大日本乙女研究会漫録
道草
第1話
「潤いがほしい」
蒸し窯のような部屋の畳の中央で、高橋少年はぽつねんと呟いた。彼は広大無辺とも思われる高校一年の夏休みの半分を、全てその畳の上で完結させていた。
潤いと言えば、彼自身から滂沱と溢れる汗水こそまさに潤いであった。しかし彼の求める「潤い」というのは、精神的なものであり、清らなものであり、甘美に寄り添ってくれるものであり、溌剌として、黒髪で、白く美しい肌をもつものである。
つまり乙女のことである。
高橋君の計画によれば、夏の初めまでには「潤い」を獲得し、順風満帆に一学期を終え、そのままバラ色の夏休みに突入するはずであった。計画に狂いがあったとすれば、それは計画そのものであろう。彼が手にしたものと言えば、彼と同じくして花のない、それも汗に潤ったむくつけき同志と、乙女とは無縁のさざ波すら立たない鬱屈な高校生活であった。
「それもまた良し」と、高橋君は苦悶の表情で言う。こうやって彼は同志と共に慰め合ってきた。彼らの結束は不必要に固く、勇者メロスのように友を身代わりにして、ノホホンとそれを見捨てることも厭わない。時に河川敷で不毛に殴り合い、汚い男涙に濡れ、夕日に向かって咆哮し、また不毛に殴り合い、乙女のいる桃源郷を一心に志した。
高橋君はこれまでの恥ずべき軌跡を振り返り、「過去を顧みるべきでない、ただ未来へと続くサクセスロードに目を向けるべきだ」と目先の問題に思考を移した。彼はこの絶望的な暑さに辟易していた。
彼の部屋にはエアコンがなかった。扇風機もなかった。さらには団扇さえもなかった。これなら竪穴住居の方がまだマシである。高橋君は遥か昔、石器時代に思いを馳せた。
リビングのエアコンは故障していた。古い扇風機はかろうじて動いたが、それは高橋君の恐るべき六歳の妹が独占していた。彼女は夏休みが始まるとリビングの扇風機一帯を植民地化し、そこに私物を移動して扇風機大帝国を築き上げた。領土不可侵を掲げ、侵そうものなら彼女は泣き出し、帝国軍を総動員して大戦が勃発するであろう。
よって、高橋君には涼むべき場所がない。こうして有意義であったはずの夏休みは刻一刻と浪費されていくのである。これではいかんと、何とか現状を打破すべく、高橋君はウンウンと唸った。
一頻り唸り上げたのち、とんちきな彼は窓の外の空に向かって真夏のサンタに呼び掛けた。
「この暑いのを何とかするか、麗しき人と過ごす甘酸っぱい思い出を与えたまえ」
しばらく経った。真夏のサンタは休暇中である。
窓の傍に蟬が張り付いているのか、みんみんとうるさかった。暑さにより元々足りていない頭の回路がねじくれて、高橋君はその場に寝そべって「みーんみんみんみぃ」と呟き始めた。「みんみぃ」
「みーんみんみ……幾千人の美女に口説かれたい」
夏の欲望は止まるところを知らない。
すると、高橋君は不意に思い立って、玄関へ向かった。リビングを横切る際、例の妹が彼に向かって舌を突き出したが、彼はそれを無視して玄関の固定電話を手に取り、どこかへ電話をかけた。
『あむ。誰』
高橋君はそれが友の声だと分かると、藪から棒に言った。
「今から君の家に行って、君が以前豪語していた最新エアコンを堪能したいのだが」
相手も高橋君であることに気付いたらしい。
『嫌だ』
「どうしてさ」
『俺はこの最新エアコンを、俺の恋人にまず堪能してもらおうと思っている。お前は俺の恋人ではない。よってエアコンは使わせない』
「ちょっと待て、君に恋人はいなかったはずだ」
『いずれできる。今にできる』
「捕らぬ狸の皮算用というやつだ」
『いや、これは統計データに基づいて数学的に算出された結果であり、俺はこの夏、百二十パーセントの確率で恋人ができる』
彼の計算方法には一抹の懐疑が残るが、高橋君はあえてそれを無視し、同志の説得を図った。
「なあ鞍馬、助けてくれ、暑くて堪らない。おねが――」
『助けてほしいのなら、ぴちぴちの乙女を連れてこい』
そう言い残すと、同志は電話を切った。
*
鞍馬君は高橋君の同級生である。類いまれなる詭弁の使い手であり、いかなる議論も彼が介入することでちんぷんかんぷんになる。高橋君の数少ない友人の一人であるが、そこに純粋な友情はない。彼らの脳内を占める乙女への渇望が、必然的に二人を結び付けたのである。「結び付けられるのであれば乙女がヨカッタ」と彼らは口を揃えて言う。
共に恋人のない彼らは盟約を交わし、清らな高校生活――露骨に言えば乙女――を手中に収めるべく「大日本乙女研究会」を結成し、日々怠惰に活動していた。その活動が清らな高校生活に一体どう繋がるのか、彼らは理解していない。むしろその行為こそが彼らを野暮たらしめ、進むべき道を悉く踏み外しているという事実に、一刻も早く気付くべきであった。
さて、友情なき友から乙女を求められた高橋君は、しばらく思案した。
図書館などの公共施設へ行くという手もあった。しかし、高橋君は大人しく読書をするような学生ではない。図書館へ行ったところで、今度は退屈で煩悶するのが関の山である。町の喫茶店で涼む案もあったが、高橋君は一人で行くのをためらった。彼は小市民的というよりむしろ小心者なので、注文時に金額の計算を間違えて恐慌を来したりしないか心配なのである。市民プールは大勢の人でほぼ露天風呂のようなものである。ショッピングモールは四駅先だった。水族館は一緒に行く恋人がいない。
他に高橋君が思いつく涼しい場所といえば鍾乳洞くらいであったが、無論ご近所にそんな場所はない。
リビングでは依然、彼の妹が女帝として君臨していた。彼は友好条約の締結を試みた。
「ね、扇風機貸してくれない?」
「やだあ‼」
「お菓子をあげよう」
「やだあ‼」
「じゃあ――」
「やだあ‼」
妹は頑なである。第一反抗期で習得した伝家の宝刀「やだ」を武士のごとく果敢に振り回し、一切の提案を却下するようであった。実際、彼女の手に握られたままごと用の包丁も凶刃になり得るかと思われた。高橋君はにわかに戦慄した。
彼はやむなくその場を立ち去ろうとした。すると妹は、背中越しに彼に言った。
「おかし、もってきて」
兄は妹への服従を余儀なくされた。
*
したがって、高橋君に残された道は「乙女を連れて鞍馬君の家に行く」のみであった。
じりじりと太陽の照り付けるアスファルトの上で「あち、あち」と呟きながら、彼は鞍馬君の家を目指した。彼は道行く女性を籠絡する術も狩る術も持ち合わせていなかったので、またそれを自覚していたので、とうに諦めていた。鞍馬君もそのことはよく理解しているはずである。
道中カブトムシの雌を見つけたが、流石の高橋君もそれを「乙女だ」と主張することはしまい。しかし、もしこのカブトムシが若く未婚であれば、そう主張できないこともない。外骨格に覆われていることと足が一対多いこと、人語が通用しないことに目をつぶれば、生物学的には大方乙女である。
高橋君が段々とそれを乙女だと思うようになってきたのは、異常な暑さのためである。暑さを侮ってはいけない。暑さによる狂乱は世に波乱を巻き起こし、時に一国を滅ぼす。
目前のカブトムシに手を伸ばし始めた彼のその行為が例え一国を滅ぼさずとも、彼の人間としての地位が危ぶまれることは確かであった。
しかし、指先がカブトムシの艶々とした背に触れようとしたそのとき、高橋君は背後から「やあ」と声を掛けられた。彼は驚いて、その拍子にカブトムシは逃げていった。
「こんなところで出会うとは、これまた奇遇」
眼鏡を掛けた、長髪の男がそこに立っていた。真夏であるのにもかかわらずジャケットに身を包み、革靴を履いている彼は、高橋君の同志の一人、浅井君であった。
「虫取りかい? 風情だねえ」
浅井君は涼しげに言った。彼の周囲だけ、早くも秋の風が吹いているようである。高橋君は正気に戻り、「まあね」と誤魔化した。まさかカブトムシと乙女を紛いかけていたとは言えまい。悟られないために、高橋君は「ところで」と話題を変えた。「君は何をしていたのさ」
「僕かい? 僕は、この夏を乗り切るため道行く女の子を眺めて心頭滅却していたのさ。乙女拝めば火もまた涼し」
どうやら彼も涼しさを求めてさまよう真夏の旅人だったようである。
彼も大日本乙女研究会の一員であるが、その乙女愛はやや常軌を逸している。「乙女は乙女であるという時点で既に愛すべき存在である」というのが彼の持論であり、一見アブナイ人間の発言であるかのように思われるが、そこに下心は一切ない。彼はただ純粋に乙女を愛しているのである。
その気高き乙女観から、高橋君や鞍馬君は彼のことを「変態紳士」と称する。浅井君は世界を変える可能性を秘めていると彼らは賞賛するが、そのときこそ地球は滅びるであろう。
高橋君は浅井君に、至急乙女が必要である旨を伝えた。浅井君は「うーん」と苦笑いを浮かべながら唸った。
「あいにく、僕には乙女の知り合いがいないのさ。だが僕もその最新エアコンというのは是非とも試してみたいものだ」
浅井君はジェントルマンであり、洒落ており、顔立ちも悪くはないが、そんな彼が内部に秘めた変態性のチラリズムがそれら一切を破砕し、おおよそ助平であると思われている。よって、彼が女性にアプローチしようがしまいが、危険人物と思しき人間にぬけぬけと近づくようなお馬鹿さんは到底いるはずがないのである。高橋君や鞍馬君はお馬鹿さんだったのである。
「都合よく召喚できる乙女がいればいいのにねハハハ」
浅井君は無邪気に笑った。
しばらくして、彼は「あ」と呟いた。「いるじゃないか。一人だけ。僕らのマネージャーが」
高橋君は「まさか」と首を振った。彼女だけはあり得ない。しかし浅井君はすでに携帯電話を取り出し、当人に電話をかけようとしていた。
「冗談はよしてくれ。あれは鬼の子だ」
「鬼の子だって、カエルの子だって、乙女に変わりないじゃないか」
「カエルの子はオタマジャクシだ。あれが乙女なら、この世の一切が乙女だ」
高橋君はカブトムシの件を棚に上げて、万物乙女論を否定した。
するとコール音が止まり、電話が繋がった。浅井君は携帯電話を耳に「やあ」と言った。高橋君もその傍に耳を寄せる。
『……あ?』
何も要件を伝えていないのに、相手は高飛車である。それでも浅井君は飄々と言った。
「猪目さん、今日はヒマかな?」
『要件を先に言え。まさかまた、似非タコ焼きパーティーじゃないだろうな? もう二度とタコの代わりにヨーグルトは入れたくない』
「違うよ。ちょっと鞍馬君の家まで来てほしいんだ」
『は……なんで』
「乙女と引き換えに鞍馬君が最新エアコンを使わせてくれるみたいなんだ。さもなくばこの暑さで高橋君が発狂すると言うんだ」
『発狂してしまえばいい』
それからしばらく互いに黙り込み、高橋君と浅井君は電話の雑音をじっと聞いていた。すると猪目さんが言った。
『……高橋も今そこにいるの?』
「うん、一緒に聞いてるよ」
『エアコンごときで私を呼ぼうとするな』
猪目さんは高橋君に対して言ったようであったが、電話をかけたのは浅井君である。高橋君は電話に向かって「俺悪くないもん」と不満をあらわにした。
「でもさでもさ、猪目さんもこの暑さにはウンザリだろう?」
『まあ暑いが、お前らといると余計に暑い。地球温暖化の半分はお前らの蛮行のせいだ』
「そんなあなたに最新エアコン。今なら鞍馬君が奢る冷え冷えジュースが付いてくる!」
あからさまな嘘である。
「なんとびっくり今なら二本!」
『なぬ』
経済的弱者である学生にとって、「奢り」はありがたき天物に等しい。環境問題を高橋君らのせいにするほど不機嫌な猪目さんでさえも、奢りの魔力に抗うことはできないようである。
『三本、三本なら行ってやる』
強欲な猪目さんは、鞍馬君当人がいないのにもかかわらず勝手に交渉を始めた。浅井君は元より嘘をついているので、「いいとも」と言った。この発言がのちに軋轢を生むのは明々白々である。
「今から鞍馬君の家に向かうよ」
『分かった』
そうして電話は切られた。
「おい浅井、嘘はイカンぞ」
猪目さんは鬼の子である。無論比喩だが、比喩では済まされないときもある。
彼女は大日本乙女研究会におけるマネージャーであり、高橋君らの暴走に備えた抑止力である。道徳に基づいた、鉄拳による抑止力である。
「死人が出るぞ」
高橋君は言った。
*
二人が鞍馬君の家に着くと、家の前では猪目さんが仁王立ちで待ち構えていた。甚だ不審である。
「おそいっ」
猪目さんはぷりぷりと怒った。
高橋君と浅井君は「へえ、へえ」と謝りながら彼女のもとに駆け寄った。
鞍馬君が彼らを受け入れてくれるかどうか陰りはあるものの、高橋君はインターホンを押した。
家の中と繋がる音がして、高橋君が「乙女を連れてきたぞエアコン使わせろ」と言おうとすると、突如家の扉が開かれた。するとヨレヨレのTシャツを着た鞍馬君が外へ出てきて、こう言った。
「丁度いいところへ来た。お前ら入れ」
一同がぽかんと彼を見ると、鞍馬君は「早くしろ、ビッグニュースだ」と再び家の中へ入っていった。
「オイ、どういうことだ高橋」
猪目さんは訝し気に高橋君を見た。しかし高橋君とて何も知らない。
三人はエアコンの効いた鞍馬君の自室へ案内された。部屋に入るやいなや浅井君は「極楽浄土かここは」と感激し、猪目さんは「ふへえ」と床に俯せになった。高橋君も床に座り込み、彼らは軟体動物のようにくつろぎ始めた。
鞍馬君は机の上にあった地元新聞紙を取り上げ、「これを見ろ」と彼らに示した。
新聞記事には、高橋君たちが住む町の湖に関する文章が載っていた。鞍馬君はその部分を指差し、三人は新聞を囲んで読んだ。
「……嘘に決まってるだろ」
読み終えて、猪目さんが呟いた。すると浅井君が言った。
「仮に嘘だとしても、確かめる必要があるね」
鞍馬君は「そうだろ、そうだろ」とにやにやした。
新聞記事には、湖で人魚が発見されたという文章と、画質が悪すぎて何も見えない証拠写真があった。鞍馬君はこのボンヤリとした写真を指差し、高々と言った。
「俺たちで暴いてやろうじゃないか、ご近所の湖に現れたという人魚を」
すかさず猪目さんは言う。
「いやマテ。何故お前らが」
「人魚といえば湖、湖といえば水、水といえば潤い、潤いといえば乙女、乙女といえば俺たち大日本乙女研究会」
「いやマテ。無理がある。無理しかないぞ」
「人魚を発見し、あわよくばお友達になり、あわよくば一夏を共に過ごし、あわよくば交際を申し込んで、あわよくばゴールインしようというわけだ」
高橋君はなるほど、と思う。確かに人魚は潤いである。人魚がいれば、この鬱屈たる夏が有意義なものになるかもしれない。
「よし探すか」
高橋君が鞍馬君に同意すると、浅井君も「では早速」と立ち上がった。
「猪目は来る?」と鞍馬君が訊ねると、猪目さんは「阿保らしい。私は行かない。ここで待ってる」と言った。どうやら鞍馬君の最新クーラーを独占する気である。
三人は人魚を見つけるべく道具を揃え、すぐに家を出た。
かくして大日本乙女研究会一行は、真夏の人魚探しを始める。
*
「きっとトンデモナイ美女だ」
湖までの道中、鞍馬君は「美女だ美女だ」と同じことばかり言った。
三人は人魚を見つけ捕獲するための道具を両手に抱え、夢を語り合った。
「髪は昆布のようにウネウネしているだろう」「美女だ」「瞳はきっとどこまでも青いマリンブルーだ」「陸でぴちぴちと跳ねたら惚れる」「もしや群れなのでは」「美女だ」「流暢にデンマーク語を話すに違いない」「美女だ」
もしこの場に猪目さんがいれば、彼女はこう言い放ったに違いない。
「首から下全部魚かもしれないけどね」
彼らが夢見ていられたのは、その場に阿保しかいなかったからである。
湖は近くにあった。やがて湖のほとりに着くと、一行は持ってきた道具をがらがらと地面に並べた。釣り竿、バケツ、餌用の魚肉ソーセージ、アウトドアチェア、日焼け止め、双眼鏡、小型ビデオカメラ等、大方釣りのための道具であった。
彼らはアウトドアチェアに座り、計画を練り始めた。
最初に、鞍馬君は役割を分担した。
「俺は釣り竿で一本釣りを試みる。浅井はほとりで人魚を籠絡する。高橋はその様子をビデオに記録する。人魚が現れたら、一斉に口説く」
浅井君は頷き、「完璧だね」と言った。
仮に人魚がいたとしても、魚肉ソーセージにかかった上で浅井君に籠絡されることはないだろう。人魚がいなければ、自分たちの愚行をただビデオに記録しただけのほろ苦い夏の思い出を作るだけである。
彼らの運命やいかに。
鞍馬君は「ようし、行くぞ」と言って釣り竿を振った。もちろん魚釣りは禁止だが、詭弁の使い手鞍馬君は「人魚釣りなので」と言い訳する所存である。筋が通っていないのが彼の弁術である。
浅井君はほとりに立って、ラブリーなポエムを考えていた。
「マイスウィートフィッシュ、君はまるで鮮魚だ……」
高橋君はその様子をビデオに撮った。俯瞰的な立場にありながら、自分たちのしている行動がいかに阿呆であるか気づかない彼が最も阿呆である。
未だかつてない無意義な試みが実行に移された。後は人魚がかかるのを夢見て後悔するだけである。
元より彼らに栄光はない。
*
「人魚って何肉なんだろうな」
一時間弱ほど進展がない状態が続き、高橋君が不意に言った。
「そりゃあ、魚だろう」
鞍馬君が釣り竿を左右に揺らしながら言う。
すると浅井君は「では上半身も魚肉なのかい?」と聞いた。高橋君は「ふうむ」と唸った。
「上半身は人肉で、下半身は魚肉……」
「じゃあ腰の肉は?」
「人魚肉」
釣り竿を上げながら鞍馬君は「なんだそれは」と笑った。彼は新しい魚肉ソーセージを取り出し、釣り針に付けた。
「ちょうど魚肉ソーセージのような具合だろう、人魚の腰は」
浅井君は「じゃあ腰は随分と柔いみたいだね」と得心した。
人魚肉は魚肉加工品であるということでこの話は終わりかけたが、鞍馬君が「いや」と動きをはたと止めた。
「もしかすると、尾ひれの部分はウロコだけで、中身は人間の足かもしれない。それならば人間の肉だ」
高橋君が「それはオカシイ」と言った。
「それなら人魚ではなくただの人間だ。コスプレした人間じゃないか」
「確かに。もしそうならコスプレ人間が人々を騙しているということになる」
すると、鞍馬君の持っていた釣り竿の先端が不意に揺れた。途端、鞍馬君は釣り糸が引っ張られるのを感じた。
「来たッ!」
浅井君は人魚を口説く臨戦態勢に入り、高橋君はビデオカメラを構え直した。
鞍馬君は大魚でもかかったようなダイナミックな動きでリールを回し、「来たぞッ!」と叫んでついに獲物を水中から引き上げた。
そして彼らは釣りあげたものを取り囲み、落胆した。
「僕の経験から言って、これは枝だね。木の枝」
浅井君が癪に障ることを言ったので、鞍馬君は余計に悔しがった。彼は「こんちくしょう」を短縮させて「こんちき!」と地団太を踏んだ。
「ええい、もう一度じゃ」
鞍馬君は釣り竿を振った。釣り針のソーセージは宙に弧を描いて着水した。
*
日が暮れようとしても、彼らはまだ人魚を諦めていなかった。
浅井君は魚肉ソーセージを食べながら「餌が良くなかったんじゃないかなあ」と言った。「焼肉のタレとか付ける?」
「果たして人魚は焼肉を食べるのか」
また埒が明かない疑問を高橋君が呟いたとき、二度目のチャンスが到来した。鞍馬君は咄嗟に釣り竿を取った。
今回の引きは先程のものよりも強かった。鞍馬君は後に「カジキマグロかと思うほど重たかった」と語る。
「高橋、浅井、手伝え!」
あまりの力強さに、彼らは三人で釣り竿を掴んだ。しかし、それでもなおリールを巻くことはできなかった。
眉間に皺を寄せながら、鞍馬君は「乱暴はいかん、甘く籠絡して引き寄せる」とわけの分からないことを言った。
ここから先は、不審極まりない男三人組による聞くに堪えない甘言の嵐であった。彼らは妖怪のように同じ言葉を連呼し、釣り糸の先の人魚と思しきものに語り掛け続けた。地獄絵図である。
やがて釣り竿は湖の奥深くへと引きずり込まれていき、彼らの夏は終わった。沈みゆく夕日を眺めながら、三人は残った魚肉ソーセージを噛み締めた。
「……帰るか」
鞍馬君がぽつねんと呟いた。
結局彼らは数時間に渡ってビデオに奇行を記録し、湖畔で魚肉ソーセージを食べただけで終わった。そのように思われた。
しかし、道具を抱えて帰路につこうとしたそのとき、彼らは水面で何かが翻すのを見た。ちゃぽ、と短い音がして、それから波紋だけが残った。
「まだ夏は終わっていないぞ」
鞍馬君は言った。
「俺たちはまた戻ってくる」
*
鞍馬君の部屋に戻ると、横向きに寝転がった猪目さんが「どれだけ待たせるんだこのヤロウ」と彼らを迎えた。
「また無益なことに時間を費やしたようだな」
彼女は嘲りの目を向けた。
「なあに、乙女はいくらでもいるさ。いくらでもね」
浅井君はどこ吹く風である。
猪目さんは「それじゃ帰るよ」と言って立ち上がった。高橋君と浅井君も帰ることにした。
三人が家の外へ出て、鞍馬君が「それじゃ」と扉を閉めようとしたとき、猪目さんが「あ」と何かに気付いた。
「鞍馬、ジュース奢ってよ」
「……なんで?」
「いや、奢ってくれるっていう話じゃないの?」
そこで猪目ははっとしたが、高橋君と浅井君はすでに逃亡していた。逃げ足は非常に速いのである。
「今度会ったら湖に沈めてやる」
鞍馬君は「ひえ」と戦慄した。
*
かくして人魚捕獲作戦は失敗に終わったが、彼らは潤いを求めてどこまでも奔走するだろう。
時に過去を恥じ、猪目さんから遁走し、むくつけき同志とむくつけき抱擁を交わし、また過去を恥じ、天文学的確率の幸せを手中に収めんとするのである。
大日本乙女研究会の愚行は続く。
大日本乙女研究会漫録 道草 @michi-bun
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