ、俺は思わず口を挟むが彼女は自分の倍はある男達に一歩も引く気はないらしい。

「わたしはこれまでも首都圏の実験区画で様々な事件を担当してきました。そのいずれでも事件の背景にはルールの逸脱がありました。あなた達のいい加減な勤務態度が今回の悲劇を招いた、そうは思いませんか?」

「いい加減にしろよ」

 松井が彼女の胸倉を掴み、小柄な彼女の体はすぐ後ろの机に派手に乗り上げる。すぐに他の刑務官が松井に飛び掛かり、二人を引き離そうとする。

「何をやっているんだ、すぐに手を放しなさい」

 鰐男が叫び、刑務官によって松井は扉の方へと引きずり離される。俺はすぐに彼女の元に駆け寄るが、彼女は目を白黒させたまま、机の上に呆然と仰向けになっている。

「おい、大丈夫か?」

「ええっと、今日は何曜日でしたっけ?」

「水曜日だ。本当に大丈夫か?」

 俺は彼女の手を引いて起こす。

「水沼捜査官、謝罪します。暴力は絶対にあってはならないことですが、本当にちょっとした行き違いで、申し訳ありません、心から謝罪します。松井君、君も頭を下げるんだ」   

鰐男が必死の形相で彼女に頭を下げる。

「ですが主任、こいつは遠回しに、俺達が加藤を殺したようなものだと言っているんですよ。許せるんですか?」

「謝るんだ」鰐男が有無を言わさぬ口調で一喝し、松井は離せよと刑務官達にすごむと、それから彼女の方に一歩近付く。彼女は机に座ったまま松井を見る。松井は何度か大きく息を吐くと、それから深々と頭を下げる。

「すいませんでした」

「もういい。君達は帰りなさい」鰐男が言い、図書室の外を指差す。「早く行きなさい」激しい口調で一喝され、刑務官達は図書室からぞろぞろと出ていく。

「水沼捜査官、本当にすいませんでした」

 鰐男は再び、地面につかんばかりに頭を下げ謝罪する。

「ああ、びっくりした」と彼女は机に腰掛けたままふうと息を吐き、失敗しましたとつぶやく。問題が起きるのが当たり前の実験区画で問題が起きるたびに駆り出される特別捜査官の身になれば、たしかに彼等の勤務態度は腹立たしいだろうが、「やり過ぎた、馬鹿」俺は彼女に言う。だが、

「だが、被害者が武器を装備していなかったという事実はかなり興味深い。たしかに単に杜撰な刑務官が休憩中に装備品を外したままにしていただけにも見えるが、これがもし仮に、意図的に装備品を外していたのだとしたら話は大きく変わってくる」

 俺の言葉に彼女は机の上に腰掛けたまま大きく目を見開いてこちらを見る。

「意図的って、何のためにです?」

「犯人がそれを望んだんだ」

 俺はそう言うと顔の前で両手を祈るように合わせる。両方の人差し指を唇に当て、俺は図書室の中をゆっくりと歩く。

「被害者は図書室の本を片付けていたところを背後から襲われた、たしかにそう考えるのが一番自然だ。だが、もし被害者が意図的に装備品を外し監房エリアに現れたのだとしたらどうだ?」

 俺の言葉に彼女は小さな鼻の頭にしわを寄せる。

「どういう意味です?」

「被害者は本を片付けるつもりなんかなかった、としたらどうだと言っているんだ」

「いやいや、でも、事実被害者は返却BOXの本を持って下りていますよ」

「本を持っていったのは事実だ。だが本の片付けのためじゃない。別の目的があったんだ。たとえば、これから図書室に丸腰で行くと犯人に伝えるためだったとしたら」

 あっと彼女が声を上げる。

「犯人と被害者は、示し合わせてここで会っていた?」

「そう考えるといろいろと説明がつく。図書室の扉は被害者が開けておけばいい。そして被害者が丸腰であることが密会の条件であるならば、それを要求するのは武器を持たざる者だ。この刑務所ではそれは囚人しかいない。昨夜、被害者と犯人はここで密会し、そして交渉が決裂したのか、あるいは最初から殺害するつもりだったのか、背中を向けた被害者に突然犯人は襲い掛かった」

 ですが、と彼女が言う。「夜勤刑務官の反応を見る限り、囚人をかばっているようには思えません。もし東方さんの推理が正しいのなら、被害者と囚人の密会は、相棒を含め他の刑務官は知らなかったことになります」

「知られてはいけない囚人との密会。つまり、被害者は囚人とつながった汚れた刑務官だったということになる」

 俺はそう言うと両の人差し指を唇につけたまま鰐男に言う。

「困りましたね。どう考えても、おたく達には最悪なシナリオしか出てこない」

「私は、私は部下を信じます」

 鰐男はそう言うと、扉に手をかける。

「彼等と話をしてきます」

 図書室から出ていこうとする鰐男の背中に俺は言う。

「悲劇、ですよ」

 ええっ、と鰐男は振り返る。

「『運命に拮抗して苦悩する人間の姿を描いた物語を三文字で』。答えは『悲劇』だ」

 俺はそう言うと、ポケットにねじ込んでいた新聞を手にしてみせる。

「クロスワードパズル。間違っているんです、ここのところ。縦の六番。答えは『悲劇』。運命に拮抗して苦悩する、それが囚人のことだとすると、刑務所は悲劇そのものということになる。どういう終わりを迎えるにせよ、覚悟が必要です」

 鰐男はその大きな目玉をぎょろぎょろと動かすと、それではと部屋から出ていく。

 扉が閉まると、彼女はようやく机からおりて俺の方へとやってくる。

「何です、今の?」

「爬虫類の気持ちなんてわかるかよ」

「そうじゃなくて、」彼女は俺を見る。「クロスワードパズル?」

「嫌いか? 頭の体操になる」

 俺はポケットに新聞をしまって言う。

「今わかっていることは、監房エリアの監視はざるだったということ。そしてここの連中が信用ならない連中だということだけだな。監房エリアの監視がいい加減なら、当然、特別監房の監視をしていた二人のアリバイもあってないようなものだ」

「というか、複数人の刑務官が口裏を合わせていればアリバイも何もありませんけどね」

「お前の言う通り、もし刑務官が犯人ならあいつらはかばい合うぞ。捜査の邪魔が入るのは覚悟しておく必要がある」

「うーん、刑務官といってもわたしが疑っているのはやっぱり相棒の松井しかいないんですけど」

 ああ、と俺が聞き返すと彼女は人差し指を立てて言う。

「ほら、ここの監房エリアって特殊な形しているでしょ? 円筒状で一階からすべての監房が見渡せる形になっていますが、それって逆に言えば囚人達からも刑務官の姿は丸見えってことです」俺は監房エリアの一階で感じた囚人達の視線を思い出す。「特別監房の刑務官も地下に行くには監房エリアを通る必要があります。つまりですね、地上にいる人間はお互いがお互いに監視している状態なんです。殺人を犯すには不確定要素が多過ぎます。被害者が殺された時、地下にいたのは松井だけです。だとしたら松井が元々良からぬ思考の持ち主で、どこかに囚人手製のナイフを隠し持っていて被害者を殺したと考える方がしっくりきます。元々仲が悪かったのかも」

「仮にナイフを持っていたとして、どうして、」

「どうして朝まで待たなかったのか? ですよね。だから知りたかったんです。あの男が、感情が抑えられない、激情に駆られたら見境がつかなくなるほどぶっ飛んだ人間かどうか」

 お前、まさか。「お前、まさか。さっきのわざとやったのか?」

「襲い掛かってきたら、てっきり東方さんが体を張って守ってくれるかと」

「期待に沿えず悪かったな」

 呆れた奴だ。あんな挑発をしてもし本当に危険な目にあったらどうするつもりだ。だが、と同時に俺は思う。これは、実験区画管理委員会の特別捜査官として刑務官や囚人達を相手にいくつもの事件を解決してきた彼女なりの戦い方なのだろう。だから俺は彼女を責めたりはしない。こいつはもう、いつまでも俺が手を引いてやらなければならない研修生じゃないんだ。

 さてと、彼女はくいっと首をかしげてみせると俺にたずねる。「これからどうします?」

「セオリー通りに行くさ。容疑者は囚人と刑務官。刑務官から話を聞いたんだ。次は囚人から聞く番だ」

「百一名、全員からですか?」

「他に方法があるか?」

 んーと考えたあと、ないですね、と彼女はうなずく。


【FOUR】


東洲区重警備刑務所は戦前に建築されたこの国に現存する三番目に古い刑務所で、未未市東洲区の東の端にある。未未市が政府直轄都市に制定後、大規模に改築されたセキュリティレベル最上位の重警備刑務所である。多くの凶悪犯が収監されたことでも有名で、過去には稀代の連続殺人犯、希一希も収監されている。高さ6メートル、全長1.8キロメートルの巨大な壁に囲まれた14万平方メートルの敷地は、この国で五番目の敷地面積を誇っている。定員1210名であるが、収容人数の増加に伴い現在では定員を上回る1400名以上が収監されている。組織構成は刑務所長の下に総務部、処遇部、教育部、医務部、分類審議室の4部1室を持つ5部制となっている。

敷地の中央には刑務所全体を管理するレンガ造りの巨大な建物がそびえ立ち、左右に二つの建物、一般男性囚人棟と一般女性囚人棟が寄り添うように建っている。敷地の外れにはかつて戦争犯罪者収容棟として使用された円筒状の建物があるが、数十年前に役目を終えてからは封鎖され、それ以後、東洲区重警備刑務所は二監房棟制で管理されてきた。二年前、法務省直轄特定刑務所の四番目の実験区画に、首都圏から離れた刑務所として初めて東洲区重警備刑務所の封鎖された監房棟が採用された。東洲区重警備刑務所は政府直轄都市法に基づき未未市の管轄に置かれているが、特定刑務所第四実験区画については、法務省の特定刑務所管理委員会によって管理・運営されている。

実験区画参加者は東洲区重警備刑務所内だけでなく、広く未未市の他刑務所からも志願者を募っており、精神鑑定等各種検査にて選別された男性重罪犯百余名が実験に参加登録している。実験期間は最長四年間とされ、随時、一部の囚人が入れ替わっている。実験区画内での待遇は一切機密とされるも、囚人の人権に最大限に配慮したという謳い文句に、現在も囚人の参加応募は絶えない状況が続いている。


**********


管理エリアに用意された事情聴取のための部屋には、手錠をつなぐことの出来る机とクッションのない金属製のイスが並べられている。並んでイスに座ると俺は言う。「正直言ってこの取り調べは気が乗らない」俺の言葉に彼女がええ? と聞き返す。「犯罪者は苦手だ。俺は気が弱いからな」「取り調べこそが殺人課刑事の最も重要な仕事だと東方さんに教わりましたけど」「市警察ならまだしも身の安全が保障されない場所で殺人犯と会話なんて出来るか。お前が話せ。俺は離れたところで聞いている」「わたしの身の安全はいいんですか?」「俺じゃないからな」「それはどうも」「重要な証言を引き出せたら、あとでジュースを買ってやる」「そう言って買ってもらったこと一度もありません」あっそ。

 俺は机の上に実験区画管理委員会が作成したD区画被験者ファイルを開く。現在、一般監房に収容される百一名と特別監房に収容される五名の被験者の計百六名が実験対象となっている。人権保護の名目である程度の自由を許せば気の合う連中、利害の一致する連中で集まり徒党を組むのが人間の本質で、百余名も凶悪犯を一カ所に集めれば当然いくつもの囚人グループが形成され、D区画の覇権をめぐって睨み合いを続けるようになる。

 彼女が現在のD区画の囚人グループの勢力図を説明する。「D区画の最大勢力は黄桜一家です。指定暴力団黄桜組の四代目組長、貴桜鳴戸の弟である貴桜時生を中心に三十名ほどの構成員からなります」貴桜組? そんな奴等は知らん。写真を見ると、貴桜時生は額に横一文字の傷が走る白髪の男で、まるで古き良きやくざ映画の登場人物だなと俺は思う。「貴桜一家の対抗勢力と呼べるのが大陸系マフィアの赤報会です。青龍刀でも振り回しそうな物騒な連中の中心人物がこの男、トン・ローです」こちらは神経質そうな眼鏡の男で、赤報会は彼を中心に二十名ほどの集団だという。刑務所の外で行われている組織同士の抗争を塀の中にも持ち込むなよと俺は呆れてしまう。この二つの組織の睨み合いがもたらす囚人同士の暴力事件は日常茶飯事らしい。「D区画内の支配的なグループは貴桜一家と赤報会ですが、その他、いくつかの囚人グループが存在します。この実験区画の成立に関与した人権保護団体と強いつながりのある宗教『暁の塔』の信徒グループ、外国人排斥主義者グループ、同性愛者グループなどなどです」「ほとんどの囚人は何かしらの囚人グループに所属しているのか?」「無所属が数名ほどいるようですが、基本的には何かしらのグループに所属しているはずです」だとしたら厄介だな。事件発覚後、囚人達は監房から出ることは許可されていないが、近い監房同士なら意思疎通は可能だろう。グループの仲間同士が口裏を合わせてかばい合うと考えた方がいいだろうな。まったく。取り調べ前から先が思いやられる。

 鉄格子が開く音がして俺達は顔を上げる。刑務官に連れられてオレンジ色の囚人服に身を包んだ男が連れられてくる。それでは席について下さい。物怖じすることなく彼女はにっこりと笑う。囚人は俺達を警戒するように睨みつけながら見ながらゆっくりと席につき、机に固定されている手錠につながれる。そして、事情聴取が始まる。


第一回特定刑務所第四実験区画囚人事情聴取


水沼 「昨夜、発生した刑務官殺害事件についての事情聴取を行います」

水沼 「ここでの発言はすべて記録、録音されます」

水沼 「お聞きしたいのは事前にお伝えした三点です。一、昨夜、監房から出入りする人物を見聞きしましたか?」

水沼 「二、加藤刑務官と揉めている囚人に心当たりはありませんか?」

水沼 「三、犯人に心当たりはありませんか?」


囚人番号342-F 貴桜時生、武装強盗で懲役20年、仮釈放まで12年


貴桜 「俺は何も見ていないし何も聞いていない。何も知らない」

貴桜 「夜? 寝ていたさ。夜は寝るものだろう?」

貴桜 「その質問にはもう答えたよ、お嬢ちゃん」

貴桜 「捜査に協力したいのはやまやまだが、俺は何も知らない。聞きたければうちの連中にも順番に話を聞けばいいが、答えは同じだ。今回の事件に俺達は関係ない。俺の部下の誰も手を出しちゃあいねえよ」

貴桜 「お嬢ちゃん。質問にはもう答えた。そう言っただろう。(刑務官に)おい、戻るぞ」


囚人番号392-D トン・ロー、違法薬物不法所持及び売買で懲役12年、仮釈放まで8年


トン・ロー 「監房を出入りした人物は見かけませんでした」

トン・ロー 「彼はかなり暴力的な刑務官でしてね、私の同士の中には彼に殴られた者が何人もいますがここは刑務所ですからね。ルールを破れば罰を受けることは必然、彼を恨み殺害しようなんて思う者は私の同士にはいませんよ」

トン・ロー 「ここは特別な場所です。刑務官を殺せば楽園は終わる。刑務官一人の命と天秤にかければ、どんな馬鹿でも刑務所を守る方を選びます」


囚人番号300-A 堀部伴、信徒への違法な献金強要および監禁で懲役8年、仮釈放まで4年


堀部 「一、何も見ていないし聞いていない、二、誰も知らない、三、心当たりはない」

堀部 「私達、暁の塔は暴力を憎んでいます。貴桜組も赤報会も好きに争えばいい。私達とは関係ありません」

堀部 「私はたしかに罪を犯しましたが、すでに悔い改めています。二度と暴力的な行為をしないことを神に誓っています。私がここにいるのは同じように迷い苦しむ兄弟達を導くためです」

堀部 「兄弟達に主の教えを説き、魂の救済に導くのが私の使命です。私は常日頃から兄弟達に憎しみを捨てるように説いています」

堀部 「昨夜の事件を見るに、救いを求めている仲間がまだいるようですね。犯人がわかったら教えて下さい。私は彼に手を差し伸べねばなりません」


百余名の凶悪犯。百余名の悪意。

どす黒い空気が立ち込める鉄方体の中で悪夢のような事情聴取が続く。


「いいえ」「知らねえ」「俺は何も見ていねえし、何も聞いてねえよ」「いいや」「いや、何も変わりなかったな」「刑事さんは誤解されているようですね。この実験区画は作ったのは私達、暁の塔です」「いいえ、何も見ていません」「殺された看守の名前なんて知らねえよ」「気が付かなかったな」「名前も知らねえのにそんなこと知るわけねえだろう?」「俺には関係ねえよ。俺は何も知らねえ。話すことなんて何もねえ。もういいだろう?」「なあ、あんたどこから来たんだ? 市警察、おいおい本当かよ。それならあんた、俺をここにぶち込んだ奴のことを知っているか?」


事情聴取は続く。


「たしかに俺は加藤と揉めることはあったが、殺したのは俺じゃんねぇゼ。誰かが俺を嵌めようとしているんだ」「私達が人権保護団体を動かし、この実験区画を実現させたんです。次の市長選挙には私達も働きかけ、ここをもっと良くするつもりです。今、刑務官を殺しては本末転倒です。今が一番重要な時期なんです」「囚人グループ? ああ、それなら一番危ないのは愛国者党の連中だろうな」「ここは血の気の多い刑務官が揃っていますからね。一番、揉めていたのは大陸系の奴等でしょう」「一番目障りなのはあのいんちき宗教のくそ野郎共だ。図書室で毎日集会を開きやがって鬱陶しい」「刑務官と一番揉めているのは貴桜会の連中だぜ。ナンバー2がほら、今、懲罰房に入れられているからな。緊張状態だ」


事情聴取は続く。


「あんたにそれを話して何の得があるんだ? いいか、俺がここにいるのは政府に仕組まれたからだ。いいか、どんなことにも誰かの思惑って奴がある。陰謀だ。この事件も政府の陰謀の一つさ。俺達はいつも監視されている。気をつけろ。お前もずっと監視されている。チップだよ、チップだ。ここのところさ。頭の中にマイクロチップが埋め込まれているんだ。裁判が終わったあと、あいつらは健康診断と称して注射器を俺の腕に刺したんだ。その時にマイクロチップを埋め込まれたんだ。誰だってそうだ。ここにいる囚人はみんなチップが埋め込まれていて、頭の中を覗かれているんだ。違う、違う、腕の中じゃない、頭の中にあるんだ。いか、気をつけろ。今、この瞬間も俺達の会話をずっと聞き耳を立てている。誰も信じるんじゃないぞ、いいな」


事情聴取は続く。


「必要なのは力だ。最後に頼ることが出来るのは暴力だけだ。ここの連中はみんなそれがわかっている。いいか、ここは外とは違う。外のルールは通用しない」「暴力? それはここでは日常茶飯事、挨拶みたいなものですよ」「これはすべて政府の陰謀だ。あの刑務官は政府の秘密を知ってしまったから殺されたんだ。しっ、大きい声を出すな。あいつらはどこにでもいるんだ。どこにでもだ」「時代は変わります。ここはもっと良くなります。犯罪者を罰するために隔離し社会から遠ざける時代は終わりました。犯罪者が更生し社会復帰出来るように促すアプローチこそが必要なんです。われわれは死刑撤廃のみならず、終身刑の撤廃も訴えていくつもりです」「ここでの行動は筒抜けだ。いいか、全部見られている、全部聞かれているんだ。これは俺の妄想じゃない。みんな気付いていないんだ」「ようこそ刑事さん。ようこそ東洲区重警備刑務所D区画へ。石の箱、灰色の迷宮、ここは心の写し鏡だ」


「ヒロ・イシグロって、あの作家のヒロ・イシグロか?」

俺の言葉に、資料をめくりながら彼女はうなずく。

「はい。クォンタムボーイシリーズのあのヒロ・イシグロです」「妻を殺した、」「はい。末期がんの妻を知り合いの医者から手に入れた薬物で殺害しました」「大ファンだった。小説なんてくだらないがな、彼だけは特別だ。初めて読んだのは十五の時だった」「ええ、」「まだ生きてた?」「元気みたいですね」「彼がこの実験区画にいるのか」


東方 「お会い出来て光栄です。あなたの本はほとんど読んでいます」

イシグロ 「ここの連中は看守も含めて誰一人本など読みはしない」

東方 「こんなところでというのは皮肉な話ですが、十五の時、初めて読んだのは『宇宙(そら)まで踊る』でした。主人公が刑務所から脱獄するシーンに夢中になった。陳腐な言葉ですが感動しました。自由を掴んだダニーは、俺には憧れだった」

イシグロ 「あれはサクセスストーリーじゃない。彼は三日後に仮釈放が決まっていた。それなのに脱獄をして二日後に捕まり銃殺された。愚か者の話さ」

東方 「十代で投獄されてからの三十年間、彼は過酷な刑務所で耐え続けた。あと三日、たった三日待てば彼は塀の外に出ることが出来た。ですが彼には計画があった。三十年間、毎日毎日考え続け綿密に立てた脱獄計画。それをどうしても試さずにはいられなかった」

イシグロ 「愚かな男の悲劇の物語だ」

東方 「悲劇? 冗談じゃない。刑務所に三十年間です。永遠とも思えるような悪夢の日々に彼が耐えてこられたのは希望があったからです。脱獄こそが彼の希望だった。彼はそのチャンスをずっと待っていた。自由を掴むことを夢見て、そんな希望一つを頼りに絶望的な毎日に耐えていたんです。そしてあの夜、嵐が来て刑務所の外の川が氾濫した時、彼の夢がかなう三十年に一度のチャンスが巡ってきたんです。だから、彼はやらずにはいられなかった。あの嵐の夜、世界は彼の物だった。そのあとにどんな人生が待っていたとしても、あの夜だけは誰も彼から奪うことは出来ない。あれはそういう物語だ。決して悲劇じゃない。希望の物語です」


しばしの沈黙


イシグロ 「君は、ボクシングの由来を知っているか?」

東方 「ボクシング?」

イシグロ 「ボックス、箱だ。握り込んだ拳を箱と呼んだんだ。だからボクシング。刑務所もまた箱と言える」

東方 「箱?」

イシグロ 「東洲区重警備刑務所という箱、D区画という箱、そしてこの部屋もまた箱だ。幾重にも重なった箱の中に私達は捕らえられている。石の箱、灰色の迷宮、心の写し鏡、そしてここにも、」


ヒロ・イシグロが震える手で拳を握り、東方の方に向ける


イシグロ 「箱の中で拳を握る。箱の中で箱を作る。この意味が、君にわかるか?」

東方 「ボクシングに興味はありません」

イシグロ 「握った拳の中に、一体何が入っていると思う? 君に、この箱を開けて中を覗く勇気があるかな?」


ヒロ・イシグロがゆっくりと拳を開く


特定刑務所第四実験区画囚人事情聴取一日目終了。

所要時間:八時間十六分

聴取人数:七十六名


**********


 悪意は底知れない。

 囚人が口から吐き散らかすどす黒い吐息が充満した鉄方体の中に八時間も閉じ込められているととても正気じゃいられなくなる。結局わかったことはほとんどの囚人が何らかのグループに所属しているということ、各グループは大小関わらず他グループに悪感情を抱いているということ。緊張状態が常にあり各グループ内での結束が固いことは容易に想像出来るが、幸運だったのは監房の並びがグループごとにはなっておらずランダムであることだろう。監房から出ることが許可されていない現在は意思疎通を図ることは容易ではないだろうが、解放されればすぐにグループ同士で口裏を合わせかばい合うのは目に見えている。そうなればアリバイなんていくらでもでっち上げらるだろう。彼等が監房から出られない今が勝負だ、とは言え本日の取り調べで何か収穫があったかと言われれば残念ながら何の手がかりも得られていない。まったく。もううんざりだ。

やめだと俺はイスの前足が浮くぐらいぐっと背もたれると背伸びをする。事情聴取を翌朝九時に再開すると告げ俺達はD区画をあとにする。再び厳しい身体検査を受け、地下の連絡通路を通る間、彼女は俺の横を歩きながら一言もしゃべらない。顔には疲れが浮かんでいる。連絡通路の中央管理棟側の鉄格子を出て預けていた携帯電話や財布を受け取る。金を抜いていないだろうなと毒づくが、刑務官は表情一つ変えずにいいえ、と答える。

「ご苦労様でした。出口までお送りします」

 中央管理棟から外に出るとすでに日は沈み肌寒い空気に俺は白い息を吐く。取り出したタバコに火もつけずに唇で挟んだまま足元の地面を見る。ぬかるんだ地面にいくつもの足跡が並んでいる。雨でも降ったのか。最終のバスは22時台ですという刑務官の言葉を思い出し腕時計を見る。バスは一時間に一本だったな。俺は足元の濡れた地面を蹴る。真っ黒い濡れた地面に街灯の灯りが点々と反射している。正門をくぐり、背中で扉が閉じる音を聞いたところで俺はタバコに火をつける。思いっきり煙を吸い込む自傷行為のあと、煙を吐き出しながら俺は横に立つ頭一つ分は背の低い少女にたずねる。「お前、これからどうするんだ? どこかホテルでもとっているのか」「市警察に泊れるように手配しています。車があれば東方さんをお送りするんですが」「冗談はよせ、俺を殺す気か?」「あれからもう二年ですよ。これでも運転は得意なんです」「誰が信じるんだそんなこと」「二年前のこと、まだ根に持っています?」「お前の運転で俺は死にかけたんだぞ」

 正門から百メートルほど離れたところにバス停を見つけ、俺達は屋根のついた待合所に並んで座る。俺は口から煙を吐きながら、人気のない道路と、延々と続いている街灯をぼんやりと眺める。「東方さんの名前ってヒガシガタヒアキじゃないですか」と彼女が唐突に言い、俺は無言で答える。「でもみんなアキラって呼んでましたよね。首都警察に戻って初めて本名を知りましたよ」「嫌いなんだよ」俺はつぶやくように言う。「いい名前じゃないですか」「明日に背を向けているから日明、たしかに俺にぴったりな名前だな」「女の子みたいな名前で子供の頃いじめられたとか?」こいつはデリカシーを首都警に置いてきたらしい。「理由はない。ただ響きが嫌いなだけだ」「そうやって自分の名前を軽んじるから他人の名前にも無頓着になるんですよ」そう言うと彼女はぐいっとこちらに体を向けて強い口調で言う。「東方さん。言っておきますけど名前というものは他人から一方的に与えられたものだとしてもその名前で生きているうちにその人の人格形成やアイデンティティと深く結びついているものなんです。名前を覚えないということはその人の人格を軽んじていることになります」「言っている意味がわからん」「要するに名前を覚えないということはその人に興味がないということです」「正解だな。水沼キリコ」「トウコです。わざと言っているでしょう?」二年前からずっと、と彼女は唇を尖らせる。さあ、どうだかな。

 バスに揺られる間、俺達は無言でいた。四十五分間の沈黙のあと、俺達は市警察近くのバス停で降りる。刑務所前の不気味なまでの静寂と異なり、歩道にはたくさんの人が行き交い、その横を絶え間なく車が走り抜けていく。クラクションを鳴らされながら俺達は道路を横断し市警察のレンガ造りの建物に入る。彼女は懐かしむようにあたりをきょろきょろと見回しながら俺のあとに続く。

市警察の正面玄関からまっすぐ進むと大きな階段があり、小走りで上がると捜査一課刑事部屋に続く廊下が現れる。もうすでに二十二時が過ぎようとしているのに仕事が終わるめどのたたない疲れ果てた刑事達があちこちでせわしなく動き回っている。刑事部屋に入ると二年前に十五歳の少女が迷い込んだ日のことを覚えていた連中が、懐かしい声を上げながら彼女の元に集まってくる。こいつ、そんなに人気者だったか?

「首都警察では随分出世したと聞いたぜ」大島が嬉しそうに言うと、その横で相棒の杉本も顔をほころばせている。都会に出て行った姪っ子が二年ぶりに田舎に帰ってきた気にでもなっているのかよ。「それにしてもお前、どうしてここにいるんだ?」

 え、と俺は思う。彼女を取り囲む連中から一歩、二歩離れたところでその言葉の意味を考える。D区画の事件のことをこいつらは知らないのか? 俺への捜査協力依頼は法務省から捜査一課に正式になされ、捜査一課長が承諾したとあの優男は言っていた。捜査一課長が了承したのはあくまで俺を生贄として差し出すことで、捜査一課その物は関わらせたくないということか。だが、D区画の事件を捜査一課の公式な捜査とすることを嫌うのは何故だ。

「何を騒がしくしている。仕事に戻れ」

 背の高い灰色のスーツの男が俺達の背後から現れ連中を一喝する。

 未未市警察捜査一課長、却園警視がぎろりと睨みをきかせると、刑事達は雲散霧消する。

「二人共、私の部屋に来い」

 どうやら答えを教えてくれるらしい。彼女と目が合うと俺は行くぞと顎で課長室を指し示す。「御厨課長のことは残念でした」と歩きながら彼女が言う。こいつがここにいた頃はまだ親父は健在だったな。「あれが新しい上司ですか?」「楽しくお話出来る相手じゃない」「上手くいってないんですね」「あいつと上手くいく奴はいない」そう告げると俺は扉をノックする。入れ、という短い言葉に扉を開けると机の向こうで腕組みをした課長が険しい顔でこちらを見ている。「扉を閉めろ」慌てて彼女が扉を閉じると、課長は俺達に向かって告げる。

「水沼警部、遠いところをご苦労。法務省からは、捜査中のこちらでの生活をサポートするよう依頼されている。市警察内に宿直室は用意しているが、捜査が長引くようであれば寮の一室を手配する」「お気遣いありがとうございます。ですが、実家もありますので」「そうか、君はこの街の出身だったな。ここで研修したのなら市警察の勝手もわかっているだろう。ロッカーと机は用意する。好きに使いたまえ」「ありがとうございます」「君の行動を制限するつもりはないが、事件については捜査一課の面々には他言無用だ」ようやく本題か。俺は扉にもたれ掛かり腕組みをしたまま課長にたずねる。「どうして連中には事件のことを伏せているんです?」「D区画は政府機関だ。捜査に関する情報はすべて機密であり、元より捜査情報を共有する権限はわれわれにはない」「とはいえ、捜査一課に対する正式な捜査協力でしょう?」「正式だが、公式ではない」何の言葉遊びだ? 「事件そのものが公式でない以上、捜査一課への捜査協力も非公式、ということですね」彼女が言うと課長は表情を変えずに、そういうことだと答える。非公式であるということは事件そのものが存在していないということだ。それが法務省の意向であり、法務省が警察委員会に入り込んでいる以上、市警察本部もその方針に従うしかない。D区画の刑務官殺害事件など起きてはいないし、そんな事件の捜査など行われてはいない。それが捜査一課の見解だ。

課長は当直室の鍵を机の上に置くと自由に使え、と告げる。「話は以上だ。質問はあるか? あってもするな。二人共、さっさと出ていけ」

 彼女はぐいっとずり下がった眼鏡を押し上げにっこりと笑う。

「手厚いご対応、心から感謝いたします、却園警視」

 一礼すると彼女は部屋から出ていき、俺も小さく頭を振るとそのあとに続く。扉を閉じようとした俺の背中に課長が追い打ちをかけるように言う。「非公式な捜査とはいえ、捜査一課の名前にこれ以上泥を塗るようなことがあれば、貴様の居場所はないと思え」「心得ていますよ」俺は唇を鳴らすと、扉を閉じる。

 課長室から出た俺に、彼女がくるくると指で鍵を回しながら言う。

「それじゃあ、東方さん。明日の朝、八時にここで会いましょう」

 背筋を伸ばして敬礼してみせ、それじゃあ失礼しまーすと彼女は軽やかな足取りで刑事部屋から出ていく。阿呆が。そんな風にはしゃいで見せても不安は隠し切れていない。この捜査が非公式だということは、援軍は期待出来ないということだ。俺達に突きつけられたのは、刑務官達の協力も捜査一課の支援もない中で、あの悪意の渦を泳ぎ続けなければならないということだ。悪意に抗うために必死に笑ってみせる十五歳の少女の背中を見送りながら、俺は無性にタバコが吸いたくなる。


【FIVE】


 取調室は殺人階刑事にとってもっとも神聖な場所だ。

 鉄とコンクリートの箱、鉄方体、通称BOX。殺人課刑事はそこで犯罪者の悪意と日々向き合っている。

優秀な刑事にとって取調室は時に懺悔室に変る。自らの行動を暴かれ自らの悪意を暴かれ自らの秘密を暴かれた人間の行きつく先は己に対する抗えない感情の発露で、怒りか悲しみか喜びなのかは知らないがいずれにせよ涙を流しながらの人生の告白に至る。そんな姿に俺はもう、本当にうんざりしたってわけだ。

 かつての俺は優秀な刑事だった。何の迷いもなく犯罪者の頭の扉を開くことが出来た。犯行現場に残された犯人の悪意を嗅ぎ取り、奴等の頭の中に入り込むことが出来た。行動原理を理解し、思考に重なることが出来た。俺は優秀で当時の相棒とはいくつもの事件を解決してきた。だが、奴等の頭の中に入るということは、自分の頭の中に奴等を入れるということと同義だということに俺は気付いていなかった。事件を解決しても頭の中に入れた奴等の悪意は完全にはぬぐいされなかった。残滓は徐々にそして確実に俺の中に蓄積していった。面白い面白いで続けていた仕事だが、それに耐えうる足腰は日々摩耗する。俺も相棒も日々に疲れ、自分の仕事を盲目的に信じることが出来なくなった。このままではいつか何かが壊れてしまう。

そんな時、彼女は俺達の前に現れた。屈託なく殺人課刑事の仕事に憧れを抱く彼女の姿は当時の俺と相棒にはまぶし過ぎた。彼女がいたのはたった三カ月間だったが俺達が忘れかけていた美しい季節を思い出させてくれた。だから俺は、今でも彼女の名前を覚えているのだろうと思う。


**********


1996/3/14 Thursday 捜査第二日目


 朝からのあいにくの雨で俺の心は沈んでいるが、さらに心を重くしたのは刑事部屋で開口一番、彼女からの報告で、くそったれ、どうやらあの爬虫類の忠告は正しかったらしくD区画の監房エリアは昨夜遅くに封鎖されたらしい。昨日中にすべての事情聴取が終わらなかったことで、監房の閉鎖が二日目に突入することが決定し、囚人達のフラストレーションは限界だったらしい。抗議のために鉄格子を殴り続け、ついに一つの監房の扉が壊れたことをきっかけに、囚人達は次々と監房を破り、刑務官は催涙弾を打ち管理エリアに退避した。地上の電源が落とされ管理エリアに続く階段前の緊急避難用の鉄格子の扉が閉じられ、監房エリアが完全に隔離されたのが昨夜二十三時過ぎ。二十四時過ぎに未未市警察の特殊部隊に応援が要請されすでに監房エリアは武力制圧がされているという。

「ロックダウンされたということは、俺達は監房エリアに入れないのか?」「事情聴取は延期ですね」「特殊部隊まで応援要請をしておいて、それでもまだ非公式、か?」「当然です。つまり刑事部屋でこれ以上この会話をするのもご法度です」刑事部屋の不味いコーヒーを喉に流し込みながら彼女は言う。「続きは車で。行きましょう」

 俺は苛つくように指でハンドルをノックしながら言う。「囚人が素手で殴ったくらいでどうして監房の鉄格子が壊れるんだ?」「D区画は実験区画に採用されるまで長年封鎖されていた古い建物ですからね。一応の改築はされていますが、格子や鍵は当時の物がそのまま使用されているようです。他の実験区画ならまだしも、D区画では監房の鍵をかけないためそもそも禁固性は求められていないんですよ」戦前から使用されている重量ある鉄格子を壁や天井に固定しているボルトや金具は長年の負荷で悲鳴を上げているのだろう。屈強な犯罪者が何度も何度も体当たりをすればどこか一カ所くらいは耐え切れなくなっても不思議はない、か。つくづく問題しか起こさない刑務所だな。いや、悪循環が止められないといったところだろう。半年前の脱走事件、あれを引き金に、そこから転げ落ちるように問題が噴出しているのは、元々間違いだらけの場所だったからだ。犯罪者にかりそめの自由を与えるとどうなるか。しかもそれが凶悪犯ともなればろくなことにならないのは誰の目にも明らかだ。それをわかっているから法務省は首都圏には凶悪犯の楽園は建設しなかった。この街での実験こそが本番で、それによって起こるリスクは未未市に押し付ける。何が水曜日計画だ。彼女は正しい。名前は重要だ。ろくでもない名前だからろくでもない事態が起こる。これは教訓だ。

「それで今日はどうします?」「お前が決めろよ。お前がこの捜査の責任者だろ」「すでに、各囚人グループのリーダーに事情聴取出来ているのは不幸中の幸いでしたが、まあ、セオリー通りにいくなら次は被害者の周辺ということになりますが、いかがです?」「仰せのままに」俺は大きくハンドルを切る。



 ワイパーは必至に水をかくがゴムが劣化していてフロントガラスには分厚い水の膜が張り付いている。いつ事故を起こして死んでも不思議はないな。「どうしてパトカーにしないんです?」危なっかしい運転に彼女は助手席から不満げな声を上げる。車が左右に揺れるたびに、ルームミラーに吊り下げられた骸骨の人形が揺れる。「パトランプはトランクの中だ。壊れているけどな」おんぼろの2CV。「昔は覆面パトカーとして優秀だった。年をとってお払い箱になるところを俺が私物化した。俺の愛車に文句を言うな」「事故で死にたくないだけです」

 ばしゃばしゃとタイヤが雨水を跳ね上げながら中央高速道を走る。被害者の自宅は刑務所から車で二十分ほどの低所得者向けの住宅地にある。カーナビなんてしゃれたものがついていないポンコツの助手席で彼女は古い地図と睨めっこしている。鼻の頭にしわを寄せながら地図をぐるぐると回しているところからして、どうやら地図を読むのは苦手らしい。「おい、俺もこの辺りの土地勘はない。ちゃんと案内しろよ。また同じ国道に出たぞ」「大丈夫です。地図を読むのは自信があります」「それを聞いてお前の運転がますます不安になったよ」「ここ右です」俺は舌打ちをして急ハンドルを切る。「今度から交差点に入る前に言え」クラクションが背後で鳴り響くのを無視しながら俺は怒鳴る。「東方さんがスピードを出し過ぎなんです」ああ、そうかよ。

しばらく走ったあと俺はちらりと助手席を見る。「そういえばお前、」彼女は窓の外を眺めている。「昨夜、市警察の資料室を使っていたな。夜中に隠れて何を調べていた?」

 ちょうど信号が変り俺はブレーキを踏む。ぐっと車体が前に沈み込み、俺達は並んでシートベルトの圧力を感じる。停まった車内に、不機嫌なエンジン音と天井を叩く雨の音がばらばらと響く。しばらくの沈黙のあと彼女が答える。

「別に隠れてなんていませんよ。ただ昨日、ほら被害者の相棒、」「松井、か?」「彼が言っていたでしょう。あそこでは囚人同士の暴行事件もめずらしくないって」そうだったなと俺は曖昧にうなずく。「実際、囚人グループのいざこざは日常茶飯事のようですから、ちょっと気になって調べてみただけです。市警察に通報があったかどうかを」

 信号が青になり車は再び走り出す。「それで、通報はあったのか?」「一件もありませんでした」まあそうだろうな。「納得出来ますか?」「納得はともかく理解は出来るさ。刑務官が殺されてさえ非公式な捜査なんだ。囚人同士が殴り合ったところで通報などはされないだろう。こちらにしたって、刑務所中で囚人同士の争いにかかずらっている暇もないしな」「人殺しでも、ですか?」ああ? 俺は思わず助手席の方を向く。彼女は前を見たまま淡々と答える。「よそ見、危ないですよ」俺は慌てて前を向くとハンドルを握り直す。

 しばらく走ったあと、俺は改めて彼女にたずねる。「人殺しって何の話だ? 誰が死んだんだ」「だから、囚人です」「市警察に通報はされていないんだろう? どうしてそんなこと、ああ、管理委員会に報告があったのか?」「いいえ。仮に管理委員会に報告されていても、捜査命令が下りない限りわたし達はそのことを知り得ません。そしてわたし達にD区画での捜査命令が下りたのは、半年前の脱走事件と今回の刑務官殺害事件だけです」「だったらどうしてあそこで囚人が死んでいるとお前にわかるんだ?」「未未市役所に確認したんです」市役所? ああ、と俺は思う。「死亡届を確認したのか?」

「D区画が東洲区重警備刑務所に設置されたのが約二年前。この一年間だけでも東洲区重警備刑務所内の医務室が発行した死亡診断書が二十枚近くも提出されているんです。自死や病死の可能性もあるでしょうが、一年間に二十人は死に過ぎです。つまり、あそこでは囚人の殺人事件が何件も起きているにも関わらず、市警察には通報されず、わたし達特別捜査官の捜査も行われていません」

 俺は小さく唇を鳴らす。ばしゃばしゃと隣の車が道路の水を跳ね上げながら走り去る。

「仮にあそこで囚人が殺されているとしてだ、刑務所内の調査で犯人がわかれば別に捜査するまでもない。犯人は逃げられないしな」「あそこには監視カメラもないんですよ。そんなに簡単に殺人事件が解決出来るなら、彼等の力だけで今回の事件も解決出来ますよ」そうかもしれないがな。俺は不機嫌そうな声を上げる。「何人囚人が死んでいようとどうせすべて機密だ。たしかめようがない」「ですが、」しつこいな。「もうよせ。この話は終わりだ」

俺の言葉に、彼女は不服そうに唇を尖らせ窓ガラスを伝う雨のしずくを見つめる。「お前、変なこと考えていないよな」ハンドルを握ったまま彼女に釘を刺す。「俺達がやるべきことはあくまで刑務官殺しの捜査だ。間違えるなよ」

 俺はそれからぐんとアクセルを踏み込み、無言で車を走らせる。俺がこの事件の捜査をしているのは正義感でも刑事としての責任感でもない。ただただ個人的な都合だ。彼女にはいろいろと思うところがあるのかもしれないが、厄介ごとは御免だ。

 しばらく走ると彼女が唐突に言う。

「あ、さっきの交差点、左です」

だから、遅えよ。



 31番ゲートで高速をおりると旧市街地の低所得者用住宅地に入る。彼女の指示で間違った角を曲がるたびに俺の機嫌は悪くなったがようやく木造二階建てアパートの前に辿り着く。無断で駐車すると雨の中、俺達は傘をさして建物に向かう。連絡を入れておいた管理人から鍵を受け取ると錆びついた階段を上がり二階の部屋の前に立つ。「ここが加藤貞夫の家か」「です。正確にはアパート、です」ペンキがところどころ剥げた水色の扉。表札を固定するネジの頭には錆が浮いている。管理人から借りてきた鍵を差し込んで回すと錆びついているのかきいきい音を立てる。扉を開けると部屋の中からはむっとした汗と埃の臭いが漂い出る。玄関のたたきには踵を履きつぶしたスニーカーにサンダルが並んでいる。当然、客用のスリッパなんて立派なものは見当たらない。玄関わきには台所があり、奥へと続く部屋の扉は開けっ放しになっている。台所の床にはゴミ袋が積み重なり、流しにはカップ麺の空き容器やペットボトルが散乱している。

「几帳面とは無縁のように見えますね」手袋をはめながら彼女が言う。「あの年で独身の一人暮らし。何を期待していたんだ?」そりゃそっかと彼女はうなずく。「管理人によると部屋代の支払いも何度か遅れたことがあったみたいです」それから彼女は主人のいない部屋に向かって、失礼します、と律儀に声をかける。

 台所奥の部屋に入ると彼女はカーテンを開ける。窓を雨が叩きつける音を聞きながら俺は部屋を見回す。部屋の中央に一人掛けのソファが置かれている。足元には缶ビールの空き缶が数本置かれ、肘掛けの上にはテレビのリモコンがある。ソファの先にあるテレビの表面には薄っすらと埃が幕を張り、その奥の壁には去年の十二月で止まったカレンダーがかけられている。部屋を訪ねてくる客もないのだろう。

「金融業者からの通知がこんなに溜っています。お金に困っていたんでしょうか」彼女がテーブルの上の封筒を見ながら言う。俺はテーブルの上にあった写真立てを手にする。「家族写真ですね、」被害者と女性、子供が並んで写る写真。悲劇だな、と俺は思う。一見仲良さそうな家族写真だが、妻と子は被害者と微妙に離れて立っている。妻と子供に見放されたのか。自分が捨てたのなら未練がましく離婚した妻の写る写真を残しておくはずがない。ここに写っているのは悲劇。刑務所が悲劇そのものであるなら、刑務所にとり憑かれた末路というわけだ。悲劇は伝染する。俺はぶるっと寒気がして両手をポケットに突っ込み、そしてようやく気付く。何だよ、昨日の新聞。まだコートのポケットに入れっぱなしだったのか。

 部屋の奥にはもう一室、寝室がある。安物のパイプベッドの足元にも缶ビールの空き缶が転がり、女性の裸の写真が載った雑誌が山積みになっている。クローゼットを開けると、何度も裾を直した跡がある古いスーツが一着と、量販店で売っているような既製品のシャツが何枚か吊るしてある。開き戸の下の引き出しを開くと靴箱よりも一回り程大きい箱が入っている。中には何冊かのノートが入っており、似つかわしくないなと俺は思う。秘密の日記でも隠していたのかよ。手に取ってぱらぱらとページをめくると、そこにはボールペンの汚い字で数字や表が何ページにもわたって書かれている。名前、日付、あとは数字。何の表だ? 日付を見ると、一番古い物は一年以上前。被害者は数学が得意なタイプとは思えないが、わざわざタンスの引き出しにしまい込んでいるノートが無意味とも思えない。

「東方さん、」台所脇のむき出しの洗面台の前で彼女が俺を呼ぶ。手渡された薬の瓶のラベルを見る。「鎮痛剤のようですね。処方箋が机の上にありました」「ふうん、怪我でもしたのかな」「崇高な仕事の尊い犠牲って奴ですね」そう言うと彼女は俺の前でちらちらと処方箋を振ってみせる。「何だよ」「東洲区重警備刑務所内医務室からの処方のようです。処方した医者の名前は、」雨宮緑子。どこかで聞いたなその名前。



 東洲区重警備刑務所には昨日よりも張り詰めた空気が漂っている。

暴動は刑務所で起こり得る最悪の事態の一つだ。その一歩手前まで行ってしまった事実に、刑務官達は明らかに殺気立っている。「居心地が悪いですね」中央管理棟のエレベーターの扉が閉じると彼女はずり下がった眼鏡を指で押し上げながら言う。「そう思うなら、余計なことは言うな」D区画では人殺しが日常茶飯事に起きている、とかな。「撃たれても知らないぞ」「今度こそ、盾になって下さいね」御免だね。

 ちん、とエレベーターが停まると俺達は六階で降りる。中央管理棟に設けられた医務室へと続く廊下のイスに、オレンジ色の囚人服を着た囚人が座っている。右手には手錠がはめられ手すりと繋がれている。反対の手で額を抑えるタオルは血で汚れている。囚人の前を刑務官が見張るように立っており、彼女が特別捜査官の名札を見せると、うなずいて医務室の扉をノックする。「どうぞ」ややくぐもった声が扉の向こうから聞こえ、刑務官が扉を開く。

 医務室は想像以上に小さな部屋で、白衣の女性が机についている。強いカールのかかった灰色の髪の毛が肩まで伸び、痩せて骨ばった指がタバコを挟んでいる。ばたむ。扉を閉じると俺は白衣の背中に向かって言う。

「数年前からこの街の公共施設は全面的に禁煙のはずだぜ」

 医者がけだるそうに振り返る。度の強い老眼鏡をかけた女性の額と口元には、深くしわが刻まれている。

「めずらしい顔ね」医者はそう言うと、タバコを指で弄びながら言う。「火はつけていないわ。口元が寂しくてね」

「社会奉仕活動は一年間のはずだったろう。まだここにいるのか」

「一年も現場を離れたロートルをまた雇いたがる病院はないわ。あなたこそ、とっくに市警察を辞めたと思っていたわ」

 ごもっとも。俺が目配せをすると彼女は医者に処方箋を手渡す。

「首都警察の水沼と申します。教えていただきたいのですが、こちらの処方箋は先生が出したもので間違いありませんか?」

「そのようね」

 おもむろに立ち上がると医者は背後にある半透明のすりガラスの引き戸を開く。引き戸の向こうには窓のない部屋があり、並べられた六つのベッドに囚人が酸素や点滴につながれ横たわっている。ベッドの間にカーテンの仕切りがないのは囚人達のプライバシーの配慮よりも安全の確保が優先されているからだろう。

「今はベッドも満床でね、用事があるのなら手短にお願いするわ」それから囚人のベッドに立つ白衣の男に声をかける。「お客が来たから、しばらくまかせるわ」うなずいた男はオレンジ色の囚人服の上から白衣を着ている。「彼は元看護師なの。模範囚でここで手伝ってもらっているのよ」頭を剃り上げた巨大な体躯の男。腕っぷしではとても勝てそうにない。扉を閉めると医者は再びイスに座り、ふうと息を吐く。

「昨日から刑務所全体がおかしくてね。囚人同士の争いごとが絶えず、ベッドはすでに満床よ。ここで手に負えない傷を負った囚人が二人、すでに外の病院に搬送されたわ」「苛立った刑務官からの過剰な刑務行為で怪我を負った囚人もいるんじゃないのか?」俺の意地悪い問いに医者は一瞬表情を歪めると、迷惑な話ねとつぶやき、処方箋に再び視線を向ける。

「D区画で起きた事件のことはすでにお聞きだと思いますが、彼が被害者です」

「ずいぶんかわいらしい子を相棒にしたものね」医者の言葉に彼女はまんざらでもない顔でこちらを見る。見るな。「たしかにここで出した処方箋だけど、あなたの質問には答えられないわ」

「まだ質問してませんけど」

「どんな質問にもという意味よ。D区画に関連する情報は、政府の機密情報に当たる。法務省の許可がない限り質問には答えられないわ」医者はイスに深く背もたれると火のついていないタバコをくわえ、値踏みするように彼女を見る。「半年前の脱走事件。発見された囚人の身元確認のために医療記録を提供する際に、手続き上のいざこざに巻き込まれた身にもなってほしいわね」

「知りたいのは囚人のことじゃない」俺は助け舟を出すことにする。「D区画で行われているのは囚人の社会実験だろ。被験者でもなんでもない刑務官の医療記録を秘匿する理由があるのかよ?」

「囚人のみならず刑務官に関する情報もすべて政府に帰属する、それがルールよ」

「ルールね」俺は唇を鳴らすと医者を見る。「いつからそんなにお行儀が良くなった?」

 医者はしばらく考えたあと、無言で電子カルテのキーボードを叩く。画面が立ち上がると同時に彼女は言う。

「私は何も教えないし手助けもしない。ただ患者に呼ばれて席を外した際に、偶然開いていた電子カルテを誰かが盗み見をしたとしても、機密情報に違法な接触をした責任はその人物にある、そうよね?」

「もちろんだ」

 医者はタバコを耳に挟むと立ち上がる。医者が奥の部屋へと入り、扉が閉まると同時に俺達は電子カルテに駆け寄る。

「一体、どんな関係なんです?」

 彼女の質問を無視して、俺は画面をスクロールする。

 被害者の医療記録。処方されていたのは鎮痛剤。半年前に、囚人に足を刺されたとカルテには記載されている。主要血管の損傷はないものの神経性疼痛が残存し、鎮痛剤が手放せなくなった。

「囚人に刺されたって、一体、何があったんでしょうか?」

 カルテをさかのぼる。懲罰房に移送中の囚人が暴れて揉み合いとなり刺されたとある。引き戸の奥からこちらに近付いてくる気配がして、俺達は電子カルテから離れる。戻ってきた医者は、机の上の棚から処方箋を取り出しペンを走らせる。白衣の囚人を呼び寄せると処方箋を手渡し、「三番ベッドは点滴が終わり次第抜針、監房棟に帰ってもらっていいわ」と伝える。はい先生、と囚人は慇懃に答え、再び引き戸の向こうに姿を消す。

「以前はボランティアの看護師がいたんだけど、半年前に不幸な事件があってね。彼が来てくれて本当に助かっているわ」そう言うと、医者は俺達を見て言う。「用が済んだのならもう帰っていただけるかしら。今日は忙しいの」

「ありがとう、先生」

「礼を言われることは何もしていない、そうでしょう?」

「ああ。そうだな」

 俺が踵を返したところで、彼女が医者に聞く。

「好奇心で聞くんですが、あの元看護師の模範囚、一体何の罪で服役中なんですか?」

「女性を殺害してバラバラにしたの。被害者は皆、あなたのように若くて幼さの残る女性だったわ」

 俺は医者に近寄ると、ライターの火をつける。

「いじめるなよ。仕返しのつもりか?」

「ただの忠告よ」医者はそう言うと、ライターの火を見て、いらないわと答える。「あなたの言う通り、ここは禁煙よ」

 もう行きなさいと告げる医者に彼女がもう一つだけ、とたずねる。

「加藤刑務官を刺した囚人の名前がわかりますか?」

 カルテには刺した囚人の記載はなかった。

「何の話かわからないわ」

 当然、そう答えるよな。わかりましたと一礼して踵を返した彼女の背中に医者が言う。

「薄情だと思われたくはないけど医者はね、治療を終えた患者の名前はすぐに忘れてしまうものよ」

「どういう意味ですか?」彼女がたずねるが、医者はもう話は終わったと言わんばかりにこちらに背を向ける。行くぞ、俺と彼女を促し部屋から出ると、廊下のベンチに座る額から血を流す囚人を横目に歩いていく。



 がこん。エレベーターが動き出すと彼女が俺に言う。

「変わった先生でしたね」

 ああ、と俺は答える。「あのおばさんはな、元々は大病院の脳外科部長にまで上り詰めた優秀な外科医だったが、ある事件以降、経歴はぼろぼろ、裁判所命令で社会奉仕活動の一環として東洲区重警備刑務所の医務官を命じられた挙句、どうやらそのまま居ついたらしい」「ある事件?」「数年前、車で逃走した強盗犯が交通事故を起こし、追っていたパトカーがそれに巻き込まれるという事件があった。強盗犯と警官の両方が彼女の病院に搬送されたが、空いていた手術室は一室だけ。当時救急外来当番であった彼女は脳出血を起こしていた強盗犯の手術を優先し、腹部を強打した警官はそのまま救急外来で待たされることになった。警官は救急外来で急変、まもなく別の手術室が空き警官の手術が行われたが命を落とす結果となった。その後彼女は警官の家族に告発された」「警官の家族にですか?」「悪いことに強盗犯も三日後に死亡。警官を先に治療していれば少なくとも警官の方は救うことが出来た、結果的に二人を殺したのは医者の判断ミスだというのが家族の主張だった。市警察もそれに同調し、彼女は医療過誤および業務上過失致死で告訴された。裁判での争点は三つ。強盗犯の方の緊急性が高かったのかどうか。救急外来に来た時点で警官の急変は予測出来たのかどうか。そして術前の段階で強盗犯が手術をしても助からない可能性が高かったのかどうか。結論を言うと、裁判では強盗犯の方の緊急性が高く、警官の急変の予測は難しいという判断だった。強盗犯が手術をしても助からない可能性が高かったという点は認定されたが、救命出来ると判断して緊急手術を行うのは、現場の裁量の範囲内であると判断され、医療過誤および業務上過失致死については棄却された」「でも、先程社会奉仕活動って言っていませんでした? 無罪になったのならどうして」「刑事罰は免れたが家族は納得せず病院に損害賠償を求め提訴した。あの医者は緊急性が高ければ犯罪者であろうが優先的に治療するという医者の倫理に従ったのだろうが、あいにく残された警官家族にはそう簡単に受け入れられるものではないからな。病院側は和解交渉を有利にするために医者の解雇を決定、今度は医者が不当解雇として病院側を提訴、泥仕合の最中に彼女は病院経営陣の車のヘッドライトをゴルフクラブで一撃した」「ゴルフクラブですか?」「五番アイアンだ」そして器物損壊で市警察に逮捕され、社会奉仕活動を命じられることになった。

「市警察と確執があるのに、よくわたし達に協力してくれましたね」

 ああ、と俺は顎をかく。

「娘がお前と似てたからとかじゃないのか」

 娘がいるかどうかは知らないが。彼女は何か考え込む仕草のあと俺に言う。

「さっきのはどういう意味だったのでしょうか。治療を終えた患者の名前はすぐに忘れてしまうって、話の流れ的には刺した囚人のことですよね」

「俺も解決した事件の被害者の名前はすぐに忘れる」

「治療を終えた、と彼女は言いました。つまり加藤刑務官を刺した囚人は、かつては患者だったけど治療の必要がなくなったということになります。完治して治療が必要なくなったのか、あるいはもうすでに出所してしまったのか。出所しているなら今回の事件とは無関係かもしれません、」ああ、でも、とつぶやくと彼女はちらりとこちらを見る。「最悪の事態はその囚人がすでに死んでいる場合ですけど」

 がたん、がたん、二度揺れてエレベーターは停止する。



 さて、被害者が半年前に囚人に刺されたという事実と、今回の事件との関係性についてはおおいに興味を惹かれるが、その先に進みたくとも俺達は足踏みをすることになる。半年前、一体誰が被害者を刺したのか。そしてその囚人は現在どうなっているのか。まずは市警察に確認。昨夜、すでに彼女が調べた通り、被害者が刺されたという一件が通報されていないことを再度確認する。やはり記録はない。まったく、どうして刑務官の情報まで政府の機密情報なんだ。当然あの爬虫類に詳細を教えて下さいと申し出たところですんなりとことは運ばないだろう。では実験区画の管理委員会から知ることは可能だろうか。彼女の話では過去の実験区画の捜査では、D区画に入所する以前の公開情報以外、たとえ捜査に関連すると思われる情報であっても、その都度法務省に申請し許可される必要があるという。厄介だな、と俺がつぶやく横で、彼女はどこから用意してきたのか情報公開請求の申請書類にさっさと記入を始める。「要は加藤刑務官殺しに動機を持ち得る囚人をリストアップすればいいわけです。請求する資料は、過去一年間の刑務日誌と被害者が関与した事件・事故報告書のすべて、でいいですか?」まかせる。書類を書き終えると彼女は申請書類を法務省にFAXするなり、どこぞやに電話を一本。それから三時間後、俺達は中央管理棟の資料室に案内される。



「こちらです、東方刑事、水沼捜査官」

 振り返ると廊下の向こうに屈強そうな刑務官を従えた小柄な影が見える。爬虫類め、どこにでも現れるな。鰐男が俺達の方までやってきて言う。「資料室への立ち入りは職員以外禁止されています。申請されました書類はこちらで用意しましたので、お二人は別室の資料閲覧室へご案内します」そう言って鰐男は跳ねるように歩き出す。ぴょんぴょん。「それにしても刑事さん、捜査の進展はあれからいかがです?」「D区画が閉鎖されているのに進展があるはずがないだろう?」「おや、聞いた話では加藤君の自宅を捜索し医務室に押しかけたとか。何かわかりましたか?」すべて筒抜けらしい。前を歩く小柄な爬虫類の背中に俺は言う。「もちろんわかったよ、いろいろとな。独身、一人暮らし、仕事から帰って飯食ってビールを飲みながらテレビとポルノを見て寝て起きてまた仕事に行くだけの生活。もっと給料を上げてやるべきだな」「過去一年分の資料の閲覧申請なんて、一体何をお調べになるつもりなんです?」「何って。この事件の犯人はやはり囚人が疑わしいからな。被害者と囚人が揉めたような事実がないか、それを調べるのは当然だろ」なるほどなるほど、歩きながら鰐男がうなずく。「事情聴取の続きはいつになりそうですか?」彼女の問いに鰐男は「明日には再開出来ると思いますよ」と答える。しばらく歩くと、扉の前に刑務官が立っているのが見える。「資料は運び込んでいますのでごゆっくりどうぞ」

 扉の前に立つ刑務官が俺達に向かって箱を差し出す。「携帯電話をこちらに」D区画並みの厳しさだな。「あらゆる資料の撮影、持ち出しは禁じられています。入ったら扉は自動的に鍵が閉まります。部屋から出る際にはインターホンで連絡して下さい。ご不便とは思いますが、その都度身体検査で資料の違法な持ち出しがないかを確認させていただきます」

 部屋に入る俺達の背中に鰐男が声をかける。

「ご期待に添えていなければ悪しからず」

 嫌な予感に俺は無言で扉を閉じる。



 ばさり、ばさり、ばさり。

 机の上に、俺は箱から取り出したファイルを乱暴に並べていく。用意された部屋はコンクリートがむき出しの立方体で、中央の大きな机の上にダンボールの箱が無造作に積み重ねられ、さらにその中にはぎっしりとファイルが詰められている。その量に俺は眩暈がしてくる。「これは何かの冗談なのかよ?」「この一年間、加藤刑務官の名前が一カ所でも載っている事件、事故報告書、と依頼したんです。取りこぼしがあったら問題でしょう?」彼女は平然と言うが、俺はもうファイルを開く前からやる気が削がれている。まずは一箱分のファイルを机の上に山積みにし、俺達はそれぞれファイルに手を伸ばす。だがファイルの表紙をめくると、俺の気持ちはますます逆なでされる。ファイルの中の資料は一カ所が、あるいは半ページが、あるいはほぼ一ページ丸々が黒塗りされている。ファイルの表紙には特定刑務所実験区画管理委員会・機密というハンコが押されているが、まったく、やってくれる。

「参りましたね」これは予想していなかったのか彼女が思わず声を上げる。「他の実験区画でも資料請求をしたんだろう? こうではなかったのか」俺の問いに彼女はぶんぶんと大きく首を振る。「まさか、こんなんじゃ捜査になりませんよ」ずり下がった眼鏡を押し上げながら彼女はページをめくっていき、「まじで全部黒塗りじゃん」と十五歳らしい口調で感想を述べる。

 だが彼女の言葉は正しく、次の箱から取り出したファイルも同じような景色が続く。黒塗り、黒塗り、黒塗り、黒塗り、俺は苛ついてファイルを机の上に投げ捨てる。だが黒塗りの資料があるということは、修正前の資料の原本もどこかに存在するはずだ。

 俺は考える。彼女が書類の開示申請を出してからここに用意されるまで三時間。当然、法務省からここまで資料を輸送する時間はないし、すべての資料をFAXしファイリングする時間もない。とすると、この黒塗り資料は普段から刑務所内にあり、請求された資料のファイルを箱詰めする作業に三時間かかった、と考えるのが自然だ。

黒塗りの複製資料が刑務所内に保管されているのはいいとして、では原本はどこにある? これは政府機関における社会実験だ。普通に考えれば法務省が保管しているはずだが、これまでの実験区画とは異なりD区画があるのは首都圏から遠いここ未未市だ。この国ではいまだに重要な書類は紙で残している。機密情報の中に刑務官の刑務日誌も含まれていることを考えれば、扱われる書類は膨大だ。頻回に機密情報を郵送するとなると安全性の確保は難しいかもしれない。だとすると、機密書類の原本もまたこの刑務所内で保管されていると考える方がしっくりくる。そして黒塗りの資料が中央管理棟に保管されているのなら、原本は当然D区画内にあるはずだが、この資料の量を考えると巨大な資料室が必要なはずだ。あのD区画にそんな部屋があっただろうか。

 俺は最初の日にあの猫の目をした法務省の役人から受け取った書類を引っ張り出し、D区画の見取り図を机の上に広げる。地下二階分の管理エリア、円筒状の地下部分は一番外周に廊下が置かれ、廊下に接するように内側に部屋が並んでいる。だがあの図書室にしても円筒の半径を十分に閉めるほどの奥行きがあるとは思えない。見取り図には、円筒の断面図の中央に構造体として円形の空間が描かれている。だが地上部分では吹き抜けになっている場所の地下に構造体が必要であるとは思えない。とすると、この場所に秘密の空間があったとしても不思議ではない。

 もちろんこれは俺の妄想に過ぎない。捜査に行き詰まり勝手に機密書類の保管庫をでっち上げているだけかもしれないがどうせこのまま他にやれることはない。「このまま二人で時間を無駄にしていても仕方がない。俺はここに残って、残りの資料に目を通す」それって、「それってまさか、わたしに法務省に掛け合ってこいって意味じゃないですよね」「よくわかっているじゃないか」「冗談ポイですよ。D区画に機密書類の原本が眠る保管庫があるかどうかもたしかじゃないのに、そこに入る許可を法務省から取ってこいと言うんですか? 保管庫が存在しなければ、わたしは頭がおかしくなったと思われますよ」「まあ気にするな」「気にしますよ。それに本当に保管庫が存在したとしても、お願いすればはいどうぞ、なんてすんなりいくわけないじゃないですか」「それを何とかするのがお前の仕事だろう?」「簡単に言わないで下さい」「やり方はまかせる」「まかせないで下さい」「何のためにこれまで法務省に尻尾振って管理委員会に丁稚奉公してきたんだ? 貸しがあるだろう?」「そんなものありません」「作っとけよ」「もういいです」

 俺と会話を続けることをあきらめて彼女は鼻息荒く立ち上がるとこちらに手を差しだす。

「何だ?」「未未市の担当部局と話してきます。車のキー、下さい」「バスがあるだろう?」「市役所まではバスを乗り換えなきゃなりませんし、外は大雨ですよ」「そうか。風邪をひくなよ」「本気で言っています?」「お前に運転させたら俺の愛車は廃車場行きだ」「運転は得意なんです」信じないね。「刑事部屋に明日の朝八時な」「ああ、もう」

 彼女はインターホンも押さずに扉を平手でばんばんと叩いて大声で言う。

「実験区画特別捜査官水沼警部、出ます」

 がちゃりと鍵が開く音がして扉が開く。「行ってらっしゃい」と振り返りもせずに言った俺の背中で、彼女は思いっきり音を立てて扉を閉じる。まったく、お行儀のいいことで。



 雨はますます激しくなっている。

 資料閲覧室の小さな部屋の壁の上方に設けられた窓の向こうから、雨の匂いがただよってくる。ふうと息をついたあと、手元のファイルに視線を落とす。机の上にはおびただしい量の黒塗りの資料が広げられている。かなりの資料に目を通したが、そのほとんどが黒塗りで結局何もわかりはしない。かろうじて残されていた日付や担当刑務官の名前から、半年前に被害者が刺されたとかいう事件の報告書は見当がついたが、中身が読めないのだから意味がない。

 俺はぎっとイスに背もたれると大きく息を吐く。これからどうする? 机の上の山積みの黒塗り資料を前に俺は行き詰っている。どれもこれも、そんなにまでして何を隠さなければならないんだ。特にこれなんて酷いものだ。俺は先程見つけた一冊のファイルを手に取る。表紙には日付だけが書かれた紙のファイル。中には何十枚もの資料が綴じられているが、すべてのページが大半黒塗りにつぶされている。徹底しているな、むかつくぜ。俺はぱらぱらと資料をめくるがふとその手が止まる。見覚えのある資料。この書式、市警察の書類か? 日付を見て俺は理解する。ああ、そうか。これはあの犬の散歩中の老人が用水路に浮かんでいた脱走犯の死体を発見した時に市警察が作成した捜査資料だ。なるほど、このファイルは脱走事件の関係書類か。それは他よりも黒塗りが多くなるはずだ。

 俺は乱暴にファイルを閉じると大きく伸びをして壁の時計を見る。二十一時が過ぎている。どうせ明日も続きをやるんだ。俺は資料をしまうこともせず立ち上がると、扉の脇のインターホンを押す。

「市警察の東方警部補です。退室します」



 ざあざあざあ。

 中央管理棟の外は空全体が分厚い灰色の雲で覆われ激しい雨の帳が周囲を覆っている。入口を出たところの天蓋の下で、傘立ての向こうにスタンド式の灰皿を見つけ俺はそこまで歩いていく。ああ、寒いな。タバコに火をつけるとコートのポケットに両手を突っ込む。

「火、もらえるかしら」

 振り向くと、灰色のくせっ毛の女性が扉の前に立っている。分厚い老眼鏡は体温で曇り、口からは白い息が漏れている。タバコをくわえた医者に俺はライターの火を差し出す。タバコの先端が橙色に輝くと、医者は大きく煙を吐き出す。

「こんなところで雨宿り?」

 医者の言葉に俺は肩をすくめて傘立てを見る。

「誰かが俺の傘を持って帰ったらしい」

 なるほどね。医者は俺の横に並んで立つと、ゆらりと煙をくぐらす。

「仕事、とっくに辞めたと思っていたわ」

 俺は設置された灰皿に灰を落としながら、ははっと笑う。だらしなく空いた口の端から煙がこぼれ出す。

「おりられないゲームをしているのはあんたも同じだろう」

「言っておくけど私には後悔の念も自責の念もない。この仕事を続けることに何の迷いもないわ」

「俺が迷っているかのような口ぶりだな」

「正義のための行いだと信じている人間を断罪するのは苦しいものよ。でも彼は違う。裁判で減刑を求めず控訴もしなかった。彼自身が自らの行いを悔い自らの非を認めているのなら、あなたは自分のしたことに胸を張ればいい」

「そんなに簡単な話じゃないが、」俺はタバコを灰皿に押し付けながら言う。「一応、礼は言っておくよ」

「あなたと一緒に私に手錠をかけた刑事。彼なら、あなたが人を殺せばためらいなくあなたに手錠をかける。あなたに必要なのは彼のようになることよ」

 まったく、一番言われたくないことをずけずけと言いやがる。二本目のタバコを咥えながら俺は言う。「あんた、友達いないだろう?」

 医者は答えない。俺は二本目のタバコに火をつけ、思いっきり煙を吸い込む。最近は滅多にタバコを吸わなくなっていたというのに、殺人事件の捜査に駆り出された途端にすっかりかつての依存症に逆戻りだ。指二本でタバコを挟んだまま、額に手を当てる。雨音が脳の奥にずしんと重く響いている。タバコのにおいに身をまかせながら、この感覚は久しぶりだなと思う。

「そういえば相棒を変えたのね」医者はふうと煙を吐く。「今回だけのお試しだ」「優秀そうな子ね」「頭は切れる」「そう」「口も達者だ」「将来有望ね」「だが運転は下手だ」医者は笑うように口を開いて煙を吐くと、ポケットから取り出した携帯灰皿に吸い殻をねじ込む。「あまり多くを望むものではないわ」そう言うと医者は傘立の黒い傘に手を伸ばす。「過ぎたことはともかく、今、隣にいてくれる子を大事にしなさい」それは、「余計なお世話だな」そうね。医者は傘をばさりと広げると再び俺が言われたくないことを言う。「自分で掘った穴に飛び込んだのなら、自力で這い上がるのね」

それじゃあね、と医者は雨の中をバス停に向かって歩いていく。俺は二本目のタバコをしっかりと根本まで吸うと灰皿に投げ入れコートの襟を立てる。まったく。弱まる気配のない叩きつけるような雨音に舌打ちをすると、コートのポケットにねじ込まれていた新聞を広げ、傘代わりに頭から被ると車に向かって走り出す。



 運転席に飛び込むと濡れた新聞を助手席に投げ捨て、キーを回してエンジンをかける。エアコンから埃臭い風が流れる。まったく。俺は靴下までぐっしょりと濡れた足元にうんざりしながらハンドルに額を当て車内が温まるのを待つ。

 あの医者が余計なことを言うものだから俺は何故か一年前のことを思い出す。警官殺害事件。あの時、俺は事件を解決するべきではなかったのだろうか。あの事件さえ解決しなければ俺の横にはあいつがいて、俺はまだ殺人事件の捜査を続けていたはずだ。何も変わらず、俺は俺として生きることが出来ていたはずだ。

 なんて。ふざけるな。ごんごんと俺は二度、額をハンドルに打ちつける。何を馬鹿な。久々の殺人事件の捜査に俺はセンチメンタルになっているのか。しっかりしろよなと唸るようにつぶやき、迷いをかき消すように頭を振る。雨が天井を叩く音の中、エアコンが十分に仕事をするまでの間の暇つぶしにと俺は助手席の新聞に手を伸ばす。何だよ、びしょびしょじゃねえか。クロスワードパズル、まだ最後まで解いていなかったのに。と、俺はふと気付く。何かに気付く。だが、何が起きたのかわからず、そのことに思わず、え、と小さくつぶやく。

 何だ。今の。

 強烈な違和感。

 だがその正体が俺にはわからない。

 何だ。俺は今、何に気付いた?

 埃臭いエアコンが不快な音を立てている。

いつまでたっても車は暖かくならないでいる。


【SIX】


シャンプーハットはその日の朝、情報屋(スヌーピー)から受け取った鍵を手に、急いでモーテルに戻るとまだベッドの中で毛布を被り丸まっているサムに言った。

「サム、やったぜ、話はついた。試合が終われば俺達はすぐにでも街から出られる」

 サムは毛布から鼻の上だけのぞかせるとシャンプーハットを見た。濃い眉毛の下で目はらんらんと輝きすでに覚悟は決まっているかのようだった。

「シャンプー、本気なのかい?」

 サムは怯えているようだった。シャンプーハットはサムを奮い立たせるように握った拳を彼の鼻先に突き付けて言った。

「サム、ボクシングの由来を知っているか?」

「ボクシング?」

「箱だよサム、ボックス、箱だ。握った拳を箱と呼んだんだ。だからボクシングだ。俺達は生まれてからずっと箱の中に閉じ込められてきた」

「箱って何のことだいシャンプー」

「この街だ、この暮らしだよサム。いつまでもこんなところにいたら駄目だ。次の試合が終われば俺はグローブを脱ぐ。拳を握るのはもう終わりだ」

 それからダニーボーイは握った拳をサムの目の前でゆっくりと開いた。そこには一年かけて築き上げた信頼の証である鈍い鉛色の鍵が乗っていた。

「箱を開けるんだ、サム。俺達は箱の中から出ていくんだ」

 それからシャンプーハットは鍵を財布のコイン入れの中にしまうと、確かめるように何度か拳を握る。箱を開けるんだ。そうつぶやいたシャンプーハットの横顔は、十八年間もこの悪意がひしめく薄汚れた箱の中に閉じ込められてきた悲壮感などなく、未来への希望にあふれていた。

(ヒロ・イシグロ『ボクサア』第四章より抜粋)


**********


1996/3/15 Friday 捜査第三日目

第二回特定刑務所第四実験区画囚人事情聴取


 それじゃあ最後に確認だ。何も見ていないし何も聞いていない。あの夜は看守達が騒ぎ出し点呼が始まるまでぐっすりと眠り込んでいて何も気付かなかった、そういうことでいいんだな?

 俺の言葉に髭面の大男は、囚人服の袖がはち切れそうな太い腕を組んだまま、ああそうだなと低い声で答える。俺はペンで調書をとんとんと叩くと、もう行っていいよと優しく言う。囚人はふんと鼻を鳴らすとずいっと立ち上がり、刑務官に連れられ部屋から出ていく。鉄格子の扉が閉じられると横に座る彼女を見る。

「今ので最後か?」「ええ。特別監房の囚人はまだですが、一般監房はこれで全員ですね」「特別監房の扉は事件当日も施錠されていたし、特別監房から一般監房までには刑務官のカードキーが必要な扉が二枚ある。元々容疑者には入っていない」「ですが、特別監房の担当刑務官が本当に持ち場を離れなかったのかたしかめるには、特別監房の囚人に話を聞くのが一番です」「お前はまだ刑務官犯人説を追っているのんだな」彼女は尖らせた唇と鼻の間にペンを挟んでしばらく考え込んだ様子を見せていたが、突然、「あ、そういえば、」とこちらを向く。途端にペンがこぼれ落ちるが気にした様子はない。「例のノート、あれって何かわかりました?」「被害者の自宅から見つかったノートか?」それそれとうなずきながら転がったペンを手にする。「まだ何も。一応数字に強そうな奴に見てもらっているが、何しろ字が汚い。0と6を判別するのにも苦労するくらいだ。あのノートの中に殺人の動機になりそうなものでもあればいいがな」

 それから俺はぎっとイスに背もたれる。前足が一瞬浮いたあと、がくんと元に戻ったところでイスがきしむ音を上げる。それにしても、頬杖をついて彼女がこちらを見ながら言う。「見事なまでにすべての囚人が何も見ていない、何も聞いていない、何も知らないと証言しましたね」「D区画が閉鎖されていた二十四時間、口裏を合わせるには十分だったんだろうな」「でもロックダウンの前に行った第一回目の事情聴取の証言も含めて齟齬や矛盾はないんですよ。あまりに証言が揃っていて気持ち悪いです」

 まあ、そうだよな。適当に相槌を打つつもりが、俺は彼女の言葉に引っかかる。たしかにそうだ。囚人達は皆、口を揃えて、何も見ていない何も聞いていない何も知らないと証言している。百人余りの囚人がだ。全員が同じ答え、通常そんなことがあり得ると思うか? 俺は知っている。通常あり得ないことはやっぱりあり得ない。だから俺はこの点をもっと考えなければならないはずだ。

 黙り込んだ俺を、頬杖をついたまま彼女はじっと見ている。

「どうかしました?」「D区画はいくつかの囚人グループが存在し対立している。自分のグループ内で口裏を合わせることは可能でも、対立グループと協力するなんてことが可能だと思うか?」うーん、彼女は眉間にしわを寄せる。「まあ刑務官が殺されましたからね。D区画が閉鎖される可能性もありますし、そんな危機的状況であれば協力する可能性も、」「そんな理性的な連中かよ。檻の中の動物が動物園全体のことなんて考えると思うか? 普通ならこれを機に敵対勢力の誰かに罪をなすりつけようとするのが普通だ」「それはそうかもしれませんが、」

そして俺はやっと理解する。

「馬鹿だぜ、俺達は。あの監房から囚人が夜間に抜け出すことが可能かどうか、刑務官の目をかいくぐることが可能かどうか、そんなことばかり考えていた。まったく。問題は刑務官の監視の目じゃない。あの監房棟、円筒形をしたあの形がこの問題の本質だ。吹き抜けを介して対岸の監房が見渡せるあの構造。あの監房棟で本当に重要なのは、囚人同士の監視の目だ」んん、と彼女の肩眉が吊り上げる。「自分が監房を抜け出して地下に下りることを考えてみろ。いくら刑務官の監視をかいくぐったとしても、自分が敵対するグループの囚人に見られていればすぐに密告されてしまう。囚人の入っている監房はグループごとに固まっているわけじゃない、ばらばらに配置されている以上、敵対グループの囚人すべての監視の目をあざむくことは事実上不可能だ。自分が誰かに見られているという可能性は常につきまとう」「そうかもしれませんね、」おかしいんだよ、俺は声を落として言う。「そんな状況であれば、仮に誰一人監房から抜け出していなかったとしても、誰かを陥れるための偽証、流言飛語が飛び交うのが普通だ。それなのにたった一つも目撃証言が出ていない」これは異常だ。俺は唇を鳴らすと、頬杖をつき眉間にしわを寄せたままこちらを見ている彼女に言う。「利害が衝突する集団が口を揃えて同じ嘘をつくのはどういう時だと思う?」しばらく考え込み、それからはっと顔を上げた彼女は、こちらに身を乗り出すようにして言う。「全員がもっと大きな嘘を隠そうとしている時?」「そういうことだ。どのグループの囚人も敵対グループを陥れようとしないのは、全員が安全圏の外にいるからだ。結論。あの事件の夜、不特定多数の囚人が監房を出入りしていた。誰かを陥れようとすると自分達も告発される恐れがある。だから誰もが口を閉ざし、結果的にただの一つも目撃証言が上がらなかった」

 彼女は両手の平で眼鏡の外側を挟み込むように持つと正面を向いてじっと何かを考える。やがて小さくうなずくと再びこちらを見る。

「つまり東方さんの考えでは、夜間、D区画では囚人達の誰もが自由に監房を出入りしているということですか?」「少なくとも事件当夜もあらゆるグループの囚人が監房を出入りしていたんだろう。互いにやましいことがあるから相手を告発出来ない。だが、殺人事件が起きた夜だけ偶然、多くの囚人が監房を抜け出していたとは考えにくい。D区画では日常的に夜間に囚人が自由に監房を出入りしていると考えるべきだ。当然刑務官はそのことを知っており黙認していた。あの監房棟では最初から誰もまともに監視なんてしていない。あまりにも多くの囚人が当たり前のように監房を出入りしているからこそ、誰が出歩いていたかをいちいち覚えている者はいない」「同房の囚人が監房から出ても気にもとめない、か」監視に穴があるどころの話じゃないじゃないと彼女はつぶやく。「夜中に廊下で囚人がキャッチボールしていても、俺は驚かないぜ」

 D区画。あそこは無法地帯だ。

「そうなると、東方さんが最初におっしゃっていた囚人と被害者が図書室で夜中に密会していたというのは当たりかもしれませんね。夜勤の他の刑務官達は本当に犯人に心当たりはないようでした。監房棟の刑務官を抱き込まずに囚人が夜中に管理エリアで密会するのはハードルが高いと思っていましたが、監房を自由に出入り出来るのなら現実的なシナリオです」でも、と彼女は唇の端を歪める。「そうなると犯人を絞り込むのはかなり難しいことになります。囚人なら誰でも犯行可能なことになりますし、被害者が囚人達に対して時に暴力的であったという証言から考えて、囚人達がいい感情を持っていないことは事実でしょうから動機からも絞り込むことは難しい」「だったらなおさら被害者と直接トラブルがあった奴について知りたかったというのに、」そう言うと俺はぎろりと彼女を見る。「法務省との交渉に失敗したなんて報告は聞きたくなかったぜ」

ああ、とつぶやいて彼女は机の上に突っ伏す。「馬鹿正直に資料の閲覧許可を出したら正式な手続きを通せと突っぱねられたんだろう? まったく」「たしかにわたしは門前払いされました。でも、収穫はありました」「と言うと?」「まさかとは思いましたけど、D区画管理エリアには本当に機密書類の保管庫があります」そう言うと彼女は顔を上げ、顎を机の上に乗せたまま相貌を引き締める。「保管庫がないのならそんなものはないと一蹴するはずですが、法務省からの返答は正式な手続きを通せ、です」「正しいやり方をすれば扉は開く。つまり扉が存在することを彼等が認めたのか」「褒めてくれます?」「扉が開かなきゃ意味がない」あのですねえ、彼女がむっとしたように鼻の頭にしわを寄せる。「正式な手続きというのは、市警察からの要請書に刑務所長がサインし、それを法務省が受理することを言います。ですがこれは市警察の公式の捜査ではありません。先日の様子ではあの捜査一課長、わたし達が頭を下げたくらいで協力してくれる様子でもありませんしね」まあその通りだろうな。「だからわたしに保管庫をどうにかしろというのは元々無理筋なんですって」ああ、そうかよ。俺はふんと鼻を鳴らす。「そもそもわたしって机の上の勉強は得意なんですけど、人を説得し懐柔するのは専門じゃないんですよ」両手で頬杖をついて駄々をこねるように言うと、「あ、でもそれが得意な人、いましたよね?」彼女はちらりと俺を見る。「おい、ふざけるな。そんな目で俺を見るな」「じゃ、あきらめます? 資料、見たくありません?」こいつ。だが彼女の挑発にやすやすと乗るほど俺は若くも青くもない。「無駄だ。お前の想像以上に俺とあの男との関係はこじれている。俺が何を言おうがあの男が首を縦に振ることはない。正攻法はあきらめろ。他に保管庫の扉を開く方法を考え出すしかない」ざーんねん、と彼女は唇を尖らせる。だから、そんな目で俺を見るな。



 事情聴取が終わるとD区画でやるべきことはいったん終わり、俺達は実験区画をあとにする。中央管理棟一階の自動販売機の前に立つと俺は彼女に言う。「何がいい?」え、と彼女が信じられない物を見るような目で俺を見る。「初めてです。ジュース本当におごってもらうの」あっそ。俺は勝手に一番安い炭酸を買うと彼女に手渡す。自分は安かろうまずかろうの缶コーヒーを買うと、誰もいない玄関ホールのイスに並んで座る。

「そういえば、昨夜、ヒロ・イシグロが亡くなったって聞きました?」彼女が両手で缶を持ちながら言う。俺は不味い缶コーヒーを喉に流し込みながら無言でうなずく。「監房で眠るように亡くなったそうですね。何か持病でもあったのでしょうか?」「何だよ、また殺人事件とでも言うのか?」「いいえ。たしかもう八十歳を過ぎていましたし、」俺はずずとコーヒーをすする。「認知症もあったみたいですし、ほら、事情聴取の時だって、何か変な様子でした」ああ、と俺は思い出す。拳を握った老人の姿が脳裏に浮かぶ。「暴動騒ぎで封鎖された刑務所が最期の場所になるなんて、いたたまれませんね」「『ボクサア』、だ」「ああ、そういえばボクシングがどうとか、」「拳がどうとか、箱がどうとか言っていただろう? あれは彼の晩年の作品の引用だ。俺が読者だと知ってした、ちょっとした遊びだったんだろう」あるいは本当に認知症で、小説の世界と現実の世界が入り混じってしまっていたのかもしれないが。

「『ボクサア』って、どんな話なんですか?」「八百長を持ちかけられた十八歳のボクサーが、誤って相手をリング上で殺してしまい、胴元のギャングに追われる逃亡劇だ。十年程前の作品だがもうその頃は七十を過ぎていただろうし、内容はどこかで聞いたような展開でセリフにも力がない。伏線の回収もお粗末で老いたなというのが率直な印象だったよ」だがそれでも、当時の俺はページをめくる手を止められなかったのを覚えている。「もし全盛期の筆で書かれていたらとか思います?」「まあ、青春小説を書くには年をとり過ぎていたのかもしれないな」

 本当にそうだろうか? 俺が勝手にそう思っているだけで、遅過ぎたということはないのではないか、むしろ、何かに間に合ったという可能性はないだろうか? 彼は人生をかけて多くの物語を作り上げてきた。その積み重ねた日々の先に、あの年になったからこそ書けた作品だとは言えないだろうか。おろそかに生きることを拒み、懸命に日々を積み重ねた末に辿り着いた今日が、遅過ぎるなんてことがあるだろうか? なんて俺はセンチメンタルなことを考えてしまう。俺は愛する作家の死に傷ついているのだろうか?

 そういえば、と彼女が飲み終えた空き缶をゴミ箱に投げ込みながら言う。「八百長で思い出しましたけど、海外のサッカークラブが犯罪組織の八百長賭博に関わっていたとか何とか、そんなニュースもありましたね。一昨日、違うか、火曜日でしたっけ?」八百長? 唐突に聞こえた彼女の言葉に俺は一瞬眉をひそめるが、すぐに会話の流れを思い出す。ああ、『ボクサア』の話をしていたんだったな。「ボクシングはわかりませんが、サッカーの八百長の小説だったら、ちょっと読んでみたいかもしれませんね」ふーん。「でも何でばれるんですかね。犯罪するならもっと上手くやればいいのに」警官のセリフとはとても思えないな。俺は残りのコーヒーをぐいっとあおると空き缶をゴミ箱に投げ入れる。「たしかクラブのオーナーの妻と看板選手が絡んでたんだろ。昼ドラよろしく愛憎劇が繰り広げられているようだぞ」「よく知ってますね」「新聞で読んだ」

 え? 俺は自分で自分の言葉に撃ち抜かれる。

 何だ、今のは。俺の思考が一瞬止まると同時に、すぐさま無数の声の荒波が頭の中を押し寄せてくる。ぶるりと俺は体を震わせ、それから声を絞り出すように彼女に問いただす。

「何曜日だって?」彼女が怪訝そうに俺を見る。「火曜日だって言ったな」「何です、何の話です?」「サッカークラブの八百長事件だ。火曜日だと言ったな」「ええっと、はい、そう。それこそ今回の事件の前日ですよ。夜のニュースで速報が流れて、そのあと気持ちよく寝ていたところを夜中に叩き起こされたんですから。ほんと、人を殺すなら昼間にやってほしいですよね。夜中の電話ってほんと最悪」くそったれ。俺はそう言い捨てると走り出す。「ちょっと、東方さん」背中で声がするが俺は立ち止まることなく、正面玄関の扉を押し開くと、敷地の端に停めてあるぼろぼろの2CVまで、心臓が止まりそうになりながら全力疾走する。

乱暴に扉を開くと、運転席に馬乗りになるように膝立ちで、助手席の間から後部座席に身を乗り出す。2ドアはこういう時、本当に腹が立つ。わけもわからず追いかけてきた彼女が大声で俺に呼びかける。「東方さん、一体何なんですか?」俺は物が散乱する後部座席から、雨に打たれてぼろぼろになり無造作に投げ捨てられていた新聞を掴むと運転席にどっかりと座り込む。ハンドルの上で新聞を広げ、そして確信する。これまでずっと続いていた違和感、何度かその兆しが訪れていたのに掴み取ることが出来なかったものの正体、それがこれだ。

「東方さん、」助手席に乗り込んできた説明を求める口調の彼女に、俺は広げた新聞を突き付ける。「え、ちょっと、何です」彼女は新聞を受け取ると、鼻先までずり下がった眼鏡を押し上げ紙面に目を通す。「ああ、サッカークラブの八百長事件の記事、これがどうかしたんですか?」「第一報が火曜日の夜のニュースだったとすると、当然これは水曜日の朝刊ということになる」「みたいですね」彼女は新聞の日付を見ながら言う。「最終面を見てみろ」彼女は言われた通りに新聞を閉じる。「クロスワードパズル? これってたしか初日に刑務所から持ってきた新聞ですよね」クロスワードパズルの縦の六番。俺の手癖で書かれた『ヒゲキ』の三文字。「こんな新聞まだ持っていたんですか? 捨てればいいのに」とつぶやいた彼女に俺はずいっと体を乗り出して言う。「わからないのか? これは水曜日の朝刊なんだぞ」

 要はタイミングだ。ヒロ・イシグロが晩年に『ボクサア』を書いたことが何かにぎりぎり間に合ったのであるなら、俺が今、遅過ぎたと感じているこのことだって、何かに間に合ったということはないだろうか。仮に何かに間に合ったのだとすると、一体何に間に合ったのか。それはあまりに明白だ。

 俺は彼女の手から新聞を奪い取ると後部座席に投げ捨てる。「シートベルトをしろ」キーを差し込みギアをローに入れるとアクセルを強く踏み込む。唐突に動き出した車に、座席に押し付けられた彼女が慌ててシートベルトを締めながら非難の声を上げる。「殺す気ですか? それでどうやったら人の運転に文句つけられるんです」俺は間に合った。そういう結論にするために俺がこれからするべきことは一つだ。「保管庫の扉を開けるぞ」俺は低い声でそう言うと唇を鳴らす。「開けるって、どうするんです?」彼女の問いに、俺はきっぱりと答える。「正攻法って奴を試してやるのさ」



「何の用だ?」

 課長室の机の向こうから冷たい目をした男が言う。未未市警察捜査一課長、却園警視は俺の顔を見るといつも不機嫌になり、そのことを隠そうともしない。正攻法であのD区画の秘密の保管庫の扉を開かせるなら方法は一つ、この事件を公式に捜査一課の事件にすること、そして市警察から東洲区重警備刑務所長に保管庫の資料の閲覧請求書面にサインをさせること、これはそのための儀式だ。

「単刀直入に言います。力を貸して下さい。あなたにとって俺が面白くない部下だということは重々承知していますが、それでも俺には頭を下げてあなたにお願いする必要がある。この事件を捜査一課の公式な捜査にすることを認めて下さい」

「唐突にノックもせずに部屋に入ってきて力を貸せだと? お前は先程から何を言っているんだ」

「無礼なことは今に始まったことじゃないでしょう? 気分を損ねたのなら謝罪しますが要点はそこじゃない。問題が起きているんです。未未市警察の面子をかけた問題が」

 ぴくりと課長のこめかみが動く。やはり届く。この言葉ならこの男に届くと俺は確信する。

「俺が昨日提出した報告書は読みましたか?」

 答えない課長に、俺は事件発生からこれまでの経緯をかいつまんで話す。そしてD区画にあるだろう機密書類保管庫の扉を開く必要があることまで聞き終えた課長は、腕組みをしてイスに背もたれたまま俺をじろりと睨みつける。

「経緯はわかったがお前の意図はいまだ理解出来ない。捜査に行き詰ったことと未未市警察の面子は関係ない。仮にこの事件が迷宮入りになったとしてもそれは法務省と東洲区重警備刑務所、そして貴様達二人の責任でありわれわれは無関係だ」

 俺は机の上に手にしていた新聞をばさりと置く。

「何だ?」「捜査最初の日、監房棟の刑務官詰め所の机の上にあった新聞です。日付を見て下さい」「三月十三日、」「水曜日です」「それが何だ?」「これは、事件の起きた日の朝刊なんです」俺の言葉に課長は眉をひそめ、彼女はそうかと小さくつぶやく。「この新聞を最初に見た時、俺は夜勤者の監視はいい加減だと思いました。ですが、この新聞が発行されたのは、死体が見つかったあとなんです。事件後に発行された朝刊を、夜勤帯の刑務官が持ち込んだはずがありません。事件発覚から囚人達は監房の中で、売店に行くことも出来ません。必然的にこの新聞は事件が発覚したあとに出勤してきた誰かが置いたことになりますが、その朝、すでにD区画は厳戒態勢でした。そんな状況下でのんびり職場に新聞を持ち込んだはずがありません。意図的でない限り」「お前に見せるために、そう言いたいのか?」「あるいは法務省から来た捜査官に見せるために」俺はそういうとちらりと彼女を見る。彼女は無言で何やら考え込んでいる。「偶然、という可能性はないのか? 別に誰かが新聞を小脇に出勤してきたとしても不思議はない。そういう一般常識から外れた人間が組織の中に紛れ込むことはめずらしくないだろう」遠回しに俺への皮肉を言っているのだろうが今はいちいちそれに反応している暇はない。「意図的であった根拠は他にもあります。俺がこの新聞を手にしたのは捜査の最初の段階です。俺は監房エリアに行き、この新聞を手にしました。ですが、外部からD区画への連絡通路は地下二階とつながっています。そして犯行現場は地下の管理エリアにあります。普通に考えれば事件現場に直接向かう方が早いのに何故俺は最初に監房エリアに行ったのか。簡単です、行くように誘導されたからです。監房エリアで暴動が起きつつある。そうなる前に捜査出来るところは捜査しておいた方がいい、そう促され俺は真っ先に監房エリアに向かいました」「事実、その夜に暴動は起きた」「結果的には。ですが、事情聴取の際に囚人達からそれほどの緊張感は感じ取れませんでした。四分の三の囚人に話を聞いて、彼等が監房に閉じ込められていること自体には比較的無頓着であったことは無視出来ません。俺がD区画に着いた時点で暴動の恐れがあるという話が嘘であるなら、俺が監房エリアに行くよう仕向けられたことには何か意図があったと考えるべきです。そして不自然に置かれたこの新聞。大慌てで用意したのかクロスワードパズルは間違いだらけ。俺にこの新聞を見せたいという意思が見え隠れしています」「お前に監房の監視はいい加減で、囚人達が監房から自由に抜け出すことが出来た、そう思い込ませるための工作だと言いたいのか?」そうです、と俺は答える。「弱過ぎるな。想像、いや妄想として一蹴されるだけだ」そう言うと課長は新聞を手に取り近くのゴミ箱に投げ入れる。「わざわざ二人で乗り込んできて、こんなくだらない話をしに来たのか? 彼等が何らかの偽装工作をしたと言いたいのなら、もっと明確な証拠を示せ?」「証拠を示せ? 証拠なら最初から目の前にあったじゃないですか」俺は唸るように言う。「証拠は俺自身ですよ」「お前自身?」「俺がこの捜査に関わることになったのは法務省からの申し出をあなたが承諾したから、そうですよね」「ああ」「ですが俺を選んだのは法務省の意思じゃない、D区画なんです。彼等が俺を捜査官にと法務省に働きかけたです。ですが本来、彼等が俺を推薦するなんてことはあり得ないんですよ。俺は良くも悪くも有名人です。そんな俺を、世間的には公にしたくない事件の捜査に関わらせるのはリスクが大き過ぎます。何より俺はもう一年近く、まともに殺人事件の捜査をしていないんです。同じ市の職員ならその辺りの事情は当然知っているはずです。それでもなお俺に事件を担当させようとした理由は一つ、」そんなのは決まっている。俺はぎっと奥歯を噛む。「俺が、仲間に手錠をかけた警官だからですよ」

 俺が選ばれたこと、それ自体が証拠だ。裏切者と呼ばれ、仲間を逮捕したことですべてを失いそれでもなお刑事の仕事にしがみついている。だからこそ俺は選ばれた。もう二度と仲間を疑うことが出来ない刑事であることを期待されて。

私達刑務官はあなたと同じ市の職員です。同じ正義のために命を懸けて戦う仲間、いえ、言ってみれば私達は家族です。どうか、どうか家族の仇をうって下さい。

「俺なら刑務官は疑わない。疑うことが出来ない。そう期待されたからこそ、俺は選ばれたんです。あの新聞は駄目押しに過ぎません。そうやって俺を、囚人が犯人であるという結論に誘導していったんです」

 くそったれあの鰐男。俺を操ろうとしやがった。

「つまりお前は、向こうの目論見通り派手に踊ったというわけか?」

「否定はしませんがね、」俺はそう言うと、顔の前で祈るように両手を合わせる。

「もちろん彼等が仲間の犯行を隠すためにやっているとまでは言いません。実際のところ、彼等だって犯人が囚人か刑務官か確信はないはずです。刑務官が犯人である可能性を否定出来ない、だからこそ自分達の仲間を守るために動いているのだと思います。実際のところ、彼等のやったことは俺を捜査官に推薦し、新聞を職場に置いただけです。罪に問われるようなことは何もしていません。ですが、彼等が捜査妨害を行い、自分達の都合のいいように捜査を誘導しているということは間違いありません。この意味がわかりますか? あいつらは、捜査一課を操ろうとしているんです。馬鹿にしているんですよ、未未市警察捜査一課を」

 これが俺のカード。目の前の男は、単に俺が憎いわけでも性格が悪いだけでも前任者にコンプレックスを抱いているわけでもない。この男は未未市警察に、この国で最初の自治体警察であるこの未未市警察に誇りを持っている。だからこそ、未未市警察の汚名となった警官汚職事件を憎み、その事件の中心にいた俺に対しては、事件を解決したことへの感謝と同時に仲間の堕落を世間に露呈させたことへの怒りという複雑な感情を抱いている。俺を排除しようとするのは、俺が近くにいると彼の感情がかき乱されるからだろう。否が応でもあの汚職事件を思い出し、彼の未未市警察捜査一課長であることへの自尊心が傷つけられる。そんなことはとっくにわかっていた。だがそうであるならば、俺のカードは彼に届くはずだ。はぐれ物とはいえ捜査一課の一員である俺を操ろうとしたということは、未未市警察捜査一課を愚弄することに等しい。この男が、そんな事実を受け入れるはずがない。

 しばらくの沈黙のあと、課長は俺に言う。

「この事件を捜査一課の公式の事件とするならば、その瞬間からお前のスタンドプレーは許されない。すべてを逐一報告し私の命令に従え。それが最低限の条件だ」

「今までだってそうしてきたし、そうさせてきたはずです」

「答えろ。従うつもりがあるのか、どうなんだ?」

「従いますよ。これでも俺は、未未市警察捜査一課の刑事なんです」

 課長はそれから彼女に向かって言う。

「捜査一課の公式の捜査となれば、いくら君が法務省から命を受けているとはいえ、こちらの指揮下に入ってもらう。異存はないか?」

「仰せのままに」

 いいだろう。課長は彼女に向かって強い口調で言う。

「書類を準備しろ」


 

 事態は慌ただしく動き出す。

未未市警察捜査一課長御厨警視は法務省直轄特定刑務所第四実験区画で起きた加藤刑務官殺害事件を公式な捜査一課の事件と認定。御厨警視はD区画の機密情報の開示を刑務所長と共に法務省に要請した。手続きが進む中、俺達を乗せた2CVは再び砂漠のような広大な埋め立て地を突っ切る国道を走る。この道を何度も何度も行ったり来たりしている。悪夢は繰り返し起こるというが、どうやら俺はその中に確実に足を踏み入れているらしい。

「刑務所長は機密情報開示の書類にすんなりサインしたようですね」雨上がりの冷たい風が、半分開けた窓から吹き込み助手席の彼女の髪の毛は激しくたなびいている。「一種の政治的策謀の結果とは言え、自分の縄張りの一画に自らの管理が及ばない区画がある事態を面白くは思っていないはずだしな」ふうむ、と彼女は唇を尖らせる。「東方さんを推薦したのは刑務所長ではなくD区画なんですよね」「直接聞いたわけじゃないが、あの鰐男が俺を呼んだのは間違いないだろうな」だが、と俺は思う。

「そもそも、D区画の背後には法務省がいて、D区画自体が踊らされている可能性はないのか?」俺はあの猫目の男を思い出す。すべてあいつが描くシナリオだという可能性は否定出来ないだろう。だが彼女は片手で髪の毛を押さえながらいいえと首を振る。「ないと思います。法務省側からしたら犯人は囚人よりも刑務官であってほしいはずです」まあ、そうだろうな。半年前の脱走事件以降、世論から厳しい視線にさらされている実験区画で、今度は囚人が刑務官を殺害したとなると致命的だ。刑務官同士のいざこざで殺人事件が起きたというシナリオを描くことはあっても、その逆はないだろう。あの新聞と法務省は無関係、D区画が単独で行った偽装工作と考えるべきだろう。

 だがそう考えると彼女が当初、刑務官を第一に疑っていた理由もわかる気がする。本人は認めないだろうが、実験区画の特別捜査官として二年間も捜査に専従していれば、法務省の望む結論に多かれ少なかれ影響を受けてきたはずだ。彼女は、名前は他人から一方的に与えられたものであってもその人間のアイデンティティに深く根差すと言った。もちろん彼女が過去の捜査に手心を加えたとは思わないが、実験区画の特別捜査官という名前が彼女の振る舞いにある種の哲学を植えつけていても不思議はない。D区画側はそれをよく知っていた。刑務官を疑うように条件付けされている特別捜査官にあてがうには、囚人を疑う刑事がうってつけだ。くそったれ、そして俺はまんまとあいつらの期待に応えていたというわけだ。

 2CVは砂埃を上げながら走っていく。

 ぴこんと音がして彼女が携帯電話を手にする。

「管理委員会からです。機密情報開示請求が通ったようです。限定的ですが資料の開示が認められました」

「限定的?」

「あの黒塗りの資料の山をすべて開示してくれるはずはありませんからね。この一年間で起きた被害者と囚人とのトラブルで、医務室が関与した事件・事故に限定して開示請求を出しました。それ以外にもトラブルはあるのでしょうが、まずは囚人に刺されたとかいう事件を調べる必要がありますから」



 携帯電話と財布と鍵を箱の中に投げ入れ身体検査を受ける。「D区画への立ち入りを許可します」鉄格子の扉が開かれると俺達は廊下を歩いていく。再び現れた鉄格子を通り抜け、D区画の円筒状の建物の地下部分、管理エリアに俺達は入る。刑務官達が俺達をじろじろと見ながら通り過ぎていく。「嫌な感じですね」「この事件は市警察捜査一課の公式な捜査になったからな。今頃は警官隊が、彼等の当直室からロッカールームまで引っくり返している。歓迎されるはずがないさ」凶器は現場に残されていたが、犯行まで犯人は凶器をどこかに隠し持っていたはずだ。他にも武器をどこかに隠し持っている可能性がある。D区画を捜索する口実としては上出来だ。何か面白いものが出てくればいいがな。

 俺達の元に鰐男が刑務官達を引き連れやって来る。どう見ても不満げな表情を隠そうともしない小さな爬虫類に俺は小さくうなずく。

「資料をご用意しました」

 そう言うと、こちらへどうぞと鰐男は踵を返し歩き出す。円筒の外周に当たるゆるやかに曲がる廊下を歩いていき、一つの扉の前で立ち止まる。電子キーに鰐男は自分のカードを押し当てると扉を開く。扉の先には建物の中心に向かって延びる廊下が見える。どうやら俺達の読み通り、円筒部分の中心に秘密の保管庫は隠されているらしい。機密情報であるが故に資料を持ち出すことが出来ず、結果的に俺達を保管庫に案内せざるを得ないという状況は皮肉だと思うが、俺はすました顔で爬虫類のあとについていく。

 部屋二つ分ほど廊下を進むと、突き当りに大きなガラスの扉が現われる。ガラス戸の前には銃を携帯した刑務官が扉のこちら側と向こう側の両方に立ち、扉の奥にはずらりと巨大な棚が並んでいるのが見える。「保管庫の中には入れません。こちらにどうぞ」ガラス戸の手前、右手に小さな扉があり鰐男は再びカードキーで扉を開く。部屋に入ると扉の向こうは木のモザイク調のタイルが敷き詰められた床とボタニカル柄の壁紙が四方の壁に貼られている狭い部屋で、中央に机が置かれている。またもや資料閲覧室に缶詰めということらしい。資料閲覧室に入ってしばらく待っていると、ワゴンを押した刑務官が入ってくる。ワゴンから机の上に資料が移される。

「開示が許可された資料は以上です。先日と同様、この資料はすべて政府に属する機密情報であり、いかなる理由でも資料の撮影、持ち出しは機密情報の漏洩として重罪に問われる可能性があります」ああ、と俺は答える。「この部屋の扉は外から施錠されますので、部屋から出る際にはそこのインターホンでお知らせ下さい。なお、都度都度の身体検査につきましてもご了承下さい」

 刑務官はそう言うと、鰐男と目を合わせ、俺達を残して部屋から出ていく。

俺達は扉の閉まる音と同時に、資料を机の上に並べていく。



この一年間、加藤刑務官の名前がありかつ医務室が関わった事件・事故報告書。管理委員会による内部調査資料、刑務官の管理日誌、医務室の診療記録、定期的に行われる臨床心理士によるカウンセリング記録などがぎっしりとファイルの中に収められている。

「一冊、足りませんね」彼女が怪訝そうに俺に声をかける。「何だ?」「いえ、資料開示請求を出した時、該当資料は全部で二十四冊のファイルだったはずなんですが、ここには二十三冊しかありません」「二十四冊もあるのか?」「ですがここには、」「俺はこれから二十四冊もファイルに目を通さなければならないのか?」気が遠くなる。「ですが一冊ここには足りません」「あれだけ杜撰な監視体制を敷いている連中にミスはつきものだろ。それよりも二十四冊も読まなければならないのか?」「結果的には二十三冊です」「どっちでもいい」

 案の定、作業は思った以上に時間がかかる。黒塗りなら飛ぶようにページがめくれるのにな、と俺は本末転倒なことを思う。膨大な資料の山を切り崩す作業のうち、俺は段々気が滅入ってくる。

「あきれたものだな。ここは囚人の社会復帰を目指す崇高な場所じゃなかったのか?」俺は彼女にたずね、彼女は神妙な面持ちでええ、と答える。「D区画はこれまでの三つの実験区画とは異なり重罪犯が集められていますからね。開設からわずか二年で、」「最も治安の悪い動物園に成り下がった、か?」重罪犯を自由にさせた以上、こうなることは最初から時間の問題だった。ここで働く刑務官にとっては恐怖の日々だろうが同情は出来ない。あの医者は正しい。自分で掘った穴に飛び込んだのなら、自力で這い上がるしかない。

俺は悪意に満ちた新たな資料に手を伸ばす。このD区画で日常的に行われる暴力行為。ページをめくるたびに俺の中の嫌悪感は肥大する。暴力、暴力、暴力。どの資料にも暴力の痕跡が色濃く残っている。

暴力とは何だろう。悪意と暴力は切り離せない。どんなお題目を掲げても、どんな尊大な理念を口にしても、悪意がそこにある以上、暴力は醸成され連鎖していく。ここが悲劇の箱であるならば、そこにはこの街中の悪意が煮詰められており、ぐつぐつと暴力の泡が生まれては弾け広がっていく。まったく。ろくでもない場所だな、ここは。

時間だけが過ぎていく。

 時計の長い針がすでに何周もしたころ、ようやく俺達は目当ての資料に突き当たる。

「一九九五年九月二十八日、加藤刑務官は懲罰房に移送中の囚人に襲われ、足を刺されたようです。加藤刑務官は大事には至りませんでしたが、その場で制圧された囚人は、」彼女の言葉が止まる。嫌な予感が当たったらしい。「死んだのか?」「はい。制圧された際に受傷し、医務室に搬送されましたが死亡が確認されました」「診療記録と死亡診断書、管理委員会への死亡報告書もあるな」「囚人を制圧したのは加藤刑務官一人ではありませんでした。一緒にいたのは、」「当てようか? 松井だな」「その通りです」俺はぎっとイスをきしませると両肘をついて顔の前で祈るように両手を合わせる。「偶然にしては出来過ぎているよな」

 D区画では、夜勤帯の刑務官は二人一組で行動している。それがある程度、固定された組み合わせで勤務しているのか、あるいはまったくのバラバラで毎回異なる組み合わせなのかは改めて確認する必要があるが、仮に日勤、夜勤のいずれもある程度固定した組み合わせで行動しているのであれば、半年前の加藤の事件に松井の名前が出て来ても不思議はない。

「囚人の死因ですが、診療記録によると刑務官の装備品である警棒で殴打されたことによる脳挫傷となっています」つまり加藤と松井の二人に警棒で殴り殺されたのか。「囚人の死亡後、D区画内の内務調査結果を受けて管理委員会は正当防衛と結論づけています。二人は懲戒処分されることもなく、そのまま現場に復帰しているようですね」

 ふうむ。概要はわかったが疑問は残る。「囚人が懲罰房に移送されていた理由は?」「武器の不法所持、とありますね」武器の不法所持?「監房内のベッドの下に手製のナイフを隠し持っていたようです。懲罰房に連行中、その凶器を囚人が奪い、加藤刑務官を刺したようです」何だと? 俺は資料を覗き込む。報告書には彼女が言った通りのことが書かれている。そして事件発生日。俺は眉をひそめる。「それはおかしいな」思わずつぶやいた俺に彼女も首肯する。「ええ。たしかに囚人の危険性を熟知し、武器まで携帯している刑務官達が、移送中の囚人に不用意に回収した凶器を奪われるのは無理があるように思えます」「違う、違う、そうじゃない。ベッドの下からナイフが出てきた、そのこと自体が問題だって言っているんだ」

 どういうことですか、と彼女が怪訝そうな表情を浮かべてたずねるが俺は答えない。俺は混乱している。どういうことだ。半年前、一体何があったんだ?

「刑務所の見取り図、持っているか?」俺の問いに彼女はええ、と答えるとごそごそと鞄の中から資料を引っ張り出す。俺はD区画の一階からつながる直方体の建物、特別監房の見取り図を確認する。監房エリアと特別監房は直接つながっておらず、二つの建物の間に小さな一つの部屋を挟んでいる。監房エリア側から扉を開けるとまず何もない部屋があり、その奥の扉を開けると特別監房棟に入る構造になっている。資料によると、囚人が加藤を刺したのはその小さな空間の中だとわかる。

「どうしてこんな部屋が存在するんだ?」「あれと同じですよ。宇宙船のエアロック」エアロック?「二つのエリアを自由に出入り出来ないようにするための一種の緩衝材です。暴動の際に囚人達が隣のエリアになだれ込めないように、片方の扉が閉じない限り、もう片方の扉が開かないようになっているんです。この構造は多くの刑務所で採用されています」片方の扉が開いている間は、もう片方の扉は開かない。「つまり、加藤と松井が囚人とその空間に入り、特別監房側の扉をほんの少しでも開いておけば、監房エリア側の扉は決して開かない」「まあ、そうなりますね」「特別監房側の囚人は独房の中だ。仲間の刑務官しかそこにはいない。つまり、監房エリア側の扉が閉じられていれば、何をやっても囚人に見られることも邪魔されることもない」何が言いたいんですか? 彼女はやや強張った表情で俺に聞く。「まさか、加藤と松井によって囚人は意図的に殺害されたと言うんですか?」

 ぐるぐると頭の中で不可解なパーツが駆け巡る。この事件の報告書にはいくつも引っかかる箇所がある。ここで語られるストーリーは矛盾と欺瞞に満ちている。悪意。そう、ここにはどうしようもない悪意が織り込まれている。暴力を呼び起こす悪意。その結果、奪われる命。今回の事件と半年前の事件には関連性があるという根拠のない確信が俺の中に芽生える。俺はむっつりと黙り込むと自分の頭の中、深い深い海の底にある知恵の王宮に意識を沈めていく。何があった。半年前、一体何があった?

 がちゃりという音に俺はふと顔を上げる。扉の方を振り向くと、彼女が両手に湯気の出るカップを持って立っている。「コーヒー、買ってきましたよ」そう答えると彼女は机の上にカップを置く。俺はぼんやりとした頭のまま、茶色い液体を眺める。飲まないんですか、と問われ、ああとおもむろに喉に流し込む。「刑事課のコーヒーより不味い飲み物が存在するとはな」「それがわざわざ管理棟の自動販売機まで買いに行ってきた相手への第一声?」俺はふうむと鼻息を吹きながら、再びずずずとコーヒーをすする。鼻先までずれた眼鏡で彼女が大丈夫ですか、とたずねる。「何が?」「話しかけても何にも答えないし、」彼女は壁の時計をちらりと見て、「五十分も固まっていましたよ」五十分もか。俺は

ゆらゆらと揺れるコーヒーの水面を眺める。「そっちは何かわかったか?」いいえ。と彼女はファイルを俺の方に投げてよこす。「事件報告書をすみからすみまで読みましたが、少なくとも内容に齟齬はありませんし、例えば囚人が懲罰房に送られる過程に明らかな違法性は見つかりませんでした。囚人を懲罰房に移送したこと自体が、あのエアロックで殺害するためだった、そしてその結果殺された囚人の復讐で加藤が殺害された、あるいはその殺害をめぐって加藤と松井の二人が対立し今回の殺害につながった、想像はいろいろ出来ますが、それを裏付ける状況証拠はこの中にはありません」

 俺は答えない。俺の中にはぼんやりとしたシナリオが浮かんでいるが、まだその姿をはっきりと掴み切れてはいない。悪意が生み出した殺人事件の全貌はまだ見えてこない。彼等の悪意をもっと理解する必要がある。もっともっと深く深く悪意の海に潜る必要がある。俺が再び黙り込む気配を感じたのが、彼女が俺に話しかけてくる。

「どうして市警察に通報されなかったのでしょうか?」

 その言葉に俺の思考は遮られる。

「半年前のこの事件、刑務官が刺され囚人の一人が死亡しているのに、例によってわたし達に捜査命令も出ていませんし、市警察に通報もされていません。刑務官が刺されただけでも普通の囚人同士の暴行とは桁違いの問題です」

 俺は彼女の方を見る。

「この時にきちんと捜査していれば、あの二人には何らかの法的な罰が下ったかもしれません。そうしていれば今回の事件は未然に塞がれていた可能性だってあります」

「半年前のこの事件と、今回の事件と関連性があるとはまだ言い切れない」

「東方さんもそう思っているでしょう?」

「どうした。お前、ずいぶんと感情的だな?」

 俺の言葉に、彼女ははっとしたあと、それから眼鏡を押し上げ、いいえと首を振る。黙り込んだ彼女に俺はイスにぎっと背もたれてつぶやく。

「D区画か。人間の悪意についての実験の場としてはなかなか面白いが、」

「面白くありませんよ」

「お前の苛立ちはわかる。そもそも法務省が目指した本来の姿からこの場所が逸脱してしまっていることも同意する。お前の言う通りだ。ここは異常だ。だがこの半年前の事件が、市警察に通報されないのは当たり前だ」

「何故です? 人が死んでいるんですよ。本来は通報義務があるはずです」

「時期が悪過ぎる」俺はそう言うと資料を手に取り、事件報告書の日付を指差す。

「一九九五年九月二十八日だ。その二週間前、九月十三日には何があった?」

 俺の言葉にはっとして彼女が唸るように言う。「脱走事件?」

「加藤が刺されたこの一件は、脱走事件からたった二週間後のことだ。つまりまだ、俺が脱走した囚人の死体を発見していない時期だ。まあ、実際に発見したのは犬の散歩中の老人だが。マスコミが連日報道し、この実験区画への批判が日に日に大きくなる最中、新たな問題が表沙汰になることは何があっても避けたかったはずだ」

「今であれば市警察に通報したと言うんですか?」

「時期だけじゃない。刑務官が囚人を殺したんだぞ。元々この実験区画が囚人の人権保護を目的に作られたのに、囚人の虐待死だと騒がれれば致命的だ。表沙汰には出来ない」

「随分物分かりがいいんですね」

 彼女の顔が、机の上の橙色のランプの灯りに照らされている。俺は彼女の言葉には答えず資料の上に手を置くと、それから彼女を見る。

「加藤と松井が関わった事件はこれだけじゃない。俺はここに残って他の資料に目を通しておく。お前は加藤と松井の携帯電話、メールの履歴に銀行口座、プライベートの関係性について当たってくれ」

「わたしを追い出すんですか?」

「今のお前は本筋を見失っている。歪んだ先入観で証拠を見れば必ず捜査方針を見誤る」

 ほら、行けよ。俺はそう言うと、他のファイルの山を自分の方へと引き寄せる。彼女はしばらく何か言いたげに俺を見ていたが、やがて黙って立ち上がると扉の方へと歩いていく。扉の前で俺とは背中合わせに立つ彼女の気配を感じるが、いつまでたっても退室を知らせるインターホンを押す音は聞こえない。

「七海圭吾です」

 彼女が低い声でつぶやくように言う。

「誰?」

「半年前、加藤に殺害された囚人の名前です。名前があるんです」

「それがどうかしたのか?」

 彼女はそれには答えない。しばらくして押し殺したような声で彼女は言う。

「ここでは人が死に過ぎています」

「そうだな」俺は答える。市役所の死亡届がどうとか言っていたな。

「十八人です。昨年だけで、十八人の囚人が死亡しています。そのどれもが市警察には通報されていません。時期は関係ありません。今回の事件が通報されたのは殺されたのが刑務官だからです。囚人の死は、ここでは無視されています」

 彼女の声はくぐもっている。扉の方を向いたまま、一言一言、噛みしめるようにしゃべっている。

「それで、お前はその十八件の不審死をすべて掘り起こして捜査しろと言うのか?」

 俺は静かにたずねるが、彼女は何も答えない。

「ここが異常であることに異論はないがな、その十八人の不審死と今回の事件に何か関係があるのか?」

 沈黙のあと、「いいえ」と彼女は絞り出すように答える。

「だったら、」俺は有無を言わせぬ口調で彼女に告げる。「だったら目の前の事件の捜査に集中しろ。お前が今考えるべきは刑務官殺しであって名前も知らない囚人の死じゃない」

 みしっと部屋の空気が音を立てる。

それから。 

そうですね。

彼女は一言だけそう言うと、インターホンを押す。

「特別捜査官水沼警部、出ます」

 俺の背中で扉が開く音、そして彼女が出ていき扉が閉まる音が聞こえる。

「水沼、桐子」

 俺はつぶやく。その名前をたしかめるように口にする。

 彼女には、この事件の捜査以外に別の目的があるようにも思える。一体何を隠している。お前は何をしようとしている?



 机の上の橙色のランプに照らされる中、俺は黙々とページをめくる。

 部屋の時計はすでに二十一時を回っている。

 さすがに疲れが回ってきたのか、俺はふうと息を吐きイスに背もたれる。ほとんどの資料には目を通し終えた。加藤が関わった囚人との暴力事件は半年前の事件以外にもいくつかあったが、少なくとも殺人の原因になるとは思えない小競り合いばかりだ。やはり、半年前のこの事件、七海圭吾が殺害された事件が今回の事件の始まりなのだろうか。

 何を馬鹿な。

 俺は自分に苛立つ。

 悪意は醸成され暴力に至るがそのきっかけが些細なことはめずらしくない。くだらない動機で起きた殺人事件なんて、これまでにいくらでも見てきたはずだろう。勝手に決めつけるな。物語を作り上げるな。容易い方に流されるな。俺は自分で自分に呆れ果てる。まったく、わずか一年現場を離れただけでこの体たらくだ。ちゃんと疑え。すべてを疑え。細部をおろそかにするな。悪意の萌芽を見逃すな。ピースに気付け。この半年前の事件だって、もっと気に留めるべきことはあるはずだ。もっと。

 その時、強烈な違和感が俺を襲う。

 ちょっと待て。

そもそもどうして懲罰房に運ばれたのが七海圭吾、一人だったんだ?

 俺は半年前の事件の資料をめくるが、なかなか欲しい答えは得られない。だが、七海圭吾の医療記録を呼んでいるうちに、看護師との面談記録の中にその答えを見つけ出す。そしてその以外な答えに俺は言葉を失う。まさか、まさか、まさか。関係があるのか?

 俺は立ち上がると扉の横のインターホンを押す。

「市警察東方警部補、出ます」



 はっはっはっ、中央管理棟への連絡通路を俺は走る。

 息が上がり心臓が早鐘を打つ。くそったれ、もっと運動をしておくんだった。だが俺の足は止まらない。止められない。俺はもう一度、あの資料を手にする必要がある。あそこには必ず答えがある。俺の知りたい答えは必ずあの中にある。中央管理棟に戻ると、受付で資料室の閲覧申請を出す。昨日と同じように再び俺は小さな部屋に案内され、指定した資料が目の前に置かれる。怪訝そうに俺を見ながら刑務官は部屋から出ていく。

俺の目の前には分厚いファイルがある。その表紙には極秘というハンコが押され、表紙をめくるとほぼ全面が黒塗りされた書類がびっしりと収められている。禁忌の書。この黒塗りの表面から悪意が滲み出ている。黒塗りのページを俺は黙々とめくる。考えろ。この黒塗りの資料の中に、俺の欲しい答えがあるはずなんだ。ちゃんと疑え。すべてを疑え。細部をおろそかにするな。悪意の萌芽を見逃すな。ピースに気付け。そして俺はちゃんと気付く。

「死亡、診断書?」

枠組みのある書類、それぞれの枠の欄には氏名、死亡した時、死因という項目が並んでいる。書き込まれた内容はすべて黒塗りだがこれは死亡診断書に違いない。そして俺はこの書式を見たことがある。これは市警察の検視局で作成される死亡診断書の書式。だが問題はそこじゃない。問題は、「どうして死亡診断書が二枚あるんだ?」

 俺はそうつぶやくとファイルの最初の方のページを開く。そこには先程見たのとは違う書式の死亡診断書らしき書類が収められている。いずれにせよ黒塗りだが、項目を見る限りこれは死亡診断書。どうして死亡診断書が二枚もあるんだ?

 俺はイスにぎっと背もたれると、顔の前で祈るように両手を合わせ、人差し指を唇に当てる。二枚の死亡診断書。作成された書類が時系列順にファイルに収められているのだとしたら、おかしなことになる。ファイルの後半にあった死亡診断書が市警察で作成された物であるなら、それは脱走から一カ月後に脱走犯の死体が用水路から揚げられた時に作成された診断書ということになる。それなのに、どうして死体が見つかるよりも前に、死亡診断書が作られているんだ?

 ぎしり。俺の頭の奥の方で何かがきしむ。じんわりと目の奥が熱くなり、足元の床が崩れ落ちていくのを感じる。ふわっと浮かび上がる感覚のあと、ずっしりと重力がのしかかり俺は目を覚ます。

 俺は理解する。

 まったく。

すべてがつながっていたというのか。

 何ておぞましい。

何てくだらない。

 俺は目を閉じ、それ以上考えるのをやめる。


そして語り部は沈黙し、新たな語り部が現われる。


【SEVEN】


「七海圭吾です」

 わたしの言葉に彼は、何が、と聞き返す。

「半年前、加藤に殺害された囚人の名前です。名前があるんです」

 彼はそれがどうかしたのかと淡々と言う。その言葉に失望しながら、わたしは押し殺したようにつぶやく。

「ここでは人が死に過ぎています」

「そうだな」彼は答える。わたしにはわかる。机の上にランプに照らされ、顔の半分に暗い影をまといその瞳だけが橙色に揺らめいているはずだ。

「十八人です。昨年だけで、十八人の囚人が死亡しています」

 わたしの言葉に、後ろで資料をめくる音が止まる。

「そのどれもが市警察には通報されていません。時期は関係ありません。今回の事件が通報されたのは殺されたのが刑務官だからです。囚人の死は、ここでは無視されています」

 東洲区重警備刑務所D区画。ずいぶん前からいろいろな噂があったが、わたしにとって

すべての始まりは半年前に起きたあの脱走事件だった。法務省直轄特定刑務所実験区画史上、最大にして最悪の事件。管理委員会はわたし達特別捜査官の中でも最も経験の豊かな捜査官を指名し、彼はD区画へと向かった。結局脱走事件に関して刑務所内での捜査を終え、囚人の捜索が市警察によって引き継がれたのち、D区画から引き揚げてきた同僚はまるで別人のように塞ぎ込んでいた。何かに怯え、いつも何かを考え込んでいるようなそぶりを見せ、わたし達と距離を取るようになった。そして脱走した囚人の死体が未未市警察によって発見された日、件の捜査官がわたしに漏らした言葉。

水沼、気をつけろ。あそこは普通じゃない。

 D区画で囚人が死に過ぎていると知ったのはそれから間もなくだった。脱走事件の担当捜査官は、わたしを含めた何人かの信頼出来る同僚に、D区画における囚人の死亡は、市役所には死亡届が提出されているにも関わらず、市警察には通報されていないことを告げた。通常、実験区画で問題が起こると報告が管理委員会に上げられ、管理委員会の指示で捜査官が現場に向かうことになっている。当然、D区画での囚人の死亡は管理委員会に報告がされているはずだが、わたし達特別捜査官にはただの一度も捜査命令が下されていない。これまでの三つの実験区画での重大事件では例外なくわたし達は駆り出されてきた。それなのに、D区画ではわたし達は遠ざけられている。これは一体どういうことなのだ。囚人が死んでいるにも関わらず、何事もなかったかのようにD区画は運営され続けている。何故、誰も市警察に通報しない。何故、管理委員会はわたし達に捜査を命じない。あそこでは、一体何が起きているんだ?

 脱走事件の担当捜査官は、それから間もなくしてわたし達の前から姿を消した。管理委員会からは何の説明もなかった。わたし達も彼については口にしないように努め、やがて忙しく仕事をこなすうちに、捜査に呼ばれることのないD区画のことなんてすっかりと忘れていたのだ。

 そんなある日の夜、わたしの携帯電話が鳴り、翌朝一番で未未市に向かうように告げられる。あの街の出身だからある程度土地勘があるだろうと踏んでの人選だろうが、わたしはそれほど深く考えずにわかりましたと返事し、刑務官の不審死を捜査することになる。朝五時に起き、髪の毛をとかすこともほどほどに着替えの詰まった鞄を手に始発の列車に飛び乗りそして、わたしはD区画を訪れた。

 D区画に入ってからは驚愕の連続だった。最初の異常事態は終日監房が施錠されないというD区画特有の刑務状況だった。日中、囚人の監房を施錠しないのは、他の実験区画でも同様の試みがなされており、実社会生活と近い環境を作るという点においては合理的だが、夜間帯は刑務官の勤務人数が限られるため、安全面と管理コストの両面から監房は施錠することが最適解とされている。監房の施錠を行わない場合、仮に監房エリアを監視する刑務官が二人しかいなければ、三カ所で囚人が監房から出た瞬間に、監房エリア全体が制御出来なくなる。現場を知らない馬鹿な役人が現場に押し付けたルールであるなら刑務所側に同情するが、あいにく他の実験区画を見る限り、管理委員会はそんな馬鹿な決定は下していない。これまでの首都圏の実験区画でも刑務所ごとにある程度のルールの差はあったが、それは刑務所の規模や刑務官の人員など刑務所ごとの事情を考慮して、刑務所側からの申請を管理委員会が承認することで実現している。とすれば、この監房を施錠しないというルールは、D区画側から管理委員会に申請し承認された結果だろう。管理委員会がそんな提案を許可したこと自体は馬鹿げた決定だとは思うが、囚人の人権を最大限に配慮するという方針の性格上、刑務所側に負担がかかっても囚人が恩恵を得られる提案は却下しづらいという背景があるのだろうか。

それにしてもD区画側は何故、そんな提案を管理委員会にしたのだろうか。明らかに安全面と管理コストの両面からD区画側の負担でしかないはずだ。つまり彼等には、それほどの負担を払ってでも、夜間、監房を施錠したくない理由があるのだろうか?

異常な刑務状況の二つ目は監視カメラだ。脱走事件のあと、D区画は改装、改築されたと聞いている。何故、そのタイミングで監視カメラを設置しなかったのだろうか。もちろん首都圏の他の実験区画でも囚人の人権に配慮し、囚人達の同意がとれない限り監視カメラの設置は許可されていない。ほとんどの実験区画で監房エリアに監視カメラはないが、管理エリアのような公共スペースには限定的に監視カメラが設置されている。密室の中で行われた刑務官の囚人への虐待こそがこの実験区画の設立理由である以上、囚人の安全確保の面からも監視カメラは刑務所側と囚人側の双方にメリットがあるはずだ。しかもD区画では脱走事件まで起きているのだ。それでもなお、頑なに監視カメラを設置しないことにも、わたしは何者かの意思の介在を疑わずにはいられない。

施錠されない監房に監視カメラの不在。あまりに異常な二つの刑務状況。一体誰の、どんな思惑があるのだろうか。

水沼、気をつけろ。あそこは普通じゃない。

 いなくなった同僚の言葉がひたひたと足音を立ててわたしに忍び寄る。何か、強大な意思と力が働くこの灰色のコンクリートの要塞の中で刑務官が殺害された。そしてそれをわたしは特別捜査官として、たった一人で対処しなければならない。そのことにわたしが恐怖を覚えなかったと言えば嘘になる。そんな中で市警察から応援の刑事が来るというのは数少ない朗報であった。かつて、たった三カ月だったが刑事になりたてのわたしに、殺人課刑事としての生き方を教えてくれた未未市警察捜査一課の刑事達。わたしは知っている。彼等はこの街の守護天使。彼等と一緒に捜査をすることが出来るのであれば、あるいは、わたしはこの捜査をやり遂げられる。わたしはそう期待したのだ。そう信じたのだ。そして迷えるわたしの前に、彼は遣わされた。

わたしは彼に訴える。このD区画をとりまく巨大な悪意を。それに押しつぶされる前に、悪意と戦うために、わたしは彼に警察官としての正義を必死に口にする。だが彼の声は、まったく感情の色を帯びないまま、わたしの背中に残酷に投げかけられる。

「それで、お前はその十八件の不審死をすべて掘り起こして捜査しろと言うのか?」

 彼の威圧感のある口調に、わたしは心臓を鷲掴みにされる。

「ここが異常であることに異論はないがな、その十八人の不審死と今回の事件に何か関係があるのか?」

 それは、ない。まだない。「いいえ、」わたしは絞り出すように答える。

「だったら、」彼は有無を言わせぬ口調でわたしに命じる。「だったら目の前の事件の捜査に集中しろ。お前が今考えるべきは刑務官殺しであって名前も知らない囚人の死じゃない」

 そんなことはわかっている。彼が言うことは正しい。だが正式な記録に残されていない囚人の死がここにはおびただしく横たわっている。その一つ一つの死と、今回の刑務官の死はわたしにとっては同じ一つの死だ。わたしは警察官としてどんな死も見過ごすことは出来ない、疎かには出来ない。わたしは淡い期待を込めて振り返る。彼はこちらに背を向けたまま微動だにしない。その広い背中に、わたしは十五歳の少女に立ち返る。あの頃に立ち返る。そしてわたしの感情は爆発する。

「人が死んでいるんです。それなのに、ここでは誰もそのことに気を留めていません」

「囚人が死んでも誰も気にはしない。俺もな」囚人の死には意味がないというのか? 囚人だから、罪を犯した人間だから、誰かに恨まれる存在だから、だから囚人が死んでも通報しない。囚人だから捜査もしない。死んだのが囚人だから。名前も知らない囚人、その死には意味がない。そういうことですか?「囚人が一人死んでも、世界から悪人が一人減るだけだ。誰も気にはしない」

 そんなことを彼が口にするなんて。そんな言葉を。失望の波が襲い、わたしは涙があふれそうになる。必死にそれを押し止めながら、わたしは彼の背中に伝える。

「どんな人間でも、誰かの父親で誰かの母親で誰かの子供で誰かの友人なんです。わたしは、わたし達は刑事です。なかったことにしていいはずがないんです。東方さん。わたし達は捜査をするべきです」

 だが、祈りにも似たわたしの訴えは彼には届かない。彼は顔だけこちらをちらりと向けると、うっすらと笑みを浮かべたまま首を振る。

「駄目だ」

 その言葉にわたしは悟る。わたしは理解する。わたしの知っている東方日明はもう死んだのだ。一年前のあの事件、仲間の堕落を目にした時、きっとあの時に殺人課刑事の東方日明は死んだのだ。彼は、もう。

 それから彼は再び資料に視線を落とすと、わたしに言う。

「どうした。捜査に行かないのか?」

 その声は静かで、穏やかで、甘いささやきのような響きにわたしは喉元を掴まれるような感覚に襲われる。踵を返し目の前に立ちふさがる扉の前で、必死に息を整える。ぶるぶると肩を震わせたあと、わたしは大きく息を吐き、それから絞り出すように一言だけ口にする。「そうですね」

わたしはおもむろにインターホンを押す。

「特別捜査官水沼警部、出ます」



 なんて。

 思春期か、わたしは。

 ごん、と音を立ててバスの窓に頭を置いたわたしは、ガラスに写る自分の横顔をぼんやりと眺めながらため息をつく。市街地に向かうバスに揺られながら、わたしは窓の外を流れる街灯の灯りをぼんやりと眺める。「東方、日明」わたしは自分の顔を見つめながらそうつぶやく。童顔を少しでも誤魔化すたびに選んだ古風な黒縁眼鏡でどんなに背伸びしたところで自分は自分でしかないのと同様に、彼だって東方日明に違いない。理想の彼を勝手に期待し勝手に裏切られたと落胆する。何て身勝手なんだろうとわたしは自分で自分に呆れてしまう。駄目だな、彼の前に立つとわたしはどうしても感情的になってしまう。きっとわたしは彼に甘えている。十五歳の少女に戻ってしまう。これじゃあ本当に父親に反抗する少女だ。だがそれにしても。

 わたしは相貌を引き締めると、猫の目をした男のことを考える。九一楼。彼はどうして東方日明をこの事件に巻き込んだのだろう。東方日明が推測した通り、D区画側が彼をこの事件の担当に指名したことは事実だろう。彼の性格、彼が置かれている状況を考えれば、囚人が犯人だというシナリオに都合よく乗っかってくれる刑事としては最適だ。だがいくらそんな青写真を描いたとしても、法務省側、いや、九一楼がそれを承諾しない限り実現しない。しかも九一楼のことだ、事件の性急な解決が望まれる場面で、一年近くまともに捜査をしていない刑事をD区画側が提案してくれば、当然その裏に不埒な動機が隠れていることはお見通しだったはずだ。法務省としては囚人が犯人であるというシナリオは望んでいない。それなのに何故、D区画側の思惑に加担するような決定をしたのだろうか。早期の事件解決が必須の中、それでもあえてD区画側の提案に乗ったのは、彼が東方日明という稀有な刑事のことを知っており、彼の殺人課刑事としての能力を高く評価しており、彼ならと期待したのだろうか。あの二人には過去に接点でもあったのだろうか。

「何を企んでいるの、九局長、」

 わたしが小さくつぶやくと、その息で窓ガラスが一瞬白く曇る。

 バスが終点の未未市中央駅のバス停に停まる。近道をしようと入った裏道には、いかがわしい露天商が路上に並んでいる。わたしは器用にそれを避けながら歩くが、古本を並べているワゴンの前で足を止める。「安くしとくよ」歯の抜けた老人の背後で、ビルのネオンがちかちかと点滅している。ワゴンに並べられた文庫本の中の一冊に、わたしはふと目を惹かれる。ヒロ・イシグロの『ボクサア』。表紙の擦り切れた文庫本を手にしたわたしは、老人に代金を支払うと本を片手に歩き出す。この本を読めば、少しは彼のことを理解出来るかもしれない、何てちょっとだけ期待して。ほんと、思春期か、わたしは。

 雨の上がった濡れた道を歩く。その先に、レンガ造りの古い建物が見えてくる。さあ、仕事だ。


1994/4/4 Monday


「首都警察から本日付けで着任しました。水沼桐子巡査部長です。本日より三カ月間、お世話になります。よろしくお願いいたします」

 わたしは深々と頭を下げる。途端にきちんと閉じられていなかった背中のリュックからどさどさと中身が散らばり、わたしは慌ててそれを拾い集める。これだから本当に。ただでさえ真っ黒なおかっぱ頭にパンツスーツの小柄なわたしは未成年に間違われることもめずらしくない。最後にノートとリップを鞄にねじ込むとわたしは姿勢を正す。目が合うと銀縁眼鏡のその刑事は苦笑し、わたしは背中一杯に嫌な汗をかく。首都警察から来た上級一種公務員採用試験合格のお嬢様がこの国で最も過酷な捜査現場で知られる未未市警察捜査一課に来るなんて一体どんな気の迷いなのか、そう思われているに違いない。凶悪犯罪があとを絶たないこの街に、世間知らずの少女が研修に来たならわたしでも本気かと問いただす。

「捜査一課を案内しよう。まずは刑事部屋からだ」

 さっさと歩き出した刑事の背中を追う。刑事部屋。そこら中で電話が鳴り響き、制服警官が容疑者を取調室へと連行し、あちこちで怒声が響いている。まるで野戦病院のような刑事部屋を、刑事はわたしがちゃんと着いてきているのかたしかめもせずに歩いていく。どうして殺人課刑事という人種は、こうも歩くのが早いのだろうか。わたしはメモを片手に必死に追いかける。こういう時、足の短さは致命的な欠点だ。本当に嫌になる。

「彼等が電話交換手。捜査一課への通報を取り次ぎ、俺達に捜査を割り振る。捜査一課には現在四つの班がある。こいつは杉本、大島班の刑事だ」

 背の高いがっちりとした男が「杉本だ」と会釈し、わたしは深々と頭を下げる。

「あっちにいるのが同じく大島班の永野刑事と鈴下刑事。斉藤班と木山班は、今は捜査に出ていて不在だがどうせすぐ会える。ちなみにタバコを吸うか?」

 唐突な質問。わたしがいいえと首を振ると刑事は俺もだ、と答える。

「だがあいにく俺の相棒はタバコを吸う。ここは政府直轄都市だぜ。建前上、公的施設内は全館禁煙のはずだが、やめる気はないらしい。だから慣れろ。お前に気を使って禁煙を心がけるような奴じゃない。お前がタバコの煙にアレルギーがあって心臓発作を起こしても、咥えタバコで心臓マッサージをするような男だ」

 それは素敵な性格だ。

「あいつは今、取調室にいる。こっちだ」

 そう言うと、刑事は刑事部屋の横の扉を開ける。そこには廊下に沿ってずらりと取調室が並んでいる。

「最初に言っておくが、あいつの第一印象は最悪だ。殺人課刑事としては優秀だが人間としては絶望的だ。アドバイスしよう、必要以上に関わるな。あいつとは絡むだけ損をする」

「褒め言葉に聞こえませんが」

「褒めてない。あいつには褒めるところがない」

 そう言ったところで、一番奥の取調室の扉が乱暴に開いて一人の男が現れる。背はそれほど高くないが分厚い胸板と黒々とした隈を双眸に浮かべた目つきの悪い男。

「落ちたぞ」

 わたし達の方を見るなり男は言う。刑事はふむ、と腕時計を見て答える。「早いな」

「四分十二、新記録だ。俺の勝ちだ、払えよ」

 やれやれと刑事は頭を振ると、男の方へと歩いていき財布から紙幣を一枚抜き取って手渡す。慌てて刑事を追いかけてきたわたしに気付いて男は怪訝そうにたずねる。

「いつから子守りのバイトを?」

「話しただろう? 今日付けで首都警から研修生が来るって。覚えてないのかよ」

「いくつだ、十五歳か?」

「彼女はキャリアの研修生だぞ」

 彼はわたしを品定めするように頭の先から足の先までじろじろと見る。不快な視線。最後に名札を覗き込むとわたしの名前を口にする。

「ミズヌマ、キリコ、」

「トウコです」

 わたしは反射的に訂正するが、男はまるで悪夢を追い払うように頭を振るとわたしの両肩に手を置いて、どっちでもいい、と言い放つ。いくはない。わたしの名前だぞ。そんなこちらの気持ちなど無視して、彼はわたしの両肩に手を置いたまま神妙な面持ちで言う。

「いいかお嬢ちゃん。悪いことは言わない、ここはやめておけ。苦労して一流大学を卒業して首都警察に配属されたのに、こんな掃き溜めみたいな職場でセクハラを受けるつもりか。金に困っているなら駅前で下着でも売ったらどうだ。女子校生なら高値で売れる」

 父はかつてわたしにこう言った。後先考えずに口走るのがお前の悪い癖だと。かっとした時はまず口を閉じろ。一度、冷静になって、それからゆっくりと口を開け。わたしはそんな父を尊敬しているし父の教えに従順であろうと日々努めている。だからこの時もわたしはちゃんと口を閉じていた。ただ行き場を失った不快感の発露として、右手はわたしの意に反して彼の頬を強く張ったのだが。

 派手な音が響き、頬を張られた男は呆気にとられたようにわたしを見る。

 やってしまった。

 全身の血液が沸騰する。真っ赤な顔で思わず逃げ出すように踵を返すとわたしは歩き出す。「出会って三十秒で嫌われたな。こっちも新記録だ」刑事が笑うのが背中で聞こえるが、わたしは足を止めることが出来ない。足早に追いついてきた刑事は、うれしそうにわたしの肩を叩く。

「だから言っただろう。あいつには絡むだけ損をする」

 わたしは真っ赤な顔をしたまま立ち止まると、刑事に向かって深々と頭を下げる。

「すいませんでした。でも、あれは、」

「気にするな。俺もすっとした」

 え、顔を上げるのと同時に、取調室の前に立ち尽くしたままの男が大声を上げる。

「聞こえているぞ」

 ほんと、最悪の出会い。

 だが、最悪の出会いが最悪の物語になるとは限らない。


1996/3/16 Saturday 捜査第四日目


「水沼警部」

 名前を呼ぶ声にはっとしてわたしは顔を上げる。いつの間にか眠っていたらしい。机に突っ伏したままで固まってしまった首と背中が悲鳴を上げる中、わたしは声をした方を振り返る。背後の扉が半分ほど開き、制服警官が顔を覗かせている。

「すいません。ノックをしたんですがお返事がなかったので」

「お早うございます。今、何時ですか?」わたしは何度か強く瞬きをしながらたずねる。

「八時十五分です。課長がお呼びです」

「捜査一課長が?」

「すぐに課長室に出頭するようにとのことです。東方刑事もお待ちです」

 何かあったのか。

 わたしは跳ね起きると机の上に散らばった資料をかき集め鞄に押し込み、ありがとうございますと頭を下げるなり取調室から飛び出して走り出す。昨夜遅く、未未市警察の刑事部屋に戻り、空いていた取調室に資料を持ち込んで読み始めたものの、連日の捜査の疲れと緊張で寝落ちしてしまっていたらしい。乱れた髪の毛を足早に歩きながら手でなでつける。寝癖なんて、ほんと、最悪。寝る前にシャワーを浴びていただけましだけど。刑事部屋ではすでに刑事達が忙しそうに働いている。わたしは刑事達に挨拶をしながら刑事部屋を突っ切り、課長室の扉の前で立ち止まり大きく深呼吸をしてから扉をノックする。

「水沼警部です」

「入れ」威圧感のある鋭い声がして、わたしは扉を開く。

部屋には目の下に黒々とした分厚い隈をたたえる男が課長の机の前に立っている。いつD区画から戻ったのだろうか。わたしの姿に、捜査一課長は揃ったな、と低い声で言う。わたしは彼に何かあったんですかと小声でたずねる。むすっとした表情でこちらを見た彼の相貌の下には、いつもに増して分厚い隈が浮かんでいる。眠っていないのか。「涎を垂らして寝ていたお前のために親切な俺がもう一度説明してやるとだな、」わたしは思わず口元を拳の背で拭う。「例のノートの解析が終わった」ノート?「加藤刑務官の自宅から見つかったノートですか?」彼はああ、と机の上に広げられていた資料の一部をわたしに手渡す。数字や表が並んでいるが、あいにく書かれている内容はさっぱりわからない。「結局、何だったんですかこのノート」「ギャンブルのオッズ表だ」「ギャンブル?」「こっちのアルファベット、表に二つずつのアルファベットの組み合わせがいくつか並んでいるだろう? このアルファベットの組み合わせは、すべてD区画に勤務する刑務官の氏名のイニシャルと一致している。こちらの数字は金額だろう。つまり、」彼はふんと鼻を鳴らすと吐き捨てるように言う。「D区画では刑務官達による違法賭博が横行している。加藤はその胴元をやっていたようだ」

まさか。政府機関で違法賭博が行われているのか? だがこれでわたしの疑問の一つは説明がつく。わたしはごそごそと鞄をまさぐると、皺だらけのコピー用紙を何枚か机の上に広げる。

「加藤刑務官と松井刑務官両者の銀行口座の動きです。こちらを見て下さい。二人の口座には給料以外に不定期ですが月に二度ほど入金があります。ATMからの現金振り込みで出所は不明ですが、二人には副収入があったようです」

 一致するな、課長は不機嫌そうに言う。政府機関で組織ぐるみの違法賭博が行われていたとなると、事態がややこしくなるのは目に見えている。公式な捜査に切り替えた途端、彼がまた厄介ごとを持ち込んだ、とでも思っているのだろうか。

「この違法賭博という彼等にとっては必死に守らなければならない秘密を考えると、あの監房エリアにあった新聞も説明がつきます。捜査が刑務官の方を向けば、当然、動機を探るために加藤と他の刑務官の関係性が洗われることになります。そうなれば違法賭博が明るみになるのは時間の問題でしょうからね。彼等としては何としても捜査の目を囚人に向ける必要があった」

それには納得だ。単に仲間意識が高いだけで市警察の捜査妨害をしたと考えるよりは、余程理にかなっている。だが、

「政府機関内における違法賭博の横行については、本来、われわれの捜査の範疇を超えている。特定刑務所実験区画管理委員会に一任するべき事態だ。われわれが介入するか否かの判断基準は、今回の事件と直接関係性が認められるかどうかだが、その点はどうなんだ?」

「金銭のもつれが殺人の動機になるのは別にめずらしいことじゃないでしょうがね、」そう言うと彼はしばし考え込む素振りを見せたあと、わたし達に向かって言う。

「最初から整理しましょう。まず事実。夜勤帯にD区画勤務の刑務官が殺害されました。背部を複数回刺されており事故の線は却下、明確な殺人です。地下に下りた二人の刑務官が大げんかをして一方が一方を刺したなんて単純な結論でない限り、犯人は監房エリアから管理エリアに向かったことになります。夜間の監房エリアは不特定多数の囚人が自由に出入りしており、監視は機能していません。特別監房の刑務官を含め、誰であれ犯行は可能だったと考えるべきですが、刑務官が犯人であるならば、勤務が終わるまで待たずに夜間に殺人を犯すだけの理由が必要です。一方、囚人が犯人である場合、たしかに自由に監房を出入り出来るなら、被害者が単独行動をしている夜間の管理エリアを犯行現場に選ぶのは理にかなっていますが、普段から武器を装備している刑務官を囚人がナイフ一本で襲うのは無理があります」

「だが、実際には被害者は武器を装備していなかった」

「はい。ですから一番現実的なシナリオは、自らの意思で装備品を外した被害者と囚人が密会中に、ナイフを所持していた囚人に殺害されたというものです。では刑務官と囚人が夜中に密会する理由とは何でしょうか」

 彼は両手を腰に当て首を振ると、それから唇を鳴らす。

「松井と加藤の銀行口座が同じように動いているのなら松井も賭博の胴元と考えられます。加藤が松井を出し抜こうとして囚人と接触した可能性もあり得ますが、市警察の捜査妨害をしてまで守りたい秘密を、囚人と共有するのはリスクが高過ぎます。囚人との密会に違法賭博が関与している可能性はまずあり得ません」

「違法賭博の秘密がばれて、囚人に脅されていたとしたらどうですか?」わたしの問いに彼は首を振る。

「そちらも考えにくい。自分を脅す囚人と密会するのに装備品を外すとは思えないし、何よりも違法賭博の秘密を守りたいのなら、加藤一人ではなく松井も一緒に会うはずだ」

 それはそうだろう。

「結論から言うと、違法賭博と殺人事件とは無関係ということか」課長の口ぶりはどこかほっとしたようにも聞こえる。無関係であれば、違法賭博にわたし達が関わる必要はなくなる。

「違法賭博が関係ないのであれば、加藤と犯人は何故、夜中に密会していたのでしょうか」彼はそれから部屋の隅にあるイスにどっかりと腰をおろす。顔の前で祈るように両手を合わせ、立てた親指に顎を乗せると人差し指を唇に当ててぶつぶつと何かをつぶやいている。見慣れていないのか課長はその様子に怪訝そうに眉をひそめているが、わたしは知っている。彼は今、知恵の王宮にいる。そしてそこに立つ彼には、わたし達の見えない景色が見えている。

しばらくして彼は顔を上げると、課長の方に合わせた人差し指を向ける。「動機。動機は重要です。過去一年間、加藤の名前があり医務室が関与する事件・事故報告書の中で気になった事件が二つありました」二つ? 囚人に刺された事件以外にも何か見つけたのか。「半年前、加藤と松井の二人は囚人を懲罰房に連行中に襲われ、加藤が囚人に刺されるという事件が起きました。その際に警棒で対抗し二人は囚人を殺害しています。殺害された囚人の名前は七海圭吾。報告書によると監房に隠し持っていたナイフが見つかり懲罰房に移送中だったとされていますが、額面通りには受け取れません」昨夜もそんなことを言っていた。ナイフがベッドから見つかったはずがないと。「七海圭吾の事件は、あの脱走事件の二週間後に起きています。脱走事件の際には一度、監房エリアはくまなく捜査されています。つまり、二週間前には一度、監房内に武器がないことは確認されています。いまだ脱走事件が解決されずD区画内の厳戒態勢が続く中、監房内に武器を、しかも刑務官に簡単に発見されるような場所に新たに隠し持っていたとは思えません」

「お前は懲罰房への移送自体が正当ではなかったと言うのか?」

「そもそも脱走事件が解決するまで、管理エリアへの立ち入りや面会も禁止されていたんです。とても新たに武器を作れる環境があったとは思えません。懲罰房への移送が正当でなかったのだとしたら、二人が七海に襲われたという話自体が怪しくなります。そしてこの報告書には、もう一つ大きな違和感があります」彼は身を乗り出すと唇を鳴らす。「D区画の監房は通常二人部屋です。監房内から凶器が発見されれば、普通は連帯責任です。どちらが隠したかわかりませんからね。では、懲罰房に連行されたのは何故、七海圭吾一人だったのか」

 ああ、そうか。完全に見逃していた。彼はそこに引っかかっていたのか。

「理由は意外なところから手に入れることが出来ました。七海圭吾の診療記録です。看護師との面談記録に、監房を一人で使用していると気が滅入ると話していました。そしてここからが面白いんですがね、」そう言うと、彼はにいと唇の端を歪める。「七海圭吾の話では、一人で監房を使うようになったのは、彼が亡くなる二週間前からなんですよ」

 二週間前。ぶるっ。わたしは思わず体を震わす。まさか、まさかその同房だった囚人は、「まさか、七海圭吾と同房だったのは、斉藤雅文ですか?」

わたしの言葉に、課長も思わず、何だと、と聞き返す。「脱走犯の斉藤雅文が同房だったのか?」

「そうなんです。七海圭吾は脱走犯、斉藤雅文と同房でした。そしてもう一つ奇妙なことがありました。われわれが開示請求を出し、許可が下りたのは二十四冊のファイルのはずでしたが、実際に開示されたのは二十三冊のファイルでした。単純ミスだった可能性もありますが、刑務官にも確認したところ、指示通りすべてのファイルを用意したとのことでした。ミスでないのだとすると、こう考えるべきです。その一冊は欠番で、D区画の機密書類保管庫に置かれていない資料。法務省で直接厳重に管理されている資料ではないか。そんな資料が存在するとすれば、あの、D区画の存在を揺るがした脱走事件の報告書しか考えられません」だから一冊足りなかったのか。「そして脱走事件の資料が俺達の申請した二十四冊の中に含まれているということは、あの脱走事件にも加藤が関わっていたということになります。念のため、市警察に保管されている脱走事件の捜査資料を確認しました。当時の事情聴取記録を読むと、たしかに脱走事件が起きた夜勤帯の刑務官の中に加藤と松井の名前がありました。斉藤雅文の脱走事件、そしてその二週間後に起きた斉藤と同房だった七海圭吾の殺害事件、その両方の事件に加藤と松井の二人が関与しているのだとしたら、偶然にしては出来過ぎています」

「それが何だというのだ?」課長はイスにもたれかかると眉間にしわを寄せる。「その二つの事件、たしかに同じ房にいた二人の囚人が問題を起こし、その両方に被害者が関与していた。だがそれ自体に大きな問題があるとは思わん」

「問題は、あの脱走事件がまだ解決していないということですよ」

 ああ? 課長が明らかにそれまでとは違うトーンの声を上げる。身を乗り出すと彼を睨みつけて言う。「お前、何を言っているんだ? あの脱走事件について、市警察の捜査はすでに終わり結論が出ている」

「ええ。市警察の出したその結論が、間違いだと言っているんです」

 ばん。課長が思いっきり机の天板を叩き、わたしはびくっと背筋が延びる。「口に気をつけろ。あの脱走事件は法務省の歴史上、最大汚点の一つも言える事件だぞ。貴様は一度解決されたその事件を、もう一度蒸し返そうと言うのか」

「市警察の捜査自体に問題はありませんよ。脱走事件としては手順通りに捜査がなされ、脱走犯の死体が見つかり事件は解決しています。ですが、そもそも前提が間違っていたとしたら、どんなに正しい捜査をしても無意味です」

「前提、だと?」

「あの事件がそもそも脱走事件ではないとしたら?」

 ぞくり。わたしの首筋を冷たい汗がつたう。何を、言っている?

 彼はのっそりと立ち上がるとゆっくりと部屋の中を歩き回る。部屋の真ん中に立つわたしの周囲を回るように、ゆっくりと歩いていく。

「現存する脱走事件に関する資料は二種類です。まずは市警察が保管している捜査資料、そしてそれらを含めたすべての関係書類をまとめた法務省の保管するファイルです。後者は黒塗りの複製しか読むことが出来ません。ですが、一見、何も情報がないと思われるその黒塗りのファイルからもわかることがあります」

 あの黒塗りのファイルから、わかること?

「市警察の捜査資料によると、あの脱走事件の時系列はこうです。朝の点呼の際、一人の囚人が監房から行方不明となっていた。同房の囚人は寝ていて気付かなかったと証言。監房は夜間でも施錠されないため、この時点ではD区画内のどこかにいるだろうと捜索が開始されましたが結局発見することが出来ませんでした。事件発覚から十二時間後、ボイラー室の壁が破られていることが発覚し刑務所側は管理委員会に報告、その後、速やかに市警察に通報されました」そうだな、と課長がうなずく。「問題はその空白の十二時間です。以前にも囚人がD区画内で身を隠していた事件があったため、同様の事態を疑い捜索していたというのが法務省側の説明でしたが、それではあの黒塗りの報告書と矛盾しています」あんな黒塗りの報告書から一体何がわかったというのか。

「あのファイル、斉藤雅文の死亡診断書が、二枚あるんです」

死亡診断書?

「たしかに書類はほとんどが黒塗りになっていますが、あくまで記入された内容が黒塗りにされているだけで、書類の書式はわかります。そしてファイルの中には、二枚の死亡診断書がありました。一枚は俺達が良く知る市警察の監察医務医院で使用されている書式、そしてもう一枚は今回の情報開示で見ることが出来た七海圭吾の死亡診断書と同じ書式の物でした。つまり、東洲区重警備刑務所の医務室で作成された物です」

 どういうこと? わたしは混乱する。

「監察医務医院の死亡診断書は、東方さんが斉藤雅文の死体を発見した時のものですよね?」わたしの問いに、犬の散歩の老人だと律儀に訂正するがそんなことはどうでもいい。「ですが脱走事件で死んだのは斉藤雅文一人だけです。それがどうして、刑務所内医務室の死亡診断書があるんですか?」

「死んだのが一人だけならこう考えるしかない。斉藤雅文は二度死んだ」

 二度、死んだ? わたしを強烈な不快感が襲う。嫌な感じ。とんでもない禁忌に足を踏み入れたかのような嫌な感覚が襲ってくる。この先は聞いてはいけないのではないか、そんな予感の中、わたしは彼の言葉に耳を傾ける。

「考えるべきは、この死亡診断書は誰が、いつ、何のために作成したかだ」

「誰がって、刑務所内医務室で発行されているんですよね」わたしの脳裏に、あのカーリーヘアの老眼鏡の白衣の女性の姿が浮かぶ。

「いや、残念ながらこれは誰かが偽造した物だ。医者が作成した正式な書類じゃない」

「何故、そう言い切れる?」課長が苛つくようにたずねる。

「死亡診断書と一緒にあるべき物がファイルには収められていなかったからです」

 あるべき物?

「診療記録、医者のカルテです。死亡診断書は死亡した日時、場所、そして死因が記録された行政書類に過ぎません。死亡の診断に至る経過は医師カルテに記録されます。七海圭吾が殺害された事件ファイルには死亡診断書と診療記録とが一緒に綴じられており、監察医務医院が作成した方の二枚目の死亡診断書にも、検死記録が一緒に綴じられていました。資料作成のルールが一定であるならば、斉藤雅文の一枚目の死亡診断書に診療記録がついていないのは不自然です」

「それだけの理由で、その死亡診断書が偽造だと言い切れるものか」

「考えてもみて下さい。もし仮に脱走事件の捜査前に医者が死亡診断書を作成したのであれば、少なくとも作成しなければならないような事態が生じたのであればそれを市警察に報告しないと思いますか?」

 たしかに彼女には市警察と対立し裁判にかけられた過去がある。市警察の捜査に協力的ではない可能性は否定出来ないが、あれだけ脱走事件がおおごとになってなお、そんな重大な情報を黙っていたとも思えない。

「刑務所に確認したところ、D区画で囚人の死体が見つかった場合、医務室から医者がD区画までやって来て死亡を確認します。死亡診断書がないと政府機関であるD区画から死体を運び出すことが出来ない都合上、その場で死亡診断書を作成し、死体と一緒にD区画から運び出す仕組みになっています。そのためD区画には刑務所内の書式の未記入の死亡診断書が保管されており、刑務官なら偽造は容易です」 

ここまではたしかに筋は通っている。だが。

「では次に、いつ偽造されたかです。当然、脱走事件の捜査が始まったあと死亡診断書を偽造する理由はありません。つまり、市警察に通報されるまでの空白の十二時間で作成された物です。そして、最後、何のために、ですが」

「あの、ちょっと待って下さい」わたしは思わず口を挟む。「一ついいですか。それが医者によって正式に作成された物でないとすると、単純な話かもしれません。ご存知の通りD区画では囚人同士の暴力事件や不審死が数多く発生しています。夜間も自由に監房を出入り出来る状況であるならば、朝、囚人が行方不明になっていると発覚した時、どこかに身を隠しているよりもどこかで殺されている、そう考える方が自然です。囚人の所在がわからなくなったにもかかわらず十二時間も手を打たないというのはやはり不自然です。刑務官達は囚人がもうすでに死んでいると決めつけていた。しかも囚人の不審死自体は日常的なことでありさほど大きな問題ではない。だからこそ管理委員会への報告もせず呑気に死体を探していたのではないでしょうか。市警察にはそもそも通報する気はなかったはずですが、壁が破られていることが発覚し、慌てて通報してきた、それが真相の気がします。そして斉藤雅文が死んでいると決めつけていたからこそ、死亡診断書が前もって用意されていたのではないでしょうか?」

「死体を見つける前に刑務官が作成したと言うのか?」課長がわたしにたずねる。

「当然、医者以外が死亡診断書を作成することは違法ですが、通常、病院で作成される死亡診断書でも発行元の病院名や住所の記入欄は、住所が書かれたハンコで代用されることがあります。刑務官がD区画の名前や住所を時間短縮で前もって書いていたとしても問題があるとは思えません。そして脱走が発覚したあと不要になった死亡診断書が破棄されずファイルに残ってしまった、それだけのことではありませんか?」

「当然、俺もその線は考えたが、」話の腰を折られて若干むっとした表情で彼は言う。「却下だ」

「何故です?」

「死亡診断書の【死因】の欄が黒塗りにされていたからだ」【死因】の欄?「死亡診断書には死亡した日時のあと、【死因】の欄があり、それに続いて【その原因】、そしてさらに【上記の原因】と欄が続く。【その原因】や【上記の原因】は空欄のままだが、【死因】の欄だけは黒塗りがされている。つまり【死因】の欄は、空欄ではなく何かしらが書かれていたということだ。だがこれが勝手に斉藤雅文の死を決めつけて作られた物であれば、【死因】の欄が埋まるはずがない。撲殺と書いたあと絞殺死体が見つかれば無駄になるからな。【死因】が書かれているということは、死亡診断書が作成された時点で、斉藤雅文の死体が目の前にあった、ということだ」

 あのファイルの中にあった黒塗りの死亡診断書。たったそれだけで、たったそれだけの証拠で彼は、特定刑務所実験区画史上最大とも言える事件の真相を描いてみせる。脱走事件ではなく殺人事件。斉藤雅文は脱走事件の捜査が始まる前に、一度死亡していた。つまり、斉藤雅文は、二度死んだのだと。

 もちろん今、手元にあの黒塗りのファイルがあるわけではないし、実際、黒塗りが外れれば【死因】の欄も実は空白だということは十分あり得る話だ。これは彼の妄想に過ぎないのかもしれない。それなのに、わたしは彼の言葉の引力に抗えなくなっている。だがこのまま彼の言葉をすんなりと受け入れていいのか。考えろ。あらゆる可能性を考えろ。

「あの、一つだけいいですか?」

「さっきもそう言った」

「じゃあ、もう一ついいですか? こういう可能性はありませんか。刑務所にとって脱走事件はあまりにも大きな事件です。それを隠すために、行方不明になった斉藤雅文を死亡したと処理しようとしたんじゃないでしょうか?」

「却下だ。脱走事件をなかったことにするのは不可能だ。たしかに刑務所は巨大な箱、密室だ。密室で起こる限り、どんな事態も隠蔽することは可能だろうが、脱走事件だけは隠蔽することは不可能だ」

事件が密室の外に出るから。自分達の手の届かないところに出てしまった事件をなかったことにすることは出来ない。だからこそ。「途中でそのことに気付いて通報してきた。そして不要になった死亡診断書が残されたんじゃないでしょうか?」

わたしの言葉をしかし彼はあっさりと却下する。

「いいか。脱走事件が発生した場合、それを隠蔽することは最大の悪手だ。好むと好まざるに関わらず、脱走事件に対する最良の手は市警察に直ちに協力を求め、事件が表沙汰になる前に人海戦術で速やかに囚人を逮捕することだ。事実、報告を受けた管理委員会はすぐに市警察に通報している。およそ刑務所で働く人間ならそれが常識だ。脱走事件を隠蔽するという発想は通常あり得ない」

 通常あり得ないことは、やっぱりあり得ない。

 それは研修時代に、彼からことあるごとに言われ続けた言葉だ。だが、脱走事件を隠蔽することがあり得ないのと同様に、斉藤雅文の殺人事件を脱走事件として偽造するなんてこともまたあり得ないのではないだろうか。事実、市警察を巻き込み世間を巻き込みあれだけの騒動になった、それが予想出来なかったはずがない。架空の脱走事件を作ることこそ荒唐無稽じゃないだろうか。

「駄目だ」それまで黙って聞いていた課長がしかめ面で首を振る。「お前の話には無理がある。実際に斉藤雅文が死亡したとして、どうしてそれを隠す必要がある? 水沼の言うことが正しければ、あそこでは囚人の不審死はめずらしい話ではないのだろう。どうして斉藤雅文の死を、脱走事件に仕立て上げる必要があるというんだ?」

「まさにそこが、この話の最も重要な点ですよ」

 彼はそう言うと、再び顔の前で祈るように両手を合わせる。

「彼等が望んで脱走事件をでっち上げたはずがありません。だとすると、そうせざるを得なかったと考えるべきです。課長、脱走事件が起きた時、マスコミへのリークがあったことを覚えていますか?」

 ああ、と課長が渋い顔でうなずく。一人蚊帳の外のわたしは、何のことですかと彼にたずねる。

「脱走事件を最初に報じたのは東洲区の地方局のチャンネル13だった。ドラマの再放送中にテロップで、東洲区刑務所から脱走事件と流したのが最初だったが、市警察に脱走事件が通報された時刻よりも早かったため、刑務所側の誰かがマスコミにリークしたと当時問題になったんだ。通報までに時間がかかり捜査が出遅れたこともあり、最初から市警察の刑務所側への不信感は相当なものだった」

 今でも市警察とD区画との関係性がこじれていると聞くが、そんな背景があったのか。

「もう一度時系列を整理するとこうなります。斉藤雅文が行方不明になる。斉藤雅文の死亡診断書が作成される。誰かがマスコミに脱走事件だとリークする。そして市警察に通報が入り脱走事件の捜査が始まる。つまりこうは考えられませんか? 脱走事件だと誰かがリークしたため、そのまま脱走事件だということにせざるを得なくなった」

「馬鹿馬鹿しい。どうしてそうなるんだ? 誰かがマスコミにリークしたとしても誤報だった、囚人の死亡事件だと否定すれば終わりだろう? どうしてそれにのって実際に脱走事件をでっち上げることになるんだ?」

 課長の指摘はもっともだろう。誰かのリークにどうして踊らされる必要がある?

「問題はマスコミにリークしたのが誰だということです。死亡診断書まで作った刑務官側のはずがありません。だとするとリークしたのは囚人です。では何故、その囚人は斉藤雅文の死を脱走事件と誤解したのでしょうか。決まっています。そう聞かされたからです。誰から? もちろん刑務官からです。刑務官から斉藤雅文は脱走したと説明を受けたんです。そして誤解した。重要なのはここです。何故、刑務官は囚人達に、斉藤雅文が脱走したと説明したのでしょうか?」

 刑務官が囚人に斉藤雅文が脱走したと説明した理由? あそこでは囚人の不審死がめずらしくないのに、何故、斉藤雅文が死んだことを告げることが出来なかったのか?

「彼等は斉藤雅文の死を隠す必要があったんですよ。その理由は七海圭吾の診療記録を見ればわかります。七海圭吾は脱走事件から二週間後、加藤と松井によって撲殺されています。彼の全身には無数の痣があり、当初、刑務官側の過剰防衛の疑いが持たれましたが、内部調査で七海圭吾の体中の痣の過去の診療記録が確認され、加藤と松井は正当防衛と判断されました。七海圭吾は殺害されるよりも前に、全身の打撲で医務室を受診していたんです。では、七海圭吾は一体いつ受傷したのか、」そこで言葉を切ると、突然彼はわたしの方を向く。「どうなんだ、研修生?」

思わずわたしはえっと声を上げる。彼は自分が口にしたことに気付いていないらしい。まるで二年前に戻ったかのような錯覚の中、わたしは鼻先までずり下がった眼鏡を押し上げ、それから答える。「脱走事件の日、ですか?」

「そう。七海圭吾は斉藤雅文が消えた日に、医務室を全身打撲で受診しているんです。つまり、同房の二人の囚人のうち、斉藤雅文は死亡し七海圭吾は全身に打撲を負った。ここから描き出される背景は、どうなんだ?」

 当然わたしに聞いているのだろう。「七海圭吾と斉藤雅文が殴り合い、その結果として斎藤雅文が死亡した、」いや、違う。それならば刑務官が斉藤雅文の死を隠す理由がない。とすると、これしか答えはない。「七海圭吾と斉藤雅文の二人は刑務官から暴力を受け、その結果斉藤雅文は死亡した」いい子だ。彼は満足そうにうなずく。

「過去一年間、刑務官による囚人殺害は半年前の七海圭吾の一件だけです。その事件自体は現場を誰も見ていないこと、七海圭吾が武器を所持していたこと、内部調査で正当防衛だと正式に認定されたことで大きな問題にはなりませんでしたが、あの実験区画が出来た経緯を考えても、刑務官による囚人の殺害は禁忌です。斉藤雅文の死を囚人に隠さなければならなかった理由はこれしか思い当たりません。斉藤雅文は正当ではない理由で刑務官から暴力を受け、そして死亡したのではないか」

 課長は彼の言葉に抗うように、むっつりと口元を引き締め沈黙している。わたしは課長に代わって彼に指摘する。

「それでもやはり、脱走事件と説明するのは不自然です。あそこは夜間でも監房は施錠されません。囚人同士のいざこざで殺害されたとでっち上げる方が、余程合理的です」

「それが出来なかったんだ。刑務官は死体を隠す必要があったんだ」

 死体を隠す必要があった? どういう意味だ。

「斉藤雅文の死体があったら困るんだよ。D区画では、死体は医者が診察し、死亡診断書と一緒に運び出されるルールだと言っただろう。つまり、死体があれば医者を呼ばなければならなくなる。仮に、斉藤雅文の死体に、明らかに刑務官の装備する武器で殺害された痕跡が残っていたとしたらどうだ?」

 わたしの脳裏に、あの刑務官達の物騒な装備品が浮かぶ。

「死体を検死されれば、刑務官によって殺害されたことが確定する。あの実験区画の最大の禁忌は刑務官による囚人殺しです。だから、何としても斉藤雅文の死体を隠す必要があった。そして、死体を隠すには脱走事件をでっち上げるしかなかったんだ」

 厳格な社会実験であるため、夜間に急遽、別の刑務所に囚人が移送されるなんてことは起き得ないことを囚人達は知っている。死体があってはならないのであれば、脱走したと説明するしかないというのはたしかに説得力がある。

 彼は課長の机に両手をつくと何度か大きく首を振る。

「刑務所内に死体を隠せる場所はそうそうありません。だからD区画の青写真を引っ張り出し、ボイラー室の壁の裏の排水管に一時的に死体を隠したんでしょう。囚人達には脱走事件と説明したが、それは単なる一時しのぎで、しばらく経ったあとに斉藤は逮捕されたとでも説明する予定だったのでしょう。そうやって囚人達を納得させ、その間に死亡診断書を偽造し、死体をD区画から運び出す予定だった。死体の搬出は書類さえあれば医者が同行するわけではありませんからね。それですべてが終わるはずだった。だが、脱走事件と聞かされた囚人の誰かがマスコミにリークしたことですべてが狂うことになったんです」

 そんな、そんなこと。

「マスコミから問い合わせの連絡が来た時、彼等は絶望したはずです。遅かれ早かれ管理委員会の耳にも入る。そうなると選択肢は二つです。刑務官の虐待死と認定される恐れがあっても斉藤雅文を医者に診断させ正式に死亡と認定するか、あるいは脱走事件として押し通すかです。どう考えても選ぶべきは前者ですし彼等もそうしようとしたはずです。ですがそこで、もう一つの想定外のことが起きた」

 わたしははっとして足が震え出す。まさか。そんなことが。

「まさか、斉藤雅文の死体が排水管を流れていったんですか?」

 脱走事件の捜査では、ボイラー室の奥の排水管から斉藤雅文の衣服の線維や毛髪も発見されている。死体が排水管の中にあったのは間違いない。そしてその後、斉藤雅文の死体が排水管とつながっている工業用水路で発見されたのであれば、答えは一つしかない。脱走事件がリークされ、彼等が慌てて死体を排水管から引き上げようとした時、斉藤雅文の死体は排水管の中から姿を消していた。

「実際のところはわかりませんが、彼等が死体を引き上げようとした時点で死体が消えていたのなら、彼等にはもう選択肢はありません。脱走事件として押し通すしかなくなったんです。結論、」彼はそこで言葉を切ると、課長の方をじっと見る。「あれは脱走事件ではありません。刑務官による斉藤雅文殺人事件です」

 わたしは彼の話の穴を必死に探すが見つけられないでいる。状況証拠だけとはいえ、話の筋は通っている。整合性は保たれている。だがどこまでいっても仮説に過ぎないこの話をどこまで信じられる。彼はまるで手品のようにばらばらだったピースを集め、大きな絵を描いてみせたが、これが単なる妄想ではないとどうして言い切れる?

「斉藤雅文が夜勤帯に死亡したとしてそれから十二時間、日勤帯も巻き込んで偽装工作が行われています。夜勤帯だけではなくD区画の刑務官全員が関わっているはずです。彼等は協力し窮地を切り抜けた。結果的には脱走事件としておおごとになりましたが、少なくとも囚人の虐待死という汚名は避けることが出来ました。七海圭吾の診療記録では明らかに警棒に殴られたような傷跡はありません。彼が斉藤雅文同様に刑務官から暴力を受けたかどうかは不明ですが、同じ夜に同房の二人が受傷しているのなら、斉藤雅文の死について何か知っていることは間違いありません。診療記録によると七海圭吾は傷を負った経緯を証言していません。脅されていたのか自ら沈黙を選んだのかはわかりませんが、刑務官達にとって時限爆弾であることには変わりありません。脱走事件はおおごとになり彼等は最早引き返すことが出来ませんし、七海圭吾の口を塞ぐ必要があったのは想像に難くありません。事実、斉藤雅文が消えた二週間後、七海圭吾は加藤と松井によって殺害されました。斉藤雅文の死にも加藤と松井が関わっており、それが正当ではなかったと囚人に知られたならば、二人が命を狙われるだけの理由になります」

 長い話を終えた彼は、それから体を起こすとゆっくりと部屋の隅に歩いていき、イスにどっかりと腰を下ろすとふうと大きく息を吐く。

「話は以上です」

 じっと目をつぶって話を聞いていた課長は、何度かうなずくと彼を見る。

「お前の要求は何だ、東方?」

「もちろんあの脱走事件の再捜査です」

「無理だ。お前の話に一定の説得力があることは認めよう。だがお前の話はすべて、今、ここには存在しない機密書類を前提としている。その機密書類は証拠として使用出来ないばかりか、お前が機密情報を恣意的に歪めて作り上げた妄想だと言われれば、反論の仕様がない。そんな状況下で、あれだけの大事件の再捜査を行うことは不可能だ」

「まあ、そうでしょうね」彼は疲れ切った顔でぎっとイスに背もたれる。

「お前の推理が正しければ、これは市警察だけじゃない、法務省にまで影響が及びかねない事態だ。再捜査したければ確実な証拠が必要だ。だが脱走事件の機密情報の原本を法務省が管理しているのであれば、私達が手を出せるものではない」

 課長はここまでの話がすべて無駄であったかのように言う。

 仕方がない。

 課長の言葉は正しい。

 わたし達には出来ることと出来ないことがある。それは事実だ。

「まあ、証拠を手に入れるのは無理でしょうね。だったら、」彼は淡々とした口調で言う。「証言を得るしかありません」

 わたしと目が合うと彼はうなずいてみせる。半年前に起きた脱走事件とその二週間後に起きた囚人殺害事件、そして今回の警官殺害事件。そのすべての事件に関係し、現在話が聞けるのは一人しかいない。

 彼は一度大きく息を吐くと、のっそりと立ち上がる。

「結局最後に物を言うのは、取り調べってことですよ」

 取調室。

 鉄の立方体。

 通称BOXと呼ばれる鉄方体こそが、わたし達殺人課刑事の聖域。

 今日の彼の話の中で、その部分にはわたしは迷いなく同意する。


【EIGHT】


 がろろろろろろ。

 砂漠のような埋め立て地を、ぼろぼろの2CVが走っている。

 半分ほど開けた窓から入る涼しい風に、わたしの髪の毛がばさばさと音を立てて踊る。

 あれは白昼夢だったのだろうか。

 2CVに揺られながらわたしは先程の魔法のような時間について考える。東洲区重警備刑務所に向かう道をがたがたと揺れながら車は走っている。あいかわらず彼は自分で運転し、わたしにハンドルを握らせない。研修生の頃、自分が刑事として一人前になるのと運転が許可されるのとではどちらが早いのだろうと考えたこともあったけど、二年経ってもまだその呪いは解けていないらしい。

 あの半年前の事件は、斉藤雅文の脱走事件ではなく殺人事件だ。東方日明のこの言葉が真実であるならば、今回の刑務官殺しどころの問題じゃない。刑務官が違法に囚人を殺害したのなら、もう、この実験区画が存在することは許されないだろう。すべてが終わる。だがそうであるならば、仮に管理委員会が半年前の脱走事件の真相を知っていたとしても、黙認する、そんな恐ろしい決断をしてもおかしくはない。あの男なら。あの、猫の目をしたあの長い男なら。

 沈黙の車内でわたしはちらりと運転席を見る。彼は黙ってハンドルを握り、砂ぼこりで汚れたフロントガラスの先に真っ直続く道路を睨みつけている。昨夜わたしは、東方日明はもう死んだのだと思った。この街の守護天使であることへの情熱はすでに失われたという失望感と喪失感にさいなまれた。だが少なくとも今朝の彼の姿に、知恵の王宮に住むかつての東方日明の片鱗をわたしは見た。

がたん。車体が大きく揺れる。ルームミラーから吊り下げられた骸骨の人形のストラップが踊る。砂漠のような埋め立て地にたくさんの送電塔が連なり、空には迷路のように送電線が幾重にも張り巡らされている。まるで世界の果てのような景色ね。もし東方日明の中に、まだかつての彼の一部が残っているのなら、わたしはもう少しこのお伽噺のような禍々しい景色を一緒に旅してもいいと思う。二年前みたいに。



 二年前。当時の未未市警察捜査一課は、劣悪な労働環境により赴任希望者が減る一方で、退職者は年々増加するという悪循環が続いていた。いつか破綻する砂上の楼閣でありながら、それでもこの国最初の自治体警察の犯罪検挙率が有数の大都市と遜色ないのは、ひとえに刑事達の自己犠牲による部分が大きかった。

 政府直轄都市の治安を一手に担う自治体警察の存続のため、法務省は四大政府直轄都市のすべての自治体警察と首都警察の間で研修交流を開始した。これは自治体警察ごとの捜査能力や人員の格差是正が目的であったが、皮肉なことに未未市警察捜査一課で研修した若い警官達は口を揃えて訴えた。あそこだけは二度と御免だと。結果的に悪評ばかりが定着することになった未未市警察捜査一課にわたしが研修生として赴任することになったのは、単なる偶然に過ぎなかった。

 上級国家公務員試験を経て、わたしが最初に配属された首都警察はこの国最大の警察組織で、警察官は常に組織の歯車の一部であることを求められた。事件の捜査は所轄と連携した組織戦で、刑事も制服警官も皆、割り振られた役割に徹し、粛々と任務を遂行することのみが求められた。わたしはそんな世界しか知らなかった。

 わたしはわたしでその仕組みの中で必死に立派な歯車であろうとしていたが、いかんせん経歴だけは立派な若くて世間知らずのしかも女であるわたしは期待もされず、偶然欠員していた災厄の街に送り込まれることになる。

未未市警察捜査一課。そこで出会った刑事達は、首都警察なら何十人、何百人の捜査員が動員されるだろう大事件を少人数で、一人で何役もこなし、しかも数日間であっという間に解決していた。時に慣例や手続きを省略したやり方に疑問がないわけではないが、それでも彼等の八面六腑の活躍にわたしは呆気に取られ、そして見とれたのだ。まるで幼い頃に観た映画や小説の主人公のように、わたしにはあまりにもまぶしく感じられたのだ。そしてそれは、憧れを抱くには十分過ぎる出会いだったのだ。

 未未市警察の捜査一課の刑事達の足元はいつもローファーだった。スーツにローファーなんてマナー違反だと首都警察では眉をひそめられるだろうが、自らの足で街を歩き、踵をすり減らす彼等にとっては歩きやすさこそが何よりも優先される。安物のスーツ、センスの悪いネクタイ、そして傷だらけのローファーが未未市という災厄の街の守護天使達の制服だった。そんな彼等の元で殺人課刑事としての産声を上げたわたしは、街と共に生きる彼等の姿に、いつかわたしもこうなりたい、そう夢見たのだ。傷だらけのローファーにわたしは夢を見たのだ。

 それから風が吹けば桶屋が儲かる的な寓話を経て、三カ月はあっという間に過ぎていき、わたしは首都警察に戻った。あの三カ月間が幻だったかのように、わたしは首都警察の強固な組織論にあっという間に飲み込まれていった。靴を履き替えるように言われ、リュックサックは肩掛け鞄に持ち替えさせられた。刑事として配属されたあとも回ってくる仕事は電話番に資料整理。当たり前だ。何の経験もない経歴だけが立派な若くてついでに女となれば誰からも期待されず一年経っても足元を見れば靴はきれいなままだった。

それでも腐ることなくわたしは自分に与えられた仕事を積み上げていき、歯車をびかびかに磨き続け、そして法務省からの仕事に関わるようになった。ただ黙々と仕事をこなす日々を続け、ある程度の信頼を勝ち取った頃、わたしの耳に悲劇の報せが届いた。あの災厄の街で、一人の警官が犯罪組織に利用され与したことで、多くの警官が犠牲になるという痛ましい事件が発生した。警官の血が流れたことに、法務省も非常事態として事件を注視する中、その汚職警官を逮捕し刑務所に送り込んだのは、かつてのわたしの指導教官の刑事だった。それはあまりにも残酷な報せだった。わたしは思い出す。あの三カ月間で彼等が口癖のように言っていた言葉。

 背中を信じろ。

 殺人課刑事の仕事は時に命が危険にさらされる。自分の背後は相棒が必ず見ていてくれる。そう盲目的に信じることが出来なければ凶悪犯を追うことなど出来ない。背中を信じろ。それがこの仕事を生き抜くために最も重要なことだ。彼は何度も何度もわたしにそう言った。誰よりも仲間を信じることを重んじた彼が、そんな彼が、仲間を捜査し、そして手錠をかけたというのか。しかも新聞で知らされる限り、そこにはわたしのもう一人の指導教官、彼の相棒の名前は出てこない。彼は一人でやったのか。一人で仲間に手錠をかけたのか。

 何が起きている。あの場所、守護天使達が住むわたしの夢の世界が壊されてしまう。それでも大きな歯車の一部に組み込まれていたわたしは、目の前の仕事を放りだすことも出来ず、結局一度も災厄の街を訪れることもなく時間だけが過ぎていった。しばらくしてあの災厄の街の四つ目の特別実験区画で脱走事件という最悪の事態が起き、動揺と混乱がようやく落ち着きを取り戻した頃、わたしの携帯電話が鳴った。いつだって物語は携帯電話から始まる。未未市の東洲区重警備刑務所に設置された特別実験区画で発生した刑務官殺害事件の捜査を命じられたわたしは、すぐに部屋のクローゼットの扉を開いた。電話口で管理委員会の使者は言っていた。未未市警察捜査一課の刑事と捜査を共にすることになると。いつかの日のために用意していた新品のローファーを引っ張り出してくる。エナメルが分厚く塗られたこのダンスシューズが傷だらけになることを夢見て、わたしはこの街に舞い戻ってきた。

 そして、わたしは思いもしなかった人物と邂逅を果たす。

「水沼、桐子」

 かつての指導教官であったその男は呆気に取られたようにわたしを見る。背は小柄な私と頭一つくらいしか変わらない。分厚い胸板と太い首と短い手足、そして黒々とした分厚い隈と三白眼はあの頃とまったく変わらない。見かけは凶暴な霊長類だが知恵の王宮に住む男。誰よりも頭が切れ、誰よりも性格の悪い男。かつて未未市警察捜査一課の暴君と呼ばれた男がわたしの名前を口にする。

「東方さん」

 呆気に取られ、そして不機嫌そうにわたしを見た彼は、あの頃と寸分違わない。なんてそれはわたしの一方的な祈りであり願いであることは自分でもよくわかっている。勝手に期待して裏切られれば腹を立てるのだろう。ほんと、わたしって身勝手だ。仮に彼がかつてと変っていたとしてもあんな事件を経験したんだ。どうしてそれを責めることが出来る?

 がたん、がたん、と車が揺れる。運転席の彼は何かをつぶやいている。かつての東方日明はもう死んだ。わたしはそれを否定しない。だがそれでも彼が、かつてわたしが憧れわたしが愛したこの街の守護天使の一人であることは紛れもない事実だ。わたしは足元のローファーを見る。傷一つないエナメルが分厚く塗られたびかびかのダンスシューズ。わたしはこの靴で彼と踊ってみせる。



 東洲区重警備刑務所に戻ってきたわたし達は、中央管理棟に一室を用意してもらう。用意されたのは四方を漆喰の壁に囲まれた小さな部屋で市警察の取調室を思い起こさせる。東方日明がかつて捜査一課の怪物、暴君と呼ばれたのはその鉄方体の中で数限りない殺人犯達を自白させてきたからだ。

「ここがわたし達のBOXですか」

板張りの床の中央に置かれた机には、対峙するように二つのイスが並べられている。彼は部屋の入り口に背中を向ける形でイスにどっかりと腰をおろす。目を閉じてむっつりと黙り込む彼の前には加藤が残した件の黒いノートが置かれている。しばらくして複数の乱暴な足音が近付くのが聞こえると、続いて扉をノックする音が響き大柄な刑務官と小柄な爬虫類が部屋に入ってくる。

「お待ちしておりました」

 わたしは慇懃に頭を下げる。

「何です、ここは?」

 腰に物々しい装備品をぶら下げた加藤刑務官の相棒は、わたし達に向かって威圧的な視線を向ける。わたしは座ったまま振り向きもせずじっとしている彼をちらりと見る。彼は机の上に両肘をついたまま微動だにしない。

「お忙しい中、ご足労いただき感謝いたします。ちょっとお伺いしたことがありますので、こちらに座っていただけますか?」

「何故、中央管理棟に呼びつけたんです? 話ならD区画でも出来るはずですが」

 明らかに警戒している。まあ予想通りの反応。

「捜査のことで、内密で確認したいことがありまして」

「よせ。あんたは最初から俺達を疑っていた。まだ俺達の誰かが加藤を殺したと思っているのか?」

「松井君、やめなさい」松井の横に立つ小柄な爬虫類が諫めるように言うが、完全に頭に血が上っているらしい大柄な刑務官はわたしに向かってずいっと歩み寄る。

「囚人達を全員事情聴取したというのに、まだ犯人は見つからないのか? 本当に無能で役に立たないお嬢ちゃんだな」

「力及ばず申し訳ございません。お時間は取らせませんので、さ、こちらにどうぞ」

 低姿勢なわたしの態度が逆に癇に障るのか、松井は威圧的に睨みつけるのをやめない。油断ならぬという面持ちを崩さず、わたし達から距離をとって部屋の壁沿いに歩くようにして、彼と対面する机の反対側の席までやってくる。

「ここに座れと?」

 ようやく重い瞼を開いた彼は、どうぞ、と低い声で言う。

 睨み合う中、松井はゆっくりとイスを引き、それから腰をおろす。松井が座るなり、彼は机の上の分厚い黒い表紙のノートを松井の方へと押し出す。加藤の遺したノートと認識したのか、松井の表情が強張る。

「何だ、これは?」

 彼は答えない。

「話が聞きたいって? あの夜のことならとっくに話は済んだはずだ」

 松井はぎっとイスの背もたれに左腕を回すと、半身になって彼のことを睨みつける。それは逃避にも防御の姿勢のようにも見える。

「それで何だ? 囚人について聞きたいのか? 犯人の目星でもついたのか」

 松井の問いに、彼はふむと一度うなずいたあとようやく重い口を開く。

「松井刑務官。あなたは加藤刑務官殺害事件の重要参考人であり、これから市警察捜査一課による正式な取り調べを行います」

「おい、ちょっと待て。何だ、取り調べ? 重要参考人とはどういう意味だ。犯人は囚人だと言っていただろう?」

「今でもそう思っています。ですが囚人が犯人であるならば、それ相応の理由があるはずです。その答えは、彼と長く組んでいるあなたから聞くのが一番早く確実です。そろそろ教えてもらえませんか。何故、あなた達は囚人から命を狙われているんですか?」

「あなた達? 俺も狙われていると言うのか?」

「二人がかりで囚人を警棒で殴り殺せばそういうこともあります」

 半年前の事件が脳裏に浮かんだのか、松井はわたし達の背後、部屋の扉脇に立ち尽くしている鰐男に向かって言う。

「主任、やめさせて下さい」

 松井の言葉に、爬虫類は苦々しい顔で首を振る。

「市警察からの正式な取り調べ要請を刑務所長も承認している。松井君、大人しく協力すればすぐに終わるから。協力するんだ」

 彼は振り返り一度、爬虫類を見たあと松井の方に再び体を向き直る。この部屋に、自分を庇護する者はいない。覚悟を決めたのか、松井は姿勢を正すとあえて前に身を乗り出して彼に告げる。

「俺から話すことは何もない」

 そう言った松井の視線がちらりと机の上の黒いノートを一瞥するのをわたしは見逃さない。自分達にとって脅威となり得る領域まで捜査が及んでいることを理解しているはずだ。空気がきりきりと張り詰める中、彼はわたしに向かって、水沼、と鋭い声で告げる。はい。わたしは二人が対峙する机の横に立つ。さあ、ここからはわたしのターンだ。

「加藤刑務官についていろいろと調べていて面白いことがわかりました」わたしはそう言いながら机の上に資料を並べる。「加藤刑務官の銀行口座の出入金記録です」「ちょっと待て、どうして加藤の銀行口座を」「殺人事件の動機として金銭的な揉め事はめずらしくありませんから」わたしは淡々と答える。「こちらをご覧下さい。給与以外に定期的な入金があるのがわかります。理由をご存知ですか?」「そんなこと知るわけがない」当然、そう答えるしかないだろう。

「このノートをご存知ですか?」わたしは机の上の黒い表紙のノートを手にとり松井にたずねる。さあな、と松井は視線を外す。わかりやす過ぎる。わたしはぱらぱらとページをめくりながらゆっくりと机の周りを歩く。「加藤刑務官の自宅から見つかったノートです」松井によく見えるよう、先程の銀行口座の資料の上にノートを開いた状態で置く。「アルファベットと数字が並んでいる表があります。アルファベットはD区画刑務官のイニシャルと一致、続く数字が日付、金額と考えれば、これは刑務官同士の金銭のやりとりの記録に見えます。そして加藤刑務官の銀行口座の出入金記録と一致している個所がいくつも確認出来ています」松井は答えない。「ノートの中身を専門家に分析してもらったところ、このノートはギャンブルの帳簿で加藤刑務官がその胴元だった可能性が高いと結論付けています。何か心当たりはおありですか?」

「さあな、スポーツにでも賭けていたんだろ。褒められたことじゃないが、誰だって遊びでやるだろう」

「先日の海外のサッカークラブの賭博の一件をご存じないんですか? 公営じゃないスポーツ賭博はこの国では重罪ですよ」

「だがあいつはもう死んだ。今更もう終わった話だろう?」

「もちろんです。加藤刑務官を違法賭博でどうこうするつもりはありません。ですが分析官によると、違法賭博の胴元はもう一人いるとのことです。松井刑務官。あなたの口座でも、加藤刑務官と同じお金の流れが確認出来ています」

 がたん、と音を立てて松井が立ち上がる。「俺の口座を調べたのか?」松井の顔色は明らかに青ざめている。「一体、何の権限があって、」

「うるせえなあ、大人しく座ってろよ」

 突然、野太い声が響き渡る。ちらりと見ると、彼はわたしに向かってひゅっと唇を鳴らしながら人差し指を回してみせる。気にせず続けろという合図。ええ、わかってます。立ち上がったままこちらを睨みつけている松井に向かってわたしは質問を再開する。

「あなたと加藤刑務官は、D区画内で違法賭博を開催していた。それはお認めになりますか?」

「俺達がそんな遊びの金の貸し借りが原因で、殺し合ったとでも言うのか?」

 怒気のこもった声。握った拳を震わしながら松井は言う。目が血走り今にもこちらに掴みかからんばかりの威圧感をまとう松井にわたしは警告する。

「言っておきますが、もう一度法務省から任命されている特別捜査官の胸倉を掴もうものなら、この事情聴取は即刻中止、捜査妨害と暴行で手錠をかけますよ」

「刑事さん。D区画で違法賭博が行われているなんて、さすがにそれは言い過ぎではありませんか?」小柄なぎょろ目の鰐男がここで割り込んでくる。部下思いなことだ。「加藤君のノートだけで、私達が法を犯していると決めつけるのは言いがかりもいいところです。イニシャルが何だというんです? そんなもので、」

「はい。たしかにこのノートだけで断罪するのは行き過ぎです。だから質問しているんです。違法賭博をしていましたかと。あ、別にお答え出来ないならそれはそれでかまいません。今度は裁判所命令をとってきて、D区画の刑務官、全員の口座を調べさせていただきます。それとノートの記載が一致していれば、言い逃れは難しいとは思いますが」

「好きにしろ。だが俺は何も認めん。違法賭博なんて知るものか」

「ちなみにノートにあった賭博が開催されたと考えられる日付とあなたと加藤刑務官の勤務日も調べさせていただきます。賭博が行われていたと思われる日に限って、偶然お二人が勤務していた、なんてことがないといいですね」

「刑事さん」あまりの大声にわたしが驚いて振り返ると、小柄な鰐顔の男がぷるぷると全身を震わせているのが見える。「殺人事件についての取り調べではなかったのですか? ろくな証拠もなく私の部下を愚弄するつもりでやっているのですか」

「このノートに書かれていることが本当なら、賭けていた金額はとても遊びなんて金額じゃありません。あなた自身が関わっていようがいまいが、政府機関であるD区画で違法賭博が行われていたとしたら、あなたの責任は重大です」

「私を脅すつもりですか?」

「脅す? まさかまさか、そんなつもりはありません」わたしは肩をすくめ、ずり落ちた眼鏡を押し上げる。「ただ、あなたは今や崖っぷちです」

「ど、どういう意味ですか?」

「加藤刑務官殺害事件の犯人を囚人だと仮定しましょう。そのためには犯人は監房の出入りを誰にも気付かれずに行うことが必要です。ここまでは同意していただけますか?」鰐男が口を開く前に、わたしはありがとうございます、と答える。「それにしてもD区画は面白い形をしていますよね。円筒状の建物。監房エリアは壁面に沿ってぐるりと監房が並んでいます。監房の配置から考えて犯人は上下左右、あらゆる監房の囚人から見られている可能性がありますが、事情聴取ではすべての囚人が口を揃えたように何も見ていないと証言しています。可能性は二つ。一つ、本当に誰も監房から出ていなかった。二つ、監房から囚人が出歩くことが常態化しており、誰もが自分が犯人にされたくなくてそう証言した。前者なら犯人は刑務官。後者なら監房の監視は行われていないに等しい無法地帯です。その結果、刑務官が殺害されたのであれば、どちらにしてもあなたの首は飛ぶ。ほんと、崖っぷち」

 鰐男は言葉を失ったまま目をぱちぱちと何度も瞬きする。

「本当にあなたが違法賭博に関わっておらず、殺人事件にも無関係とおっしゃるならわたし達に協力する方が利口かと思いますよ。こちらから法務省にあなたには寛大な処置をと上申することも出来ますし」

 そう、わたし達の狙いは松井ではなくこの鰐男。さて、どう出るか。鰐男はきょろきょろと両目を忙しなく動かしながら何かを考え込んでいる。それからふうむと大きく鼻から息を吐くと、わかりました、と一歩後ろに下がる。不穏な空気を察知したのか、松井が思わず鰐男にすがりつくような声を上げる。

「主任、」

「松井君。君達には心底がっかりしているよ。君達が本当にギャンブルをしているのなら、それは極めて由々しき事態だ。違うというなら、堂々と刑事さんに、身の潔白を証明するんだ」

 突き放すような声に、松井の表情は強張る。

「だ、そうですよ」わたしは立ち尽くしたままの松井に向かって、とりあえず座りませんかと答えをかける。松井は何か言いたげにこちらを睨みつけたまましぶしぶと座る。

「違法賭博の件は、まあゆっくりと調べるとして、」わたしはずいっとノートを机のわきに寄せる。「もちろん刑務官が犯人であるならば賭博は殺人の動機になり得ますが、事件当夜の夜勤帯勤務者である胴元のあなたと残りの四人は、ノートを信じるならば勝ち星に恵まれています。違法賭博があなた達の殺人の動機になるとは思えません」

「当然だ、」

「ということは違法賭博についてはお認めになると、いえ、答えなくて結構です。話を進めたいので。もちろん大損をした刑務官が囚人を使って殺した可能性はありますが、その場合も皆さんの口座を追えば解決です」

「主任。俺にもこの取り調べを拒否する権利があるでしょう」

 鰐男は気まずそうに黙り込んでいる。

「だったら所長をここに呼んでくれ。今すぐだ」

 松井は悲鳴にも似た声を上げるがわたしは容赦なく獲物を責め立てる。

「ちょっと勘弁して下さいよ。身長は一体いくつです? 一八〇? 一八五? そんなでかい図体をしてパパのお守が必要なんですか?」

「この小娘が」

 思わずわたしに掴みかかろうと立ち上がった松井の前で、わたしは顔の前で祈るように両手を合わせると、両手の人差し指を唇に当て、それから彼に問う。

「七海圭吾って知っていますか?」


**********


 市警察から東洲区重警備刑務所に戻ったわたし達は、その足で中央管理棟の資料閲覧室に向かう。半年前の脱走事件、件の黒塗りのファイルを机の上に広げる。まさか本当に。

「二枚の死亡診断書、本当にあったんだ」

「疑っていたのかよ」

「それにしてもどうして。この最初の死亡診断書が偽造なら、どうしてここに残っているのでしょうか。脱走事件となった時点で破棄すべきだったのに」

「しかも、このファイル自体は管理委員会が作成している。二枚も死亡診断書が入っていれば当然状況の確認をしたはずだが、」

「脱走事件でそれどころじゃなくなった。彼等にしてみれば最悪の不運ですが、わたし達には幸運でした。悪いことはするもんじゃないですね」

「そんなまともな忠告を聞き入れる連中じゃない。D区画に行くぞ。もう一度、機密書類の閲覧申請を出す」

 それからわたし達は地下の機密資料保管庫横の閲覧室に向かう。同じ手続き、同じ手順を経て机の上に資料が並べられる。二十三冊、一冊だけ足りない資料の山から目当ての資料はすぐに見つかる。半年前、七海圭吾が殺害された事件。

 囚人番号301-F、七海圭吾。武装強盗で刑期は十年。罪状は重いが服役態度は良好で懲罰房に入った記録もない。ページをめくる。明らかな囚人間のトラブルも記録されていない。ページをめくる。特定の囚人グループにも所属していない。ページをめくる。セラピーやプログラミング訓練にも熱心に通っている。一般刑務所なら模範囚とも言える態度だ。次の資料。七海圭吾の死亡診断書。あの医者、灰色のカーリーヘアに分厚い老眼鏡、タバコが似合う女性だったな。七海圭吾の遺体の写真。死因は頭部打撲による脳挫傷と脳出血。全身に打撲痕があるが、こちらは過去に負ったものと記載がある。補足資料として過去の受診記録が添付されている。殺害される約二週間前に全身の打撲で医務室を受診。本人は階段で転んだと主張。囚人同士の殴り合いの喧嘩と考えるのが普通だろうが、あくまで本人は否認。全身の青痣が写真に取られているがあまりに痛々しい。右手第二指および肋骨骨折。派手にやられたものだ。


**********


「七海圭吾って知っていますか?」

 わたしが口にした名前に、部屋の空気が明らかに張り詰める。

「何故、今、そんな話をするんだ?」

「半年前、このD区画ではいろいろなことが起きています。まずは囚人脱走事件。そしてその二週間後、あなたと加藤刑務官によってある囚人が殺害されています。その囚人の名前は七海圭吾」

「半年前の話なんてするつもりはない」

 松井は、爪が食い込み、血が流れるほど強く拳を握っている。

「あなた達は加藤刑務官殺害犯が囚人だと主張しているのでしょう? だとしたら加藤刑務官が囚人に恨みを抱かれているかは重要です」

「あれはれっきとした正当防衛だ」

「そうでなければ困ります。刑務官が囚人を殺害したなんて、この実験区画では絶対に起きてはならないことですよね」

「刑事さん、」鰐男が口を挟む。「おっしゃる通りここでは囚人の人権問題は何よりも重要視されます。管理委員会による内部調査は厳格に行われました。その上で正当防衛であると結論付けられているんです」

「とはいえ、脱走事件の直後ですからね。これ以上のスキャンダルを嫌う管理委員会の追及が甘くなったとしても不思議はありません。それに、」わたしはくいっと眼鏡を押し上げる。「そもそも管理委員会がどう判断したかは問題ではありません。問題は、囚人達がどう思ったかです。彼等があなた達を殺したいと思うほど憎んでいれば事件は起き得ます。つけ加えるなら、もしあなたと加藤刑務官による七海圭吾の殺害が正当なものでなければ、その危険はさらに高まります」

「言いがかりはよして下さい。加藤君も松井君も、あの囚人に襲われて大怪我を負ったんですよ」鰐男が激しく抗議する。

「二人共じゃありませんよ。刺されたのは加藤刑務官で、彼は無傷だった。そうですよね、松井刑務官」

「それがどうしたというんだ」松井は声を荒げる。「俺達がナイフを持った囚人に襲われたのは事実だ」

「そのナイフが問題なんですよ。脱走事件直後、厳戒態勢が続く中、囚人が監房内にナイフを隠し持っていたとはとても思えません」

「あいつらは頭のおかしい犯罪者だぞ。まともじゃないことでも平気でやるものだ」

「では七海圭吾がナイフを不法所持していたとしましょう。あなたと加藤刑務官は監房からその凶器を見つけ、二人で懲罰房に移送していた。そうですね?」

「ああ、そうだ」

「普通の刑務所なら押収した凶器は、囚人を連行するのとは別の刑務官が証拠品保管室に運ぶことになっています。ですがあなた達は押収した証拠品を所持したまま七海圭吾を懲罰房へと移送しています。何故です?」

「ここは慢性的な人手不足でな。人手がなければそういうこともある」

「なるほど。それで押収したナイフはどちらが持っていましたか?」

「俺だ」

「報告書にもそうありました。そしてあなた達は七海圭吾と共に、監房エリアと特別監房エリアの間のエアロックに入った。監房エリア側の扉が閉じた途端に七海圭吾が暴れ出したんですよね。だから誰もその場を見ていない。都合のいい話ですよね」

「知ったことか」

「あなた達は二人がかりで七海圭吾を抑えつけようとした。揉み合いになった時に七海圭吾があなたの所持する証拠品袋を奪い取り、その中に入っていたナイフを手に取り、押さえつける加藤刑務官の足を刺した。あなた達は警棒で反撃し、そして七海圭吾は殺された」

「だから言っているんだ。正当防衛だと」

「七海圭吾の死体には全身に痣がありましたが、実際には体にあった痣は古い物で、あなた達から受けたのは頭部だけです。必要以上の暴力は振るわれていない。それが正当防衛だと判断した内部調査の根拠です」

「その通りだ」

「間違いです」

「何だと?」

「間違いです。必要以上の暴力は振るわれていない。その判断は間違いです」

「どういうことです。実際にその囚人が彼等から受けたのは、頭部の打撲だけのはずです」

 鰐男が再び口を挟んでくる。

「そこが問題なんです。だって考えてもみて下さい。ナイフを振り回す相手を制圧するなら普通はまず手足を殴りますよ。どう考えてもナイフを持つ手よりも遠くにある頭部をいきなり殴りつけるなんてことはあり得ません」

「狙ってやったことじゃない。偶然、頭に当たったんだ」

「通常あり得ないことはやっぱりあり得ません。賢人から何度も教えられてきた言葉です」知恵の王宮に住む賢人、この街の守護天使。「実際はナイフを振り回す七海圭吾を殴ったのではなく、無抵抗の状態の七海圭吾を殴ったんじゃありませんか?」

「違う」

「そもそも、七海圭吾はナイフなんて持っていなかったんじゃありませんか?」

「何度も言わせるな。あいつは俺からナイフを奪ったんだ」

「頭のおかしい犯罪者、あなたはさっきそう言いました。当然、警戒していたはずなのに、どうしてナイフを奪われたんです?」

「揉み合いの最中だった。突然のことだったんだ」

「あなたはそんなに体が大きいんですよ。七海圭吾より十センチ以上も背が高い。丸腰の七海圭吾があなたから、自分よりも上背があり、腰に物々しい装備品を下げているあなたから、ナイフを奪い取ったと言うんですか?」

「そうだ」

「信じられませんよ。武器の不法所持なんてせいぜい数日間、懲罰房に入るだけですよ。ですが武器を装備する刑務官をナイフで刺せば、殺されても文句は言えません。それなのに七海圭吾はあなたからナイフを奪い襲い掛かった。そうおっしゃるんですか?」

「そうだ」

「本気でそう証言されるんですか?」

「そうだ」

「あり得ません。七海圭吾はあの時、右手の人差し指を骨折していたんですよ」

 何だと。ぎょっとした顔で松井がわたしを見る。

「二週間前に、七海圭吾は全身打撲で医務室を受診しています。その時に、右手の人差し指の骨折と診断されています。利き手がそんな状態で、ナイフであなた達を襲った、本気でそう証言されるんですか?」

 わたしは手を下ろすと、静かに言う。

「あなた達が七海圭吾を殺害した理由はわかりません。ただその殺害は正当ではなかったとわたしは考えています。そしてその秘密が囚人の誰かにばれたのだとしたら、あなた達が狙われても不思議はありません。七海圭吾は特定の囚人グループに所属はしていません。七海圭吾に友情を感じる囚人はそれほど多くはないかもしれません。犯人は案外すぐに見つかるのかもしれませんね」

「すべてあんたの妄想だ」必死に絞り出すように松井は言う。

「そうであってほしいというあなたの祈りはわかります」

 松井は突然両手で激しく机を打つと身を乗り出して叫ぶ。

「あの囚人のせいで、加藤は死んだと言うのか?」

「七海圭吾を殺害した日、何があったんです? あなたが証言して下さればわたし達はあなたを守ることが出来ます」

「俺を守るだと?」

「犯人はまだあのD区画の中にいます。あなたと加藤刑務官に恨みを抱いている囚人。鍵のかからない監房、囚人達が自由に歩き回っている逃げ場のない密室。次はあなたが狙われる番です。あなたが証言さえして下されば、今すぐにあなたを保護します」

「証言することなんて何もない」

 松井がきっぱりと答えた直後、部屋に獰猛な声が響き渡る。

「それはつまり、俺達と本気で喧嘩するということか?」

 沈黙を守っていたその男は、分厚い隈の奥の相貌を引き締めながら刑務官に告げる。

「政府機関で違法賭博が横行、それを組織ぐるみで隠蔽し、二人の刑務官が囚人を計画的に殺害した疑惑があり、そのうちの一人が不審死を遂げた。その中の一つでも世間に漏れればおたくら全員終わりだ。誰か一人が負える責任をはるかに超えている。警告しておいてやる。さっさと七海圭吾の事件について証言し、犯人になり得る囚人についての情報をこちらに渡せ。そうすれば少なくとも違法賭博についてはこれ以上詮索しないでおいてやる」それから彼は冷酷な口調で松井に告げる。「七海圭吾を計画的に殺したと証言しろ。これ以上、痛い腹を探られたくなければな」

 松井からは、部屋に入った時の憮然とした表情はとっくに消え失せ、恐怖すら浮かんでいるように見える。鰐男も同じように青白い顔で立ち尽くしている。

「まあ、これからどうするかはよく二人で話し合うんですね」

 彼はおもむろに立ち上がるとわたしに目配せをする。

 それを合図に、わたし達二人は、部屋から出ていく。


**********


「手紙を書いているな」

 彼の言葉にわたしはえ、と顔を上げる。

「見逃していた。見ろ、刑務所では囚人が出す手紙はすべて中身がチェックされコピーがとられる。七海圭吾のカウンセリングの診療結果の資料の中に含まれていた。どうやら七海圭吾殺しの際の内部調査はまともに行われていたらしい。七海圭吾に過去に問題行動がなかったかも詳しく調べている。まったく。ここまでやってどうして正当防衛なんて結論になるんだ。管理委員会は頭が悪いのか?」

「あるいはわざと見逃したか」

「わざと? 何故、何のために。管理委員会はあいつらに弱みでも握られているのか? 加藤の部屋を見ただろう。同僚相手の違法賭博で小銭を稼ぐジャンクフードが主食で家族に捨てられた独り身の中年。法務省相手に脅迫を行う器量もなければ頭脳もない。単に内部調査でヘマをしただけだ。結論。管理委員会は頭が悪い」

「それはともかく手紙には何と?」

 彼はわたしに向かってファイルをつつっと滑らせる。七海圭吾の手紙のコピー。手紙は死の二日前に出されている。今となっては会うことも話すことも出来ない男の遺した最後の言葉。どうやら感謝の手紙らしい。ありふれた文章、ネットで調べてそのまま書き写したような定型文の礼状に見える。お世話になった人に一生懸命文章を調べて書いたのだと思うと健気に思えるが、死の二日前ということを考えればまるで自分の死期を悟っていたかのようにも見えてくる。それにしてもこの手紙、一体誰に宛てたものなのだろうか。

 手紙の宛先も記録が残されている。名前を確認し、わたしはふと首をかしげる。どこかで聞いたことがある。顔を上げると彼がこちらを見ているのに気付く。目が合って、どうかしましたかとたずねると、彼はその名前、とつぶやく。「どこかで見たな」見た? 聞いたじゃなくて。それからわたしは理解する。そう、わたしはこの名前を知っているが、聞いたんじゃない、見たんだ。どこで。資料の中で。それが一体どこだったか。わたしが記憶の扉を開くよりも早く、彼は別の資料を手に、わたしの方に向かってファイルを滑らせる。これは、七海圭吾の診療記録? そうか。わたしは思い出す。七海圭吾の診療記録、カルテの写し。その中に名前があったんだ。医務室の看護師、それが、七海圭吾が手紙を出した相手。七海圭吾が殺害された二週間前、医務室を受診した際に対応した看護師だ。余程手厚く看病されたのだろうか。彼なりに必死に調べてお礼状を書き上げた。

 いや、本当にそうだろうか?

 わたしには何か小さな違和感がある。もう一度、七海圭吾の手紙のコピーを見る。便箋は刑務所指定の用紙らしい。用紙の右には囚人の名前、そして宛先の名前と住所を記載する欄がある。囚人の手紙を検閲し、また余計な物を封筒に入れさせないために、囚人の書いた手紙は刑務所側で封筒に詰められ、囚人が指定した宛先に送られる。この便箋。何だ、わたしは何かに引っかかっている。手紙は手書き。とってつけたような定型文。どこにもおかしい点は見当たらない。宛先の欄には、看護師の名前、住所、電話番号が記載されている。本文の筆跡と同じ。だからどうした。それが、どうした? わたしは何に引っかかっている?

 がちゃり。

 突然の音がしてわたし達は扉の方を振り返る。分厚い扉が開き、そこに不愛想な刑務官が立っている。

「中央管理棟にお部屋の用意が出来たとのことです。ご案内します」

 有無を言わせぬ口調。

 わたしは彼と顔を見合わせると、それじゃあ行きましょうと立ち上がる。


**********


 松井の取り調べを終えたわたし達は、再びD区画に戻ってくる。

 機密書類保管庫横の資料閲覧室に入り扉を閉じると、わたしは自然とため息がこぼれる。あれで良かったのだろうか。わたしはつい不安に駆られて彼の顔を見る。「そんな顔をするな。悪くなかった。こちらの立場を明確にし、向こうの取るべき選択肢を示した」彼はそう言うと、部屋の隅に置かれている長椅子にどっかりと腰掛ける。「今頃は、ダメージコントロールに必死なはずだ。誰を生贄に捧げるのか。落としどころをどこに持っていくのか。そう簡単に結論は出ないだろうが、な」彼はそれからごろりと長椅子に体を横たえる。「ま、あとはとりあえず、向こうがどう出るのか待つさ」そう言うと仰向けのまま目をつぶる。寝るつもりか。別にまあ、いいけど。

 わたしはイスに座ると机の上に広げられた資料を自分の方へと引き寄せる。さあ、どこまで目を通していたんだっけ。そうだ、七海圭吾が死の直前に医務室の看護師に手紙を出していたということ。しかもわたしはその手紙に何かしらの違和感を持ったのだが、その正体がわからずじまいだった。そんなことを思い出しながら頬杖をついてもう一度、手紙のコピーに目を通す。一体、あの時、わたしは何に違和感を、一体、何に。

「早過ぎるな」

 唐突な声に、わたしははっと顔を上げる。連日の疲れが押し寄せて、いつの間にかわたしはうつらうつらとしていたらしい。よだれを手の甲で拭いながら声の主の方を振り向くと、長椅子に仰向けに横たわったままの彼はお腹の上で手を組み、まだ両目を閉じたままでいる。早過ぎるって? そう聞き返すよりも前に、遠くからこちらに近付いてくる足音が聞こえてくる。

「こちらの予想を上回ったな」彼は目を閉じたまま忌々し気に言い捨てる。「あいつら、本気で俺達と喧嘩する覚悟を決めたらしい」

 どういう意味? その時、扉がノックされるとこちらの答えも待たずに扉は開かれる。刑務官を二人引き連れた小柄な爬虫類顔の男の姿がある。

「囚人が自白しましたか?」

 長椅子に横たわったまま彼がたずねる。ええっとわたしは彼を見て、それから刑務官達を見る。まさか、まさか、そんなこと。そんな選択肢を。わたしはぶるぶると全身が震える。甘く見ていた。わたしは同僚の言葉を今更思い出す。水沼、気をつけろ。あそこは普通じゃない。そんな。考え得る最悪の手段を選択するなんて。

「仮釈放の可能性のない終身刑の囚人なら、殺人の罪状が一つ追加されたとしても失うものは何もない。それよりもおたくらに貸しを作り、D区画内で確固たる立場を勝ち取る方が得策だと考える奴がいたとしても不思議はない。その犯人に、違法賭博も七海圭吾の一件も事件とは関係ないと証言されれば、それ以上俺達は何も手出しが出来なくなる。すべてを有耶無耶にすることが出来る。当然、可能性の一つとして想定はしていたが、おたくらにそれを選択するだけの度胸はないと思っていた。甘く見ていた。反省している。まさか本当にやるとはな」

 長椅子の上の彼の横顔は、壁の橙色のランプに照らされ分厚い陰影が映し出されている。

「何を言っているのかわかりませんね」

 先程狼狽を見せていた小さな鰐男は、人が変ったかのように強気で自信に満ち溢れているように見える。

「D区画の日常を取り戻すために、囚人達の間で自発的な犯人探しが始まり、その結果、一人の囚人が自白したんです」

「でっち上げだ」

「あなたをこの事件の担当に推薦したのは大間違いでした。一年近くまともに殺人事件の捜査をしていないと聞きましたよ。見当外れな推理、いえ、妄想を垂れ流すのは結構ですが、これ以上、それに付き合うわけにはいきません」

 彼はぎろりと両目を開き、顔だけを鰐男の方に向ける。

「囚人にはどう証言するかちゃんと指導しましたか?」

「東方刑事、」鰐男は低い声で言う。「今のあなたの発言は看過出来ません。市警察に正式に抗議するつもりです」

鰐男のその言葉に、彼は突然、甲高い声で下品な笑い声を上げる。場違いな声が部屋に響き渡り刑務官達の顔が歪む。彼はそれからむくりと体を起こすと、深々と背もたれたまま鰐男の顔を真っすぐに見る。

「その必要はない。おたくらがその選択肢を選んだ時点でこれは戦争だ。市警察と全面的に対立してまで秘密を隠蔽することに決めたんだろ?」

 静かな口調だが、彼の声には少しでも動いたら鋭利な刃物で切り刻まれるような気配がある。わたしは息を吸うのもはばかられ動けないでいる。

「囚人の一人が、加藤の殺害を自供しました。これから報告書を管理委員会に上げます。捜査はこれで終了です」

「違う」

「違う?」

「犯人かどうかはわれわれが取り調べをして判断します」

「必要ありません。自白調書もこちらでとります」

「これは殺人事件の捜査であり、すでに未未市警察捜査一課の公式な捜査となっています。自白した囚人は市警察に移送しこちらで取り調べます。手続きを始めて下さい」

「無理ですよ刑事さん。自白したのは重罪犯です。刑務所長の承諾がない限り刑務所から出ることは出来ません。何よりD区画は政府機関です。D区画内で起きた事件の取り調べはD区画内で行う決まりになっています」

「そこまで強気に言い切るということは、刑務所長もすでに上手く言いくるめたらしい」

「どう思われてもけっこうですが、囚人はD区画から出すことは出来ません」

「だったらここで取り調べをするだけです。ですが、その取り調べにあなた達を立ち会わすことは出来ません。囚人にどう答えるか手引きされたら困りますしね」

 その言葉に鰐男の顔色がさっと変わる。

「君は今、一線を越えたぞ。最早その発言は許せん」

「だったら刑務所長を呼んで来いよ。おたくじゃ役不足だ」

 彼はぬるりと立ち上がると、鰐男の目の前に立つ。

「俺をこの事件に巻き込んだのはおたくらだ。おたくら自身が始めたんだ」それから彼は耳元まで裂けたかのように口元を歪めて言う。「覚悟はいいか?」


加藤刑務官殺害事件第一容疑者取り調べ


 東洲区重警備刑務所D区画、管理エリアの取調室。

 手錠で机につながれた長い髪の囚人がうなだれてイスに座っている。

 対峙するように机の反対側に座ったわたしは囚人にたずねる。

「それではまず、あなたの氏名、年齢、罪状をお聞かせ下さい」

 わたしがそう言い終わるよりも先に、囚人は自ら話し出す。

 まるで脚本を読み上げるかのように淀みなくすらすらと。


「俺が殺した」「俺が、殺したんだ」「監房を抜け出した」「あいつは普段から気に入らなかったんだ」「殴られたこともある」「呼び出した」「ずっと思い知らせてやろうと思っていた」「前日に約束した」「図書室で会うことを約束した」「俺が殺した」「俺が殺したんだ」「ナイフで背中を刺した」「三度、」「三度刺した」「ざく、ざく、ざく、」「三度、」「ざく、ざく、ざく、」「三度刺した」「俺が刺した」「俺が殺したんだ」「ざく、ざく、ざく、」「俺が殺した」「ざく、」「ざく、」「ざく、」


わたし達は黙ってその言葉を聞いている。

取調室の扉が開き、そこに一人の刑務官が入ってくる。こちらを一瞥したあと、無表情に言う。「未未市警察捜査一課長がお呼びです」わたしは彼を見る。彼は顔色一つ変えずに囚人をじっと見たあと、淡々と宣言する。

「取り調べを中断する」


【NINE】


これは試練だ。

 何かを得ようと思ったのなら何かを差し出さなければならない。

 犠牲を払わなければならない。

ずっと覚悟をしていたはずなのに、わたしは今になって怖気づいている。

 水曜日計画なるふざけた名前を聞いたのは、法務省の管理施設内に初めて招集された時だった。公表されていないその施設に集められたのは十三名の首都警察の捜査官だった。それまでの経歴だけでなく、心理テスト、身辺状況を厳しく審査され選ばれた十三名の捜査官。後に特別捜査官の活動拠点となる名前のない施設で丸二日間、わたし達は計二十二時間をかけて特定刑務所特別実験区画についてのレクチャーを受けた。レクチャーのために配られた資料の最終頁、実験に関与する数々の引用論文の索引に続いて、その一文はあった。

This study was designed based on Project Wednesday.

わたしがその一文を思わずつぶやくのと同時に、その男は会議室に入ってきた。前髪の長い猫のような目をした優男。絵に描いたような笑顔を貼り付けた男はわたし達をぐるりと見回したあと、にこにこと軽薄な笑顔を浮かべてこう言った。

「水曜日計画にようこそ」

 そして彼の口からこの計画の本懐が語られる。

 曰く。かつて、犯罪学の初期の課題は犯罪現場からいかに犯人の痕跡を見つけ出し、犯人に辿り着くかだった。犯罪捜査の手法の進歩に伴い、やがて様々な証拠や犯人の行動様式から犯人像をあぶりだすという概念が追加され、科学捜査の発展と合わせて、犯罪捜査学は劇的に進歩した。特にこの国の殺人事件の捜査に関しては、犯人の検挙率が九割を超え成熟の時を迎えていた。そして次なる課題は、犯罪を抑止する手法の確立であった。起きてしまった犯罪の捜査ではなく、犯罪その物が起きないようにするにはどうすればいいか。犯罪者はいかにして生まれるのか。先天的要因と後天的要因がいかに組み合わさることで犯罪は生成されるのか。それを紐解くことで犯罪を予防する、それが現在の犯罪学の最重要課題である。

 しかし、犯罪者がいかに生まれるのかという研究は優性思想にも似た危険性を孕んでいる。誰が犯罪者になり得るのか、それがわかることで犯罪者予備軍と思われる人物が迫害される恐れがある。まだ起きてもいない犯罪を理由に罰を受ける可能性がある。それゆえにこの研究は慎重に進めなければならない。そして水曜日計画は、決して表舞台に出ることはなく、様々な社会実験に形を変えてひっそりと進められてきた。

「この特別実験区画は、公的には囚人虐待事件を背景に、囚人の人権保護を目的とした社会実験の場とされています。しかし本当の目的は、犯罪者同士の共同生活がいかに犯罪者に影響を与えるかを知ることにあります。この社会実験に参加する囚人達は事前に肉体的、精神的にいくつもテストがなされています。当然、遺伝的な検査も行われています。それらの事前条件にどのような環境因子が加わることで、どのような振る舞いがなされるのか。それこそが水曜日計画の最重要課題です」

 猫目の男の言葉を借りるなら、一般社会のあらゆる環境因子を可能な限り再現するために、囚人には最大限の自由を与えるということか。

「しかし当然ながらこの実験にはリスクがつきまといます。犯罪歴のない人物が最初の犯罪に手を染めるよりも、犯罪歴のある人物が再度犯罪に手を染める確率の方が高いことは周知の事実です。事実、首都圏に最初の実験区画が設置されてから一年半が経過し、現在では三つの実験区画が稼働していますが、一般社会と比べてはるかに高い発生率で重大事案が起きています。これまでは各刑務所内の警備部に対処してもらっていましたが、今年中には四番目の実験区画も設置される計画になっています。各刑務所を横断して問題対処にあたる専門部署が必要になったため、実験区画管理委員会直属の特別捜査室を設置することとしました。皆さんのご活躍を期待していますよ」

 言っている意味がわからなかった。

 犯罪が起きやすい環境をわざわざ作るなんて。作るべきではないというのが普通の、あまりにも当然の感覚だろう。社会的意義なんておべんちゃらは到底納得出来るものではない。何のためにこんなことをしているのか。何のために。

「犯罪をわざと起こさせ、その原因を研究する。そして俺達はその尻拭い要因、ってことだな」

 法務省の役人がいなくなった会議室で、捜査官の誰かがつぶやく。わたしはちらりと他の十二人の捜査官達を見る。首都警察の捜査一課はかなり大きな組織であり、他の班の刑事とは一緒に捜査をすることも滅多にないため、同じ捜査一課でも互い顔の知らない刑事が多数いる。捜査一課を名乗った刑事がわたしを除いて全部で六名、あとの六名は生活安全課、経済犯罪課、盗犯課など様々な専門分野の刑事が集められている。どんな種類の犯罪が起きても対応出来るように、ということか。

 水曜日計画。その名前と実態を知ったあの日に、わたしは部屋を出ていくべきだったのだ。こんなふざけたお遊戯に付き合うべきではなかったのだ。だがわたしは、法務省の極秘任務に任命され舞い上がっていたのか。あるいは立ち去れば自分のキャリアを失うことになることを恐れたのだろうか。わたしはあの部屋を出て行かなかったし、特別捜査官としてその後、次々と起きる実験区画での事件の捜査を担当した。抗わなかった。大きな流れにわたしは身をまかせた。そして後悔することになった。

首都圏に設置された最初の三つの実験区画は窃盗犯や知能犯を対象としており、重大な暴力を伴う事件の発生率は実社会と大差はなかった。大差ないということは、異常だということだ。暴力行為を伴う犯罪に関わったことのない者だけを集めた実験区画ですら、通常と同程度の暴力事件が起きるというのなら、それはつまり、暴力を誘発しているということにならないだろうか。悪意は醸成され、暴力が生成される。わたしにはあの実験区画はそんな装置に見えたのだ。そして四つ目の実験区画、D区画は暴力を伴う重罪犯が多く集められるという話を聞いた時から、わたしには嫌な予感があった。とんでもないことになる。元々、暴力傾向の強い犯罪者ばかりを集めたら、あの暴力生成装置の中では、一体どんな事態になるかわからない。そしてその予感は当たる。そう、いつだってわたしの嫌な予感は当たって当たって当たるのだ。ほんと、最悪。

水曜日計画が最初に明らかにしたのは、囚人達をある程度の自由な環境下に置くと、自ずとコミュニティーを形成しそれぞれの集団が実験区画という閉鎖空間の覇権を争うようになるということだった。刑務所に閉じ込められてなお、人はその中を支配したがる動物だ。争う手段はそれぞれの集団の特性が現れる。首都圏の実験区画では暴力犯罪とは無縁の犯罪者が被験者で、最初に横行したのは詐欺や騙しだった。それがやがて暴力を伴うようになり、やがてそれが殺人まで至った時、わたし達は実験区画に派遣された。何故なら、首都圏の三つの実験区画は、詐欺や知能犯罪がいかにして起こるのかを解明することを目的とした社会実験の場だったからだ。それを大きく逸脱した犯罪は、社会実験そのものの破綻を招きかねない。そのために一定の水準を超えた暴力犯罪には外部からの介入が必要となるという理屈だった。だがD区画は暴力的な凶悪犯を集めて作られた。つまりD区画とは、凶悪暴力事件や殺人事件がいかにして起こるのか、それを解明するための装置なのだ。つまりあそこでは囚人同士が殺し合うことこそが重要な実験結果であり、そこに外部の介入は必要としない。むしろ介入してはならない。必要なのはただ観察すること。だから、D区画では囚人が殺されても捜査もされなければ通報もされない。わたしはこのD区画に来て、ようやく水曜日計画の理念を理解する。身をもって体感する。

水沼、気をつけろ。あそこは普通じゃない。

 脱走事件でD区画に関わった捜査官はそう言い残し特別捜査官を辞めた。首都圏の実験区画は準備段階に過ぎない。きっとD区画こそが水曜日計画の本体。特別捜査官すら通常、立ち入ることの出来ない禁足地。わたしはその中に、足を踏み入れたのだ。そう、最初からわかっていた。後悔することになるのはわかっていた。それでもわたしはあの日、窓から差し込む日差しの中で、埃がきらきらとかがやいていたあの図書室で彼と再会した日、わたしはきっと希望を見出したのだ。彼と再会したことの意味を。一人では決して触れるべきではない禁忌の扉も、彼と二人なら開くことが出来るのではないかと。彼との再会があの人生で最も美しい季節にわたしを引き戻し、わたしはきっと、このエナメルを分厚く塗ったローファーで、空まで踊れる気分だったのだ。まったく、センチメンタルにもほどがある。これじゃあまるで、彼の言う通り、わたしは十五歳の少女だ。だが、彼となら。彼とならもう一度。

これは試練だ。何かを得ようと思ったのなら何かを差し出さねばならない。犠牲を払わなければならない。その覚悟は出来ている。


**********

 

 ちん。エレベーターが停まる。中央管理棟八階、刑務所長室にわたし達は連行される。D区画が水曜日計画の最重要施設である以上、ここでのわたしの行動にはすべて監視がついていると考えるべきだろう。あの猫の目のように大きな目をした優男はすべてを見ている。今、この瞬間も。顔を上げる。前を歩く彼の大きな背中からはびりびりと張り詰めた気配が漏れ出ている。彼も理解しているのだろう。犯人をでっち上げようとまでしている以上、相手はありとあらゆる手を使いわたし達をここから締め出そうとしてくるはずだ。最悪、捜査その物の中止もあり得ると覚悟するべきだ。

所長室の重厚な扉を刑務官がノックする。部屋に入ると、床にはモザイクタイルが敷き詰められ、重厚な木製家具が並べられた部屋の奥に、大柄なスーツ姿の男が机についているのが見える。最初の日に会った時と同じ景色、違うのは軍人のような姿勢で座る刑務所長以外にも、見慣れた顔が何人か見えるということだ。

「課長、それに、大島さんと杉本さん?」

 つぶやいたわたしをぐいっと後ろから刑務官が部屋に押し込む。わたしは思わずつんのめり、背負っていたリュックサックの中身をぶちまけてしまう。どこかで見たなこの光景。わたしは慌てて床に散らばったノートやら化粧ポーチやら文庫本を鞄に押し込む。まったく、どうしてこんな大事な場面で鞄を閉め忘れているんだ。これだから子供扱いされるというのに。

 しゃがみ込んであたふたしている背中で扉が閉じる音がする。ちらりと振り返ると、彼は後ろ手でノブを掴んだまま扉に寄りかかっている。すでに部屋にいる面々と距離を保ちながら彼はゆっくりと部屋を見回し、ふん、と鼻で笑う。

「全員お揃いで一体何の用です? 取り調べの真っ最中なんですがね」

 薄暗い部屋にひしめき合う男達の視線がじっと彼に注がれる。彼は小さく首を振る。「どうやら皆さん、ご機嫌斜めらしい」

「状況を説明しろ」

 口火を切ったのは捜査一課長だった。その口調には事態が複雑かつ収拾困難な様相を呈していることへの苛立ちがこもっている。こんな辺鄙な場所に市警察の捜査一課長がわざわざ出張ってくる状況は異常だ。最悪のシナリオは刻々と進んでいると考えるべきだろう。

 荷物を鞄にしまい終えたわたしは、彼の邪魔をしないようにそっと部屋の左端へと移動する。ちょうどいい具合に置かれていたアンティークのイスに鞄を背負ったまま音も立てずに腰掛ける。誰もわたしには注意を払っていない。わたしは両膝に手を置くとその場所からじっと全員の動向を注視する。

「加藤刑務官はあの夜、囚人と密会し殺害されたと予想されます。その動機には半年前の七海圭吾の死が関与していると考えられ、松井刑務官から事情聴取を行いましたが黙秘権を行使されました。そして事情聴取が終わって間もなくして、捜査妨害とも思えるタイミングで一人の囚人が犯行を自白、D区画側が捜査の終了を要請してきました。現在、その囚人の偽証を証明するための取り調べを行っている最中です」

「この調子ですよ」爬虫類がいつになく強い口調で捜査一課長に噛みつく。「一体、部下にどのような教育をされているのですか?」

「また、事件の捜査の過程でD区画内という政府機関にも関わらず、刑務官による違法賭博が日常的に行われている疑いが発覚し事情を聞きましたが、そちらについても彼等は黙秘しています」

「違法賭博、例のノートか」課長が難しい顔で唸り声を上げる。

「またその言いがかりですか? 何の証拠もないでしょう」

「どうなんだ、東方?」課長が探るように彼を見る。

「今はまだありません。ですが、刑務官全員の口座を確認出来れば、」

「不可能だ」課長が一蹴する。「D区画に関与することはあらゆる情報が機密情報として扱われる。当然、D区画の刑務官の給与と紐づけられている口座情報もだ。死亡した加藤刑務官の口座の捜査には正当性があるが、松井刑務官の口座を捜査したことでD区画側から正式に越権行為だと苦情が入っている。囚人が犯人だという捜査方針である以上、容疑者でもない刑務官の口座を調べる権限はわれわれにはない」

「だ、そうですよ」

 爬虫類は我が意を得たりと彼に向かって小さな体をのけぞらせる。

「証拠もないのに、私の部下が違法賭博をしているなんて立派な名誉棄損です。事件が終われば正式に警察委員会に抗議させていただきます」

 鰐男が調子に乗って。わたしは小さく唇を噛む。だが、今のところ課長の言葉が正しい。違法賭博についても、そして半年前の事件についても刑務所側から新たな証言が得られなければ、それ以上の捜査は現実的じゃない。

 鰐男は彼の方へと歩いていくと、その大きな目を動かして彼を見上げる。

「謝罪、してもらえますか?」

 彼は後ろ手でドアノブを掴んだまま、鰐男を睨みつける。

「謝罪、だと?」

「あなたは捜査妨害と言ったんですよ。私達が囚人に証言させた、あなたはそう言ったじゃないですか?」

 芝居がかったセリフ、両手を大きく振り回しながら爬虫類は部屋の奥にいる軍人然とした短髪で深いしわが顔じゅうに刻まれた男に目配せする。強烈な威圧感をまとった男は、わたし達に向かってたずねる。

「三神の言葉は本当かね? 君は、われわれ刑務所側が加藤刑務官殺害事件の犯人をでっち上げていると主張しているのか?」

「ええ、そうです」彼は間髪入れずに答える。

「捜査一課長、」刑務所長は厳しい表情を浮かべて告げる。「われわれはこの国の最初の政府直轄都市である未未市および未未市議会に、法を順守することを誓いそれぞれの職務についているはずだ。われわれが殺人事件の犯人をでっち上げる、そのような重罪を犯しているというのは、捜査一課としての正式な見解かね?」

「私個人の見解ですよ」彼は悪びれずに言う。「ですが、違法賭博と半年前のD区画刑務官による囚人殺しについてたずねた途端に、都合がいいことに犯行を自白した囚人が現われたんです。疑われても仕方ないとは思いませんかね」

「囚人殺し、だと?」所長の表情が一気に険しくなる。刑務官による囚人の虐待問題は全国の刑務所に等しく大きな打撃を与えた。所長の中にもその忌まわしき記憶がしっかりと刻まれているのは当然だろう。「D区画はその性質上、刑務官は武器を所持しているし、囚人と刑務官の間で時にその武器が使用されていることは事実だが、いずれの場合もきちんと調査され人権的配慮に問題なかったか評価されている。少なくとも私は刑務官による違法な囚人の殺害の報告などは受けていない」

「半年前、松井刑務官と今回の事件の被害者である加藤刑務官は、七海圭吾という囚人を殺害しています。たしかに正当防衛として管理委員会からはお咎めなしになったようですが、やられた方がそれをどう受け取るかは別問題です。しかも殺害場所は他の囚人が立ち入れない特別監房エリアと監房エリアの間にある密室で行われました。今回の加藤刑務官殺しの動機としては十分あり得る話ですよ」

 刑務所長は探るように彼を見たあと、ぎっとイスに背もたれる。それからしばし考えを巡らして改めて捜査一課長の方に視線を向ける。

「違法賭博にしても刑務官による囚人への暴力行為にしても、そこに違法性があれば当然私は厳正に彼等を処分する。だが今のところは何の証拠もなく、捜査を担当する一捜査官が主張しているだけ、という理解で間違っていないかな?」

 捜査一課長はちらりと彼を見たあと、ええ、とうなずく。

「とすれば、いささか暴論が過ぎるのではないか? 君達がわれわれに対して思うところがあることは理解しているつもりだが、私は最大限、捜査に協力をしているし、市警察の方針に意見も妨害もしていない。君達にそのような言いがかりをつけられるいわれはないはずだがな」

「言いがかり?」彼が呆れ果てたような口調で言う。「たしかにね、あの自白した囚人には被害者を殺害するチャンスも動機もありました。何しろD区画の夜間の監房の監視はざるに等しいですからね。殺害方法や現場の状況、証言にも矛盾は特に認められていません。現場のことを良く知る誰かが教え込んだセリフを必死に暗唱してくれました。ですがね、あの囚人には殺すことは出来ても監房エリアに事件当日の新聞を置くことは出来ませんよ」

「新聞とは何の話だ?」

「誰かが私の目のつくところに、事件が起きたあとに発行された朝刊を置いていったんです。ご丁寧にクロスワーパズルを途中まで解いて、夜間の監房エリアの監視に穴があったと捜査を誘導する目的で偽装工作した人物がいるんです。事件発覚後、囚人達は監房に隔離されています。とすると新聞を置いたのは刑務官でしかあり得ません。少なくともD区画側に俺達の捜査を誘導する意思があったことは間違いありません。捜査の誘導は立派な捜査妨害ですよ」

「三神、彼の言っていることは事実か?」

 刑務所長に問われ、爬虫類は白々しく短い手を振り回しながら答える。

「何のことだかさっぱりです。日勤帯の刑務官が出勤時に持っていた新聞をたまたま監房エリアに置いただけでしょう。それを、夜勤帯の刑務官が持ち込んだものと彼が勝手に誤解しただけですよ」

「あんたは本気で言うのか? 仲間が殺され厳戒態勢の職場に、朝刊を小脇に抱えて呑気に出勤してきた刑務官がいたと」

「事実、新聞が監房エリアにあったのなら、そういうことになりますね」

 物は言いようだな。思った以上に饒舌に語る爬虫類にわたしは小さく唇を鳴らす。

「どうやら彼には少々妄想癖があるようですね。いえ、実際彼をこの捜査に推薦したのは私ですが、すいません所長、どうやら人選を誤ったようです。彼が脱走した囚人を発見したからこそ信用したのですが、見込み違いだったようですね」そして爬虫類はその牙を彼に向ける。「もっとあなたのことを良く調べてから推薦すべきでした。あなた、どうやら最近は殺人事件の捜査から干されているようですね。この事件を解決すれば名誉挽回出来る、そう思って必死に捜査をするのはわかりますが、手柄を焦るばかりに自分の思い通りの結論に事件を歪めるのはやめていただきたい」

 ああ、そうか。わたしはようやく腑に落ちる。この時のためだったのだ。爬虫類が彼を推薦したのは、彼が仲間を疑うことが出来ない刑事だという理由だけではなかったんだ。仮に自分達の思い通りの結論に辿り着かなかった場合は、手柄を焦った刑事が事件を歪めていると主張することが出来る、そんな保険までかけていたのか。

彼も同じ結論に思い至ったのか黙り込んでしまう。このまま爬虫類に黙って丸め込まれるつもりか。彼が黙り込んだことをいいことに、爬虫類はぐいっと胸を張って捜査一課長に宣告する。

「皆さんの捜査にケチをつけるのは本意ではありませんが、仲間を殺された私達を責め立てようとする姿勢は、到底、受け入れられるものではありませんね」

 爬虫類の言葉に刑務所長もうなずいてみせる。

「捜査一課長。ここではっきりさせよう。君の部下は、現在取り調べを受けている囚人は刑務所側がでっち上げた犯人であると主張している。それを捜査一課長として、捜査一課として支持するかね?」

 最後通告だ。未未市警察と東洲区重警備刑務所が真正面から対峙するつもりかと相手はたずねている。元々、あの脱走事件以降両者の関係はこじれにこじれている。「少し協議してもかまいませんかな?」捜査一課長は刑務所長にたずねる。好きにしたまえ。所長の言葉に課長は彼に向かって顎をくいっと動かし、彼は彼でため息交じりに首を振ると課長の方へと歩いていく。わたしもイスからおりると課長と刑事達が待つ方へと歩く。

「東方。状況は理解しているだろう?」

「あなたがこんな場所にまで出張ってきているんです。理解しているつもりですよ。上は何と言ってきているんです?」

「D区画は法務省の管轄する政府機関だ。未未市であって未未市ではない。厳密な意味では捜査権限はわれわれにはない。あくまで法務省から委託され成立している。彼等が拒めば捜査は即終了だ」

「だから、上は何と言ってきているんです?」

「捜査の中止命令が出た」

 何ですって。彼は顔面を歪めると課長に問い直す。

「手を引けと言うんですか?」

 ちょっと待って下さい。わたしは思わず口を挟む。「法務省から市警察にそう命令が下りてきたんですか? 管理委員会からわたしには、何も指示は出ていません」

 わたしを一瞥すると課長は不快そうな表情を浮かべる。どうやらわたしのことは気に入ってもらえていないらしい。

「むろん、法務省から直接圧力があったわけではない。だが刑務所長を通してD区画におけるお前の捜査活動が彼等の業務に支障をきたしていると警察委員会に陳情があった。警察委員会には法務省のOBが大勢いる。厄介ごとを恐れた上層部は、現在行われている取り調べを持って捜査を終了するようにと私に通達してきた」

「これは殺人事件の捜査ですよ。そんな政治に付き合えと言うんですか?」

「当たり前だ。上に忖度するのが組織にいる人間の役割だ」

「はっきりと言う」彼は苦々しく口元を歪める。

「東方。捜査一課の公式の捜査である以上、捜査一課の名前に泥を塗るわけにはいかない。捜査を続けるだけの納得出来る材料を示せないのなら、黙って撤退するしかない」

 彼はしかめっ面をして黙り込む。囚人が殺人を自白している以上、捜査を継続するにはその自白がでっち上げであることを証明する必要があるが、それには時間がなさすぎる。大体、わたし達は自白した囚人のことをろくに知りもしないのだ。事件直後の事情聴取をあの囚人に対しても行ったはずだが記憶にすら残っていない。どうやって自白がでっち上げだと証明するというのだ。

 いや、違う。

 違う。問題はそこじゃない。

わたしが考えるべき問題はそこじゃないだろ。

今、課長は、これはただの忖度だと言った。法務省から直接捜査の終了を命じられたわけではないと言った。何故だ。何故、法務省は介入してこないんだ?

 強烈な違和感が押し寄せ、わたしの脳裏にあの猫の目をした優男の顔が浮かぶ。どうしてあの男が介入してこない。ここは水曜日計画の本体。機密情報の開示請求までしたわたしの行動を放置しているはずがない。今起きているこの事態を当然、九尾の猫は把握しているはずだ。それなのにどうして。わたし達は違法賭博を告発しようとまでしているんだ。何故、あの男はわたし達をここから締め出そうとしないんだ?

 足踏みを続けるわたし達に、刑務所長が厳しい口調で告げる。

「捜査一課長。これが捜査一課としての総意ではなく、現場の一刑事の単なるスタンドプレーであるのなら、彼の謝罪をもってわれわれはこれまでの非礼には目をつぶろう」

 刑務所長の言葉に彼はひるむことなく言い返す。

「まだ取り調べの最中ですよ」

「はねっ返りが。君の意見など最早関係ない。私は今、捜査一課長と話をしているのだ」

「課長、」彼は課長に詰め寄る。「本気でこのまま引き下がるんですか? 市警察をコケにされたままで」

「そもそもお前のやり方がまずかったんだ。捜査を続けたければ証拠を示せ。囚人の証言が偽証であるという証拠、違法賭博の証拠、半年前の囚人殺しの違法性、何でもいい、現状を変えたければたった一つでも根拠を示せ」

 考えろ。このままでは時間切れになる。わたしが今するべきことは何だ? わたしに出来ること、わたしにしか出来ないことを考えるんだ。

「証拠はありませんよ」

「だったらわれわれの負けだ、東方」

「ですが課長、上からの指示は、加藤刑務官殺害事件の捜査の中止、ですよね?」

 えっ。わたしは思わず彼の顔を覗き込む。

「この事件の捜査が続けられないというのなら、半年前の斉藤殺しの捜査を行うまでです」

「言ったはずだ。あの事件を蒸し返すことは出来ない」

「やってみなければわからんでしょう?」

 そう言うと、彼は刑務所長とそれに付き従っている小柄な鰐男に向かって言い放つ。

「半年前の斉藤雅文脱走事件。あれは脱走事件ではありません。あれは、D区画の刑務官による斉藤雅文の殺害事件です」

 まったく予想していなかった言葉に、爬虫類は文字通り言葉を失い大きく口を開いたまま固まっている。困惑した表情で刑務所長が彼に向かって言う。

「貴様は何の話をしている。脱走した斉藤雅文が逃走中に事故で死亡したと結論付けたのは市警察だろう」

「ええ。市警察は誤った結論を下しました。斉藤雅文は刑務所から出た時点ですでに死んでいたんです。死体が下水管を通ってあの工業用水路まで流れ着いたんです」

「彼は何を言っているんだ?」

 どう返答すべきか迷っているのか捜査一課長は答えない。

「所長。聞きましたか今の。彼は妄想に取り憑かれた狂人と言ってもいい。さっさとここから追い出して下さい。これ以上、好き勝手な真似は許されません」

 きいきいとがなり立てる爬虫類を意に介すことなく彼は言い返す。

「まああんた達にも同情すべき点はある。隠した死体を回収するつもりだったが、B級映画的リアリティって奴のおかげで死体は下水管を流れ行方不明となり、脱走事件はこじれにこじれて社会問題にまで発展した。だが、すでに死んでいた斉藤雅文を責めても始まらない。あんた達はただただ運が悪かった」

「あなた、完璧にイカれていますよ」

「一体何なんだ、この茶番は」

 突然、刑務所長が大声を上げる。その声に誰もがびくりと体を震わせ、部屋の空気が張り詰める。そんな中、彼は眉をひそめ、それからゆっくりと顔を歪めるといつもの甲高い下品な声で笑い出す。

「そうか、あなたは知らなかったのか?」

 それから彼は捜査一課長にぐいっと歩み寄ると押し殺すような唸り声を上げる。

「課長。刑務所長を説得して下さい。彼はD区画とはつながっていませんよ。彼を説得することが出来れば、捜査を続けることが出来ます」

「東方。何度も言わせるな。説得するには材料が必要なんだ。半年前の脱走事件に触れると言うなら尚更だ」

「もうやめないか」刑務所長の声は一段と厳しい気配を増している。「これ以上は聞くに堪えない。捜査一課長、即刻この刑務所から出て行っていただきたい」

 手は尽きたのか。これで終わりか。せっかくここまでたどり着いたというのに。法務省が介入してきていない今がチャンスのはずなのに。

 ざわり。わたしの背中の毛が逆立つ。

 そう、法務省が介入してきていない。あの男が介入してきていない。そのことの意味をわたしはもっと考えるべきだ。D区画は水曜日計画の中心だ。その秘密を暴こうとしているわたし達を排除しないのは、排除出来ないからそうしないのではなく、排除する必要がないからそうしないのでもなく、排除すべきではないからそうしているんだ。あの男は意味のないことなど絶対にしない。あの男がわたし達の捜査に介入してこないのは、そうする必要があるからそうしているんだ。あの男はあの男の意思で何かしらの思惑を持って、わたし達に捜査を続けさせようとしているのだ。 

 でもどうして、一体何のために。いやそれは問題じゃない。あの男の真意は問題じゃない。あの男がわたし達に捜査を続けさせたいと思っている、それ自体が重要なんだ。捜査を続けさせたいということは、続けることが出来るということだ。この状況を突破する鍵をわたし達は持っているということだ。わたし達はもうすでに、答えを手に入れているということだ。わたしが気付いていないだけ。そうは見えていないだけ。でもわたし達はもう答えを持っている。それじゃあまるで、

「クロスワードパズルだ、」

 わたしは思わずつぶやく。

彼が怪訝そうな顔でちらりとこちらを見る。

 そう、まるでクロスワードパズルだ。まったく関係のない顔をした様々な鍵を組み合わせることで、意味のある言葉が浮かび上がってくる。それと同じことをするべきだ。わたし達はすでに、様々な鍵を手にしている。一見、無関係に見える鍵をどう組み合わせるかだ。考えろ。この数日間、D区画で見たこと、聞いたこと、知ったことを組み合わせろ。何だ。一体わたしは何を見て何を聞いて何を知ったのだ。無関係なそれらを組み合わせろ。ばらばらのピースを組み合わせるんだ。

 ばらばら?

 わたしは再び自分の頭に響いた声に引っかかる。ばらばら。その響きに頭の中である映像が唐突に浮かぶ。あれはたしかわたしが初めて彼と出会った日。あの日、あの刑事部屋に初めて足を踏み入れた日。わたしは、わたしは鞄の中身をぶちまけた。鞄の中身が背中から刑事部屋の床にばらばらと散らばる映像が唐突にわたしの頭に浮かぶ。手帳やペンがちらばる場面がスローモーションで浮かんでは消える。ばらばらと。そして先程も同じことが起きた。この所長室に入った時、わたしは再び鞄の中身をぶちまけた。ばらばらと宙に舞うノートに資料に文庫本、その映像が頭の中に浮かぶと同時にわたしは理解する。完璧に理解する。そうかそうかそうかそうかそうか。これが鍵だ。最初からわたしは鍵を手にしていたんだ。

 斉藤雅文は夜勤帯で殺害されが、死体の隠蔽や脱走事件のでっち上げなどの偽装工作は、翌朝以降に行われている。これはつまり、夜勤帯だけでなくD区画の刑務官全員が関わっているということだ。仮に、加藤と松井によって斉藤雅文が殺害されたとして、どうしてD区画はこの二人を生贄に差し出すという選択をしなかったのだろうか。粗野で向こう見ずで愚かな刑務官が二人いた。彼等を告発すればいいだけなのに、どうして他の刑務官まで巻き込んでの偽装工作が行われたのだろうか。事実、それから二週間後に起きた七海圭吾の殺害は、管理委員会に報告されている。だとしたら答えは一つだ。斉藤雅文の死には最初から複数の刑務官が関わっていた。D区画の刑務官全員が関わっていた。斉藤雅文の死の経緯が明るみになると全員の刑務官がまずい立場に追いやられる可能性があった。だとするとこう考えるのが一番自然だ。斉藤雅文の死には、D区画で行われている違法賭博が関係していた。

 正解、正解、正解、正解、正解。

 だから監房には鍵がかけられず、防犯カメラが設置されていないんだ。夜間帯に囚人が自由に監房を出入りする環境を作りその記録が残らないようにする、その状況をD区画が求めているということはつまり、夜間、囚人が関わる違法賭博が行われているということだ。囚人が関わる違法賭博。それこそが、脱走事件をでっち上げてでも隠そうとしたD区画の秘密なんだ。

「茶番は終わりにしましょう。囚人を取調室から監房に戻しますよ」

 爬虫類の言葉に、捜査一課長も仕方あるまいと首を振る。

「いいえ。残念ながら茶番はまだ続きます。だってわたし達はもう、答えを知っているじゃないですか」

 わたしの言葉に、部屋にいる全員の視線が一斉にこちらに集まる。わたしは鞄を開くとその中に右手を突っ込む。怪訝そうにこちらを見る彼の目の前にわたしは差し出す。古ぼけた手書きの値札のシールが貼られた一冊の文庫本。

「ボクサア?」

 そう。ヒロ・イシグロの遺作。

「事情聴取での彼の言葉。あれは小説の話でも認知症の迷いごとでもなかったんです。きっと彼は東方さんの言葉がうれしかったんです。自分のことを覚えていてくれて、しかも自分の書いたものをきちんと受け取ってくれている読者に出会い、だから彼は教えてくれたんです。答えを。D区画で行われている秘密をわたし達に教えてくれていたんです。わたし達は最初から答えを手にしていたんです」

 そう。捜査の初日から、答えはわたし達の目の前にあった。

「ボクシングです」これが正解のはずだ。「ここでは囚人によるボクシングの違法賭博が行われているんです」

 わたしをじっと見つめ、それから彼は、そうかと何度もうなずく。わたしが見えたのであれば彼にもこの景色が見えたはずだ。理解したはずだ。「斉藤雅文が死亡した翌日、七海圭吾は全身打撲で医務室を受診していたな」

「どういうことだ。わかるように言え」

 苛立つ課長に彼は言う。

「七海圭吾が斉藤雅文を殺害したんですよ」

 そう。だがそれは囚人同士の単なる喧嘩ではない。D区画では囚人の不審死は日常的に起きている。何も隠すようなことではない。だがもし、その背景に刑務官の違法賭博があるとすると話が変ってくる。

「あのD区画では囚人を使ったボクシングの違法賭博が行われているんです。そしてあの夜、斉藤雅文と七海圭吾が試合を行い、七海は斉藤を殺害してしまった」

 そして斉藤雅文の死は隠蔽され、口封じのために七海圭吾も殺害された。囚人の人権を守るために作られた法務省直轄の特別実験区画で、囚人の命を使った違法賭博が行われているとすると、それは人を殺すだけの秘密になる。

 ちらりと見ると、彼の言葉に刑務所長は明らかに困惑し、鰐男の顔面には大量の脂汗が浮かんでいる。

「君達は一体何の話を、」

「あんた、そこの爬虫類に騙されているんですよ」彼は刑務所長に強い口調で告げる。「D区画にはあなたの知らない秘密がいっぱいだ。彼等は囚人の命を使ってギャンブルをしているんです」

「言いがかりだ。見当違いも甚だしい。ボクシング? どこで何を聞いたか知りませんがまたもや妄想ですか? よろしいですか。D区画では以前、スポーツによる囚人への心理状態を研究するために、試験的にボクシング大会を行っていました。社会復帰プログラムの一環です。ですが、一年前に重大な負傷者が出て以降、ボクシング大会は中止となり、以後は行われておりません」

 爬虫類の悲鳴にも似た言葉はわたし達に向けてではなく、刑務所長への必死の弁解に聞こえる。

「所長。これは捜査の継続を認めさせるための卑劣な出まかせです」それから爬虫類はわたしに標的を定めたのか、まるで食い殺さんばかりの勢いでわたしに詰め寄ると唾を吐き散らしながらわめく。「いいですか。ここでは囚人達が青痣を作ることは珍しくもありません。彼等が勝手に殴り合うことはあっても、私達が彼等に殴り合いをさせるなんてことはあり得ません。馬鹿馬鹿しい、ひどいでっち上げだ」そして爬虫類は刑務所長にきっぱりと言い放つ。「所長。彼等がどんな妄想を抱くのも自由ですが、これ以上の侮辱は我慢出来ません。即刻、彼等をここから追い出して下さい」

 刑務所長は困惑を隠し切れずにいる。D区画で起きた刑務官殺害事件、その犯人だと名乗り出た囚人が刑務所側のでっち上げだと刑事が騒いでいる、彼はきっとその程度の認識だったのだろう。だがこのわずかな時間で、次々と飛び出してきた自分の想定していなかった事態に、明らかに迷いが生じている。しかも、もしここでの話がすべて事実であれば、自分の進退にも関わる重大な事態だ。刑事の言葉を信じるならば捜査に協力し、自らD区画の状況を正すことこそが最善の策、そういう迷いが生じている。攻めるなら今だ。ここで引き下がるわけにはいかない。わたしは刑務所長に狙いを定めると一歩前に出る。

「刑務所長。これは妄想でもでっち上げでもありません。D区画では囚人の命を使った賭けボクシングが行われている可能性が高いと思います」

「君は管理委員会の特別捜査官だったな。それを証明出来るのか? 囚人から賭けボクシングの証言でもあれば信じるに足るが、君達はD区画の囚人全員を事情聴取しているのだろう。賭けボクシングについての証言はあったのかね?」

「いいえ」わたしは首を振る。だが、証明は出来る。「ですが証明は出来ます」

 わたしはそれから彼の方を見ながらもう一度言う。

「東方さん、大丈夫です。証明出来ますよ」

 わたしははっきりとそう告げる。彼はわたしをじっと見たあと、わかったとうなずく。

「水沼、証明しろ」

 はい。わたしは彼と捜査一課長に向かって深々と一礼すると部屋から出ていこうとする。わたしに向かって爬虫類が大声を上げる。

「ちょっと待ちなさい。どこに行こうと言うんです。君達にはもう捜査権限はない。捜査一課長がそう言ったではありませんか。刑務所内を勝手に動かれては困りますよ」

「課長。上からの命令は、現在行われている取り調べをもって捜査を終了しろ、そうでしたね?」彼の問いに、課長はああ、とうなずく。「つまり、取り調べが終わらない限り、捜査は続く、そうですよね?」

 彼の言葉に爬虫類の顔色がさっと変わる。捜査一課長は一度眉間にしわを寄せたあと、無論だ、と彼に答える。彼は不敵に笑うと刑務所長と爬虫類の二人に向かって言い放つ。

「俺は、取り調べを中断する、そう宣言してあの部屋を出ました。一度も取り調べの終了は宣言していません」それから彼はわたしに向かってたずねる。「特定刑務所特別実験区画において、囚人の取り調べにおける拘束時間に規定はあるのか?」

「いいえ、ありません」わたしははっきりと答える。

「つまり、俺が取り調べの終了を宣言しない限り、捜査は続く」

「どうあっても、君達は引き下がるつもりはないようだな」

 刑務所長の言葉に、捜査一課長は慇懃にうなずいて応える。

「刑務所長。私の部下のあなた達に対する非礼についてはお詫びします。ですが、これは殺人事件の捜査なんです。権限がこちらにある限りにおいて、われわれに捜査を諦めるという選択肢はありません。二人共、」課長はわたし達に鋭い声で命令する。「捜査しろ」

 はい。わたし達は同時に答え、そして一緒に部屋を出る。

部屋を出ると彼がわたしに言う。

「時間は俺が作る。お前は何が何でも証拠を持ってこい」ええ、とうなずくわたしに彼は問う。「確信はあるんだよな?」

「東方さんはわたしを信じますか?」

その問いに彼はわたしが一番聞きたかった言葉を口にする。

俺は背中を信じる。

 そう言ったあと、彼はわたしに何かを投げてよこす。思わずキャッチすると彼はわたしに告げる。「必要になるかもしれない。使え」そう言ったあと、彼は念を押すようにたずねてくる。「運転免許は持っているんだよな?」「わたし、二十六ですよ」「十五歳にしか見えない」

 そして彼は踵を返すと取調室に向かって歩き出す。わたしは手の中の車のキーを握りしめ廊下の反対側を走り出す。時間はない。わたしはこれからD区画で起きていることを証明しなければならない。

 秘密を暴け。

 秘密を、暴け。


**********


 わたしはエレベーターをおりると足早に廊下を進む。

D区画で賭けボクシングが行われていることを証明するのに、わたしには一つのアイデアがある。加藤の残したノートを信じるならD区画における違法賭博の胴元は加藤と松井だ。夜間に違法賭博が開催されているのだとすると、加藤と松井が夜勤帯の日付に一致して、ボクシングの試合が行われていたはずだ。現時点で彼等の勤務記録を見ることは出来ない。だが。

 医務室の前に立つ刑務官が止めるのを無視してわたしは扉を開ける。突然の来訪者に医者は驚いた顔でわたしを見が、あいにく今は礼儀に気を配っている余裕はない。

「すいません先生、止めたのですが」

 いいのよと医者は刑務官に答える。「ちょうど休憩しようと思っていたところだから」

 医者の言葉に、刑務官はそうですかと不服そうに部屋から出る。わたしは足早に医者の元へと歩み寄る。

「それで、何が知りたいの?」

 わたしの切羽詰まっている気配が伝わったのか、医者は分厚いレンズの眼鏡の奥からわたしをじっと見る。

「一年前までD区画ではボクシング大会が開かれていたんですよね」

「ええ。青痣を作った囚人が山のように来て、とんだ迷惑だったわね。まあ、くだらない大会がなくなったとしても、囚人達の喧嘩は絶えないけど」

「つまり先生はこれまで、ボクシングで殴られた囚人と、喧嘩で殴られた囚人の両方を治療してきた、そうですね」まあ、そうねと医者は答える。「では、医学的に区別がつきますか? ボクシンググローブで殴られた傷と、素手で殴られた傷の違いが」

 もし仮に、違法賭博が開催された日付とボクシンググローブで殴られた傷を持つ囚人が医務室を受診した日付に相関性があると証明出来れば、加藤と松井がボクシング賭博を開催している証拠になるはずだ。だがわたしのこのアイデアは早々に医者によって否定される。

「グローブで殴った傷は打撲痕、主に皮下出血、内出血が多いけど、素手で殴れば皮膚が切れやすい、ということは言えるかもしれないわね。あるいは素手で殴れば指や拳の骨のあとが残ることもある。でも、そんな典型的な傷はそれほど多くはないわ。グローブであっても目の周囲など皮膚の薄いところに当たれば皮膚は切れる。それに素手で殴った場合は自分が骨折するリスクがあるため彼等は喧嘩の際に手に何かを巻いて殴り合う。おまけに顔の傷は刑務官に目立つから彼等は体を殴る。服の上から殴ればますます判別は難しくなる。傷だけで判定することは容易じゃないわね」

 当てが外れたか。わたしは自分の浅はかさに失望する。あれだけ大見えを切って勇んであの部屋から出てきたが、早速わたしは足元をすくわれる。だが、当然物語はこんなところで終わりはしない。動き出した物語は、ちょっとしたつまずいたくらいでひるむことはない。物語は、もう止まらない。

「そう言えば、同じことを彼女が言っていたわね」

 え、どういう意味。わたしは思わず医者を見る。

「昔、ここにいた看護師が何かしきりに調べていたことがあって、一度、あなたと同じことをたずねてきたことがあったわ。同じように答えたけど、夜遅くまで毎日カルテを引っくり返していたわね」

以前はボランティアの看護師がいたのだけど、半年前に不幸な事件があってね。

 わたしはわたしが決定的な最後の鍵を手に入れたことに気付く。クロスワードパズルの最後のマスを埋めたことを自覚する。

「それって、前に言っていた半年前に不幸な事件があった、という看護師のことですか?」

「え、ああ、そうね」

「不幸な事故、ではなく不幸な事件とあなたはおっしゃった。一体何があったんですか?」


**********


 東方日明は仲間の堕落を目の当たりにした。

 背中を信じる。そう誓った男が、仲間に手錠をかけることになった。それがどれほどの絶望だったかわたしにはわからない。だが彼はそんな絶望の淵に立たされながら、それでもなお、もう一度殺人課刑事として生きていく覚悟を決めたのだ。さっきの言葉が本心だったのかはわからない。自分に言い聞かせようとしただけなのかもしれない。必死に殺人課刑事であろうとしているだけなのかもしれない。それでも彼がもう一度、背中を信じると言ったことに、わたしはわたしのなすべきことを理解する。あの美しい季節を思い、これからどうすべきなのかを心の奥の奥でちゃんと理解する。ちゃんと受け止める。

 わたしは殺人課刑事にならなければならない。それが、背中を信じると言った彼に応えるということだ。彼の相棒になるということだ。わたしは今、本物の殺人課刑事にならなければならない。この、エナメルを分厚く塗ったローファーで、空まで踊らなければならない。

 中央管理棟を出ると駐車場にわたしは走る。行き先は決まっている。


**********


埋立地のダイナーで、対峙する男に東方は言う。

「たった一つ、たった一つだ」


**********


 七海圭吾は死の直前に手紙を書いていた。それはあの医務室の看護師で、時を同じくして、その看護師が不幸な事件にあっている。不幸な事故ではなく不幸な事件。わたしの問いに、火のついていないタバコをくわえた医者は、疲れ切ったような口調で答える。

「半年前に亡くなったのよ。彼女、殺されたの」

「殺された?」

「自宅に押し入った強盗に、襲われたのよ」

 もう一つの事件。

半年前、三人の被害者、三つの殺人事件。

 わたしは震える声で、医者の言葉を反芻する。

 半年前、奥田由紀子は殺された。


**********


 東方は男に向かって告げる。

「クロスワードパズルさ。たった一つのピースで、すべてが変ることがある」


**********


「とてもいい子だったわ。ボランティアに来て、人間のクズのような囚人相手にも献身的に対応していた。それが、ちょうどあの脱走事件の頃よ。まさか殺されるなんて」

「自宅に押し入った強盗に殺されたんですか?」

「当時、警察からはそう聞かされたわ。ただね、気になることがあったの。彼女が亡くなる少し前、ある囚人が何度か医務室に彼女を訪ねてきたことがあったの。彼女もその囚人のことを気にかけていたけど、その囚人はそれからほどなくして亡くなってね」

「加藤と松井の二人に殺された七海圭吾ですね」

「そう、先日、あなた達がその件についてたずねてきて、あれからいろいろと思い出したわ。思えば、あの囚人が亡くなってからの彼女の様子は変だった。いつもそわそわして、何かを気にしているようだった」

「手紙のことを聞いたことはありませんか?」

「手紙? ああ、そうね、その亡くなった囚人から手紙が届いたと彼女は言っていたわ。そういえば、彼女はその頃から何かしきりに調べていたわね」

 わたしは確信する。やはり七海圭吾から彼女にあてられた手紙、あれには意味がある。

「あの頃、脱走事件がなかなか解決せず、刑務所内は常に厳戒態勢だったわね。そんな最中に彼女は殺された」

 それから彼女はタバコを耳に挟むと、パソコンのキーボードを叩き、何やらメモに書き込みわたしに手渡す。

「彼女の住所よ。持っていきなさい」

「わたしに協力して大丈夫ですか?」

「彼女はD区画とは直接関係ないし、彼女の住所は機密情報にはあたらないわ。もう死んでいるしね」

 わたしはメモを握りしめると一礼する。

「ご協力、ありがとうございます」

 深々と頭を下げたわたしに医者は言う。「彼女の死について何かわかったら教えて」

はい。わたしははっきりとそう答える。

 それからわたしは中央管理棟から外に出る。駐車場に向かうと、ぼろぼろの2CVの前に二人の男の姿がある。

「大島さん、杉本さん、どうして、」

「課長に言われたのさ。お前のお守をしろってな」

 大島刑事はそう言うと肩をすくめてみせる。ほんと、どこまでもわたしに甘い先輩達だ。

運転席に乗り込みキーを差し込むとエンジンをかける。「お前、運転大丈夫だよな」助手席で大島刑事が言い、「シートベルトして下さいね」とわたしは答える。後部座席で杉本刑事が慌ててシートベルトを締める音を聞いたあと、わたしはぐいっとアクセルを踏み込む。がろろろろろろ。車は激しく車体を揺らしながら走り出す。


**********

 

医者からもらった奥田由紀子の住所。

 東洲区上葉町西三丁目二番地アルプスコート1302号。自宅に押し込み強盗が入ったのであれば管轄は東洲区分署。大島刑事が助手席で携帯電話を片手に東洲区分署に事件の概要を問い合わせる。「奥田由紀子は半年前、仕事から帰宅したところ自宅に侵入していた犯人と鉢合わせ、複数回ナイフで背中を刺されて殺害されたらしい」背中を複数回。単なる偶然か? 「捜査で顔見知りの犯行が疑われたが、被害者は元々家族がおらず、友人関係も広くない。主な人間関係は職場ということで過去に勤務していた病院などが調べられていたが、結局犯人は挙がらず捜査は迷宮入りとなったようだ。当時の担当刑事に連絡を取っている。分署に向かおう」ギアをがこんと動かしアクセルを踏む。頼むからまだ壊れないでよ。ハンドルを切ると車は中央高速に乗る。

 仕事以外の人間関係が希薄ということは、ボランティアをしていた東洲区重警備刑務所にも捜査の目は向けられていたはずだ。だが当時は脱走事件の大騒動の最中だ。刑務所のボランティアの看護師が殺害されたとなればマスコミの格好の餌食になる。とすると、捜査が迷宮入りになったのも七海圭吾の事件が不自然なほどあっさりと正当防衛と判断されたように、事態をおおごとにしたくない何らかの力が働いた可能性は否定出来ないだろう。

 三十分ほど車を走らせ、東洲区分署のコンクリートの建物の前にわたしは乱暴に車を停める。制服警官に何やら文句を言われるが無視。わたし達は階段を駆け上がると正面入り口に立つ制服警官に警察手帳を提示。首都警察の水沼警部ですと名乗ると、刑事がお待ちですと案内される。

 ちん。エレベーターが停まり、刑事部屋にわたし達は入る。首都警察の警部と市警察本部捜査一課の刑事二人がわざわざ出張ってきたことで、東洲区分署の刑事部屋には緊張感が漂っている。奥田由紀子の事件を担当した刑事が、額の汗をハンカチでぬぐいながら当時のことを教えてくれる。

「変な事件でしたよ。ある日突然、捜査が中断されたんです」辺りを見回すと声を落として年老いた刑事はわたし達に言う。「圧力がかかって捜査が中止されたというのが正確なところでして、」「捜査資料を見ると、当時、市警察の捜査一課に、捜査協力依頼が出されていますね」大島刑事の言葉に、ええと刑事はうなずく。「覚えていますよ。がっしりとした体形の、こう、目の下に隈のある、」「東方刑事、ですか?」わたしの言葉に、ああ、そうでしたと刑事はうなずく。「ほら、あれでしょう。彼は警官殺しの、」「ええ、そうですね」と大島刑事が答える。「いいアドバイスをしていただいたんですがね、成果を上げられる前に捜査が終わってしまい、残念ながらお宮になってしまいました」「あいつがいい加減な助言をしたから迷宮入りになっただけじゃないのか」という大島刑事の混ぜっ返しに、あり得るなと杉本刑事もうなずく。

捜査資料を確認し終えると、わたし達は証拠品保管庫に向かう。「それにしても、俺達まで厄介ごとに巻き込みやがって、これは貸しだぞ」と言う大島刑事にわたしは神妙な面持ちで言う。「持つべきものは頼れる先輩ですよね」「変わらないな、お前は」呆れた杉本刑事にわたしは鼻を鳴らす。「褒めてます?」「もちろんだ。お前は何しろあいつの顔面を張った期待の星だからな。もう一度やれ。それで今回の貸しはちゃらにしてやる」「どうしてそんなに仲が悪いんですか?」わたしの言葉に二人の刑事は足を止めてこちらを見る。「先祖に因縁があるんだ」と大島刑事。「遺伝子が反発している」と杉本刑事。仲のよろしいことで。

 ブザーが鳴り鉄格子の扉が開く。証拠品保管室に入ると、刑事は奥から箱を抱えてやってくる。箱の中には被害者の遺留品に事件の証拠品が無秩序に押し込められている。わたしは一つ一つ証拠品をあらためていく。

被害者の机から押収されたという手紙の束が出てきて、ビンゴ、わたしは一通一通確認していき件の手紙を見つける。七海圭吾が死の直前に奥田由紀子に送った手紙。封筒は東洲区重警備刑務所の刻印が入った既定の封筒。封筒自体に意味はないだろう。中にはコピーで見たのと同じ手紙が入っている。便箋自体は刑務所指定の物。右端に宛先の住所や電話番号、氏名が書かれている。文章自体は前に見た通り、定型文の羅列でここに意味はないように思える。ただ、死の直前に医務室で会っていたという二人。礼なら直接言う機会はいくらでもあったはず。何故、わざわざ手紙を書いたのか。意味がないとは思えない。ここには絶対に何かが隠されている。一体何だ?

 複雑な暗号が隠されているとは思えない。七海圭吾がそれほど知的な人間であるかどうかは知らないが、少なくとも暗号であるならば、送る相手が読めなければ意味がない。この文章がつまらない定型文ならやっぱりつまらない定型文でしかないはずだ。だとすると、他に意味があるのは本文以外の部分ということになる。封筒の宛先は刑務所側が記載した物。とすると、便箋の中の宛先の欄しか残されていない。

 送り先氏名『奥田由紀子』、ここに意味はないだろう。住所、わたしがあの医者からもらったメモと一致している。これも何かが隠されているとは思えない。とすると、

「電話番号?」

 わたしは思わずつぶやく。そうだ。どうして七海圭吾はわざわざ宛先の欄に電話番号など書いたのだろう? 手紙を届けるのに電話番号は必要ない。事実、封筒の方には住所と氏名しか転記されていない。七海圭吾は何のために電話番号を書いたんだ? いや、そもそも七海圭吾はどうやって奥田由紀子の住所や電話番号を知ったんだ。いくら仲が良くなったとしても若い女性が囚人相手に個人情報を教えたりするだろうか。わたしはそういえばとポケットの中からあの医者にもらったメモを取り出す。彼女は電子カルテを開いてこの住所を書いてくれた。きっと奥田由紀子はあの医務室を受診したことがあるのだろう。重病でなくともちょっとした眠剤を処方してもらったことくらいあっても不思議はない。あの医務室には彼女のカルテがあり、彼女のカルテには彼女の個人情報が載っている。だから医者は彼女のカルテを開き、この住所を確認した。七海圭吾も同じことをしたのだろうか。

「だとしてもどうしてわざわざ電話番号を」

 わたしはそうつぶやくと捜査資料に手を伸ばす。七海圭吾が手紙に記載したのは携帯電話番号じゃない、自宅の固定電話の番号だ。だが、押収記録には、ない、ないぞ。事件当時の写真を確認するが、彼女は自宅に電話を引いていないのか? 若い女性だ。携帯電話しか持っていなくても不思議はない。しかも奥田由紀子に家族はいなかったはずだ。身寄りがないのなら実家の電話番号というわけでもないだろう。とすると、七海圭吾が宛先の欄に書いたこの電話番号は、一体誰の番号なんだ?

番号の照会をかけよう。大島刑事が言うが、わたしはその必要はありませんと答える。そして自分の携帯電話で七海圭吾が記載した謎の電話番号を押す。わたしには確信がある。この番号にかけて受話器を取るのは間違いなく、

「もしもし、七海でございます」

 女性の声。ビンゴ。ほんと、いい勘してる。


**********


 住所を教えてもらいわたし達が訪れたのは七海圭吾の生家で、古めかしい一軒家のインターホンを鳴らすと六十を過ぎているだろう小柄な女性が出てくる。「七海圭吾の母です」と彼女は頭を下げ、わたし達も丁寧にあいさつを交わす。「本当に親不孝な子です。皆様には最後の最後までご迷惑をおかけして」曲がった背中をさらに大きく折り曲げて頭を下げる母親にわたしはいたたまれなくなる。「それで、本日は一体どのようなご用件でしょうか?」母親の問いに、半年も経ってしまいましたがお線香を上げに伺わせていただきましたとわたしは答える。「刑務所の方ですか」との問いに、関係者ですとわたしは答える。嘘ではない。

 家に上げてもらい殺風景な和室の仏壇でわたし達は手を合わせる。お茶を運んできた母親に、つかぬことをお伺いしますとわたしは話を切り出す。「息子さんが亡くなられてから、どなたか訪ねてきた方はいませんでしたか?」「いいえ。線香の一つも上げに来る方は、」そこで母親は言葉を切ると、それからああそうだ、と思い出したかのように言葉を続ける。「あの子が死んで一週間くらいした頃に一人だけ、若い女性が手を合わせに来て下さいました。あの方も刑務所の方だとおっしゃっていました」「この方、でしょうか?」わたしが差し出した写真を母親はしばらくじっと見つめていたが、やがて首を振る。「すいません。はっきりとは覚えておりません」「そうですか。お茶、ごちそうさまでした。それではわれわれはこれで」立ち上がるとわたし達は一礼する。玄関に向かおうとして、わたしは母親にたずねる。「すいません。実は携帯電話のバッテリーが切れていまして。もしよろしければ電話をお借りすることは出来ますか?」「はい、かまいませんが、こちらです」母親が台所に案内してくれる。台所の隅の電話台の上に置かれた白いプッシュボタン式の固定電話機。留守番電話が38件とたまっているが、どうやら母親は機械には疎いらしい。

「わたし以外に、誰かこの電話を借りた方はいましたか?」「電話をですか。おかしなことをお聞きになりますねえ」そう言うと、母親はしばらく考え込み、「ああ、そうだ。それこそ線香を上げに来てくれたあの方も、たしか電話を貸してほしいと」正解、正解、正解、またしても大正解。わたしは自分の正しさを確信する。それからわたしは受話器を手にすると、ボタンを一つ押す。


**********


「証拠を見つけてきました」

 中央管理棟の取調室の扉を開くなりわたしは言う。

 あれから半日近く経ったが、彼はまだこの小さな部屋の中で囚人に相対している。ずっとここでわたしを待っていてくれたのか。ゆっくりと振り返った彼は、わたしとそれに付き添うように立つ二人の刑事の姿に鼻を鳴らす。

「遅えよ、まったく」


【TEN】


わたしは小さい頃からミステリー小説が好きで、いつか小説の中の主人公のようになりたいと警察官を志し、未未市警察の殺人課の刑事達に出会い彼等に憧れ、紆余曲折を経て今、東洲区重警備刑務所の所長室にいる。ミステリーといえば、最後に関係者が一堂に会して謎解きを披露するのが見せ場だが、ようやく降ってわいてきたその機会に舞い上がるほどわたしは子供ではない。今、この殺伐とした空気が充満した所長室でこれから話をしなければならないのは気が重いし、何より自分の組み立てた理論に少しでもほころびがあれば大恥をかくだけではすまないだろう。刑務所長、D区画刑務主任、市警察捜査一課長、そして尊敬すべき三名の未未市警察捜査一課の刑事達。彼等を前に、わたしは大きく深呼吸すると、それでは始めます、と宣言する。

「最初にこれを刑務所長に提出いたします」

 わたしは一枚の書類を刑務所長の机の上に置く。

「何だね、これは?」

「未未市中央裁判所が発行した逮捕状です。松井刑務官を逮捕します」

 わたしの言葉に、爬虫類が飛び跳ねながらわたしに牙をむく。

「どういうつもりですか。あなたはまさか、松井が加藤を殺したとおっしゃるのですか?」

「誤解なさらないで下さい。加藤刑務官殺しではありませんよ。わたしが請求した逮捕状は、奥田由紀子殺害事件の容疑です」

「奥田由紀子? 一体、誰だ」

 刑務所長がわたしにたずねる。

「以前、ここの医務室にいたボランティアの看護師です。彼女は半年前に自宅で押し込み強盗によって殺害されています」

「半年前だと。一体、何人が死んでいるんだ?」

 刑務所長が困惑した声を上げる。

「半年前。それがすべての始まりです。脱走、いえ、ここでは行方不明という言い方がふさわしいでしょう。行方不明になった斉藤雅文、彼と同房でその後に加藤と松井に殺害された七海圭吾、そしてそれからほどなくして押し込み強盗にあった奥田由紀子。三人が相次いで殺害された半年前の一連の事件。そのすべての原因に、加藤と松井がD区画で開催していたボクシングの違法賭博がありました」

「見てきたようなことを。何の証拠があるんです?」

 爬虫類が必死の形相でわたしに食ってかかる。

「見てきたんじゃありませんよ。聞いたんです」

 わたしはそう言うと、ポケットから小さなカセットテープを取り出す。

「これが証拠です」

「当ててやろうか」わたしの背後で壁にもたれかかって腕組みをしている男が言う。「留守番電話だな」

 彼の言葉にわたしは大きくうなずく。「その通りです。これは七海圭吾が残した証言です。D区画内で行われているボクシング賭博の実態、そして行方不明になった斉藤雅文について彼がすべて証言しています。加藤と松井は証人の口を塞いだと思っていたはずです。でも残っていたんです。証言が残されていました」

「留守番電話とは何だ。順を追って説明しろ」

 捜査一課長の言葉に、わたしははい、と答えると顔の前で祈るように両手を合わせる。わたしが知恵の王宮の住人になるための儀式。殺人課刑事になるための儀式。話すべきことを一度頭の中で反芻し、それからぐるりと部屋の中を見回す。

「法務省直轄特定刑務所第四実験区画、通称D区画では違法賭博が行われています。胴元は加藤と松井の二人の刑務官。違法賭博には複数の刑務官が参加していると思われます。賭博の実態は囚人を使ったボクシングです。試合は加藤と松井の二人が勤務につく夜勤帯に開催されていたようです。D区画監房エリアは防犯カメラもなく夜間も監房は施錠されません。これは法務省の定める規定ではなく、D区画側から申請した仕様です。囚人達を監房エリアから連れ出しボクシングをさせるにはもってこいの環境だということはおわかりになると思います」わたしはそこまで言うと、一度小さく唇を鳴らす。「では、次に具体的に何が行われていたかを説明します。加藤と松井は何か違反をした囚人に、余興としてボクシングを行い、試合に勝てば懲罰房行きを免除してやると持ちかけます。普段から自由を満喫している囚人達にとって懲罰房に閉じ込められることがかなりの苦痛であることは想像に難くありません。暴力犯罪で収監されている血気盛んな囚人達にとっては願ってもない救済措置です、断る理由はないでしょう。そうやって夜間に秘密のボクシング大会が開かれていました。もちろんあくまで単なる余興で賭博の件は囚人達にはひた隠しにしていたはずです。囚人の命を使った賭博なんて、人権侵害も甚だしいですからね。一方で余興である限り、囚人達からボクシング大会の秘密が漏れる可能性は低いと踏んでいたはずです。ボクシング大会の存在が外に漏れれば、夜間の監房は施錠され監視カメラが設置されることになる、囚人達はそのことをよくわかっています。人間は一度、与えられた自由を奪われることを極端に嫌います。夜間の自由を確保するためにも、囚人達からボクシング大会の存在が漏れる心配はないと考えていたはずですし、事実そうでした」

「だがそんなに都合よく、加藤と松井の夜勤帯に合わせて囚人が懲罰房行きになるとは限らないだろう」

 課長の指摘にわたしはええ、とうなずく。通常あり得ないことはやっぱりあり得ない。偶然でないとすると答えは一つしかない。

「当然、濡れ衣をかけたんです。賭博の開催が決まりターゲットを選ぶと、その囚人に冤罪で懲罰房行きを宣告したんです」あるはずのないナイフが七海圭吾のベッドから見つかったように。「囚人達にとっては寝耳に水。きっと彼等は対立する囚人グループによって仕組まれたと思ったはずです。とすればなおさら、試合に勝てば懲罰房を免れるという提案は願ってもないチャンスです。刑務官には感謝こそすれ恨みを抱くことはない。そうして何も知らない囚人達の裏で、刑務官達はその試合の勝敗に賭けていました」

「出鱈目です」爬虫類が全身を震わせながら抗議するが、当然わたしは無視。

「それでは半年前のあの日、一体何が起きたのでしょうか。生贄として選ばれたのは、日中に刑務官と揉め事を起こした斉藤雅文と七海圭吾でした。彼等は決められた時間に監房から抜け出し地下のジムへと向かいました。ここまでは予定通りでした。いつも通り二人はグローブをはめリングに立った。そして悲劇が起きたんです」

「七海圭吾が斉藤雅文を殺した。二人は元々、憎み合っていたのか」

 課長の言葉に、わたしはいいえと大きく首を振る。

「最初はそう思っていました。ですが実際は違いました。二人は仲違いしていたわけでも憎しみあっていたわけでもありません。その逆です。だからこそ、この悲劇は起きたんです。七海圭吾の証言によれば、試合は七海が勝ったようです。試合に負けた斉藤雅文は、加藤と松井によって懲罰房に連行されて行った。懲罰房に向かう斉藤は自分の足で歩いていったそうです。そして監房エリアと懲罰房に間にあるエアロックに入り、悲劇は起きた」

 わたしは手を下ろすと爬虫類を睨みつけて言う。

「七海圭吾の証言によると、試合が終わり懲罰房に連行される際に、斉藤は七海に目配せをしてきたそうです。七海は斉藤と比べて体格は小柄で性格も比較的大人しいタイプです。真正面から殴り合えば七海が斉藤に勝つことは難しい。斉藤と七海は同房で仲良くやっていました。だから、どちらかが大怪我をする前に、斉藤はわざと負けて試合を終わらせた、斉藤は八百長をしたんです」

 八百長ボクシング、それこそがヒロ・イシグロの遺言。

「斉藤の優しさ、それが命取りでした。加藤と松井は斉藤が勝つ方に賭けていたんです。試合中、加藤と松井は斉藤に向かって、俺達に損をさせるつもりかとはっぱをかけるのを七海は聞いたと証言しています。あの試合が賭博対象だということは知らなかった七海と斉藤です。だからこそ、ただの余興だと思っていたからこそ無邪気に八百長を演じ、そして加藤と松井は賭けに負けた」

「まさか、賭けに負けた腹いせに斎藤を殺害したのか?」課長が唸るように言う。

「あるいは八百長を見抜かれたかです。普通に考えれば斉藤が勝つに決まっていますから。そして懲罰房へと連行された斉藤はその後、二度と帰ってくることはありませんでした。七海は自分の監房に戻ってしばらくして、監房エリアの刑務官が慌てて特別監房の方に走っていったところを見ています。何か不測の事態が起きたことは間違いないでしょう」

「七海圭吾の証言を信じるならば、斉藤雅文は脱走ではなく殺害されたと考えるべきだろうな」課長が神妙な面持ちで言う。市警察の捜査が誤った結果であることを受け入れるのは彼には耐えがたいことであろうが、真実には誠実に向き合おうとする姿は、彼もまた警察官であることを示している。

「もちろん彼等に最初から斉藤への殺意があったとは思えません。斉藤を殺せば、最早ただの余興ではなくなってしまう。違法賭博の実態が明るみに出ることは、加藤と松井にとって最も恐れることです。もし仮に違法賭博の秘密が主要な囚人グループに知られることとなれば、D区画内での力関係は一変します。弱みを握られた刑務官が囚人に支配される恐れがある。だからこそ違法賭博は絶対に守らなければならない秘密です。彼等にとって斉藤雅文を殺すことは悪手以外の何者でもありません。故殺ではなかったはずです。ですが、それでも過剰な暴行によって斉藤を死亡させたのは紛れもない事実です。誰か囚人に罪をなすりつけることが出来れば問題はなかったのでしょう。例の如く囚人の不審死として扱えばいい。ですが彼等は警棒など腰に下げている武器を使用しました。医者により死体の検分がなされれば刑務官による虐待死であることが確定します。そして何よりも、彼等は監房エリアと特別監房エリアの間のエアロック内で斉藤雅文を殺害してしまった。囚人が入ることの出来ない場所で殺害した以上、殺したのは刑務官でしかあり得ません。だから彼等は斉藤雅文の死体を隠す必要があったんです。エアロックにある斉藤雅文の死体を、絶対に誰にも見られるわけにはいかなかった。彼等はパニックになったはずです。すべてが終わる。違法賭博に関わったすべての刑務官の人生が終わる。そして彼等は最悪の決断をしたんです」

「ありもしない脱走事件を作り上げたのか」

 課長の言葉に爬虫類が悲鳴を上げる。「違う、それこそすべてでっち上げだ。いい加減なことを言うのはやめるんだ」

「いいえ、やめません。わたしは刑事です」

 わたしは一喝し、部屋に静寂が戻ったところで話を再開する。

「死体をいつまでもあのエアロックに置いておくわけにはいきません。ですが監房エリアに運び込めば囚人に斉藤雅文の死体が見られます。七海圭吾の話では、監房エリアにあった図書室の本の返却用ボックスがエアロックに運び込まれ、しばらくして出てきたとのことでした。きっとボックスの中に死体を隠し、荷物搬送用エレベーターで地下に死体を下ろしたのでしょう。しかし管理エリアにも死体を放置出来る場所などそうそうありません。彼等はボイラー室の壁を破り、その奥の排水管の中に斉藤雅文の死体を隠しました。彼等は必死に知恵を絞ったはずです。とにかく、斉藤雅文が死亡したことを七海圭吾には知られるわけにいきません。知られれば彼の口から刑務官が斉藤雅文を殺害したこと、そしてそれがボクシングの試合のあとだと証言されれば、そこから違法賭博の秘密が暴かれる恐れがある。囚人達、特に七海圭吾には斉藤雅文がまだ生きていると思わせ、その上で死体を隠れて処分しなければならない」

 こうしてあまりにおぞましい私利私欲のためだけの偽装工作が始まった。

「D区画で殺人が発生した時、医者が死亡確認をした後、死亡診断書と共に死体はD区画から搬出されます。その際に医者が同行は必須ではなく、書類と死体袋に入った遺体さえあれば運び出すことは可能です。彼等は斉藤雅文がいなくなった理由を囚人達には脱走したと説明し、死体を運び出すことにしたんです」

 だがそこでさらなる悲劇が起こる。

「ボイラー室は地下二階、通常囚人が立ち入るところではありません。囚人に見られることなく管理エリアから安全に斉藤雅文の死体を運び出す、それが彼等のシナリオでしたが、運命のいたずらか、斉藤雅文の死体が下水管から流れて行ってしまったんです。意図せず、斉藤雅文の死体は刑務所から脱走することになった」

そして存在しないはずの脱走事件が現実になった。

「斉藤雅文が脱走したなんて話は信じられなかったと七海圭吾は証言しています。脱走事件が起きた場合、普通はすぐに市警察に通報されるはずですが、いつまで経っても市警察はD区画にやってこない。それどころか、彼等も監房に閉じ込められるわけでもなくいつもと同じく行動することが出来た。刑務官にとってはやらせの脱走事件ですから厳戒態勢を敷くまではしなかったのでしょう。それがさらなる悲劇を引き起こしたんです。マスコミにリークしたことについての証言は残されていませんでしたが、あの時点で脱走をマスコミにリークする必然性があるのは七海だけでしょう。彼は脱走事件が実際に起きているか確認するために外部にリークしたんです。マスコミにリークすれば必ず刑務所側に確認が入る、そして脱走事件でなければその嘘は暴かれる、そう期待したのでしょう。ですがその時にはすでに、斉藤雅文の死体は本当にD区画から脱走した後だった」

 事態は最早収拾不可能な状況に陥っていた。

「マスコミに漏れ、死体もなくなった。でっち上げの脱走事件が本当の脱走事件となった。不運続きの彼等の唯一の幸運は、市警察を挙げた捜査でも斉藤雅文の死体が発見されなかったことです。死体が流れてもう何時間も経過していた。網の目のように張り巡らされた用水路に死体は流れてしまった。時間が経てば経つほど、彼等の暴行の痕跡は失われていきます。脱走事件にはなったが刑務官による虐待死という事実も違法賭博の秘密も隠し通すことが出来る。一週間経っても死体が見つからなかったことで、彼等は胸をなでおろしたことでしょう。そして、加藤と松井にとって残された心配は七海圭吾だけになりました。市警察に正式に脱走事件と認定された以上、七海圭吾に出来ることはなく、彼はただただ沈黙を守っていました。加藤と松井はそれで満足すべきだったんです。ですが七海が生きている限り自分達の脅威になると考えた二人は、七海の存在を無視することが出来ませんでした。彼の行動をずっと監視していた。そしてそれに気付いた七海は自分の命が危険だと考えるようになった。このテープには自分も殺されるかもしれないという彼の恐怖が記録されています。そして事実、そうなった」

 わたしは再び顔の前で両手を合わせると、両方の人差し指を唇に当てる。

「七海は逃げ場のないD区画の中で、日々、命の危険を感じていました。沈黙を貫くことが彼の命を守る唯一の方法でしたが、一方で彼は忘れられなかったんです。わざと負けて自分の代わりに懲罰房へと向かう斉藤雅文が、自分に向かって目配せした顔を。自分を守るためにわざと負け、そのために殺された斉藤雅文。彼の最後の姿を七海圭吾は忘れられなかったんです」

悲劇とは、運命に抵抗して苦悩する人間の姿を描いた物語だ。 

「七海圭吾は疑問に思いました。懲罰房に連れていかれた斉藤雅文が脱走なんて出来たはずがない。特別監房エリアから地下に行くには監房エリアを通らなければならないが、斉藤雅文の姿を誰も見ていない。誰にも知られずに特別監房エリアから地下に行く方法などあるのか。そして思い出したんです。あの晩、エアロックに運び込まれた図書室の本の返却ボックスを。特別監房の囚人は読書を許可されていません。あのカートによって斉藤雅文が運び出されたと七海圭吾は気付きます。そしてそうであるならば斉藤雅文は刑務官によって殺害されたことになる。だけど理由がわかりませんでした。彼は必死に考え、そして一つの答えに辿り着いたんです。ボクシング賭博には囚人が二人必要です。二人同時に懲罰房行きとするには、監房から違法な物が見つかった、そしてその部屋の囚人二人を連帯責任で懲罰房行きにするのがもっとも簡単な方法です。七海と斉藤の時も、二人の監房から違法薬物が出たとして懲罰房行きを宣告されたようです。ですが当然二人は身に覚えがありませんでした。しかも、普通なら敵対グループの罠と考えるところですが、生憎二人共どの囚人グループにも属していませんでした。普段から他の囚人とのトラブルもなかった二人にしてみれば、あまりにも不可解な状況です。加えて試合中の加藤と松井の、損をさせるつもりかという発言、そして試合の直後に斉藤雅文が殺されたという事実、そこから七海圭吾は二人が刑務官に嵌められて試合をさせられたこと、そしてそれがボクシング賭博の可能性があることに思い当たったんです」

 斉藤雅文は、刑務官によって仕組まれた違法賭博のせいで殺された。

「一歩間違えれば同じことが自分に起きていた。斉藤雅文は自分の身代わりに死んだ。七海圭吾は斉藤雅文の死に報いるために、違法賭博の一件を告発することを決意しました。もちろん違法賭博の証拠はありません。普通に告発するのは無謀です。囚人グループに属さない彼に頼れる者はいません。脱走事件がマスコミにリークされたことで、外部への連絡はきわめて厳しく制限されていましたし、何より彼は監視されていた。彼には告発する手段がありませんでした」

 わたしは一枚の資料を課長に手渡す。

「死の直前、七海圭吾は手紙を出しています。手紙の送り先は奥田由紀子。例の看護師です。七海からの手紙は彼女の部屋に残されていました。手紙にはお世話になった看護師への礼が書かれていますが、この本文に意味はありません。東方さん、」

 わたしは振り返って、壁にもたれ掛かっている彼を見る。

「どうして留守番電話だとわかったんですか?」

 彼は小さく首を振ると、気付くのが遅すぎたよなとつぶやく。

「手紙は検閲されるから本文にメッセージをしのばせるのは難しい。事実、書かれているのも無味乾燥な定型文。メッセージを残すなら、一見して手紙には問題がなく、それでいて受け取った相手だけがメッセージを読み取れなければならない。検閲する刑務官が読んでも違和感を持たないが、受け取り手だけが一目見てメッセージに気付くことが出来るにはどうすればいいか。結論。宛先に受け取り手の物ではない電話番号を書いておけばいい」

 そう、それこそが七海圭吾の考え出した告発の方法だった。

「宛先に電話番号は不要ですが、仮に書いてあったとしても検閲官は気にも留めないでしょう。ですが、奥田由紀子だけはこの番号に違和感を覚えました。何故なら、そこに書かれていたのは彼女の電話番号じゃなかったからです」

「では、誰の番号だったのだ?」課長がわたしにたずねる。

「七海圭吾の生家でした。七海圭吾から奥田由紀子へのメッセージは、彼の生家を訪ねろ、です。そして彼女は彼の家に行き、留守番電話に吹き込まれた彼の遺言を見つけたんです」

 七海圭吾は知っていた。自分自身の命が危険なことを。彼は死の直前、奥田由紀子を何度か訪ねてきたと医者は言っていた。だが監視されている以上、医務室であったとしても重大な話は出来ないだろうし、下手に話せば彼女の命も危険にさらされる。だから誰にも気付かれない方法で、メッセージを送る必要があった。

「七海圭吾から手紙を受け取った彼女は、当初困惑したはずです。別に礼を言いたいだけなら何故医務室で言わないのか。ですがその直後、七海圭吾が殺害され、彼女は手紙の意味に気付いたんです。彼女は手紙にあった電話番号にかけ、それが七海圭吾の生家だと知り、彼のメッセージを正しく理解したんです。頭のいい女性です。そして七海圭吾の遺言を聞いた彼女は、D区画で起きている恐ろしい事実を知ります。ですが下手に騒ぎ立てれば今度は自分の身が危なくなります。そのため彼女は確実な証拠を手に入れる必要があると考えました。七海圭吾の証言を裏付ける決定的な証拠。ボクシングの試合が行われているという物的証拠。彼女は定期的に顔を腫らしたD区画の囚人が医務室を訪れていることに気付き、それが証拠になると考えたんです。そして医務室からD区画の囚人のカルテを調べ、データを集めました。しかしそれが彼女の命取りになりました。D区画の囚人の情報は機密情報です。彼女が診療と関係のない囚人のカルテに何度もアクセスをすればその痕跡が残ります。そして、加藤と松井は彼女の行動に気付いたんです」

 わたしが振り返ると大島刑事が一冊の捜査資料を課長に手渡す。

「東洲区分署で作成された奥田由紀子殺害事件の捜査資料です。当時、市警察にも捜査協力依頼が出されています」

「捜査協力依頼?」

「担当は東方、お前だよ」

 大島刑事の言葉に、彼は目を閉じたまま小さく首を振る。

「当時、東方が推理した犯人像は、被害者の身近にいる身長一八〇センチ以上の男性、行動力はあるが行き当たりばったりで綿密に計画を立てるのは苦手、感情的になり冷静さを失うタイプ、心当たりがあるだろう?」

 杉本刑事の言葉に彼は大きく息を吐くとうなずく。

「あいつだ」

「当たっていたんですよ、東方さん」わたしは彼に告げる。「大正解です。夜な夜な医務室でカルテを調べていた彼女を怪しんだ松井は、彼女が何を掴んだのかを知るために彼女の自宅に忍び込みました。そして彼女のパソコン内のファイルを探している最中に、帰宅してきた彼女と鉢合わせることになり、三つ目の殺人事件が起きたんです」

「そこまで犯人像が当たっているのなら、どうして当時の東洲区分署の捜査で松井は逮捕されていないんだ?」

 課長の問いにわたしは首を振る。

「脱走事件です。すべてはあの脱走事件のせいなんです。脱走事件が未解決のまま特別実験区画が大きなバッシングを受けていたため、捜査に圧力がかかったんです」

 東洲区分署の刑事は、上からの圧力と言ったがそれは市警察からの圧力とは限らない。きっとD区画の刑務官が捜査線上に浮上した時点で、法務省が手を回したのだろう。

「ですが、外圧で捜査が中止になったことを、東洲区分署の刑事達だって納得はしていません。彼等はいつ捜査が再開になってもいいように、ちゃんと証拠品を揃え、当時の被害者宅から採取したDNAサンプルも保管しています。現在DNAは照合中ですが、現場から採取された部分指紋とは一致しました」

「だがそれでは、松井が奥田由紀子の部屋に行ったことがあるという証明に過ぎない」

「それでも、DNAが一致しこの七海圭吾の告白のテープがあれば、少なくとも半年前の斉藤雅文脱走事件、七海圭吾殺害事件、奥田由紀子殺害事件を再捜査する根拠にはなります。そして、この三つの事件すべてに加藤と松井が関わっているのなら、今回の加藤殺害事件と松井が無関係というのは無理があります」

 課長は一度天井を仰ぐと、それから眉間にしわを寄せわたしにたずねる。

「だが、斉藤雅文を監房エリアと特別監房エリアの間の密室で殺したことで大変な目に遭ったというのに、何故、七海圭吾の時に加藤と松井は同じことを繰り返したんだ? それこそ誰か囚人によって殺されたことにした方が簡単だったはずだ」

「推測でしかありませんが、七海圭吾が模範囚で他の囚人から狙われるような存在ではなかったことが大きかったのではないでしょうか」

「あるいは、七海圭吾が誰かに刑務官に狙われていると話している可能性を恐れたんでしょうね」彼がわたしの言葉に続けて答える。「七海圭吾の死体が見つかれば刑務官に殺されたと騒ぐ連中が出てくるかもしれない。それならば、最初から正当な形で刑務官の手によって殺害する方が安全だと考えたのかもしれません」

 課長は小さく首を振ると、改めてわたし達にたずねる。

「加藤を殺害したのも松井か?」

 課長の問いに、わたしはしばし考え込む。

「わかりません。ですが、もう一度、本人を取り調べてそれを聞く必要はありますね」

「まったく」声の方を向くと、彼が寄りかかっていた壁からのっそりと体を起こす。「お前が帰ってくるまで、俺はあの囚人に、何百回も同じ質問を繰り返したんだぞ。お前が本当に殺したのかって」

「遅れてすいませんでした。でも、ちゃんと証拠は持ち帰りましたよ」

「あと三十分待っても帰ってこなければ、七海圭吾の自宅に向かえと言うつもりだった」

 ああ、やっぱり彼はとっくに気付いていたのだ。「いつから留守番電話のことを?」

「取り調べ中だ。七海圭吾は知能犯じゃない。他人の電話番号を覚えているタイプとは思えないからな」

「どうしてすぐに教えてくれなかったんです? わたしの携帯番号は変わっていませんよ」

「お前なら気付くだろう?」

彼は背中を信じてくれた。それが一番大事なことだ。

そしてわたしは七海圭吾の自宅の電話機から押収したカセットテープを課長に手渡す。

「再捜査をするだけの証拠、たしかに渡しましたよ」

 わたしはぐるりと周りを見回すと、それからはっきりと告げる。

「話は以上です」

「そんな話を信じろと言うのか?」

 この悪夢のような時間をひたすら耐えていた刑務所長の声はかすかにふるえている。

「あなたが何を信じるのかは関係ありませんよ」彼が口元を歪めながら言う。「ここにあるのは、あなたの管理する刑務所で、そして法務省直轄の政府機関で囚人の命を使った違法賭博が行われ、それにより複数の殺人事件が起きたという純然たる事実です」

 それから彼は爬虫類に向かって言う。

「反論はあるかよ?」

 爬虫類は顔中に脂汗を浮かべ、顔色は青ざめ、大きな目玉をぎょろぎょろと動かしているが最早言葉を発する余裕はないらしい。彼の沈黙を確認したのち、捜査一課長はわたし達に向かって命令する。

「いいだろう。松井を逮捕し、市警察に連行しろ」

「ここはわたしの城だ。好き勝手にはさせない」

 最早虚勢に過ぎない刑務所長の言葉を捜査一課長は冷ややかに切り捨てる。

「奥田由紀子殺害事件は刑務所の外で起きた事件です。あなた方には一切の権限はありませんよ」

 それから改めてわたし達に命令する

「松井を逮捕しろ」


**********


 物語は急転する。

 松井の自宅に制服警官が向かうが、駐車場に車は残されていたもののすでに彼の姿はなく携帯電話の電源も切られていた。すぐに東洲区全域に緊急配備が敷かれ、東洲区重警備刑務所にも制服警官が大勢押しかけた。混乱の最中、部屋の隅で刑務所長とD区画刑務主任は沈黙を続けていた。

「松井はすでに逃げたあとですか?」

 彼の問いに課長は苦々しい表情で答える。

「すぐに捕まえる」

「取り調べのあとすぐに帰宅したのなら、こちらが奥田由紀子殺しの捜査を始めたことはまだ知らないはずです。それでも逃げたとなると、加藤殺しの方も無実とは思えませんね」

 彼の言葉に、課長もそうだなと答える。

「斉藤雅文は加藤と松井の二人で殺害したのでしょう。次に七海圭吾を殺したのが加藤で、松井は奥田由紀子を殺害した。一見対等に見えますが、七海圭吾の一件はお咎めなし。一方で奥田由紀子の事件は捜査が中断されているとはいえいつ再開されるかわからない。また七海圭吾は囚人ですが、奥田由紀子は一般人です。それが二人の間に亀裂をもたらしたのかもしれませんね」

 わたしの言葉に課長はふむとうなずいたあと、刑務所長の方へと歩いていく。

「これからわれわれは半年前の一連の事件についての再捜査を行います。ここまで事態が大きくなった以上、加藤刑務官殺害事件の捜査についても管理委員会は反対出来ないでしょう。斉藤雅文脱走事件を含め、これから未未市議会を通し正式に東洲区重警備刑務所D区画についての厳正な捜査を行います。その際には、是非とも捜査にご協力いただきたいものですな。今日の所はこれで失礼いたします」

 課長は深々と一礼し部屋を出る。爬虫類は刑務所長に何かを言おうとするが、所長はそれを制すように言う。

「私はこれから市庁舎に向かう。私にはここで起きたことを市長に説明する義務がある」

「私も同席します。説明をさせて下さい」

「貴様は来なくていい。これより市警察の捜査が終わるまで、貴様の刑務主任の権限をすべて剥奪し、自宅での待機を命じる」

 刑務所長は爬虫類に目を合わせることなく部屋を出ていく。所長、所長と手を伸ばして悲鳴を上げる爬虫類は哀れだが、ここで起きたことを考えれば同情の余地はない。

「次に会う時は、市警察の取調室になりそうだな」彼は残酷な表情で、爬虫類に言い放つ。「逃げるなよ」

 それから彼は部屋から出ていき、わたしもあとに続く。

D区画刑務主任の三神は一人、絶望の淵に取り残される。


1996/3/23 Saturday 捜査第十一日目


 未未市東洲区の工業地帯にある河川敷に複数台のパトカーが停まっている。小雨が降り、灰色の空には冷たい空気が広がっている。河川敷に古めかしいぼろぼろの2CVを停めると、わたし達は堤防を歩いておりていく。わたし達の姿に制服警官が一人駆け寄ってくる。

「お疲れ様です。遺体はこちらです」

 わたし達は鑑識作業の間を通り抜け、ブルーシートがかけられた遺体の前に立つ。制服警官がブルーシートをめくると、河川敷に打ち上げられた大柄な男の死体が目に入る。

「松井だ」彼がつぶやくとわたしもうなずいて答える。「これで加藤殺しの真相はわからず仕舞いか」

「自殺、でしょうか?」わたしの問いに制服警官が答える。

「遺書は見つかっていません。自宅にはあれから一度も帰っていませんね」

「どれくらいになる?」彼が遺体の横に立つ監察医にたずねる。

「三、四日ってところだねえ」

 お腹の出た監察医はのんびりとした口調でそう答える。

「三日日前なら水曜日ですね。たしか加藤刑務官の殺害事件も水曜日でしたから、ちょうど一週間になります」

 しかもこの場所はあの斎藤雅文の死体が見つかった工業用水路からも近い。カタをつけるにはもってこいの場所、というところか。川の水面が朝の光に反射して輝いているのを見たあと、わたしは物言わなくなった松井を見下ろす。

「逃げ切れないと悟って、自分で終わらせたのか」

 彼は現場の保存なんて気にもしていないのか、タバコをくわえると火をつける。鑑識官の怒声を無視して、彼は足早に河川敷を上がっていく。くそったれ、最悪だ。こんな結末なんてありかよ、彼の背中がそう言っている。

 だが最悪はまだ序の口だったとわたしはのちに思い知る。


1996/3/25 Monday 捜査第十三日目


 松井の死体が発見された二日後、わたし達は捜査一課課長室に出頭する。

「本日をもって東洲区重警備刑務所D区画の捜査はすべて終了となった」

 課長からの報せに彼は憤りを隠すこともなく、ぐるぐると部屋の中を歩き回っている。

「管理委員会と市警察が合同で捜査をした結果、斉藤雅文については半年前の市警察による脱走事件という結論を支持、七海圭吾については当時の管理委員会の内部調査の結果を支持、加藤刑務官については自白した囚人による犯行と正式に結論付けられた」

「こちらの主張は何一つ通らなかったということですか?」

 わたしの問いに、課長は厳しい口調で返す。

「松井が死亡した以上、囚人の自白を覆すことは困難だ。ボクシング違法賭博も胴元と思われる加藤と松井は死亡。あるのはすでに死亡している七海圭吾の証言のみ。違法賭博に参加したと思われる刑務官は口裏を合わせたかのように一様に否定。囚人達からも何も証言は得られず、新たな物的証拠は出ず。手詰まりだ」

「法務省の言いなりですか?」

 思わず口をついて出た言葉に課長はぎろりとわたしを睨みつける。

「ただし、奥田由紀子殺害事件については、事件当時に採取された犯人の組織と松井のDNAが一致、松井は奥田由紀子殺害犯として正式に認定された。法務省直轄の実験区画の刑務官による一般人の殺人だ。事態を重く見た管理委員会はD区画の組織編成を一新することを決定。刑務所長は更迭、刑務主任は辞任。D区画内でこれまで発生した囚人の不審死の内部調査の結果を市警察に公開することで市警察上層部、市議会、管理委員会の間で話がついた。痛み分けだな」

「あの爬虫類の首を切っても、刑務官達はそのままですか?」

「実験区画であると同時に、刑務所でもあるんだ。刑務所としての機能を停止させるわけにはいかない」

「そんな話で俺達が納得するとでも?」

「お前の納得など必要ない」

「でしょうね」

「話は以上だ。二人共、部屋から出ていけ」

 くそったれが。部屋から出ると、彼は乱暴に扉を閉じる。一体、わたし達のしたことは何だったのだろうか。唯一の救いは奥田由紀子殺害事件の解決だが、大事なところは結局何一つ解決出来なかったことになる。

 東洲区重警備刑務所D区画。あの灰色の要塞にはいくつもの墓標がある。多くの囚人が命を落としている。その一端を垣間見ながら、結局わたしの目の前で扉は堅く閉ざされた。

 課長室から出た彼は無言で刑事部屋の入り口の方へと歩いていく。そこには大きなホワイトボードがかけられており、捜査一課の班ごとにこれまで担当してきた事件の被害者の名前がずらりと書かれている。すでに解決した事件は黒字で書かれ、現在捜査中、未解決の事件の被害者の名前は赤字で書かれている。

 東方班と書かれた欄はずっと空白で、彼が今年に入ってまだ一件も殺人事件を担当していないことを意味している。彼は無言でペンを手に取ると、そこに黒字で、加藤貞夫と書き込む。

「赤字じゃなくていいんですか?」

 わたしの言葉に、彼はこちらをちらりと見たあと、それから一瞬悲しそうな表情を浮かべ、お前はもう首都警察に帰れ、とだけ言う。そして彼はそのまま黙って刑事部屋から出ていく。その背中をわたしは追いかけようとするが、やっぱりやめて立ち止まる。加藤貞夫の名前が黒字で書かれた以上、わたしの役目はもう終わりだ。もう、わたしがこの街にいる理由、未未市警察にいる理由はなくなった。

 足元を見る。エナメルが分厚く塗られたローファーには傷一つついていない。わたしは廊下の先に消えていく彼の背中に深々と頭を下げる。もう終わったのだ。わたしは黙って市警察の宿直室に置いてあった私物をまとめると、その日の電車で首都警察に戻る。物語は終わり、語り部は沈黙する。


そんなわけがない。 


【ELEVEN】


 三時間も電車に揺られ、わたしはへとへとになりながら自分の街に戻ってくる。駅に着いたところで携帯電話が鳴り自宅に帰るわたしを足止めする。首都警察本部からの出頭要請。駅前のタクシーに乗り込み行き先を告げる。タクシーからおりると、がらがらとキャリーバッグを引いて首都警察の巨大な建物の中へと入る。さっさと帰ってシャワーを浴びたいというのに、一体何だというのだ。

 エレベーターで四階まで上がり、首都警察捜査一課長の部屋の扉をノックする。

「水沼警部、出頭してまいりました」「入れ」部屋から短く声がしてわたしは扉を開ける。「入って閉めろ」上司の言葉に大人しく従いわたしは扉を閉じる。部屋には首都警察の鬼軍曹と仇名される屈強の捜査一課長と、そして涼やかな笑顔を浮かべる猫の目をした男とがいる。九一桜。どうしてここに。にこにこと笑っている猫の王様猫又殿を前にして、わたしは背中に嫌な汗をかく。シャワーを浴びる前で本当に良かった。

「水沼警部。本日より指示あるまで自宅待機を申しつける。理由は言わなくてもわかっているな?」「わかりません。説明をお願いします」「貴様は法務省から命を受け、東洲区重警備刑務所D区画で発生した殺人事件の捜査にあたっていたはずだ。未未市は首都警察の管轄外であるため、貴様の捜査権限はD区画という政府機関内における限定的なものであるにも関わらず、貴様は刑務所外にあたる未未市東洲区内で発生した殺人事件の捜査を行い、事件関係者に接触、事情聴取および証拠の採取を行った。甚だしい捜査権の乱用及び服務規程違反に当たる。また、D区画内での捜査においても、自白強要まがいの取り調べおよび刑務官への職務妨害を行い、苦情が首都警察にも届いている。首都警察上層部および管理委員会は貴様の特別捜査官としての適性に問題があると判断、本日正午を持って特別捜査官の任務を解くことと決定した。理解したか?」「理解はしましたが納得はしていません」

わたしはびしっと背筋を正して大声で返事をする。課長の顔が怒りで歪むが、横に立つ猫の目の男は笑顔を崩すことなくわたしに告げる。

「一応、忠告しておきますが、これまでに特別捜査官として実験区画で見聞きした情報を口外することは、機密情報の違法な漏洩と見なされ重罪となる可能性があります。水沼さんはそんな馬鹿なことはしないと思いますけど、お口にチャックは徹底して下さいね」

 何がお口にチャックだ、わたしが言い返そうとしたところを課長が駄目を押す。

「法務省に睨まれることを好ましく思わない上層部一勢力からは貴様に対する厳重な処分を提案されたが、これまでの貴様の特別捜査官としての働きを評価し、ここにいる九局長の温情にて懲戒解雇を免れたのだ」わたしが睨みつけると、猫の目の男はにいと大きな口で笑ってみせる。「水沼警部。これより無期限の自宅待機を命じる。その間に依願退職とするもよし、あるいはどこかに異動願いを申請するもよし、貴様に自由に選択させるようにと提案されている。よく反省し、九局長に感謝しながら今後の身の振り方を考えろ。話は以上だ」

 一度も噛まずにそうまくし立てると、首都警察捜査一課長はわたしに部屋から出ていくように要求する。わたしは眼鏡がずり下がっているのを直そうともせず慇懃に敬礼すると、「水沼警部、これより謹んで自宅待機に入ります」と宣言する。背中で上司の舌打ちを聞きながらわたしはがらがらとキャリーバッグを引きずり部屋を出る。あれ、わたしってもっと立ち回りが上手かったはずなのに、いつからこんな反抗的な問題児みたいな振る舞いを身に着けてしまったんだろう。きっと未未市に戻った二週間で誰かの悪影響を受けたのだろう。

「水沼さん、」名前を呼ばれて振り返ると、前髪の長い優男がこちらを見ている。「長い間お世話になりました」わたしは深々と頭を下げる。「あなたの仕事ぶりは気に入っていたのですが、最後はちょっとおいたが過ぎましたね」わたしはポケットから特別捜査官のネームプレートを取り出すと猫の目の男に渡す。「ご期待に添えず、申し訳ございません」「東方刑事と仲直り出来たようですし、もう一度、彼と組むのも面白いんじゃありませんか?」そう言って男は笑う。まったく。ほんと、「余計なお世話です。九局長」

わたしはもう一度頭を下げると踵を返す。何はともあれわたしは自分の家に戻りたい。郵便物も溜っているだろうし、食洗器の中の食器も取り出したい。そして何より熱いシャワーを浴びてそれから十二時間眠るのだ。


水沼桐子の推理


 目が覚める。

 部屋は真っ暗で、まだ朝になっていないのかあるいは一日近く眠ってしまってもう次の日の夜なのかはわからないが、これ以上眠れる気もしないので、わたしは暗闇の中、天井をぼんやりと眺める。ふと、前髪の長い猫の目をした優男の笑顔が浮かんできてわたしは辟易とする。何が九局長の温情だ。懲戒解雇にすればやけくそになったわたしが制御不能になる、そんな可能性を恐れぎりぎりのところで首の皮一枚残して沈黙を買った。きっとあの男はけらけらと笑いながら、水沼さんはこれまで頑張ってくれたので情けをかけてあげましょうよとでも言ったのだろう。他人の人生を弄び支配して喜ぶなんて、ほんと悪趣味だ。あの男はこの二週間、わたしが翻弄される姿を見て心から楽しんでいたんだろう。

 だが、それにしても。

 わたしは仰向けになったまま暗闇の中でじっと目をこらす。

 わたしの中でずっと引っかかっていることがある。どうしてあの時、あの男はわたし達の捜査を打ち切らなかったのだろうか。違法賭博というD区画の秘密、禁忌の扉に手をかけたわたし達は、あの男にとっても排除すべき対象だったはずだ。それなのにそうしなかったのは、そう出来なかったからそうしなかったのではなく、あの男の意思でそうしなかったはずなのだ。わたしはあの男を信じている。他人をちゃんと駒として使える人間だ。目的の達成のためには誰かの人生をきちんと踏みにじることが出来る人間だ。あの男の城であるD区画にいる限り、わたし達は皆、等しくあの男の駒であるはずなのだ。だがわたし達が捜査を続けることがあの男の意思だったとすると、結果的にはわたし達は失敗したということになる。

 むくりと起き上がるとわたしはベッドから抜け出しパジャマを脱ぎ捨て浴室に入る。シャワーの蛇口をひねると熱いシャワーが降り注ぎ、ざあざあとお湯が体を叩く音を聞きながらわたしは考える。今回の事件の顛末。加藤刑務官殺害事件は自白した囚人が犯人として解決、七海圭吾殺害事件は正当防衛のままで違法賭博は不問にされた。すべてがD区画の望む通りの結末、わたし達は捜査を続けたが何も結末を変えることが出来なかった。つまりわたし達は失敗した。あの男の期待に応えられなかった。そしてだからこそわたしはこうして処分されたのだろう。

きゅっと蛇口をひねる。ぽたぽたと髪の毛から水滴が落ちる。がしがしと頭をバスタオルで拭きながらわたしは考える。わたし達は失敗した。では、とわたしは思う。そもそもあの男が思い描いていた展開はどういうものだったのだろうか。あの男が期待した結末。当然、D区画の存続という観点から考えれば、最も忌避したかったのは囚人が犯人であるという結末だったはずだ。脱走事件に続いて今度は囚人が刑務官を殺したとなれば水曜日計画は終わり、それだけは回避する必要があったはずだ。たしかあの時、市警察上層部の命令は、今行われている取り調べをもって捜査を終了するというものだった。そこにあの男の意思が介在するのなら、当然するだろうが、重要なのはあの囚人への取り調べだったはずで、わたし達がするべきことは、あの取り調べで囚人の自白を引っくり返すことだったのだろうが、わたし達は奥田由紀子殺害事件という脇道に逸れてしまった。それがわたし達の失敗。

頭にタオルを巻きつけたままソファにどっかりと腰をおろす。下着にTシャツだけの姿で、太ももにひんやりとした革の感触が伝わる。熱いシャワーで火照った体に眼鏡が曇る。お母さんにこんな姿見られたらはしたないと怒られそうだが、一人暮らしのこの部屋ではわたしが王様だ。懲戒解雇寸前の処分を受けたあとくらい、傍若無人に振舞っても許されるだろう。わたしは濡れた頭をうしろにあずける。ソファが濡れることくらい何だ。

ちっちっちっ。掛け時計の秒針の音がわたしの耳をノックする。わたし達は失敗した。だが本当にあの時点で囚人の自白を引っくり返すことなんて可能だったのだろうか。たしかに、D区画内では全知全能の創造主たるあの男がわたし達に期待していたということは、そう出来るだけの状況にあったということだ。期待に応えられなかったということは、やり方を間違わなければ期待に応えられたということだ。だが、あの東方日明が何時間も相対して自白を撤回させられなかったのだ。仮に今、あの瞬間に戻れたとしてもあの男の望む結末を引き寄せることが出来るとはとても思えない。

いや、そもそも、わたし達にそうさせる必要が本当にあったのか? 刑務官が犯人であるという結末にしたいのであれば、そう出来るだけの状況にあったのであれば、自分自身の手で結末を変えればいいだけの話だ。だがあの男はそうしなかった。法務省と市警察、東洲区重警備刑務所の三者の間で手打ちがされ、事件はなかったことになり、首の皮一枚でD区画が存続出来ることになったのは単なる幸運だったはずだ。あの男は何故、囚人が犯人であるという結末を黙って見ていたのだろうか。

まさか、確信していたのか? わたし達が違法賭博という禁忌の扉に手をかけたことで、未未市にとってこの事件の見え方は百八十度変わったはずだ。市の職員である刑務官が法務省の社会実験の犠牲になったという被害者の立場から、政府機関における違法賭博の首謀者という立場になった時点で、未未市が事件を表沙汰にしないと決断することを確信していた。最早、囚人が犯人だろうが刑務官が犯人だろうが、あの男にとってはどちらでもよかった。だからこそ黙って見ていたのか。だがそうだとすると。あの男がわたし達にさせたかったこととは一体何なんだ?

がちゃり。冷蔵庫を乱暴に開く。扉に収納されている牛乳パックが揺れる。数週間も放置していて飲めなくなった牛乳を流しに捨てると缶ビールを取り出す。ソファの上であぐらをかきながら喉に流し込む。わたしはもう一度、わたし達が捜査を続けたことの意味を考える。唯一、D区画の望んだシナリオの外にあったのは奥田由紀子殺害事件、そして松井の自殺だろう。わたし達が奥田由紀子の事件を掘り起こし、捜査の手が伸びたことで松井は死を選んだ。ここに何か意味がないだろうか。

わたしは松井の死について考える。最後に見たブルーシートを掛けられた姿が思い浮かび、そういえばこいつに胸倉を掴まれたんだっけと思い出す。わたしは飲み終えた缶を床に置くとごろりとソファに横になる。松井刑務官。喉の奥でその名を反芻する。違法賭博に囚人の殺害、好き勝手やった挙句に最後は身勝手な自殺を図る。ほんと、やってくれる。そこでわたしは自分の言葉に引っかかる。身勝手な、自殺。松井の死因は溺死だった。検死では自殺かどうかの結論は出ていない。松井は姿を消した二、三日後に死亡している。その間、一体どこで何をしていたんだ? いや、ちょっと待て、そもそもどうして松井は自宅から姿を消したんだ? たしかに違法賭博と七海圭吾の一件についてわたし達は彼を追い詰めたが、そのあとD区画はすぐに手を打っている。犯人をでっち上げ、わたし達の捜査は中止寸前に追い込まれた。あの爬虫類によって松井は守られていた。松井が姿を消す理由があるとすれば奥田由紀子殺害事件の容疑をかけられたからとしか考えられないが、わたしが刑務所長室で奥田由紀子の一件を説明した直後に松井はすでに姿を消していた。あの場にいなかった松井はどうやってそのことを知ったんだ? 松井の車は駐車場に残されていた。松井の自宅近辺に駅はない。逃げるなら足が必要だ。誰かが松井を連れ出したのか。そしてその人物が松井に奥田由紀子の一件を教えたのか。だが、誰が、どうやって。

むくり。思わずわたしは体を起こす。ばさりとタオルが床に落ちる。ああ、そうか。松井が容疑者になったことを知る方法があるじゃないか。わたしは刑務所に戻るまで誰にも話さなかった。それは事実だ。だが、だが、わたしは。わたしは、松井の逮捕状を請求したじゃないか。

もし、奥田由紀子殺害の容疑で松井が逮捕状を請求されたことを知ることが出来る人物がいたなら、松井を逃がすことは可能だった。そして逃亡の果てに、逃げ切れないと絶望し松井は自ら命を絶った。あるいは。あるいは、その誰かに、奥田由紀子の一件で自殺したと見せかけて、「殺された?」

わたしの中に、嫌な予感が生まれる。松井が殺されたとする。その結末こそが、あの男がわたし達に捜査を続けさせた理由だったということはないだろうか。松井が殺されるという結末、それこそが、水曜日計画が見たかった結末なのだとしたら。松井の死も重要な実験結果なのだとしたら。

ぶるり。わたしは体を震わす。湯冷めしたのかわたしは床の空き缶をそのままにベッドへと向かう。布団にくるまりもう一度眠ることにする。わたしにはもっと休息が必要だ。ゆっくりと眠り、そして目が覚めたら、わたしのこの嫌な予感をたしかめよう。そのために力を借りるべき人間は一人しかいない。


**********


 働かなくとも腹は減る。

 わたしは上下ジャージ姿にコートをひっかけて近所のカフェに行く。平日、真昼間の駅前のカフェは相変わらず混んでいて、わたしはのんびりとレジの列に並びながらブレンドとチェリーパイを注文する。あれからずっと頭の中がもやもやとした霧がかかった状態で、どこに行ったらいいかもわからず自分の進路も決められないでいる。わたしは自分自身の精神状態すら疑い始めている。だからチェリーパイを食べないと。自分を取り戻すにはそれしかない。

店の一番奥の席についてお気にいるのチェリーパイをほおばっていると一口一口にわたしは落ち着きを取り戻す。自分を取り戻す。取り戻したはいいが何も解決されていないことに変わりない。あいにくわたしはまだあの事件について何も納得していない。わたしの中では何も終わっていない。わたしはあきらめが悪いのだ。わたしはお皿に残ったクリームをフォークですくってぺろりと舐める。さて、行かないと。こんな格好で外を出歩いているなんて知ったら、またまたお母さんに怒られそうだけど、多少の逸脱は目をつぶってほしい。わたしは殺人課刑事なのだから。

 バスに乗り三つ目のバス停で降りる。裏通りに入るとどこの国の出身かもわからないいかがわしい露天商から声をかけられるのをかわしながら右手の小さな路地に入る。路地を進むと開けた場所に出て、すぐ目の前に一件の本屋が現われる。

扉を開けると備え付けられているベルが鳴る。一階は新品の本が並び、二階は希少本の古本屋になっている。一階には立ち読みをする客の姿が何人か見えるが、二階に人の気配はない。専門書や洋書ばかりが並び、これまで客がいるのを見たことがない。どこかから鳴るオルゴールの音を聞きながら階段を上がる。天井から巨大な海洋生物の骨格標本が吊り下げられている。背の高い本棚と本棚の間を通り過ぎて二階の一番奥に行く。そこには巨大な水槽があり、その中を髭のある大きな魚が優雅に泳いでいる。わたしが腰を曲げて水槽の中を覗き込んでいると、約束の時間の三分前にわたしの横に男が立つ。コートの襟を立てたその男はわたしに並んで水槽を覗き込む。

「楽しいか?」

「楽しいのとはちょっと違います。見とれている、が正しいでしょうね」

 体を起こすと頭二つは背が高い男を見上げながらわたしは言う。

「ご無沙汰しています。半年ぶり、ですね」

「聞いたよ、お前の席もなくなったらしいな」

「いろいろとありまして」

「お前から呼び出されるとは思っていなかった。それで何の用だ。昔話をしたいわけじゃないだろう?」

「水曜日計画とは一体何なんですか?」

「いきなり確信をついてきたな」

 かつての特別捜査官の同僚は困ったような笑みを浮かべる。わたしと同じく特別捜査官の任を解かれると同時に捜査二課からも追い出されることになった彼は今、首都警察の資料管理課で一日中、古い紙の資料を市警察のデータベースに打ち込む仕事をしているという。こうやって抜け出てきてもきっと誰も気付きもしないさ、と彼は自嘲気味に笑う。

「犯罪者がいかに生まれるのか、それを研究するのが水曜日計画だと最初の日に説明を受けただろう?」ええ、とわたしはうなずく。「研究自体が始まったのは戦時中、軍の特殊部隊による人体実験がその前身と言われている」

「軍の人体実験?」

「戦場の兵士にとって最も邪魔なものは人間性だ。人は人を殺す時にためらう。ためらいは腕を鈍らせる。無駄な銃弾も馬鹿にならないからな。人一人を殺すのに必要な銃弾数をどれだけ減らすことが出来るのか。どうすればためらわずに人を殺す兵士を作り上げることが出来るのか、そのための研究が行われていた」

「最低の研究ですね」

「戦時下においては、経済合理性は倫理観よりも優先される。敗戦が濃厚な時は尚更だ。結局研究が完成する前にこの国は敗戦国になった。だが不要になったその研究は戦後、治安維持を目的とする研究として形を変えて生き延びた」

「殺戮兵士を作る研究が治安維持に役立つとは思えませんが」

「人為的に殺人者を作ることが出来るのであれば、殺人者からその殺意を奪うことも出来るのではないかという安直な発想だったのだろう。当然、そんな研究は上手くいかなかったが、その後も人間の悪意や暴力性が芽生える研究は形を変えてずっと続けられてきた。そしてそれが今、」

「水曜日計画の前身となった」

「好奇心って奴は厄介だな。平和になった今の時代でも人は人を殺す。人が人である以上、人を殺すのであれば、その理由を知りたがるというのも人たる所以なのかもな」

「単なる好奇心ですか」

「どこまでいっても人を食ったような話さ。お前、水曜日計画の名前の由来を知っているか?」

「いいえ」

「二十年ほど前に犯罪先進国たるかの国が発表した論文からの引用と言われている。『Why do serial killers kill people on Wednesdays? 』 連続殺人犯はどうして水曜日に人を殺すのか。この論文では連続殺人犯の多くが水曜日に殺人を犯す傾向にあると結論づけられている」

「水曜日、一体どうしてですか?」

「連続殺人犯の多くは社会性が高く一般社会に溶け込んでいる。つまり多くの連続殺人犯は普通に仕事をしているんだ。連続殺人犯は明確な目的があって人を殺すんじゃない。殺さずにはいられないから殺すんだ。殺すことで精神が満たされる。重要なのは精神の安定だ。何故水曜日に殺すのか。月曜日は休日明けで精神状態が安定している。火曜日は翌日人を殺すことを思い精神が安定する。水曜日に人を殺して快楽を満たす。木曜日は殺人の翌日だから精神が安定している。金曜日は翌日からの休日で殺人の獲物を探すことを思い精神が安定する。そして土日で次の獲物を探す。水曜日に人を殺せば、毎日安定した精神状態で過ごすことが出来る。だから人を殺すには水曜日が一番いい、という論文だ」

「なるほど、」

「真に受けるんなよ。この論文はただの冗談だ。当時、かの国は経済成長に伴い誰もがあくせく働いていた時代だった。仕事に負われ精神を病む労働者の増加が社会問題になり、一部で水曜日休日論が唱えられるようになった。土日以外に水曜日を休日とすれば、月、火、木、金の働く四日間はすべて休日の翌日か前日になるから、より精神衛生上いい形で仕事をすることが出来る。この水曜日休日論を、同じく当時社会問題になっていた連続殺人犯に当てはめて、冗談で誰かがでっち上げたのがこの論文だ。パルプ雑誌のお遊びを、当時のこの国のお偉いさん方は何の疑いも持たずに本物の科学論文と信じて引用してしまったらしい」

「連続殺人犯は水曜日に人を殺す、だから水曜日計画」

「最初から最後までたちの悪い冗談みたいなものさ」

 そう言って小さく笑うと、男はわたしに封筒を渡す。

「これを何に使うつもりだ?」

 わたしはそれには答えず封筒を受け取る。

「悪いがこれ以上は協力出来ない。これで最後だ。特別捜査官を辞めてすぐの頃は、俺もいろいろと嗅ぎまわっていたんだが、いや、やめておこう。とにかくいろいろとあってな、俺はもう関わらないと決めたんだ」

「わたしが続けることにも反対ですか?」

「水沼。お前は上級国家公務員試験に受かったエリートだ。大人しくしていれば、まだこの先も出世の道はある。経歴が大事ならすべて忘れろ」

「わたしはただ、殺人課刑事であり続けたいんです」

 男は一瞬寂しそうな表情を浮かべたあと、コートの襟を立てる。

「来月俺は辞表を出す。首都警察に居続けるのも厳しくなったんでな。当然、資料管理課には空きが出来るから異動願いを出せばすぐに通る。あそこはみんな他人には無関心、お前が好き勝手に動き回っても誰も気にしないさ」

 そう言うと男は踵を返し歩いていく。その背中に、ありがとうございましたと声をかけると、礼なんか言うなと男は答える。わたしは無言で男の背中に深々と頭を下げる。


**********


 本屋を出るとわたしは再びバスに乗る。窓に頭を預けて外の景色を見ながら車体の振動を感じていると、わたしは東洲区重警備刑務所からの帰り道を思い出す。捜査の最初の日、囚人の事情聴取を終えて彼と二人で刑務所から市警察までの道のりをバスに乗ったあの夜。わたし達は無言でただバスに揺られていた。そんなことをぼんやり思い出していると、ふいにわたしの頭にあの男の声が響く。

「東方刑事と仲直り出来たようですし、もう一度、彼と組むのも面白いんじゃありませんか?」

 ほんと、余計なお世話だ。大体、未未市警察をはじめとした四大政府直轄都市にある自治体警察は、首都警察や全国の県警察以下、警察庁を頂点とした警察組織からは独立した人事となっており、異動するには一度今の警察組織を完全に辞任し、それから別個に自治体警察の採用試験を受けて合格をする必要がある。唯一の例外が、首都警察と自治体警察の間で組まれている交換研修制度を利用した異動だが、それには警視以上の推薦が必要となる。あいにくわたしにそんな酔狂な知り合いはいない。わかっていてあんな嫌味を言ったのだろう。ほんと、嫌な奴。

 がたん、とバスが揺れてわたしはごつんと窓ガラスに頭をぶつける。痛った、とわたしは唇を尖らせる。その時、わたしはえっと小さくつぶやく。今、何て言った?

「東方刑事と仲直り出来たようですし、もう一度、彼と組むのも面白いんじゃありませんか?」

仲直りが出来たとはどういう意味だ? そう言ったということは、あの男はわたし達が一度仲違いをしたと思っているということになる。思い当たる節があるとすれば、あの夜だ。D区画の機密情報を開示した日、わたしは彼とぶつかった。わたしがまるで少女のように涙を浮かべて感情的に振舞ったあの日。だが、どうしてそのことをあの男は知っているんだ? 機密情報の保管庫横にあるあの小さな部屋にはわたし達二人しかいなかった。わたしは誰にもあの夜のことを話していないし、彼もそんなことを話すタイプじゃない。だとしたら、どうしてあの男はあの夜のことを知っているんだ? 

まさか、あるのか? 監視カメラが。

D区画には刑務所側も知らない監視カメラが仕掛けられているのか。

「見てきたんじゃありませんよ。聞いたんです」

あるいは盗聴器か。だが脱走事件の際に、刑務所内は市警察によって隅々調べられている。その際に見つかっていないとすると、建物自体に巧妙に隠されていることになる。つまり、D区画が始まった時から設置されていると考えるべきだ。だが何のために。

あの場所が囚人の社会実験なら、刑務官達の報告書だけで正確な囚人達の振る舞いやデータをとるのは限界がある。囚人への人権配慮を理由に表向きは監視カメラを設置しないが、隠れて囚人達を監視していたとしてもわたしは驚かない。問題は、わたしと東方さんの会話を知っているということは、囚人達が決して立ち入らない機密資料の保管庫横にある資料閲覧室にまで設置されていることだ。何のためにそんな場所まで監視するのか。わたしは鞄の中から先程受け取った封筒を取り出す。まさか、当たっているのか、わたしの嫌な予感。

家に戻ったわたしは、本屋で受け取った資料を床の上に広げる。精神鑑定および各種心理テストの結果の資料。被験者の名前と写真が写るその資料を見て、わたしはわたしの仮説が正しいことを理解する。東洲区重警備刑務所D区画には、囚人も刑務官も知らない監視カメラ(あるいは盗聴器)がたしかに存在する。そして管理委員会は、いやあの猫の目をした男は、脱走事件のことも、七海圭吾のことも、そして違法賭博のこともすべて最初から知っていた。知っていてなお、あれほどの大事件になった脱走事件の真相を闇に葬り、違法賭博を黙認していた。何のために? 簡単なことだ。秘密の監視カメラ。黙認されるD区画の禁忌。あの男の目的は一つしかない。わたしは目の前の資料を見る。これが答えだ。これが、これこそが、本当の水曜日計画。

人は何故人を殺すのか。平和になった今の時代でも人は人を殺す。人が人である以上、人を殺すのであれば、その理由を知りたがるというのも人たる所以なのかもな。

ただの好奇心。ただの、そして最悪の好奇心。法務省直轄特定刑務所特別実験区画管理委員会局長、九一桜。長い前髪に猫の目をした男。あいつ、何てことを思い付くんだ。


**********


 一カ月後。首都警察資料管理課に正式に移動すると、かつての同僚の姿はすでになく、わたしは埃臭い地下室での仕事を開始する。資料管理課には他に四人の同僚がいたが、膨大な過去の資料をただただ入力するだけのゴールのない日々に、あらゆることに興味を失っているのかわたしに関心を持つ者はいなかった。わたしは昼は黙々とキーボードを叩き、夜間と休日を使い可能な限り水曜日計画について調べ上げ、そしてようやく決心を固めたある日、休暇をとって電車に乗り未未市を訪れる。

 未未市警察刑事部屋に足を踏み入れると、相変わらず刑事達は忙しそうに働いており、わたしは懐かしむように入り口からその様子を眺めながら、ダンボールを抱えて初めてこの部屋に来た日のことを思い出す。ふと、入り口横にかけられたホワイトボードが視界に入る。東方班の欄には相変わらず一つの名前しかなく、あの事件以来、彼が殺人事件の捜査をしていないことがわかる。きっとこれまでのように警察学校での授業や、異常死体の検分に時間を費やしているのだろう。そんなことを考えているとわたしは気付く。東方班の欄に書かれた唯一の名前、加藤貞夫。D区画刑務官殺害事件の被害者。だがその名前は、「赤字に、なってる?」あの日、彼はたしかに黒いペンで名前を書いたはずだ。それなのに。

 わたしは踵を返して刑事部屋を出ると階段を駆け下りる。かつてわたしがまだこの未未市警察捜査一課の研修生だった頃、彼が捜査に行き詰った時など自分だけの時間を過ごすのに使っていた場所。捜査一課の未解決事件のファイルが集められた地下の資料室の扉を開けると、埃臭いにおいに混じって、タバコのにおいが充満している。ビンゴ、ここが彼の棲み処だ。

 電灯をつける。青白い蛍光灯がつき、わたしは書類棚の間を部屋の奥へと歩いていく。書類棚の先には大きな机とぼろぼろのソファがあり、ソファの背後の壁には無数のメモや資料がテープで貼り付けられている。『殺意が高まる』『水曜日計画』『獲物の選び方は?』『連続殺人』『斉藤雅文は獲物だった』『獲物を奪われたことへの復讐』そうか。彼はあれからずっと一人で捜査を続けていたのだ。そして、彼はたった一人で、たった一人でここまで辿り着いたのか。

 机の上には膨大な資料が積み上げられている。ファイルを手に取るとそこにはD区画の囚人の資料が収められている。D区画で起きた囚人の死亡事故については、あの事件以来、管理委員会の作成した内部資料を市警察と共有することで決着がついている。この点については、捜査一課長が法務省に対して働きかけた結果だろう。あの男にしてみればたとえ一部でも自分達の機密情報を市警察と共有するのは本意ではないはずだ。捜査一課長の維持を垣間見た気がしてわたしは勇気づけられる。彼もまた、殺人課刑事に違いない。

 机について囚人の資料を一人で黙々と読んでいると、がちゃりと扉が開き、閉じると同時にライターの火をつける音がする。「未未市の条例で、公共機関ではすべて禁煙のはずですよ」わたしが言うと、資料棚の影から姿を現した咥えタバコの男は呆気にとられた顔でわたしを見たあと「ここで何をしている?」とたずねる。わたしは机の上にあった吸い殻が何本もねじ込まれた缶コーヒーの空き缶を掲げてみせて「捜査です」と答える。

 ソファにどっかりと腰を下ろすと彼はタバコの煙を吐き出し、受け取った空き缶に灰を落とす。「捜査だと? 何の話だ」

 わたしは壁に張られた無数のメモの前に立つ。彼はソファで煙をくぐらせながらじっとこちらを見ている。わたしはメモを見上げたまま「どうしてもお伝えしたいことがありまして」と告げる。

「だから、」タバコを空き缶にねじ込む音が聞こえる。「何の話だ?」

「東洲区重警備刑務所D区画。正式名称は法務省直轄特定刑務所第四実験区画です。そう、あそこで行われているのは実験なんです。様々な条件下で被験者がどのように振舞うのか、それを観察し記録することを目的とした場所です」

「そうだな」

「ですが、管理委員会は一度として、いいですか、一度としてわたし達にも被験者が囚人だけだなんて言ってないんです」

 振り返ると、彼はぎょっとした表情を浮かべてこちらを見ている。やはりそうだ。彼も気付いている。わたしと同じ結論に辿り着いている。

「東方さん。あそこでは囚人だけじゃありません。刑務官もまた、被験者なんです」

 そう、それこそが水曜日計画の正体。管理する側と管理される側。それぞれの立場でどのように人は振る舞い、どのように悪意と暴力が芽生えていくのか。

今ならわかる。あの医者の言葉。

囚人のみならず刑務官に関する情報もすべて法務省に帰属する、それがルールよ。

当然だ。刑務官も被験者なのだから、その情報は機密に違いない。

「D区画に監視カメラあるいは盗聴器が設置されている可能性があります」

「何だと?」

「確証はありませんがその可能性は高いと思います。カメラの存在を知れば行動に影響を与えます。刑務官も被験者であるのなら、当然刑務所側にもその存在は隠さなければなりません」

「待て。お前の話が事実だとすると、管理委員会は刑務官の行動も監視していたことになる。つまり管理委員会は脱走事件の際に起きていたことも違法賭博もすべて知った上で黙認していることになるぞ」

「事実黙認したんです。何故なら、刑務官がどのような犯罪に手を染めるのか、それもD区画の重要な実験結果だからです」

「面白い話だがやはり無理がある。あの脱走事件では実験区画の存続その物が危機に陥った。それでもなお黙認していたと言うのか?」

「あれは完全に事故だったと思います。実際に死体がなくなってしまったなら、管理委員会側も脱走事件を覆すことは出来ません」

「そもそも、刑務官も被験者だという根拠はどこにある。監視カメラが実際にあったとしても、囚人の観察に用いられると言われればそれまでだ」

「もちろん根拠はあります」

 わたしはそう言うと、鞄から封筒を取り出し彼に渡す。

「何だこれは?」

「D区画刑務官採用試験結果です」

「刑務官の採用試験、だと」

「D区画に囚人が参加する際には遺伝子検査を始め、いくつもの心理テストや精神鑑定が行われています。そしてその検査内容とまったく同じ検査を、D区画に採用された刑務官達も受けているんです」

「どうやってこんな物を、」

 かつての同僚が必死の思いで探り出してくれた刑務官の採用に関する記録。

「D区画の刑務官は、未未市の複数の刑務所から募集され、各種検査や面接など長期間かけて選ばれています。法務省主導の社会実験であり適性を求められるのは当然ですが、参加を表明した時点で機密保持契約書にサインしているため、採用試験の内容はついては明らかにされていません。驚きましたよ。まさか囚人と同じ検査が行われているなんて」

「遺伝子検査まで行っているのか?」

「どう考えても刑務官の職務の適正には不要な検査です」

 彼がめくる資料には、多くの刑務官に交じって、加藤や松井の資料もある。

「D区画に採用された刑務官の心理テスト、精神鑑定から面白いことがわかりました。資料を見る限り、通常であれば明らかに不採用となるようなメンバーも選ばれているんです。幼い頃の小動物の虐待歴や反政府思想を持つ者、自殺傾向にある者、そして暴力性が高いと思われる者など、あきらかに法務省の社会実験には不適当な人物が採用されています。加藤や松井も間違いなく暴力傾向の高い人格の持ち主です。意図的に選ばれているのは間違いないと思います。一歩間違えばいつ犯罪を起こしてもおかしくないような刑務官と凶悪犯罪者とを共同生活させた時に一体何が起きるのか。あの男はほくそ笑みながら、それを観察しているんです」

 それからわたしは再び無数のメモが貼られた壁に向き直る。

「驚きました。東方さん、あなたはたった一人でわたしと同じ結論に辿り着いたんですね」

 わたしは彼の方を見る。

「一体どうやって知ったんです? 刑務官の中に、連続殺人犯が紛れ込んでいると」


東方日明の推理


「あそこでは水曜日に人が死に過ぎている」

 彼は書類棚の間からがらがらと自立型のホワイトボードを引っ張り出してくる。そこには二年間のカレンダーが並べて貼られ、特定の日にちに赤い丸が打ってある。

「加藤が殺されたのは三月十三日の水曜日未明、松井の死亡推定時刻もそれからちょうど一週間後の水曜日だった。まったく、水曜日計画なんてふざけた名前をつけるから、こんな質の悪い冗談が起きるんだとあきれていたんだがな。先日、市警察に公開されたD区画の内部資料によると、昨年一年間、D区画での囚人の死亡事件は十八件。その内、囚人グループ同士の抗争で実行犯も明らかとなっているのが三件、十五件は殺人であると認定されているものの、内部調査では犯人は不詳の不審死として処理されている。その十五件のうち十二件が水曜日に殺害されている。ここまで続くと単なる偶然とは思えない。そしてその十二件の水曜日に起きた殺人事件は、同一犯による連続殺人事件ではないか、それが出発点だ」

「この論文では連続殺人犯の多くが水曜日に殺人を犯す傾向にあると結論づけられている」

 でもあの論文は出鱈目な偽書だったはず。

「雨の日には人を殺したくなる。3がつく日にちには殺人衝動が抑えられなくなる。ある条件が揃った時に犯行に及ぶタイプの連続殺人犯はめずらしくない。もし仮に、水曜日に殺意が高まる連続殺人犯があの刑務所の中にいるのなら、加藤もまた同じ連続殺人犯によって殺されたと考えるのが自然だ。そして、松井もまた死亡したのが水曜日であるならば、自殺したのではなく同じ犯人に殺害された可能性は否定出来ない。そしてもし、松井を殺害したのが同じ連続殺人犯だとすると、犯人は刑務官でしかあり得ない。松井は刑務所の外で殺されたからな」

 囚人は刑務所の外で人を殺すことは出来ない。

「東方さんは、松井が自殺ではないと思いますか?」

「奥田由紀子の事件。最初の捜査の時にすでに松井は一度容疑者に上げられている。D区画の刑務官が捜査線上に上がったからこそ圧力がかけられ捜査は潰されたが、松井自身はそんな理由で捜査が立ち消えになったことは知らないはずだ。容疑をかけられたがまったく問題とはならなかった、松井自身はそう思っていたはずだ。そういう成功体験があるあいつが、奥田由紀子事件の再捜査が行われたからといって自殺するとは思えない」

 その考えは正しいだろう。松井の性格から考えても、自分の犯した罪で自殺することからは最も遠い場所に生きているはずだ。そして松井が自殺ではなく他殺であるのなら、本当にいるのか、水曜日に人を殺す連続殺人犯。

「水曜日に人を殺す連続殺人犯、もしそんな犯人がいるのだとして、ですが毎週ではないですよね。毎週なら昨年五十人が殺されている計算になります」

「当然、犯人の殺人衝動の引き金は水曜日だけではないのだろう。水曜日と何かが重なった時に、犯人は衝動を抑えられなくなる。そしてその条件さえわかれば、ずっと疑問だった問題の謎が解ける」ずっと疑問だった問題?「もし加藤殺しの犯人が刑務官であるならば、どうして夜勤帯に加藤を殺害したのか。どうしてあの夜でなければならなかったのか」

 それから彼は机の上に重ねられた分厚いファイルの束の上に手を置く。

「犯人の殺人衝動の引き金はこの中にある。これまでの囚人の不審死についてもう一度調べ直し、水曜日以外の共通する条件を探る必要がある」

「ですが、いくら犯人にルールがあるといって、馬鹿正直に守りますかね。夜勤帯に殺すなんてリスクが高過ぎます。自分の定めたルールで自分の首を絞めるなんて、不自然です」

「いいか。この犯人は極度の強迫性障害だ。強迫性障害は一説には前頭部と眼窩皮質の間の伝達に異常、あるいは脳底神経節に問題があるとされている。あくまで生理学的な問題で自分ではコントロール出来ない。殺したいんじゃない、殺さずにはいられないんだ。ある条件が揃った時、こいつは自分が抑えられなくなる。見てみろ」彼はそう言うと、再びカレンダーの方に向き直る。「この一カ月間で新たに発生した水曜日の殺人だ」

 え、わたしは思わず声を上げる。まさか、そんな。まだ続いているのか?

「市警察が介入しあれだけの騒動が起きたあとだぞ。しかも刑務官なら囚人の死亡事件がこの先、市警察とも情報が共有されることは知っているはずだ。今、刑務所で殺人を続けることはきわめて危険な行為だ。そんな状況下でもまだこいつは殺人を続けている。やめられないんだ。殺さずにはいられない」

 そして彼は相貌を引き締めて言う。

「D区画の刑務官の中にシリアルキラーがいるんだ。そしてその連続殺人犯によって加藤と松井が殺害され、今もって殺人が続いているのだとすると、犯人はあの日の夜勤帯、死んだ加藤と松井を除いた四人の刑務官の中にいることになる。それが俺の結論だ」

 それから彼は、再びソファにどっかりと腰を下ろすとタバコをくわえ火をつける。煙を吐き出すとしばらく何かを考え込む様子を見せたあと、ふとわたしの方を見る。

「捜査をしにきたと言わなかったか?」

「はい。この事件の決着をつけましょう」

「決着って、お前は首都警察の刑事だろう?」

「実は捜査一課を追い出されまして」

わたしの言葉に彼の表情が一瞬曇る。

「首都警察から自治体警察に異動は出来ないぞ」「ええ、ですから今は首都警察の資料管理課にいます」「暇そうでうらやましいな」「東方さん。首都警察と自治体警察の間の交換研修協定はご存知ですか?」「二年前、お前はそれでうちにやって来ただろう?」「その協定を利用すれば、わたしは正式にここに異動することが出来ます」「警視以上の推薦があれば、だろ。捜査一課を追い出されたお前のためにわざわざ骨を折ってくれる暇な奴なんているのか?」「わたしです」「何?」「大人しくしていれば、来年度からわたしは警視に昇進します。そうしたらここに移動することが出来ます」わたしの言葉に呆れたような表情を浮かべてこちらを見る。「この事件の捜査のためか?」「わたし、あきらめが悪い女なんです」

彼は大きく煙を吐き出すと、「あっそ」と他人事のように言う。

うれしいくせに。


**********


 それから数カ月が経ち、わたしは警視に昇進する。

 首都警察と自治体警察の間の特別交換研修制度を利用し、未未市警察への転属願いを出したわたしを、周囲は完全に頭がおかしくなったと避けるようになったがちょうどいい。これで、後ろ髪をひかれることなく首都警察をきっぱりと辞めることが出来る。解約した部屋の最後の掃除を終えると、がらがらとキャリーケースを引きずってわたしは駅へと向かう。

 実家に帰ったことを両親はよろこんでくれる。わたしは学習机が置きっぱなしになった高校生の時と変わらない景色の部屋に戻ると、ベッドの上に洋服のまま横になる。わたしがいなくなってからも掃除をしてくれていたのか、部屋に埃はたまっておらずシーツもきれいに洗われている。ありがとうお母さんとわたしは寝返りをうつ。部屋にはすでに送りつけていたダンボールが山積みになっている。そのうちの一つが目に入りわたしはむくりと起き上がる。そしておもむろにダンボールの箱を開くと、中から袋に入った靴を取り出す。分厚いエナメルを塗ったローファー。殺人課刑事のダンスシューズ。わたしはそっと胸に抱くと、そのままベッドに倒れ込む。わたしは殺人課刑事に戻る。続きを始めなくてはならない。

数日後、身の回りの品を詰めたダンボール箱を抱えてわたしは未未市警察のレンガ造りの建物の前に立つ。とんとんと軽快に建物の正面の階段を上がると刑事部屋に入る。二年前、初めてこの刑事部屋に来た時にわたしは一瞬で立ち戻る。刑事部屋の入り口でわたしはホワイトボードの東方班の欄を見る。加藤貞夫の名前は赤字で書かれている。わたしは満足げにうなずくと、東方日明の名前の横に、水沼桐子と書き足す。

正式にわたしとコンビを組むことになった彼は、口うるさい警察学校の校長に別れを告げ捜査一課の刑事部屋に戻ってくる。市警察に戻ってきた彼を見る刑事達の視線は冷ややかだったが、彼はまったく意に介さない様子で、殺人課の刑事の日常に戻る。

 それからのわたしと彼は件のぼろぼろの2CVで街を徘徊し、仕事に忙殺される日々を送る。毎日毎日救いようにない悪意に立ち向かう。

 殺人課刑事。この仕事を続けていると、良くも悪くも人間の死というものに慣れていく。人間として大事な部分が少しずつこぼれ落ちていく。だがそれは防衛本能のようなものだ。この世界には悪意があふれている。あまりにも多くの悲劇を目のあたりにしながらも自分を守るために、わたし達は心を麻痺させることを覚える。そうでなければ耐えられない。だが稀にそう出来ない人間がいる。狂った世界に背を向けることが出来ない人間がいる。それこそが東方日明の悲劇だ。悲劇とは、運命に抵抗して苦悩する人間の姿を描いた物語だ。誰もが感覚を鈍らせ自分の心を守りながら世界を見るが、傷だらけになりながら繊細なままでいる彼には、いつだってわたし達とは違う景色が見えている。彼は誰よりも傷ついている。だからこそ彼は優秀な殺人課刑事なのだろう。

これが東方日明の悲劇だ。


**********


 ある夜、連日の捜査でもう五日間も家に帰っていないわたしは、いい加減家に帰ろうと大きく伸びをしながら刑事部屋横の廊下に出る。と、廊下の先、一番奥の取調室の灯りがまだついていることに気付く。そっと扉を開けると、東方日明が顔の前で祈るように両手を合わせたままぶつぶつと何やらつぶやきながら部屋の中を歩き回っている姿が見える。

「まだ帰らないんですか?」

 わたしの問いには答えず、逆に彼は問い返す。

「32丁目の事件の報告書はどうした?」

「二日前に東方さんの机の上に置きましたよ」

「俺の机? どうしてあんなところに置くんだ。あそこに置いた書類はどこかに消える」

 たしかにあそこは大事な物はすべてなくなってしまうという不思議な磁場がある。そんなことより、「何をしているんです?」

 彼は答えない。だが机の上に乱雑に捜査資料が並べられているのを見て、わたしは小さくうなずくと、お疲れ様です、と言い部屋から出ようとする。

「さっさと報告書を見つけ出せ」

「わたしが勝手に机の上をいじると怒るでしょう?」

「見つけ出せ」

「勝手に触ってもいいんですか?」

「駄目だ」

「じゃあ、どうやって探すんです」

「何とかしろ」

「了解」

 わたしはそっと扉を閉じると刑事部屋を出る。悲劇は続く。東方日明の悲劇の物語。わたしはその物語を一緒に歩いていく。


**********


 わたし達は未未市警察捜査一課長に、東洲区重警備刑務所D区画において起きている囚人の不審死についての捜査を申請する。いくら囚人の死亡事例については市警察と情報共有がなされるようになったとはいえ、法務省直轄の政府機関での捜査はすぐに却下される。それでもめげずにわたし達は何度も何度も捜査の申請を出し、再び季節が巡りコートが必要になった頃、根負けしたのか捜査一課長はまずは予備捜査として捜査一課の中に捜査準備室を設置する許可を出す。捜査一課長はあくまでもD区画には二度と関わるなという態度をとり続けているが、あのホワイトボードの加藤貞夫の名前が一年近く赤字のままになっていることを黙認しているということは、彼自身、あの事件の結末をよしとは思っていないのだろう、とわたしは楽観的に考えている。

 わたし達は通常業務から外され捜査準備室の専従となる。ようやく本格的に捜査が始まると、あてがわれた小さな部屋にわたし達は地下の資料室から大量の荷物を運び込む。もう一度資料を整理し直し、部屋の壁には次々と新たなメモや資料が貼られていく。D区画が設置されてからの三年分のカレンダーが並べられ、囚人の不審死の日付が事細かに記録されていく。そしてその多くが水曜日に集中していることにわたし達は自分達の仮説の正しさを日々確信する。そしてわたし達は新たな結節点に到達する。


**********


その日、捜査一課の刑事部屋にある会議室に課長を始め、捜査一課の刑事達が集められていた。大勢が注目する中、彼は顔の前で祈るように両手を合わせ、それから両手の人差し指でとんとんと唇を叩いたあと、刑事達に向かって説明を始める。

「犯人が水曜日に殺人衝動が芽生えるのは間違いないでしょう。平均すると水曜日に発生した囚人の死亡事件は年間約十五件。この犯人とは関係のない囚人同士の殺人が偶然水曜日に起きることもあるでしょうから、平均すると約一カ月に一件のペースで犯行が行われていると考えられます。ですがその間隔は二週連続することもあれば六週間以上空くこともあり、一見ランダムに見えます。単純に殺す機会に恵まれなかったのか、あるいは何か日付に意味があるのか。これを踏まえてこのカレンダーを見て下さい」

 わたしはホワイトボードに貼られたカレンダーを彼等に示す。そこには囚人の名前や犯行日、罪状などの情報が記載されている。

「犯人が水曜日に殺人衝動が芽生えるのは間違いないですが、それだけでは毎週殺してもいいはずです。そうではないのは他にも条件があるからです。この表がその答えです。手元の三枚目の資料を見て下さい。殺害された囚人の罪状犯行日、そしてその横にあるのが、その囚人が殺害された日付です。いずれも日にちが一致しているんです。六月十日に強盗を犯して収監された囚人が三月十日に殺害されています。九月六日に飲酒運転の死亡事故を犯した囚人が十月六日に殺害されています。これこそが犯人のもう一つの条件です。刑務官なら囚人の基本情報にはアクセス可能です。きっと犯人はD区画の囚人達の犯行日のリストを持っているはずです。そしてその誰かの日付と一致する水曜日がやって来た時、犯人の殺人衝動が爆発してしまう」

「偶然にしては、出来過ぎているな」課長が腕組みをしたまま言う。

「何故水曜日なのかは不明ですが、犯行日と同じ日に囚人を殺害するというのは、ある意味、囚人に罰を与えているようにも見えます。そういう意味でも犯人が刑務官というのはしっくりきます」彼の言葉に課長は小さくうなずく。「D区画で起きた囚人殺害事件の多くは地下の管理エリアで起きています。監房エリアは上下左右から目撃される空間ですからね。地下のジムや図書室、シャワー室に礼拝堂など日中でもあまり囚人が立ち寄らない場所が犯行現場に選ばれています。殺害自体は日中、夜間のいずれでも起きています。ただし夜間に殺人が起きている場合は死体が発見されたあと、その犯行が火曜日や木曜日と認識されている可能性もあり、見逃されている事件はまだあるかもしれませんが」

 彼はふんと鼻を鳴らすと再びとんとんと両手の人差し指を唇に当て刑事達をぐるりと見回す。

「一年間は五十週、水曜日は五十回訪れます。D区画に収容されている囚人は百名以上、罪状の犯行日と一致する水曜日が年間十から十五回程度というのは無理のない数字です」

 彼が合図しわたしはホワイトボードを裏返す。一九九五年八月、九月そして十月のカレンダー。

「犯行は平均して月に一度起きています。ですがこの一九九五年九月前後だけ、九週間にわたって犯行が起きていないんです。それ以外には最大で六週間しか間隔は空いていません。ここだけが異常なんです。では、一体この時に何があったのか?」

「一九九五年九月、まさか、」課長が静かに唸るように言う。「脱走事件か?」

「はい。斉藤雅文が消えたのは一九九五年九月十三日の水曜日です。七海圭吾の証言では、違法賭博のボクシングは日をまたいで行われていたようですから、斉藤雅文が殺害された日付は九月十三日と考えていいでしょう。そして、奇しくも斉藤雅文が収監されることとなった事件を犯したのは二月十三日です。つまり、こうは考えられませんかね。斉藤雅文が加藤と松井によって殺害された九月十三日は、偶然にも犯人が斉藤雅文を殺害しようとしていた日だった」

 まさかそんな偶然か、皆がそう言いたげにわたし達を見る。だが彼の言葉の引力に誰も抗えないでいる。すべてはつながっている。そう確信せざるを得なくなる。

「斉藤雅文はシリアルキラーのターゲットだった。そしてそれを加藤と松井に横取りされたんです。それこそが、シリアルキラーが加藤と松井の命を狙った理由です。強迫性障害の犯人は自分のルールが曲げられたことに、とてつもない苦痛とストレスを感じていたはずです。それを解消するには二人を殺すしかない。犯人にとっては、斉藤雅文を殺害した九月十三日が、加藤と松井の犯行日です。つまり十三日の水曜日に加藤と松井を殺害することこそが犯人の次の目標となったはずです。一九九五年の九月十三日以降、次の十三日の水曜日は十二月十三日、そしてその次が、加藤が殺害された一九九六年三月十三日でした。では何故、斉藤雅文が死亡してから最初の十三日の水曜日、十二月十三日に加藤と松井が殺害されなかったのでしょうか。現在、法務省にD区画の刑務官の過去三年間の勤務日の開示請求を出していますがおそらく理由は単純です。勤務が合わなかったんです。囚人と違い、刑務官は刑務所の外にも出ることが出来ますからね。仮に十二月十三日は加藤と松井が日勤、犯人が夜勤勤務だとすると十三日中に殺害するのは困難です」

「理屈は通るな」

「刑務官の勤務がどのように決まっていたかはわかりませんが、次の十三日の水曜日、一九九六年三月十三日、犯人は加藤と松井の二人と夜勤帯が一緒でした。単なる偶然だとすれば、犯人にとっては僥倖です。しかし勤務が終われば二人はそれぞれ自分の生活に戻ります。二人いっぺんに刑務所の外で殺害するのは難しい。だからまず、どちらか一方を刑務所内で殺害し、勤務後にもう一人を殺害することにしたのだと思います。体格的にも松井を手製のナイフだけで殺害するのはてこずるはずです。ナイフよりももっと殺傷能力のある凶器を用いるのであれば、刑務所の外で殺す方がいいという判断は理解出来ます。犯人は刑務所内で加藤を殺害し、勤務後に松井を刑務所の外で殺害するつもりだった。しかし犯人はこれまで囚人の殺害はしたものの、刑務官を殺したのは初めてでした。囚人の不審死であればD区画では簡単な内部調査で不問にされていましたが、それと同じで加藤を殺害してもおおごとにはならないと犯人は勘違いしていたんです。ですが、想像以上におおごとになった。管理委員会から特別捜査官が派遣され、市警察まで出張ってきた。自分が明確に容疑者の一人と扱われた。警察の監視があるかもしれないのに、おいそれと松井を殺害することは出来ない。だからあの日、松井殺しを断念したんです。犯人はほとぼりが冷めたあと、また次の十三日の水曜日に松井を殺害するつもりだったのでしょう。ですが予想外のことが起きます。俺達によって松井が取り調べを受けたんです。犯人からすれば、加藤殺しの第一容疑者に松井が挙げられたと見えたはずです。そうなると松井は逮捕されるかもしれない。ですが次の十三日の水曜日は十一月です。それまで待つことは出来ない。だから犯人は仕方なく水曜日と犯行日の日付という二つの条件のうち、日付の方は目をつぶった。松井の自宅を訪ね連れ出したあと、報道で奥田由紀子殺害事件の犯人として松井が指名手配されたことを知り、それを利用することを思い立った。そして、自殺に見せかけて次の水曜日に殺害したんです」

 彼は手をおろすと唇をきゅうと鳴らす。

「加藤と松井は斉藤雅文殺害の罰を受けたんです。この犯人は囚人を殺害する際には囚人同士の争いに見えるように凶器に手製の武器や刑務所の備品を使用しています。加藤が囚人手製のナイフで殺害されたのは、きっと元々斉藤雅文を殺害するために用意していた凶器だったのでしょう。加藤が装備品を外していたのは、単に彼がいい加減な性格で特に意味はないのでしょうが、まあ、犯人にとっては幸運でしたね」


**********


 そして物語は終曲を迎える。

捜査会議の四日後、法務省への機密情報の開示請求が通り刑務官の勤務日の資料が開示される。そしてそれまでの囚人の不審死の日付と刑務官の勤務日が確認され、ついに捜査一課長は重い腰を上げる。未未市警察捜査一課として東洲区重警備刑務所D区画における囚人連続殺人事件の捜査を公式に行うことが決定される。

 彼は警官達を集めると、これまでにわかった犯人像を示していく。

「この犯人は極度の強迫性障害の持ち主だ。水曜日の日付と犯行日が一致した囚人が揃った時に、殺さずにはいられなくなる。強いこだわりを持ち、自分のルールを正確に遂行しようとするこういうタイプの犯人は、自分の殺人をきちんと記録しているはずだ」

 彼の言葉にわたしも続く。

「犯人は囚人の犯行日時を調べ、犯行計画を立てる緻密さがあります。誰にも知られず殺し続ける、実行しきる行動力に粘り強さもあります。三十代以上の男性で知能は平均以上だと思われます」

「自宅の部屋は整理整頓が行き届いた異常なまでのきれい好き。きっと玄関の靴の並びが変るだけでも落ち着かなくなるタイプだろう」

 ここで課長が言葉を挟む。

「しかしそれでは松井の殺害は不完全なルールで行ったことになる。本当に強迫性障害なら、そんなルール破りをすることは可能なのか?」

「松井が自殺したとは思えません。あの男は直情的に人を殺すことはあっても自殺するようなタイプではありませんよ。それに松井は水死体で見つかっています。自分の獲物である斉藤雅文を水路に捨てたことに対する犯人の怒りの現れです。ですがたしかに犯人にとっては松井の殺害が十三日ではなかったことは大きな汚点です。そしてそれこそが犯人を逮捕する突破口になります」

 彼はボードの前に立つ。そこには加藤が殺害された夜の、夜勤者の写真が貼られている。

「一度、ルールを曲げてしまった犯人は、もう二度とルールを曲げないと誓ったはずです。だからこそ、一連の事件のあとも危険を顧みず、水曜日と囚人の犯行日が一致すれば殺人を続けているんです。ですが犯行を続ければ続けるほど、犯人の特定はより確実になります。刑務所内で殺人が出来るのは、その日の勤務についているものだけです。これまでの三年間、水曜日の殺人すべてに勤務していたのはたった一人です」

 そして彼は夜勤者の一人の写真を指差す。

「こいつが犯人です」


【EPIROGUE】


1997/9/17 Wednesday


「いらっしゃいませえ」

 国道沿いのダイナーに二人が入ると、金髪のウェイトレスがガムをくちゃくちゃと噛みながらやってくる。

「禁煙席ですか、それとも喫煙席ですか?」

「どっちでもいい」

 東方はそう答えると店の右手奥へと勝手に歩き出す。店の奥、窓際に座る男の向かいの席に東方はいきなり座ると男が顔を上げる。それは、東方が指摘した東洲区重警備刑務所D区画刑務官、間宮昭典が座っている。東方は警察手帳を机の上に置く。

「市警察捜査一課の東方だ。殺人犯を探している」

 そして、東方の長い話が終わり、間宮は水をごくりと飲み干すとグラスを机の上に置く。

「そうか思い出したよ。あの時の刑事さんか」それで、と間宮は東方を見る。「面白い話だったけど、君は僕がその殺人犯だという証拠を持っていない。あればとっくに逮捕しているはずだ、違うか?」

「過去三年間に起きた水曜日の殺人事件、そのすべてに勤務していた刑務官はお前だけなんだよ」

 間宮は表情を変えることなく、淡々と答える。

「第一に、それらの囚人の不審死が同一犯だという証拠はどこにもない。第二に、その犯人が松井を殺害したという証拠もない。そもそも松井を自殺だと断定したのは君達、市警察だったはずだ。松井を殺害したのがその犯人でなければ、刑務官が犯人であるという前提が成り立たなくなる」

「すべて偶然だと言うのか?」

「物事は見たいように見えるものだ。僕を犯人だと思えば、いくらでも疑わしい証拠が出てくるかもしれないが、それは僕が犯人であると断定するに足る証拠ではない」

「だからここに来たんだ。家に直接訪ねて行けば、証拠を処分される恐れがある」

「ああなるほど。つまり僕の家に犯罪の証拠があるということか。今頃は捜査令状を持った警官達が、僕の留守の間に家中を引っくり返しているのかな?」

「ああ」

「ご苦労だな。だが賭けてもいい、何も出てこないよ」

「わかっている。お前なら大切な物を家に置いたままにしたりするはずがない」

 東方の言葉が終わるよりも早く、水沼は間宮のジャケットの胸元を強引に開き、内ポケットから手帳を取り出す。

「おい、乱暴にしないでくれよ」

「今日は水曜日だ。そして昨夜、D区画では囚人同士の喧嘩で囚人が一名殺害されたと報告があった。その囚人の犯行日は二月十七日、そして今日は九月十七日の水曜日。これを待っていたんだ。お前が殺したのなら当然お前は犯行を記録するためのノートを持ち歩いている」

 水沼は手帳をめくる。

「反省しているよ。加藤が死んだ日、夜勤帯全員の持ち物を詳細に調べれば良かったんだ。凶器が現場に残されていたため、お前達の身体検査はされなかった。あの時にしていれば、お前のこの手帳も見つかり、事件はすぐに解決だったのにな。水沼?」

 東方が彼女を見る。

「すべての事件の詳細な記録があります」

「これでも証拠にならないと?」

 東方がたずねると間宮は肩をすくめて答える。

「それは小説の材料さ。言ったはずだ、趣味で小説を書いているんだ。犯罪小説、そのために自分が経験した囚人の死をこうやって記録に取っているんだ。どうやって殺されていたか、現場の様子はどうだったのか、小説のリアリティは細部に宿る。これは小説の材料のための単なる取材メモさ」

「そうやって言い逃れることが出来ると本気で思っているのか?」

「偶然、僕の周りでは囚人が多く死ぬらしい。君が言う殺された囚人達は、偶然、僕の勤務帯に殺されているらしいが、まあ、あの刑務所は特別だからね。野蛮な連中を野放しにしていれば殺しも起きるが、それは僕のせいじゃない。たしかに僕はそれを記録しているが、死んだのは囚人だ。死を冒涜しているとでも言って咎めるつもりかな?」

 そう言うと、間宮は口元をナプキンで拭き、にっこりと笑う。

「さてと刑事さん。残念だが時間切れだ。食事は終わったし、僕はもう行かないと」そう言うと間宮は水沼に向かって手をのばす。「手帳を返してくれないか?」

 だが彼女はそれに応じない。

 そして東方は間宮に告げる。

「刑務所の中で囚人が死んだとしても誰も気にしないしまともに捜査もされない。お前は好きなだけ殺しの欲望を満たすことが出来る。シリアルキラーにとってD区画刑務官は最高の職業かもしれない。だが残念だったな。本当ならずっと幸せな生活が続くはずだったのに、恨むなら加藤と松井を恨め。あいつらがすべてを台無しにしたんだ」

 水沼は手帳をめくると、件のページを東方に向けて見せる。

「東方さん、ありました」

 彼女はそのページを開いたまま机の上に置く。東方はそのページを見ると、満足そうにうなずく。

「お前は松井をルール通りに殺すことが出来なかった。それがお前の命取りだ。やはりルールは守るべきだよな」

「どういう意味だ?」

 東方は開かれた手帳のページを指差し、間宮に告げる。

「お前は偶然目にした死体の記録をとっていると言ったな。お前が犯人じゃないなら、松井がどのように死んでいたかを、どうしてお前は知っているんだ?」

 東方の言葉に間宮の顔色が変わる。

「松井を刑務所内で殺すことが出来れば、このメモが小説の資料だとお前は言い逃れることが出来たかもしれない。だがお前は松井を刑務所の外で殺害した。松井の死の詳細はマスコミでも報じられていない。死体を見ていないはずなのに、どうしてお前は松井の死についてこんなに詳しく知っているんだ?」

 間宮の口の端がゆっくりと歪む。東方はため息をつくと小さく首を振る。「だから、恨むなら加藤と松井を恨めと言っているんだ」

「これで終わりだと本当に思うのか?」

 東方は顔の前で祈るように手を合わせると、じっと間宮の瞳を覗き込む。

「昔こう言った奴がいた。どんな人間でも誰かの父親で誰かの母親で誰かの子供で誰かの友人だと。その死をなかったことにしていいはずがないと、」

 そして次の言葉が水沼桐子をこの残酷な世界から救い上げる。

 彼女に、この仕事を続けていく勇気を与えてくれる。

「俺も今はそう思う」

 それから東方は手帳を閉じると、横に立つ彼女に命令する。

「水沼、逮捕しろ。容疑は殺人だ」

 水沼桐子は間宮の手を取り手錠をかける。

 エナメルを分厚く塗ったローファーで彼女は踊る。

 迷いはない。


20240128 

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