第一章 吸血鬼⑤

 ケーキを食べ終わり、のんびりとアイスコーヒーを堪能し終えると、店を後にする。


 店を出ると、入店する前に見えていた夕焼けは既に山の奥に消え、代わりに丸い満月が暗闇を照らすように浮かんでいた。こんな夜は物語の吸血鬼なら血を求めて人を襲うのかもしれないが、現実はそんなこともなく。ただただ先ほどまで食べていたケーキの感想が、ぐるぐると私の頭の中を回っていた。


「うーん。美味しかった。また来たいね」


 私はそう言いながら大きく伸びをする。結構長い間座っていたからか、腰のあたりからポキポキと軽い音がした。


「それじゃあ帰ろっか」


 どちらともなくそう切り出して、歩き出す。ふと、楓の方に視線を向けると、店内から漏れ出た明かりに照らされた彼女の横顔が、どこか幻想的に見えた。


 こうして黄昏時の道を二人で並んで帰っていると、たまにだが、楓がこの暗闇に溶けてしまうのではないか。そんな恐怖に駆られることがある。それは楓の艶やかな黒色の髪がそうさせるのかもしれない。私はそんな考えを振り払うようにゆっくりと顔を左右に振ると、空を見上げる。今日は星が良く見える。


 しばらくそうやってぼーっと上を見上げながら歩いていると、ふわっと食欲をそそる良い匂いが鼻先をかすめていった。


 なんだろう、初めて嗅ぐ香り。


「ねえ。なんか良い匂いしない?」


 急に私の鼻孔を襲ってきた、この食欲を強く刺激する香りに鼻をひくつかせながら、楓に同意を求める。楓も私と同じように匂いを嗅ぎ取ろうするが、結局嗅ぎ取ることができなかったのか、不思議そうな顔で私を見る。


「うーん……私には分からないかなあ……」


 その言葉に思わず首を捻ってしまう。おかしいな、確かにするのにな。


「風邪でも引いた?」


 楓が私の額に手を当てる。


「まあ、気のせいだと思うから気にしないでよ」


 そうは言ったものの、家に帰るまでその匂いはずっと私にまとわりついてきた。


 帰路で何度も鼻をひくつかせていたので、楓が怪訝そうな表情でこちらを見ていたのが少し恥ずかしかった。


「それじゃあ、また明日ね」


「うん、また明日」


 私の家の前で楓と分かれると、匂いは少しずつ遠く離れていった。


「変なの」


 そう呟くのと同時に、心の中で何かがざわりと音を立てた。


 嫌な予感が私の思考を徐々に支配していく。もしかすると、この匂いは楓から漂っていたのではないだろうか。胸の奥がひやりと冷えたような気がして、強く頭を左右に振ると、急いで家に入る。きっと気のせいだ。そんなことあるわけがない。今まで楓の血を何度か飲んだことがあるが、こんな匂いは今まで嗅いだことなかったじゃないか。


「気のせい気のせい」


 自分に言い聞かせるようにそう何度か呟きながら、玄関を抜け、家族の待つリビングへと向かう。扉を開く前に一度深呼吸をすると、扉を勢いよく開く。


「ただいまー! 遅くなってごめんね」


 私がそう言うと、ソファに寝っ転がりながら小説を読んでいた姉が顔を上げる。


「あんまり遅いから先食べちゃったよー」


 姉はそれだけ言うと、また視線を読んでいた小説に落とす。ブックカバーがかけられているせいで何を読んでいるのかは分からなかった。だが、彼女のページを繰るスピードから、それが購入されたばかりの本だと察することができた。


 ふと、姉が使っている花柄のブックカバーに視線を落とす。それは私が物心ついた頃から使っているせいかもう随分薄汚れてしまっていた。一度どうして変えないのかと尋ねた事があるが、姉は口をへの字に曲げて「秘密」と言って答えてはくれなかった。


「いや、まだ七時だし……」


 私は大げさに溜息をつくと、机の上で冷めているミートソーススパゲティを電子レンジに放り込む。


「そう言えば二人は?」


 私が電子レンジの中でくるくると回るそれを睨みながら聞くと、姉は考えるように小説から顔を上げる。それから何かを思い出したかのように無言でカレンダーを指さした。


「そっか、今日は二人とも地域の集まりに行く日だっけ」


 今時珍しく、私の住んでいる町では月に一度のペースで地区の集まりがある。正直参加者なんて数える程だろうと思っていたが、この地区に住んでいる人の大半が参加しているらしい。一度、どんな物かと思い参加したことがあるが、ただ集まってお酒を飲んでいるだけだったのは言うまでもない。両親は酔っても吸血鬼の話を漏らさないので、今もこの地区で住むことができていることを思うと、しらふで喋ってしまう自分が恥ずかしく思えてしまう。


「そっ。だから、先に寝ててだってさー」


 姉は欠伸まじりに言うと、小説をぱたりと閉じ、早々に自分の部屋に引っ込んでしまった。


 私が溜息を吐くのと同時に、電子レンジからミートソーススパゲティが温め終わったことを告げるメロディが鳴り響く。


 熱く温められたそれを取り出すと、ミートソース特有のトマトの匂いと共に、暖かい湯気が私の顔を襲う。


 うん、良い匂いだ。


 先ほどまで嗅いでいた不思議な香りは一度記憶の片隅に置いておいて、私は早速フォークを使って食べ始めた。


 夕飯をさっさと食べた後、これからどうしようかと思考を巡らせていると、あることに気が付いた。


 先ほど食べたばかりだと言うのに、空腹感がある。いや、空腹感とは少し違う。確かに空腹は紛れているが、満たされた感じがしない。言うなれば、心が満足していないみたいな。別に食べ盛りと言うことではないはずなのだが。


 私はそんな奇妙な感覚に頭を捻りながら、そそくさと食器を片付ける。さすがにこれ以上食べると太ってしまう。夕食の前にケーキも食べてしまったのだ。いくら太り難い体質とはいえ、お年頃。私はこの謎の満たされない気持ちにそっと封をした。

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