元eスポーツ選手の軍オタ台湾人がファンタジーについて語る

コリン

剣と魔法〈一〉 魔法とその仕組み

魔法、それは最もポピュラーなファンタジー要素の一つと言ってもいいだろう。


魔法やそれに準ずる系統の力は古くから存在し、人を魅了して来た。

ギリシア神話から現代小説にかけて扱われ、数々な名作でも言及される超常的な力。


魔法、奇跡、妖術、呪詛など、設定によって系統や呼び方もそれぞれ異なり、原理、手法、エネルギー源などの設定も星の数ほどある超常的力の数々。


だがそれらの設定は殆どの場合において、同じ作品の中で互いに矛盾してはならない、それが力の系統の問題だ。

例えば、エーテルを実在の魔法要素として扱い、エーテルをエネルギー源とし、魔法文字を媒体とするエーテルを燃やして事象を発生させる設定の魔法が存在するとしよう。

ここに同じくエーテルを燃料として用いるが、発話のみで発動させ、、見るからに異なる力を登場させると、それを呪術や呪詛と呼んで別の系統の物として扱うか、何らかの説明で魔法として分類する描写が必要になるだろう。


ここではぼんやりとした概念しか言っていないのだが、魔法などの超常的な力の設定は作品ごと違いがあり、一つ一つ語ってもキリがない。

そのため、ここからは最近かなりポピュラーな魔法設定ではあるが、筆者が最も文句を言いたい設定に対する怨み言を見てもらおう。





現在、日本のファンタジー作品では、「魔法はイメージで発動する」という設定が主流の一つになりつつあるが、筆者はそれに異論を唱えたい。


現代のファンタジーにおける魔法は、魔力、マナなどを燃料として何らかの事象を起こすものが一般的である。

もしこういう魔法がイメージのみで発動しうるものという設定だった場合、下記の様な問題が高確率で発生し、それを解決できず、もしくは無視する作品が殆どと言えよう。



一、魔法の暴発


マナを持ち、イメージをすれば発動する。ならば暴発して当然じゃないか。

いくら(コスト度外視の)人材発掘のための検査などがあっても、漏れは必ず存在する。

恨む相手が居たり、危険が身に及んだりしても、相手を傷つけ、殺す事象をまったくイメージしない事はありえないだろう。


魔法は物質を作り出せない設定だろうと、魔法が実際に存在する世界でそういう状況に置かれてもほぼ全員が魔法が起こしうろ事をイメージしないと言い張るのなら、筆者は「この世界の生物は神の陰謀により想像力を司る脳の構造が破壊された」と言う設定を加える事をお勧めする。そうすれば大体のやつがバカだったり、数千年経っても技術と社会構造が変化しない問題の理由付けにもできるのでオススメ。




二、超能力や異能との区別がつきにくい


超能力や異能と言った類の能力もまたポピュラーなファンタジー要素である。

生まれつき、変異、改造など様々な方法で獲得し、脳や思考でコントロールしたり、イメージで使ったりする特殊能力の類だ。

それとイメージで使う魔法と何の違いがあるだろうか?


確かに、超能力や異能を扱う作品は現代ものが主流だが、魔法が存在する世界観で登場させられないわけではない。実際それらを同時に登場させる作品はちょくちょく出てくる。


だが、超能力や異能とて無制限に使える設定が稀である、普通はマナなどの燃料なしでは使えない魔法同様、消耗するし、ガス切れも起こる。


極めつけは、「イメージだけで使える魔法」は超能力と明確に分別区別する事ができず、超能力の一種と言えなくもない。

超能力者と一般人を分別する超能力とその潜在能力の有無も、魔法との境界がかなり曖昧になり、「イメージだけで魔法を使える潜在能力を持つ人間は全員潜在的な超能力者」と解釈しても何ら不自然もないわけだ。

ええ、よくある「魔法の才能を持つ者は限られている」と言うごく当たり前の設定はここでマイナスに働くことになる。


「超能力と魔法は出来る事が違う」という論点も、魔法はイメージで使う場合だと起こしたい事象をイメージすれば魔法を発動出来るため、そもそも出来る事を制限しにくい。

故に、どうしてもこれで区別するつもりであれば、超能力を制限する方が合理的なはずだが、現在のインターネット小説を見ると「イメージで発動する魔法」の方を制限しがちなのが、筆者にとっては相当不可解な事である。



故に、どうしてもイメージだけで魔法を使える設定にしたいのであれば、超能力を登場させない、もしくは超能力を極めて限定的な能力にした方が比較的自然と筆者は思う。




三、魔法と魔法道具の理論がおかしくなる


人間は先人が残した物を使い、知識と創意を駆使し新たな知識と物を後世に残す。

そこに魔法があれば、魔法はその知識の一部となる。その知識が発明に使われて、その発明品が魔法道具になる。


魔法はイメージで発動する設定とする、であれば、発生する魔法もその方向性もイメージによって決められる。

ここで問おう、魔法道具はイメージするか?


魔法道具は意識を持ち、思考し、イメージして、自分が作り出す魔法をコントロールするのであればそれでもいいだろう。

だが実際に見ると、魔法道具は意識を持つ設定は稀で、大体の場合は魔法が関連するところ以外普通の道具のような扱いだった。


では、魔法はイメージで発動するのに、意識を持たない魔法道具が存在することは何を意味しているのか?

まずは「イメージ以外のアプローチで魔法を駆使することは可能である」、「イメージ以外のアプローチで魔法のエネルギー源を扱うことは可能である」、「イメージは魔法の不可欠な要素ではない」、筆者はこの三つが重要だと思っている。


イメージ以外の手段で魔法を編み出し、魔法エネルギーを操る、それはつまり、魔法道具は魔法を発動させる為の要素であり、古典的な呪文、魔法陣、魔法文字の役割と変わらないことを意味するではないのか?

ここに来て、魔法道具は魔法を発動させる為の要素として働くのに、イメージは魔法の不可欠な要素ではないとなると、もはやイメージで発動する魔法の方が異質ではないのか?


簡単な解決策として、魔法道具を登場させないか、すべての魔法道具に知能と意識を持たせるか、魔法道具は魔法効果の一種とするかが挙げられるが、どれも小説にとって不便、扱いにくい、もしくは塞ぎにくい設定の穴を残すことになるだろう。




四、魔法を区別、秘匿する意味が薄くなる上に魔法に固有名を付けにくくなる


魔法はイメージで発動する、ならば事象さえ思い起こせばそれで魔法は成る。

そこに儀式的な手順もなければ、特定の呪文も存在しない。

ならば魔法に特定の名前を付与する意味は存在しない。


魔法はイメージで発動するため、知らない魔法だろうと、その魔法が引き起こす事象さえ目にすれば使えるようになるため、魔法の目撃者の抹消やその記憶を消去でもしない限り、秘匿することはあり得ない。


魔法はイメージで発動し、何がどのように変化し、どんな事象が引き起こされるかは発動者の思うがままなら、何を持ってして魔法を分類し二つの魔法を区別するのか?

他者のクオリアを体験できないのに、何を持ってそのイメージが異なるものと言えるのか?そもそも、その世界の者は属性と効果が似ている魔法を区別しようとする考えに思い至れるだろうか?


多くの作者方はこれらの問題点に気付き「魔法名はイメージを補強する」、「科学原理のイメージは魔法を強くする」、などの設定を取り入れるが、正直なところ、筆者にはあんまりピンとこない。


名を付ける事で特定の事象をイメージと結びつき、イメージを固定できるのは事実だろう、だがそれはあくまでも特定の事象と何らかのシンボルとの関連付けによるものにしか思えない。

ならばそもそも命名に固執する必要はなかったはずで、姿勢、記号、装飾品、イメージの仕方など、声や唇で悟られるデメリットを避けられる手段はいくらでもあるのに、その手の話があまりにも出なさすぎる。


それに、魔法はイメージで発動のにそのイメージを固定することはあまりにもデメリットが大きい過ぎる。

イメージを固定して魔法を強化することは汎用性を下げることでもある。

特に冒険者のように多様な状況に対応する必要がある者にとって、汎用性を下げることは下手したら命取りになりかねないのに、この手の作品では魔法の汎用性を重視し固有名を使わない人がほぼ見ない事に違和感を覚えざるを得ない。


とは言え、小説という体裁を取る上で、魔法に固有名を付けることで一度説明した魔法の説明を省略出来るようになるし、読者に想像させやすくすることも出来る。


ならば少なくとも、魔法はイメージで発動する設定を取り入れる上で、イメージを固めなければならない理由、言葉以外でイメージを固められない理由、固有名がなくてはならない理由ぐらい説明した方がいいだろう。





五、そもそも魔法発生の過程が大問題


科学現象をイメージすれば魔法出力が上がるという設定も散見するが、科学で魔法を何とかしたいのであれば、科学の問題を一つ考えて欲しい:エネルギー変換効率


二十一世紀現在、エネルギーのロスは多い。例えば火力発電でメジャーな気力発電は燃料を燃やして熱エネルギーを作り、熱エネルギーで水を沸騰させ、沸騰で生まれた蒸気で発電機を回して初めて電力を生み出す。

このエネルギーを違う形に変換する際はほぼ必ずと言っていいほどロスが発生する。発電に限らず電圧を変換する、バッテリーに貯めて貯蔵する、電器を稼働させるなど、ロスはほぼ随時に発生する。


ではここで一つ大きな問題点が存在する:なぜ科学現象をイメージした方が魔法の出力が上がる?


マナを魔法のエネルギー源としよう。

何もない所で火炎を生み出す魔法の過程を比較すると、事象だけをイメージすればエネルギーの変換は「マナ→炎」になる。

一方、燃焼現象をイメージすると燃焼の三要素を満たす必要があり、空気中になかった可燃物と熱源をマナで生み出す必要がある為、燃焼現象をイメージする際のエネルギーの変換は「マナ→可燃物、熱→炎」になる。

変換過程が一段階多く、更に物質の生成という大問題が伴う。これは「酸素を利用することの利点がエネルギーのロスを上回る」、「マナで物質の生成は可能であるかつ、それが問題にならない」の条件を満たさなければならない。


そして、この検証過程を一つ一つ登場させたい魔法に当てはめて成立させなければ出力の向上は成立しない。


そういう面倒を省き、科学現象をイメージした方が魔法の出力が上がる理由はマナを直接事象に変換する効率が悪いからという設定もたまに見かけるが、だとしたらそもそも直接変換が普遍的な魔法の行使手法なのが成立しにくい。


人は物を使いやすくしようとする。それは対象が魔法だろうと変わることはないだろう。

魔法道具が生まれ、発展する理由も、現実世界の技術の発展も同じ事だろう。

であれば、魔法のイメージ自体が開発、応用、発展していくと考える方が自然だろう。ならば、効率の悪い直接変換が残り得ようかという疑問が残る。





以上比較的によく見かける五つの問題点を挙げてみたが、少しでも共感を得られればここまでの怨み言しかなかった文面も少し価値があるのだろう。


設定は細かければいい物ではないが、あまりにも曖昧だと問題が生じる。

ここで一旦「魔法発動のエネルギー源はマナであり、特定の呪文を詠唱しないと発動できない」というオーソドックスの魔法を検証してみよう。


特定の呪文を詠唱しないと魔法は発動できないため、当然暴発はあり得ないし、超能力との違いも明白である。


詠唱という儀式的な手法を取っている以上、魔法道具はいかなる原理であれ、その儀式的な意味合いを代替足り得るのなら、魔法と同じ事象を発生させても何もおかしくはない上に、魔法道具の発展も詠唱の代替という方向性を持てるし、マナの消費量と効果の強弱が魔法道具の優劣を決めるのも想像に難くないだろう。


違う魔法が違う呪文で発動するのであれば、呪文の違いがそのまま魔法の区別として働き、呪文の秘匿が魔法そのものの秘匿となる。


科学を計算に入れないから、残される問題はマナ消費と魔法効果の調整となり、あとは「なぜ魔法が成るのか」を世界観に合わせておけばいいだろう。

魔法の源なんぞ世界の法則であってもいいし、神であってもいい、悪魔や異空間であっても別に構わない、世界観との矛盾さえなければ大した問題にはならないだろう。




掟破りは別に悪いことではないが、オーソドックスは往々にしてそうたらしめる理由があるものだ。

それに背くなら、全面的に考え、整理してから実行した方がいいだろう。


正直なところ、筆者には「魔法はイメージで発動する」という設定に、「キャラに(合理であるかどうかはともかく)チートを持たせやすい」こと以外の利点を見出せていないのだ。


だがここまで言っておいてなんだが、「魔法はイメージで発動する」という設定は悪であるかと言われると、筆者はそう思っていない。

概要で言ったように、設定はあくまでも小説の要素の一つである。


筆者はしっかりした設定の作品を読むのが楽しいと思っているのだが、細かい設定を練り上げるのを捨てて、ストーリーやキャラクターに力を入れるのもまた一つの書き方だと筆者は思っている。

ただ、どんな作風を取り、どんな読者層を狙うか、その取捨選択は作者と編集者が考え、決めるべきことなのだろう。

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