林檎姫

沢田こあき

林檎姫

 陶器のカップにお茶がとぽぽとそそがれて、やわらかな光の中へ、カラダがふうわり広がりました。くすんだ風に手足を浮かせ、ただ夢見心地で、愛しい人の栗色の髪先をなぞっていきます。

 

 一緒にすごした数多の春のこと、ガーデンテーブルにカップが二つならんでいた日々のこと、あなたは憶えているかしら。「林檎姫」とささやく声を、今でもはっきり思いだせるの。あなたはすぐに赤くなるこの頬をからかうつもりでいっていたんでしょうけれど、気にいっていたのよ、そのあだ名。

 

 愛しい人はお茶を一口すすり、宙をただようわたしのカラダを丁寧にすくいあげると、優しく抱きしめてくれました。あなたはずいぶんと年を重ねてしまったけれど、午後の日差しのような温もりは昔のまま。

 

 林檎の花が樹上でさわさわと笑い声をあげています。結婚式の日と同じように。忘れかけていたベールが、頭の後ろでなびきます。懐かしい人々の声が庭のあちこちからきこえてきます。あのとき誰かが『花のワルツ』をかけたから、ダンスの苦手なあなたはひどく緊張していたっけね。

 

 一陣の風が吹き、お腹が浮きあがりました。愛しい人の伸ばした手が指にふれ、また離れていきました。足が風にからまり、ほどけて、このカラダは白い花びらとともにどこまでも遠く、記憶の届かない場所へ飛ばされていこうとしています。

 

 愛しい人はテーブルの上の古いレコードプレーヤーを引きよせて、盤を回すスイッチを入れました。くるくる。くるくる。何もきこえてきませんでした。ずっと前に針がぽっきり折れてしまっていたからです。

 

 けれどたしかに、今この庭には『花のワルツ』が流れています。芝生におちる木漏れ日に、あなたの涙に、揺れるアップルティーの表面に、光っている音楽がみえるのです。何度うまれ変わろうと、これほど幸せな音色をきくことはもうないでしょう。

 

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