第二章

第二章 飢え①

 ふと気が付くと、ひんやりとした空気が漂う場所に立っていた。


 あたりをいくら見渡しても濃い霧があたりを覆っていて、お世辞にも視界は良好とは言い難かった。


「ここは……」


 ふと口から溢れ出た言葉は、水中のようにぼんやりと響く。少し勇気を出して手を伸ばすと、冷たい何かに手を触れる。これは何だろうと目を懲らすと、それが所々に苔のむした、古びた壁だとわかった。


 壁に沿うように進んでいると、少しずつ霧が晴れてきた。ある程度視界を確認できるようになったタイミングで視線を上に向ける。空が見えると踏んでいた天井には、壁と同じような苔のむした煉瓦レンガで一面が覆われていて、申し訳程度に設置された松明がこの場を頼りなく照らしていた。


 まるで、映画か何かのセットのようなその場所に、私は間抜けな声を漏らすことしかできなかった。


 歩いても歩いても、視界に広がる景色は似たような場所ばかり。まるで迷路のようだ。そう思うと、ここから抜け出せないのではないかという恐怖がじわじわと心を支配し始める。


 もし、物語のように何か恐ろしい生物が襲ってきたらどうしよう。吸血鬼だろうが人間と同じだ。物語の世界のように、コウモリに化けて空を飛ぶこともできなければ、不死の生き物でもない。刃物や拳銃で襲われれば死んでしまうかもしれない。物語の中は所詮、物語でしかないのだから。


 心を支配しつつある恐怖を振り払うかのように走り出すが、足がもつれ、上手く走ることができない。足って、こんなに不自由なものだっただろうか。


 走ることを諦め、壁際にもたれかかって乱れた息を整える。自分の息づかい以外、耳に届く音はなかったけれど、それでも何か現れはしないかと耳を澄まし続けた。


 すると、遠くで水が滴る音が聞こえてきた。ぽつり、ぽつりと物悲しげに響き渡るその音につられるように歩を進めていく。


 重い足を引きずるように、聞こえてくる音に向かって歩き続ける。しばらく進むと、小さな湖のような場所に出た。音の正体はその湖の上に広がる、とげのような鍾乳石から水滴が湖に落ちたときに響く音だと分かり、安堵して息を吐き出す。


 蒼く、透き通った湖面にそっと触れると、氷のような冷たさが皮膚を刺した。


「……こっち」


 その時、掠れた、声が聞こえた気がした。驚いて周りを見渡すと、ここから反対側の岸に、鉄格子のようなものが見て取れた。


「誰?」


 呼びかけるが、返事は返って来ない。それでも待ち続けていると、もう一度先ほどと同じ声が響く。


 あたりを見渡しても、道らしい道は見受けられなかった。


「そのまま、おいで」


 誰かの声が、私の背中を押す。


 硬い唾を飲み込み、湖面に一歩を踏み出す。下を見ると、気が遠くなりそうなほど深いというのに、不思議と私の身体が沈むことはなかった。一歩、また一歩と進む度に私を中心に波紋がゆらゆらと広がっていく。


 肌を刺す痛みに叫び出したくなったが、それでも身体が操られているかのように、鉄格子へと足が向かう。


 やがて、湖面を渡りきると、反対側と同じような湿った岸が現れた。ただ、違うところを挙げるならば、視界の先に続いているのは迷路のような場所ではなく、小さな鉄格子があるだけだった。


 その鉄格子は酷く錆び付いていて。別に潔癖症という訳ではなくても触れることに躊躇ちゅうちょしてしまう。


 暗い、その奥に目を懲らすと、見窄らしい布きれを纏った人物が膝を抱えてうずくまっていた。表情を伺おうにも、目深に布を被っているせいで、檻の中の人物がどんな顔をしているのか分かりそうにない。


「大丈夫……ですか?」


 怖ず怖ずと尋ねるが、その人物は何も答えようとはしなかった。


 もしかして死んでしまっているのだろうかと不安になり始めた頃、ゆっくりと片腕を挙げて、ある一点を指さした。訝しみながらもその方向に視線を動かすと、その先には青錆の浮いた手の平大ぐらいの錠前が中と外を断絶するかのようにどっしりと居座っていた。


「これを開ければいいんですか?」


 私の質問に、中の人物はゆっくりとだが、確かに頷いた。近づいて観察してみると、大きな鍵穴がぽっかりと空いており、そこに鍵を差し込まなければ開きそうになかった。


 あたりに鍵はないだろうかと見渡すが、それらしきものは見つからず、私は深い溜息を吐き出した。


「鍵、なさそうなんですけど」


 そう言っても、中の人物は相変わらず先ほどと同じ格好でいるだけで、何も話してくれそうにない。


「黙ってても分からないんですけど」


 声が苛立たしいものになってしまうが、これはばっかり仕方がないと思う。現実はゲームのように何かヒントがあるわけではない。口で言ってもらわなければ分からないことの方が多いぐらいだ。


 それでも何かつかめやしないかと、そっと錠前に触れた瞬間。鈍い音を立ててそれが崩れ落ちた。


「えっ……」


 驚いて顔を上げると、中でうずくまっている人物と目が合った。


 自分にそっくりな顔が、口を三日月型に裂き、ぎらついた瞳で私を見つめていた。


「やっと、出られた」


 その声は、聞き慣れた自分の声に、よく似ていた。

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