第四章 君がいた②

 驚いて、ゆっくりと口を彼女の首筋から離し、楓の顔を見る。


 彼女は私が噛んだ場所から血を垂らしながら、優しく微笑んでいた。


「今、百合がどんな状況なのか知ってるから。だから」


 そこで楓は言葉を句切ると、私の目をじっと見つめる。黒く、みずみずしい瞳で。私の心に訴えかけるように。


「――私を、食べても、良いんだよ」


 噛み締めるように言って彼女は私に笑みを向ける。その笑みは悲しみと優しさを内包したような。そんな複雑な笑みだった。


 私は今何をしようとした? 楓を食べようとした? 唇を舐めると、何とも表現し難いほど芳醇で、濃厚な味をした液体が舌に触れる。私は勢いよく楓から離れると、思いっきり床に尻餅を着く。


「あっ……あぁ……」


 楓は私に近づいて来て抱きしめると、私の口をそっと、先ほど私が歯を突き立てた部分に持っていく。


「ずっとずっとつらかったでしょ? もう、我慢しなくていいから」


 彼女はそう言って私の背中を優しく撫でる。


「どう、して……?」


 私の疑問に、楓は背中を撫で続けながら答えてくれる。


「それはね。貴女が――百合が私の初恋の人だから」


 それから楓は昔話を話すような優しい口調で、ずっと抱き続けていた彼女の気持ちを話してくれた。


「百合は、本以外に友達と呼べるものがいなかった私と、初めて友達になってくれたでしょ? 私はそれが本当に嬉しくて。私は昔から自分の好きなことになると、途端に止まらなくなっちゃってさ。そのせいでみんな私と話してもつまんないって言って全然友達ができなかったの。でも、百合は私の話を真剣に聞いてくれた。それにね。私がつらいときに、いつも側にいてくれたのは百合だった」


 楓は懐かしさを含んだ声で言うと、耳元でクスリと笑った。


「百合はもう覚えてないかも知れないけど、貴女が自分のことを吸血鬼だって教えてくれたことがあったの。最初はなんとも思ってなかった。ふーん。百合も大変だなって感じだった。でもね、小学校に上がって更に難しい本が読めるようになって吸血鬼について調べてみたら、百合が言ったことと全く同じことが書かれていたのよ」


 楓は私を抱きしめる力を少し強めると、また口を開いた。


「百合が私のことを信頼して話してくれたって思うと、言葉に表現できないぐらい嬉しくて。それから貴女が私にとっての、初恋の人になったの」 


 その言葉に私の鼻の奥がつんとして、目頭が熱くなる感覚が私を襲った。


「私も……楓が私の……初めて愛した……人間だった」


 やっと、言葉にできたと、思った。


 私の頬を伝った涙が、楓の制服の肩を濡らす。楓を抱きしめ返そうと左手を動かそうとした瞬間、私の左手に着けられたリングが何かに当たる。


「ん? なんだろ……」


 私がそう言って左手をポケットに手を突っ込むと、楓が不思議そうに私を見た。


「これ……」


 ポケットから飴玉を取り出すと、私はそれを握りしめる。


 顔を上げると、私が不安そうな。いや、どこか寂しそうな表情でこちらを見つめていた。大丈夫だよと伝えるように、ゆっくりと。でも、確かに頷く。私が、決めた、ことだから。


「ねえ……楓……」


 呼びかけると、彼女は怪訝そうに私を見た。


「日付が変わる……まで……私と……いてくれない……かな?」


 楓はその言葉から何かを感じ取ったようで、唇を強く噛んで首を左右に振った。


「……お願い」


 なおも首を左右に振ったが、やがて観念したかのように小さく首を縦に振った。


「ありが、と……楓」


 彼女に感謝の意を伝えて、手に持った飴玉を口に放り込んだ。徐々に胃の空腹感が和らいでいくのが分かる。だが、限界まで来ていた空腹感は収まることはなかった。それでも、私の心には幾分か余裕が生まれた。


 嗅覚も少し鈍ったのか、楓に身をあずけたこの状況でもそこまでつらくは感じられなかった。しかし、二つ目の薬を服用したからだろう。身体はもう満足に動かすことはできなくなっていた。


 楓は私のそんな身体をベッドに運ぶと、そっと掛け布団をかけてくれた。


「ありが、とう……」

 私が笑いかけると、楓は優しく微笑んだ。そして、部屋に一つだけある椅子を私のベッドの横に置くと、自分の居場所を確かめるかのように、静かに座った。

「私ね。知ってたんだ」


 楓は私の右手を両手で包むように握ると、そっとそう囁いた。


「百合には言ってなかったけど、私ね。高校に入った今も吸血鬼について調べてたの」


 その言葉に驚いて楓を見る。楓の、私の手を握る両手が微かに震えていることが伝わってくる。


「それでね……それで『吸血鬼は十八歳を迎えると、初めて愛した人間の魂を喰らう』って話を知ったの。深く知れば知るほど、とてもつらくて……」


 そこで言葉を止めると楓は俯いてしまう。艶やかな黒髪がサラサラと動いて、彼女の顔を覆い隠した。そして、楓は私の手をさっきよりも少し強く握ると、震える声で「つらくて」と繰り返した。


 そのまま楓はゆっくりと私に顔を向けると、大粒の涙が溜まった瞳でこちらを見つめる。窓から差し込む月明かりが楓の顔を優しく照らす。


 ――なんて綺麗なんだろう。


 私は楓のその姿を見てついそんな場違いなことを考えてしまう。今の彼女からはその黒髪と相まってか、とても儚い印象を受けた。


「私ね。その初恋の人が私じゃなかったらって考えると毎日が苦しかった。何度も私であって欲しいと願った。確かに百合と離ればなれになるのは嫌だよ。でも私が。……私が百合の初恋の人であって欲しかった」


 それから人指し指で涙を拭うと、楓は無理矢理な笑顔を浮かべた。


「馬鹿みたいだよね。独占欲が強くてさ。何回百合の、十八歳の誕生日が来ないで欲しいって願ったか……」


 私はその言葉を聞くと、無意識のうちに握られていない左手で、楓に触れていた。楓は驚いて私の方を見ると、ぎゅっと唇を噛んだ。


「私、は……楓が好……き、だから」


 私がそう精一杯の気持ちを込めて微笑むと、楓は椅子から降りて、膝立ちの状態で私と向き合う。


「私は……私は、幸せ……だよ」


 楓は寝たままの私の身体に抱きついて声を上げて泣いた。そんな楓の頭を、私は赤子を寝かしつけるように優しく撫でる。この気持ちは本当だよと、伝えるために。


 やがて少し落ち着いたのか、楓は私を正面から見据えた。


 静かに楓の顔が私に近づいてくる。楓の身体が私に近づく度に、楓の着ている服と掛け布団が擦れる音が聞こえてくる。


 そして私たちは、そっと、互いの唇を重ね合わせた。


 そんなに長くはない。ほんの一瞬の出来事だった。それでも、私にはまるで、その行為が永遠のものであるかのように感じられた。楓の柔らかい唇が私の唇に触れたとき、この世のものとは思えないほどの幸福感が私を包んだ。初めて交わした口づけは、先ほど楓の血を舐めたときよりも何倍も幸せな味がした。


 やがて、楓の顔が離れると、彼女は恥ずかしそうにはにかんだ。


 きっと、私は今世界で一番幸福な吸血鬼だろう。だって、こんなにも愛している人間に愛されているのだから。


 もし、私の願いが叶うのなら、たった一つだけ。


 今度もまた、楓と出会えますように。

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