第二章 飢え⑩

「あ、あの!」


 私は無意識のうちに声を出していた。村上さんは店に備え付けられている銀色の灰皿に煙草の灰を落とすと、目だけで私に続きを促す。


「わ、私、実は……実は学内で披露する劇で主役をすることになったんです……」


 全てを話すことはできない。だから、無意識のうちに、嘘を、吐いてしまう。そのことに胸が痛んだが、それでも続きを話し始める。


「それで、ちょっと迷ってるんです……」


 村上さんは紫煙を吐き出すと、何かを見定めるかのような鋭い視線で前を睨みながら「へぇ」と呟いた。


「その……私が吸血鬼で、初恋の人を食べちゃわないと消えてしまうんです。初恋の人って言っても、それは女の人なんですけど……」


 私はそこで一度言葉を切ると、少し冷えてしまった珈琲を口に含む。先ほどから口の中がからからに乾いてしまっているせいで上手く舌が回らない。


 いくら劇の話とは言え、突拍子もない内容に首を傾げてしまうだろう。しかし、村上さんは食い入るように真剣に聞いてくれている。私はそのことに安心し、話を続けることにした。


「それで、私が食べちゃうと、初恋の人はこの世界から消えちゃって。そしたら覚えているのは私一人になっちゃうんです。それで、迷っていて……」


 そこまで聞いて、今まで何も言わずに聞いてくれていた村上さんが疑問の声を上げる。


「え? 台本は決まってるんじゃないの?」


 その質問に小さく首を左右に振って「いいえ」と掠れた声で呟く。


「その……台本は私の答え次第で変わるんです。だから、いまだにどうしたらいいのか分からなくて……」


 私の言葉を聞き終わると、村上さんは「うーん」と唸って天井を見上げる。

「じゃあさ。もし、その吸血鬼が初恋の人を食べちゃわないとどうなるの?」


 その質問は、私の頭を鈍器か何かで殴られたような心地にさせた。もし私が楓を食べなければ? そんなこと、考えもしなかった。喰らっても良いのかということばかりに気を取られ、喰らわないという選択肢は今の今まで見えてこないものだった。


 あまり働かなくなった頭で考えてみるが、答えが出ずに、私は「まだ、わかりません」と溜息を交えながら言った。


「えっと……それは食べない場合の台本がまだ出来上がってないってこと?」


 私はその言葉に一瞬戸惑いながらも首を縦に振る。台本など、どこにもありはしないのに。


「なるほどね……。一応百合ちゃんの中ではどうしたいかは決まってるの?」


 私は無言でもう一度首を左右に振る。村上さんはそんな私の様子を見て、肺に溜まった紫煙を吐き出すと、灰皿に残りの煙草を強く押し付けた。


「そうだなぁ……。私なら食べないと不幸になるって言われたとしても、食べないことを選ぶかもしれない」


村上さんはそう言った後に「でもなー」と唸りながら眉間に皺を寄せる。


「なんで……なんでそう思ったんですか?」


 弱々しく震える声で尋ねる。彼女は二本目の煙草に火を点けながら言葉を紡いだ。


「私は……やっぱり初めて愛した人には生きていて貰いたいから……かな? なんかさ。初めて好きになったから食べるっていうのは、少しエゴが過ぎるかなーって思ってさ」


 村上さんはそう言うと悲しそうに微笑んだ。


「まあ、これも私のエゴなんだけどね」


 私はその言葉に思わず涙を流してしまう。そう、これは私のエゴだ。吸血鬼である私のエゴ。それ以外の、他の何ものでもない。


 そんな私を見て、村上さんは黙って私の頭をそっと撫でてくれた。


「珈琲。もう一杯飲む?」


私はその申し出に何度も頷く。下手な慰めよりも、優しく感じられたその言葉は、私の涙をさらに助長させる。


 やがて、暖かい珈琲を淹れ直された珈琲カップがことりと音を立てて目の前に置かれる。私はそれを握りしめ、そして、嗚咽を漏らしながら泣き続けた。そんな私の様子を村上さんは優しく見守ってくれ、そして、ただ、そっと寄り添ってくれていた。

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