第三章

第三章 私の答え①

「ねえねえ」


 私は部屋の隅で絵本を読んでいる女の子に声をかける。他のみんなはお外に遊びに行ったのか、部屋に残っているのは私と彼女以外に数人だけだった。その数人もみんなおままごとに熱中しているのか、部屋の隅でぽつんと絵本を読んでいる彼女に気が付いたのはどうやら私だけらしかった。


 女の子は不思議そうに私を見上げると、少し怯えた声音で「どうしたの?」と返事をした。


「何読んでるのかなーって思って」


 女の子は少し視線を彷徨わせた後、無言で私に今まで読んでいた絵本を差し出す。


「しろくまちゃんのほっとけーき?」


 私がタイトルを読み上げると、女の子は「大好きな絵本なんだ」と言って照れたように笑った。


「へー! どんなお話なの?」


 私が尋ねると、女の子は楽しそうに絵本の内容を話してくれた。それを私は不思議と退屈せずに聞いていた。


「あっごめんね……つい話し過ぎちゃって」


 女の子は私から目線を逸らすと、急に萎縮してしまう。どうしてそんなにしょんぼりしているのだろうか? とでも言うように首を捻ると、女の子はさらに縮こまってしまった。


「ねえ、またオススメの絵本。教えてよ」


 退屈じゃなかったことを伝えるように、私は無邪気に笑う。


「……いいの? あっでも……」


 女の子はそう言うと少しおろおろしてしまう。


「いいのいいのー! 私はたかにしゆり。ゆりって呼んでね!」


 私の言葉に、女の子は目を白黒させたかと思うと、今度は楽しそうに笑い声を上げた。


「私はあらきかえで。かえでって……呼んで欲しいな」


 思えばこのときが初めて楓とした会話だった。彼女との思い出は沢山ありすぎて忘れてしまったことも当然あるけれど。それでも、この思い出だけはずっと私の心に残っている。


 それから私たちは毎日様々な話をした。基本的に、絵本や小学生向けなどの児童書を多く呼んでいる楓の話を聞く感じなのだが、それでも私は楽しかった。知らない物を知れるということ。そのおもしろさを教えてくれたのは、他の誰でもない、彼女だった。


 楓と出会ってから、私は保育園を休むことがなくなった。今までは別に痛くもないのに、お腹が痛いだの、頭が痛いだのと言って保育園を休むことがままあった。それが、毎日楽しそうに通うようになったものだから、私の両親は楓の親御さんに「楓ちゃんのおかげで~」などと話していたのを今もよく覚えている。


 私はそれを聞く度に、楓に冗談めいたふうに「またママが私のこと悪く言ってる」と愚痴をこぼすのだが、楓は「私はゆりちゃんは何も悪くないと思うよ?」と真剣な顔で言ってくれるから、私は思わず吹き出してしまう。そんな私を見て、楓もまた、同じように笑うのだった。


 昔からこうだったなと思うと、小さな笑いが込み上げて来る。今も昔も変わらない。同じ日はないけれど、それでも結局、今は昔の延長線上なんだ。


 急に今まで一人称視点だったのに、いつの間にか私は第三者の視点としてこの光景を見ていることに気が付いた。あぁ、これは夢なのだなと考えつくと、私は不思議なぐらい納得してしまった。これは先生に貰った飴玉の効果なのだろうか。


 色々と考えたが結局収拾が付かなくなりそうなので、私は考え込むのを止めて視線を上げる。すると、幼い頃の私たちが花壇の前に座り込んで何やらして遊んでいた。私は二人に近づいて、声をかけてみる。もしかしたら声が通じるかもしれない。


「ねえ」


 私が声をかけても二人は私に気付いた様子もなく、相変わらず花壇の前でお喋りを続けている。私はもう一度「ねえ」と声をかけながら、幼い頃の自分に触れようとするが、私の手はその身体をすり抜けた。この光景に干渉できないことを悟り、黙って二人の光景を眺め続けることにした。後ろから、男の子たちが楽しそうにサッカーやごっこ遊びをしている声が聞こえてくる。


 だが、後ろを振り返っても、真っ黒な空間が広がっているばかりで人の気配はない。当たり前か。これは私の記憶なのだから、私が見ていない世界をある程度補完できても、全てを補うことができるわけではない。私は諦めて前を向く。


「――痛っ」


 草花で切ったのであろう。楓の指から血が滲んでいた。幼い頃の私は「見せて」と言いながら楓の指をじっと見つめると、そのままぱくりと楓の指を口に咥えた。


「な、何してるの?」


 幼い頃の私が彼女の指を口から出すと、楓が驚いたように幼い頃の私を見た。


「ほら。もう治ったでしょ?」


 幼い頃の私の言葉に、楓は訝しげに自分の指を見る。


「わぁ……。本当に治ってる」


 楓は先ほどまで傷があった部分を不思議そうに撫でると、キラキラした目を幼い頃の私に向ける。


「ねえ。もしかして、百合ちゃんは魔法使いなんじゃないの?」


「まほう……つか……い?」


 幼い頃の私は聞き慣れない言葉に首を捻った。


「そう。魔法使い。魔法使いはね、みんなの病気とか怪我をすぐに治しちゃうの! でもね、悪い魔法使いもいるんだけど、百合ちゃんは私の怪我を直してくれたから、きっといい魔法使いだよ!」


 幼い頃の私は、少しうーんと唸ると、「私はまほーつかいじゃないよ?」と小首を傾げて言った。


「パパが言ってたけど、私はきゅーけつきって言うのなんだって。だから私はまほーつかいじゃないよ」


 幼い頃の私がそう言うと、今度は楓が何それ? とでも言いたそうにしていた。


「なんかね。私は人の血を飲まないとダメなんだって。何でかは知らないけどね」


「……『ち』って私たちの身体にある血?」


 楓は少し間を置いた後、遠慮がちに尋ねた。幼い頃の私は多分そうだろうと考え、こくりと頷いた。


「でも、人からは飲まないってパパが言ってたよ。後これを誰にも言っちゃダメって……」


 そこまで言ってから幼い頃の私は「あっ」と小さく声を漏らした。


「ねえ、誰にも言わないでね……? 言ったってパパが分かると、とても怒るの……」


 楓は何も言わずに、そっと小指を私に突き出した。幼い頃の私はそれの意味を理解すると、自分の小指を楓のそれに絡ませる。


『ウソツイタラハリセンボンノーマス。指切った!』


 そう言って指切りをした後、二人はどちらからともなく笑い声を上げた。


「二人だけの秘密だよ!」


 幼い頃の私が笑うと、楓も「うん!」と元気よく返してくれた。


 この約束を楓は今も守り続けてくれている。そして、小学校に上がると自ら吸血鬼のことについて調べてくれた。それから、何かと私をサポートしてくれたりしている。本当に、なんとお礼を言っていいのか分からない。


 多分この時から私たち二人の仲はより深まったと思う。当然二人とも個々に友達はいた。けれど、やっぱり一番仲の良い人を挙げなさいと聞かれれば、私たちは迷わずにお互いを選ぶことだろう。


 いや、そうであって欲しいと思った。思ってしまっている。


 ――あぁ、そうか。きっと私はこの時彼女を愛したのだろうな。

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