その7「夏夜姉に会ってきた」
午後6時半。俺は繁華街まで電車で乗り継ぎ、レストラン・プラージュの前にいた。
シックな黒の外装と、観音開きの木製のドア。いかにも洗練された、高級な店だった。
夏夜姉は、その10分後にやってきた。時計を見ると、きっちり約束の時間の15分前だった。いかにも、夏夜姉らしい。
「久しぶり、夕一」
大学の帰りなのだろうか、夏夜姉は大きめのハンドバッグを持っていた。肩にかかる程のミディアムヘア、細いフレームの眼鏡は前にあったときのままだ。
「あれ、夏夜姉、今日ずいぶんとおしゃれだね」
夏夜姉はダークグレーのハイネックワンピースに、華奢なデザインのネックレスをかけている。首元を隠す服が好きなのは相変わらずだったが、前に会ったときと比べると、明らかに洗練されていた。
「最低限の身だしなみはしておかないとね。夕一も、普段からちゃんと気をつけなさい」
「深月姉にも聞かせてやりたい話だな」
今頃深月姉は、毛玉のついたセーターとスウェットで、ゲームでもしていることだろう。姉妹でこうまで違うものなのだろうか。
入りましょうか、と夏夜姉が言った。俺は頷いて、ドアを開けた。
中は淡い明かりに照らされ、高級感に満ちていた。ギャルソンに誘導され、俺たちは席についた。
「ここ、私の行きつけの店なのよ」
「えっ、ほんとに!?すごいな夏夜姉」
「そうでもないわよ」
間もなくソムリエがやってきて、夏夜姉にリストを渡した。
「食前酒はなににされますか?」
「あ、私はとりあえず生中で」
その場が凍りつく。ソムリエは苦笑いを浮かべた。
「……………ありません」
「……えっ?」
「申し訳ありませんが、当店には生ビールの中ジョッキはございません」
「……あっ、そうなんですね。め、メニューが改変されたのかな?」
これに関しては、ソムリエが空気を読んで触れなかった。
「あの、おすすめはなんですか?」
「そうですね。それでは、シャンパーニュなどいかがですか?」
「シャンパーニュ?どこかの祭りの名前ですか?」
また沈黙が生まれる。ソムリエの笑顔も微妙にひきつっていた。
「………シャンパンのことです」
それを聞いた瞬間、夏夜姉の顔が、かあっと赤くなっていった。
「じゃ、じゃあ、それのコース料理に合ったものをおまかせで………」
「かしこまりました」
ふるふると震える手で、夏夜姉はリストを渡してくる。
「ゆ、夕一はどうする……?」
俺はリストを開く。だが、すべてフランス語表記なので、まったくわからない。
「水で……」
「ミネラルウォーターですね。かしこまりました」
ソムリエが去っていく。恐らく、彼の人生の中で、ここまで無知な人間を相手にしたのは初めてだっただろう。
「……………」
「……………」
沈黙。夏夜姉は、ただただ恥ずかしそうにうつむいていた。
「そ、それで、話ってなんなの?」
「あ、そうだった。実は……」
俺は汐里のことについて少し詳しめに説明をした。ゆめ姉ちゃんの子どもで、今うちで預かっていることや、幼稚園のことなど。夏夜姉は、一つ一つ丁寧に頷いて聞いていた。
「……なるほど。大変なことになったわね」
「そうなんだよ」
「お母さんには話したの?」
「それが、言わないでくれって手紙にあって」
「……あぁ。結婚反対されてから仲悪かったからね」
それは親戚内では周知のことだった。
料理が運ばれてくる。小さなケーキのような物体だった。見た目だけでは、味がまったく想像できない。
話に一区切りつけ、夏夜姉はフォークとナイフを使って、それを口へ運んだ。
「……うわ、おいしっ」
明らかに初めて食べた、という反応だった。
夏夜姉はシャンパンを一口飲んで、一息ついた。
「まぁ、だいたい事情はわかったわ。そうなってくると、必要なのはその汐里ちゃんの当面の養育費と入園の手続きよね。姉さんに手続きさせるのは怖いから、汐里ちゃんが持ってる書類を渡してくれたら、こっちでなんとかするわ。お金のことは、必要なものとかを考えて、また相談しましょう」
「おお、ありがとう夏夜姉!」
いいのよ、と夏夜姉が言った。少し酔っているのか、その表情がどこか艶っぽかった。
そのとき、ギャルソンがかにと、フィンガーボウルを持ってきた。並べられたフィンガーボウルを、夏夜姉はまじまじと見る。
「……念のために言っとくけど、それ飲み水じゃないからね」
「わ、わかってるわよ」
また、夏夜姉の顔が赤くなるのだった。
食事の終わった頃、ギャルソンから会計の紙が夏夜姉に手渡された。それを夏夜姉はさらりと見ただけで、カードを渡して済ませた。
「そろそろ出ましょうか」
夏夜姉はギャルソンを呼びとめ、デザートを数点テイクアウトで頼んだ。しばらくして白い箱が手渡され、夏夜姉はそれをそのまま俺に渡した。
「それ、姉さんと汐里ちゃんにあげて」
「え、別にいいのに」
「姉さんがいいとは思わないのよ。結構嫉妬深いんだから。それがきっと避雷針になってくれるわ」
さすがに姉妹だけあって、深月姉の扱い方を知り尽くしていた。
その帰り道、夏夜姉はどこかそわそわしていた。
「それじゃ、明後日どこかで待ち合わせて、そのときに書類とかを渡す感じでいいかな?」
「え、ええ……」
バッグの紐を、両手でねじっては戻してを繰り返している。おおよそ夏夜姉らしくなかった。
「ねぇ、夕一」
「なに?」
「実はちょうど観たい映画があるんだけど、明後日ついでにちょっと付き合ってくれない?」
「うん。いいよ」
「ほ、ほんとに!?」
夏夜姉の表情が、ぱぁっと表情が明るくなる。
「それじゃ、また明後日ね!」
夏夜姉とはそこで別れた。上機嫌で歩くその背には、ひらひらと値札が舞っていた。
「あの服、新品だったのかよ……」
アパートに帰ってくると、深月姉から今日のことについて聞かれたので、汐里のことについて協力してくれることや明後日会うことなど、かいつまんで話をした。
「あんのブラコンがぁ~~!!」
深月姉はクッションをげしげし蹴る。俺と汐里は、それを呆然と見ていた。
「やっぱり、夕一を自分のアパートに移住させるための布石だったんだ!」
「いや、そういうわけでもないと思うけど……」
「そうなの!」
深月姉は一人でぶつぶつ言っているので、俺は汐里と二人でデザートの箱を開いて仲良く食べた。
「おにーちゃん、これに入ってるフルーツなに?」
「それがな、俺にもよくわからない」
だが、汐里は満足そうだった。
「もう!こんな一大事に、二人してどうしてデザートなんて食べてるの!」
「深月姉は食べないの?」
「食べるけど!」
スプーンを手渡すと、深月姉はむすりとしながらケーキを頬張った。
「おいし~~」
深月姉の怒った表情が一気に崩れる。まんまと夏夜姉の策にかかっていた。
「……そうだわかった!夕一に足枷をつければいいんだ!そうしたらいくら夏夜ちゃんでも手出しは……」
「考えが猟奇的だから。それに、俺に足枷つけたらコンビニにバイト行けなくなるだろ」
「そっか……」
しょぼんとして、深月姉はまたケーキを口に入れる。
「あ、そうだ!それじゃ、コンビニを辞めて夕一が内職をすれば……」
「何故自分が働く方向に持っていかない」
夏夜姉に引き換え、相変わらずとことん自堕落な深月姉なのだった。
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