第三章 私の答え⑰

 私は心から家族に愛されているんだな。そう思うと、そう考えてしまうと、涙が後から後からこぼれ落ちる。溢れてくるそれを我慢しようとするが、堪えきれずに嗚咽とともに溢れ出した。


 貴方たちの娘で良かった。貴女の妹で良かった。貴方たちに出会えて良かった。私の家族でいてくれてありがとう。私を愛してくれてありがとう。


 ――生きたい。


 私は強くそう思った。私は自分のためではなく、私を愛してくれる家族のために生きたい。


「ほら、生きたいんじゃない」


 顔を上げると湖の上で、私の心が笑っていた。目をぎらぎらと光らせて、勝ち誇ったかのように。また、この場所に来たんだと思った。彼女と初めて出会った、この場所に。


 彼女の言葉に頷いて、しまう。ぎこちなくても、しっかりと。

「でも……」


 否定のために呟いた否定の言葉は自分の中にすっきりと落ちては行かず、足下に広がる蒼く、深い湖へと沈んでしまう。


「でも、何?」


 苛立たしげに彼女が尋ねる。


「まさか、今さら迷うの? 生きたいんでしょ? じゃあ、することは一つしかないでしょ。分かってるくせに」


 ぐっと、胸の奥を押されたような気がした。そう、私は生きたいんだ。醜かったとしても、罪を背負うことになったとしても、生きたいんだ。


「だけど……だけど、だけど私の感情に他人を巻き込むなんて……」


「それがどうしたの?」


 些細な事だとでも言いたそうな顔で、首を傾ける。その無垢な表情に、激しい怒りが湧いてくる。


「それがって……! 楓は私の親友なんだよ? 彼女は一番の……」


「でも、彼女を愛したのは誰?」


 私の訴えを遮って放たれたその一言に、私は言葉を失う。それは否定のできない、紛れもない事実。


「それは……」


 それ以上、口に出したくはなかった。ここまできて、事実を拒んでしまっている。自分の気持ちから逃げだそうとしている。


「私だろ?」


 吐き捨てるように突きつけられた本心に、身体を刃物でえぐり取られたような痛みが襲う。足が震え、水面に膝を着く。私を湖面に波紋が広がっていく。遠くで、波が壁にぶつかる微かな音が聞こえたような気がした。


「生きたいんでしょ?」


 彼女は呆然とする私の耳元で、そう甘く囁いた。


「生きたいよ……私は生きたい……」


 口からぽろぽろと溢れた本心を抑えるように、きつく唇を噛む。


「でも、そんな簡単な話じゃないよ」


 その言葉に、彼女は目尻を吊り上げて怒りをあらわにする。


「まだそんなことを言ってるのか? 楓を喰らっちまえば、楓との思い出はずっと自分の中で生き続ける。でも、お前が……私が楓を喰らわなきゃ、その思い出すら、消えちまうんだよ!全部全部全部、無かったことになっちまうんだよ! 私はそれで良いのかよ、なあ!」


 目に大粒の涙をためて、彼女は私を睨みつける。


「それに、バンドのことだって、楓は続けて欲しいって私に言ったじゃないかよ。あのときは咄嗟にごまかされたけど、あれは紛れもない楓の本心じゃないのか?」


 何も言うことができなかった。落ち着いたトーンにも関わらず、その一言は私から言葉を失わせるには十分すぎる威力を持っていた。


 喫茶店で見せた、彼女の淡い笑顔を思い出す。


『私は百合に音楽を続けて欲しいけどなあ』


 楓の声が頭の中をぼんやりと反響する。何度も、何度も。


「お前はその思いすら、踏みにじるのか?」


 はっきりと突きつけられた言葉の刃物に、硬い唾を飲み込む。喉が鳴る音が、この静かな空間では気味の悪いぐらいに、はっきりと聞こえた。


「違う……」


「違うことないさ。そう思ってるのはお前だよ」


 そうじゃないと、頭の中で私が叫ぶ。けれど、それは声になることはなく、代わりに出てきたのは情けない掠れた声だった。


「例えそうだとしても……間違ってるよ……」


「はあ?」


「楓を……私の愛した人を自分のエゴに巻き込むなんて、絶対にしちゃいけないことだよ。そんなの、間違ってる!」


「まだ分からないのかよ!」


 勢いよく胸ぐらを掴まれる。彼女に負けないようにと、私も思いっきり彼女を睨み付ける。


「私が消えて悲しむ人がどれだけいると思う? 家族の思いを聞いたんだろ? それでどう思った。思い出してみろよ!」


「それは……楓だって、同じだよ……」


「同じじゃない! 私は自分が消えたらどれだけの人が悲しむのか分かるさ。そりゃあ自分のことだからな。でも、楓は違う。分かった気になっているだけだ。結局は妄想でしかないんだよ。どうしたって楓は他人なんだよ!」


 そう、結局楓は他人でしかないんだ。


 分かっている。そんなこと、言われなくたって分かっている。それでも、分かっているからこそ、私は何も言うことができなかった。


「高城先生だって言ってただろ? 自分の気持ちと、愛した人との思い出を大切にしたいから喰らったって」


 先生の悲しそうな表情を思い出す。


 彼女は喰らったときどう思ったのだろうか。どう感じたのだろうか。


 そして今、どれほど苦しんでいるのだろうか。


「でも、後悔してるって言ってた……」


「それは吸血鬼はみんな同じなんだよ。みんな抱いてる感情なんだよ。私が吸血鬼であり続ける限り、逃れることなんかできないんだよ」


 吸血鬼にとって、初めて愛した人間の魂を取り込むことは、言い換えれば人間と自分は違うのだと改めて確認する一種の儀式なのだろう。


 自らの行ったことを悔い、そして、それを償うかのように精一杯生きる。吸血鬼であることを、心に深く刻み込み、忘れないようにするために。


「分かった……」


 そう呟くと、自分の中が空っぽになってしまったような気がした。


「それでいい」


 胸ぐらから手を離し、彼女はゆっくりと離れていった。そして、離れながら、小さく何かを呟いた


「……えっ?」


 私が聞き返すが、彼女は返事の代わりに私を優しく抱擁した。


「後は私に任せて」


 彼女が私を解放すると、私の身体は徐々に湖の中へと沈んでいく。水の中は自分が思っているよりも、優しく、そして、あたたかく空っぽになった私を包み込んでくれる。


 薄れていく意識の中で、湖面の向こうに立つ彼女が、今にも泣き出しそうな表情でこちらを見ていた。

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