オフィーリアの花

今際ヨモ

ご愛読カンシャッシャッシャ

 美術の授業で、中学校の側にある市立美術館へ行くことになった。クラスメイトは皆、校外へ行けることが遠足みたいで楽しいって、浮き出し合っている。


「こら皆、道を広がって歩かない」


 美術の若い先生の声に、生返事を返す。先生は顔立ちも優しげな人だから、舐められているのだ。見かねたクラス委員なんかが注意して、やっと私達は言うことを聞く。私も魅音も、面倒くさいねえとか言いながら。クラス委員は、あとでネチネチ言ってくるタイプだから、逆らおうとするクラスメイトはいなかった。

 秋晴れの空に、イワシ雲が泳いでいる。皆が踏み鳴らす道に、枯れ葉の音が踊る。吹き付ける風は、少しだけ冷たかった。


 美術館に辿り着くと、先生がいくつか注意事項がどうのって言っていた。美術館の人が配ったパンフレットに目を通していた私は、そんな話はほとんど聞いていなかった。どうせ、他のお客さんもいるからうるさくするなとか、美術品に触るなとか、そんな話だろう。


「汐、見てよこれ。歴史の教科書に乗ってた絵だよ」


 魅音も先生の話なんか聞く気もなかったようで、パンフレットの絵を指差し、小声で話しかけてくる。

 どれ、と覗き込もうとして、彼女の長い髪が邪魔だったから、指先ですくい上げて、肩にかけた。勝手に髪に触ったのがこそばゆかったのか、魅音が小さく身じろぐ。ジト、と困ったように微笑んで、彼女は私の顔を見た。


「何。自慢の髪の毛だからって、いつも触らせてくるじゃん」

「そ、そうだけど。……ああもう、なんでもないよ」


 魅音の髪は、親譲りの自然とうねる髪質で、パーマもかけてないのにきれいにウェーブしている。お洒落が好きな彼女は、それが誇らしいようで、よく私に触らせようとしてくるのだ。


「安心しなよ、今日もきれいだよ?」


 それを伝えると、継魅は照れてしまったらしく、ああ、とかうん、とか短く返すだけだった。


 美術館内には、確かに魅音が言ったとおり、歴史の教科書で見た、イギリスとかフランスの絵画が展示されていた。


「こういうの、ルネサンス期の絵? なんだっけ」

「パンフレットにはラファエル前派って書いてあった」

「へー」


 大して興味なさ気な相槌を残して、魅音は美しい女性の絵画を眺めている。私も彼女の隣に並んで、その視線の先を追った。

 それは、水辺に沈む女性だった。彼女の周りの草花の彩りと、水の冷たさを感じさせる油彩。青ざめた頬で、でもなんだか、自分の状況が解ってないみたいな表情をしている。このまま、彼女は溺れるのだろうか。だとしても、この最期ではあまりにも美しすぎるではないか。


「オフィーリア」


 魅音が言った言葉が、その絵のタイトルだった。絵に興味を失って、近くに書いてあった説明書きに目を通していた魅音が、ふーん、と声を漏らす。


「死ぬ前の絵なんだって。水に落ちて、なのに自分の状況も理解できないで、歌を歌っている。だんだん服が水を吸って、重くなって沈んでいくのに、呑気に歌ってる。それで結局死んじゃう。そういう絵なんだってさ」


 魅音はそれだけ言うと、次行こうよ、とさっさと歩を進める。オフィーリアの前で立ち止まったままの私に気付いたのは、その数秒後だった。

 これから死ぬ女が。オフィーリアが、どうにも私には素晴らしいものに見えていた。絵としての美しさもさることながら、これからの運命という物語性も含めて。目を奪われる。

 オフィーリアは、目鼻立ちが整っていて、でも強烈な美貌の女性ではない。素朴ながら優しげで、儚げだ。水にたゆたう亜麻色の髪と、青白い肌が、彼女の消え入りそうな危うさをより際立たせている気がする。

 汐。名前を呼ばれた。怪訝な顔をした魅音が、私を見ている。その表情を横目で見て、私の視線はオフィーリアへと戻される。


「こんなふうに、死ねたらな」


 きっと魅音に聞こえない程度の呟き。

 完成された絵のような最期。人は皆、汚く死ぬ。だけど、オフィーリアはきっと散る姿すら美しい。だから、彼女が羨ましいって思う。

 私とオフィーリアの出会いは、けして劇的ではなく、運命的でもなく。ただそこに沈む彼女のことを、偶然私が見つけただけだった。





 美術館を出たあとも。学校に戻ったあとも。私の胸のうちにはオフィーリアがいた。


「オフィーリアが忘れられない」


 それを魅音に伝えると、鼻で笑われた。


「絵の中の女に恋でもしたの?」

「恋」

「だって汐、美術館でもらったパンフレットずっと見てる。オフィーリアばっか見てる。授業中もよ。一目惚れでもした?」


 恋。一目惚れ。何を言ってるんだろう、オフィーリアは女性だ。しかも絵だ。画材の色彩で生まれただけの女に、そこまでの力はない。

 ……本当にそう? 自分の胸の内で自問自答を始める。

 恋なんかまだ知らない私だから、よくわからないだけ? 確かに私はオフィーリアのことをずっと考えている。彼女のあの儚さ。艶やかさ。ドレスの精緻な柄。水の冷たさ。周りの草木の緑。浮いた花々の赤に黄に紫。それらをただ、素敵だとかなんとなく良いなと思っているだけ。

 魅音は、なんだか小馬鹿にしたような顔で私を見ていて、ああ。絵に恋をした友達が、馬鹿馬鹿しいって。そう言いたげだ。

 軽い苛立ちに、息を吐く。冷たい視線で魅音を睨んだ。


「この感情が何なのかはわかんないけど、恋って言葉、好きじゃない。確かに私はオフィーリアに夢中で、日中ずっと彼女のことを考えているけれど。そういう感情全て、恋でまとめられたくないよ」

「なにそれ。中二病じゃんね」


 中学生や思春期の子供が拗らせることを揶揄する言葉。私がそういう、思春期特有の変な状態だって、魅音は言いたいのだろうか。心外だった。


「まあ、汐はオフィーリアにお熱なんだね。だったら、ハムレットって本に出てくるらしいよ、オフィーリア。放課後、図書室でも寄る?」

「いい。私が好きなのは、絵としてのオフィーリアだから」


 魅音の提案に乗るのが癪だっただけ。本当はちょっと、ハムレットが気になった。言ってしまった手前、撤回することもできず、私はそれきり口を噤んだ。

 いいや。なんか図書室に一緒に行く気でいる魅音のことも気に食わないし。私はオフィーリアの絵を眺めているだけで、満足している。

 ふうん、と興味なさげな反応をしてから、不意に思い出したように魅音は口を開く。


「汐ってそんなに絵、好きだったっけ? アタシも美術部なんだけど?」


 面白くなさそうにぼやいて、指で自分の毛先を弄んでいる。

 美術部だから、なんだろう。話の意図がわからない私は、怪訝な顔をする。


「絵が好きというか、オフィーリアが、いいなと思っただけ」


 家に帰ると、両親が喧嘩をしていて、幼い妹が泣いているとか。進路を決めなくてはならないとか、進路のためには勉強をもっと頑張らければならないとか。些細なことの積み重ねに嫌気が差して、たまに希死念慮がちらつく。そんな私の前に現れたオフィーリアは、ただただ美しかった。私も、あんな最期なら。きれいに描いてもらえるような終わりなら。

 ぼんやりと佇む私の顔を、魅音は不満げに見つめていた。


「……なに?」

「別に」


 魅音は何か言いたそうにしていたくせに、言葉を飲み込んだ。伏せられた瞳は見えないから、そこに隠された感情も伺い知れないまま。

 乾いた風が窓を外から叩いて揺らした。





 オフィーリアを知ってから、少しの日々が過ぎた。

 やっぱり魅音は、私がオフィーリアを見ていると、不満げな顔をする。

 最初のうちは気付かないふりをしていたけれど、ずっとそんな調子の魅音が面倒になって、私はちゃんと話を聞くことにした。


「魅音はオフィーリア、嫌いなの」


 放課後の教室をダラダラと過ごしながら、私は問う。なんてことない世間話の合間に差し込まれた話題に、魅音は面食らったようだった。

 口ごもって、魅音は沈黙を誤魔化すみたいに自分の髪の先を摘む。

 彼女が中々何も言い出さないから、痺れを切らした私は次を紡ぐ。


「それとも私のことが嫌いなの?」

「それは。絶対に違う」


 思いがけず、大きな声で魅音は言った。今度面食らうのは、私の方だった。

 私達の間に築かれた友情は、今も間違いなく健在だ。その確証が得られただけ、私は安心した。でも、だからこそ魅音の不機嫌の理由がわからなくなる。

 魅音は少しの間、困ったような顔で俯いていた。

 風が窓を叩く。隙間風が肌を撫でて、思わず身震いした。教室の外を見ると、枯れ落ちた葉が木枯らしとなって、中庭で踊っていた。


「汐はさ」


 視線を戻した私のことを、魅音はじっと見つめていた。


「アタシの絵には、あんなに釘付けにならない。アタシの絵が上手いって言ってくれるけど、あんなふうには見なかった。死にたいとか、気になるとか。なにそれ? アタシのほうが好きなのに」


 主語の抜けた話し方をするものだから、いまいち要領を得ない。

 ええと、と声を漏らして考える。

 魅音が美術部として描きあげる作品は、色彩も鮮やかで、上手だと思う。だから好きだ。でも、あんなふうって言うのは……オフィーリアのことだろう。オフィーリアを見るように魅音の絵を見なかったから、それで怒っている?

 死にたいとか、というのは。思い浮かんだのは自分の発言だ。

 オフィーリアを初めて美術館で見た日、私は「こんなふうに、死ねたらな」と零した。それ、魅音にも聞こえていたんだ。それで?

 私のほうが好きなのに、というのは?


 私が戸惑っていると、不意に魅音が私の腕を掴んだ。少しだけ強い力だった。しっかりと握りしめて、魅音は私を睨みつける。


「……どうしたの」

「どう、したんだろうね?」


 瞳の奥の、揺らめく炎。

 人にこんな目で見られたのは初めてで。怖いと思った。

 切なげに顰められた眉。燻った熱を押さえつけるような、強く燃えて、なのに潜められた煉獄。

 これ、嫉妬だ。


 思わず私は魅音の腕を振り払った。

 オフィーリアに嫉妬した彼女のことを、気持ち悪いとか、怖いとか思った。

 隙間風の冷たさが頬をなぞる。魅音の髪を軽く煽る。

 

「……今の魅音に、いつかあげたいものがある。5月の花だからさ、覚えてたらあげるよ。赤いケシの花」

「なに、急に。それどういう意味?」

「さあね。でも、オフィーリアの傍らに浮いてる花なの」


 怪訝そうな顔をする魅音に。私の心は、オフィーリアの元にしかないのだと言うつもりで、伝えた。

 オフィーリアの名を出すと、魅音は裏切られたみたいな表情を見せた。

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オフィーリアの花 今際ヨモ @imawa_yomo

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