第34話 「黄泉返り」②
クロと反魂香についての会話を交わしてから、およそ半月後。
「ねぇクロ、今朝入荷した品の中にこれが……」
わたしは一冊の魔導書を手にして、クロを呼んだ。
黒い革張りの表紙には『反魂回帰の書 伝統の儀式と作法について』というタイトルが記されている。装飾のない地味な装丁で年季を感じる本だ。
「ほんとに入ってくるもんなのね」
「どこかの店で買い取りに出されたものが回ってきたんだろうね」
先日店に訪れた女性の姿が脳裏に浮かんだ。
(あの人が求めていた本って、やっぱりこういうやつかな)
クロがお薦めしないと言っていたぐらいだからおおいに不安はあるものの、もしも彼女が本当にこれを求めているなら、せっかく入荷したことだし、できれば入手させてあげたいと思う。
(とは言っても取り置きを頼まれたわけじゃないし、そもそもタイトルを聞いたわけでもないからなぁ。次にいつ来るかも分からないし)
迷いつつも、結局わたしはその本を魔導書の棚に収めた。
上品なスーツに身を包んだ高齢の男性が、その本をカウンターに持ってきたのはそれから間もなくのことだった。
「これをお願いします」
「あ……」
(しまったぁ~)
まさかこんなにすぐ売れてしまうとは。
一瞬後悔したけれど、だからといって今さら引っ込めるわけにもいかない。
「はい、ありがとうございます」
反魂術の本ともなるとよほど希少性が高いのか、金貨十八枚、円にすると五十万円以上というプレミアムなお値段が付いていたけど、男性はためらうことなく購入を決めた。
「それから……できれば、こちらを査定していただきたいのですが」
そう言って老紳士が鞄から取り出したのも数冊の本だった。
「買い取り希望ですね。拝見いたします」
全部で五冊。購入した本と同じような、革張りの魔導書だ。ただし、こちらはどれも表紙に箔押しが施されているし、四隅や背表紙に黄金の金具が使用されている。
(おおっ、見るからに高価そう)
「立派な魔導書ですね」
「ええ。わたしは長年王都の魔法大学で教鞭を取る傍ら、古代魔術の研究をしておりましたが先日定年を迎えまして。息子の元に身を寄せることになったので身辺整理をしている最中なのです。手持ちの資料の大半は大学に寄付することで片付いたのですが、これらの本だけは、その……軽々に学生たちの目に触れさせるわけには参りませんので」
(そりゃそうでしょうとも)
どれも表紙にはバッチリ『黒魔術』の文字が刻まれている。
(こっちも黒魔術か……)
「うん、中身もきれいですね。傷みや汚れもない」
ちなみに品物の価値を決めるのはわたしではなく、この店、店舗そのものなので、今回もカウンターに載せるだけで金額が表示される自動査定にお任せだ。予想通り、いずれもかなりの高値がついた。さすが大学教授の秘蔵品。わたしたちの世界なら博物館が所蔵するような品ってことよね。
「合計でドライア金貨四十二枚、銀貨七枚になります。先程のお買い上げ金額を差し引いた分がこちらです。どうぞお納めください」
(なんと古書五冊で百二十万超えとは)
ちなみに支払いはお客様の世界に合わせた貨幣で金庫から出てくるので両替要らず。これも便利だけど、金貨は重たいので、こっちの世界でも電子マネーが流通してくれると助かるのになぁと密かに思っている。
「はい、確かに」
「ではこちらに受け取りのサインをお願いします」
品目と金額を記入した書類を差し出すと、男性はヨナーシュ・コバルと署名した。
「ありがとうございます」
「こちらこそ大変助かりました。実を申しますと、わたしは一時期こういった類の本もかなりの数を集めておったのです。すでに大半は処分いたしましたが、この五冊は禍々しい呪詛や悪魔契約の指南書ではありませんし、古代魔術の研究をするための良い資料となり得るものですので、どうにも処分するのが憚られまして。専門店にお渡しすることができて何よりです」
(ん? 処分?)
少し引っかかったが、わたしはそのまま話を続けた。
「わたくしどもの店には様々なお客様がいらっしゃいますので、きっとこのような本をお探しの方もおられるかと存じます。実際、先日もお問い合わせがあったばかりですから」
「そうですか」
「実を言うとお客様が先程ご購入された本も、もしかしたらその方が買われるかもしれないと思っていたのですが……」
(あれ?)
わたしはふと言葉を途切れさせて、老紳士を見つめ直した。
何かがおかしい。
「…………お客様、今はお手持ちの資料を整理されている最中なんですよね?」
確かに彼はそう言った。息子の元に身を寄せることになったので身辺整理をしている最中なのだ、と。
「ええ」
「それなのに大学に寄贈できない黒魔術の本を改めてご購入されるのですか?」
店側がお客様の買う物に口出しをするなんて、ずいぶんと失礼な話だ。でも、さすがに不自然すぎないだろうか。
「この反魂の書を?」
専門家が興味本位で買うような内容でも値段でもないのに。
「…………」
不躾な質問を投げつけたわたしにいったい何と答えたものか、コバル氏は思案しているようだ。そんな中、いささか重く張り詰めた空気を破ってドアベルの音が鳴り響いた。
「あ……」
入ってきたのはまさに今、話題にしていた魔法使いの女性だった。年季の入ったしっかりした杖、丈の長いローブ、魔法使いらしい長い黒髪。そして今日は先の尖った長い耳がフードから少しはみ出している。
「店主さん、あれから魔導書は入荷した?」
「え、ええ。ちょうど今……」
答えながらカウンターに視線を移したわたしに釣られて、こちらに歩み寄ってくる彼女の視線もまた積み上げられた五冊の魔導書に注がれた。そして次に、老紳士が手にしているもう一冊の魔導書にも。
ほんの一瞬、時間が止まった。
「――――それ! 見せて!」
気づいたときには彼女は叫び声を上げて、獣が飛びかかるような勢いでつかみかかっていた。きっと本を持っていたのがわたしだったら、即座に奪い取られていただろう。でもコバル氏は反魂の書を手放さなかった。
互いに力を入れ、グッと本を引っ張り合う。
「離して!」
女性はとにかく必死の形相だ。一方のコバル氏も決然とした厳しい面持ちで、彼女の行動を阻んでいる。全力で。
「そういうわけには参りません。これはわたしが購入した本です」
「お願い、わたしに譲って! いくらでも出すから! どんなことをしてでも必ず希望額以上のお金を用意する! だからお願い、わたしに――――」
「だめです。あなたには渡せません」
「どうしても?」
「どうしても」
「……だったら」
本から手を離した彼女は、放り出していた杖をさっと拾い上げたかと思うと、早口で何か唱え始めた。杖の先端がみるみる光を帯びていく。
「ちょ……」
(ヤバい)
それだけは感じた。でも咄嗟に動けない。
代わりに反応したのはクロでも他の誰かでもなく、店だった。そう、この店は普通じゃない。いつも勝手に灯りが点いたり消えたりするし、金庫に入れたお金が消えて勝手にお釣りが出てくる。棚に陳列した商品は自動でカタログに載るし、売れたらカタログから消去される。以前、万引きをしようとした女子高生はドアから出ることができず、店の中に閉じ込められた。
まるでこの店自体が生き物みたいだと思うことがある。もしかすると、それは気のせいではないのかもしれない。とても怖い考えだけど。
「ぎゃっ!」
天井から、近くの壁から、床からも薄く透き通った腕が何本も伸びてきて、あっという間に魔法使いの女性を取り押さえてしまったのだ。
(この腕、みんなにも見えてるんだろうか)
「な、何っ!? 誰なの? 離してっ!」
警察に捕まった犯人みたいに床に押しつけられ、身動きが取れなくなった女性はパニックになりながらも必死に踠いて抵抗している。どうやら彼女にこの腕は見えていないようだ。もしかするとわたしが店主だから見えているのかもしれない。
(………………わたし、よくここに住んでるなぁ……)
冷静に考えればかなりのホラーハウスだけど、仕事中はもちろん居住エリアも実に快適で申し分ないのが実情なので、守ってくれると言ったクロの言葉を信じるしかない。
そのクロがわたしに代わって彼女に告げた。
「店内での魔法使用は禁止です」
「だけどっ」
「何があってもこのルールは守っていただきます。できないようでしたら強制退去、今後は出入り禁止とさせていただきます」
「わ、分かったから……離して。もうしないから」
どうやっても動けないと観念したのか、彼女は降参した。
すると彼女の脇にしゃがみ込んだ老紳士が先程までとは打って変わってやさしい声で、お嬢さんと呼びかけた。
「お名前は?」
「……ナターシャ」
「ではナターシャさん。まずはわたしの話を聞いてくださいませんか」
コバル氏は彼女に手を差し伸べ、立ち上がるのを手助けしながら静かに切り出した。
「この本はかつてわたしが廃棄したはずの本なのです。まさか燃えずに残っていて、こうしてまた世間に出回っているとは夢にも思わず、見つけたときには我が目を疑いました」
「じゃあ以前にもこの本を所有されていたんですね」
思わず横から口を挟んだわたしに、彼が頷く。
「もう三十年近くも前の話です」
「しかも売買や譲渡で手放したわけではなく、廃棄って……」
「そうです。燃やしたつもりでした。わたしの助手が不幸な死を迎えた、その日の夜に」
以前クロが語っていたセリフが唐突に脳裏をよぎった。
『黒魔術の反魂はなかなか成功例を耳にしない秘中の秘だ。大抵ロクなことにはならないから、たとえ魔導書が手に入ったとしてもあまりお薦めはできないかな』
不幸な死――――それは、いったいどれほどの惨状だったのか。
うっすら背筋が寒くなった。
「…………失敗したのね、術に」
魔法使いがぼそりと漏らした独り言は、ほとんど聞き取れないほど小さく掠れている。
老紳士の痩せてしわがれた手が、労わるように黒革の表紙をそっと撫でた。
「先程も申し上げました通り、わたしは黒魔術の本もずいぶん集めて研究していました。この本もその中の一冊です。もともと古代魔術が専門で興味があったのも事実ですが、きっかけは病気で妻を亡くしたことでした」
過去に思いを馳せる彼の眼はどこか遠くを見つめているようだ。
「わたしは研究ばかりの日々で長年家庭を顧みず、何もかも妻に任せっぱなしだったことをずいぶん悔やみました。何とか妻を呼び戻したい。ほんのひと時でもいい。もう一度会って謝りたい。そんな想いが次第に膨らんでいった結果、愚かにも黒魔術に傾倒していきました。しかし……反魂の秘術は、それだけはおいそれと手を出してよいものではなかったのです」
より一層苦々しい雰囲気が老いた痩身を包む。
「資料を集め、解析し、調べれば調べるほど、それは極めて確率が低く危険な賭けでしかないことが分かるばかりで、正直わたしは迷っていました。しかし助手のグレンはいつの間にか、わたし以上に黒魔術にのめり込んでいたのです。後に知ったことですが、どうやら彼にも会いたい人がいたようです。そんな相手はいない、純粋な研究心だと本人は言い張っていたのですがね」
重苦しいため息と共に、彼は吐露した。
「結局わたしはこの魔導書を危険と判断しましたが、彼はどうしても納得がいかなかったのでしょう。他の資料と共にこの魔導書を密かに自宅へと持ち帰り、単独で実験を行ったようです。翌日、連絡もなく出勤してこないことを不審に思った同僚が昼休みに彼のアパートを訪ねたそうで、部屋が血の海になっていると報告を受けました。そして……そこに、散らばった歯と眼球だけが残されていたと」
(ひえぇぇぇっ)
「それは……お気の毒に」
紛れもないホラー展開。
思っていた以上に怖い。怖すぎる。
「すべてはわたしの責任ですので、わたしは研究職を辞し、大学を去りました。黒魔術に関する魔導書もほとんど処分しました。それからは魔法教習所に勤務しながら細々と独自に研究を続けていたのです。反魂の術に対する心残りは多少ありましたが、もう二度と犠牲を出すわけにはいきません。慎重に研究を重ね、論文を書き溜めました。そのうちのひとつが評価され、教員として大学に復帰したのは十年以上経ってからです」
「ずいぶんご苦労されたんですね」
わたしの慰めに、いやいや、と彼は首を振った。
「どれだけ評価されようと、過去の過ちは取り返せない。失った命は戻ってきません。だからこそ我々は反魂という禁忌に惹かれるわけですが」
取り返しのつかないものだからこそ、死者の黄泉返り譚ははるか昔からさまざまな神話や言い伝えに登場する。深い後悔と絶望を伴って。
(せつないなぁ……)
なんだかジクジクと胸が痛んだ。
「ナターシャさん。あなたにも呼び戻したい方がおられるのでしょう。その気持ちは痛いほど分かります。ですが、この本はいけません」
「わ、わたしは失敗しない! 絶対にやり遂げてみせるわ!」
制止するコバル氏に対して、ナターシャは尚も必死に言い募る。でもその顔色は青白いどころか、紙のように真っ白だ。完全に血の気を失ってる。
「魔力や技量の問題ではない。少なくともこの魔導書で愛しい人を完全に取り戻すことは不可能です。それが長年研究を続けてきたわたしの結論です」
「トールマンが無理でも、わたしはエルフよ! 魔法はあなたたちよりずっと上手く扱える」
「種族は関係ありません。領域の話なのです。あなたが神か魔王にでもならない限り、成功はしないでしょう」
「そんな……」
絶望に押さえ込まれた彼女は、もう今にも膝から崩れ落ちそうだ。
老紳士はそんなナターシャに一冊の魔導書を差し出した。
「決して代わりにはなりませんが、よろしければこちらを」
もちろん反魂の書とはまったく別の本だ。
装飾などは一切ない簡素な装丁。ただ、きれいな薄緑色の表紙にタイトルと作者名が刻まれている。ヨナーシュ・コバルと。
「……あなたの本?」
「ええ、研究の過程で見つけた偶然の産物です。大学を去ってすべてを諦めかけていたとき、偶然見つけたこの魔法でわたしはずいぶん救われました」
ナターシャがそのタイトルを声に出して読み上げた。
「――――物の記憶を読み取る魔法」
「そう。反魂香のようなイメージの具現化ではなく、品物に刻まれている残像を形にして見るための魔法です」
老紳士は上着の内ポケットから大事そうに何かを取り出した。細い金の指輪だ。絶対結婚指輪だろうと予想した通り、妻の形見ですと彼は言った。
「この指輪がわたしの知らなかった妻の姿、聞いたことのなかった妻の言葉をたくさん教えてくれました。おとなしい人だと思っていたのに、毎日部屋の掃除をしながらブツブツ文句を言ってるし、そのくせ隣人にわたしの悪口を言われたときはムキになって言い返したりしていたんです。子供たちと一緒におやつを食べるのが大好きなのに、体重が気になるからこっそりご飯の量を減らしていたりとか。新しいドレスを選ぶときは呆れるくらい悩んで迷って決めたのに、わたしが気づかないで仕事に行ってしまって一日中むくれていたり、一言似合うねと言っただけで次の日もずっとウキウキしてご機嫌だったり、本当に可愛い人で……」
しゃべりながら、彼の青い瞳にうっすらと涙が滲んでいる。
「ああ、妻はちゃんと生きていたんだなって…………わたしの記憶の中だけじゃなく、ここに確かに彼女が存在していたんだと、その痕跡があるんだと分かったことがとても……とても嬉しかったのです」
きっとその魔法が発動した瞬間、悔恨と共に重たい澱のように積み重なっていた彼の孤独や悲しみが浄化されて、反魂への執着も消え去ったのだと思う。
そういう晴れやかな顔だ。
「ナターシャさん。もしかすると、あなたにとってはたいした慰めにはならないかもしれない。でもあなたの大切な人はきっと、あなたが暗黒の魔術によって魔物に喰い散らかされて命を落とすよりも、生を全うしてからその人のもとへと旅立つことを望んでいるはずです。少なくともわたしはそう思って生きてきました」
「…………」
壊れた人形のように硬く、蒼白だった頬にひと粒の涙が転がり落ちる。
「あなたがこれを必要とするなら、お譲りしますよ」
「わ、わたしは……」
「どうか生きてください」
「……うぅ」
魔導書を手渡された彼女は屈み込むようにして背中を丸め、嗚咽を漏らし始めた。
「あの」
わたしはそっとコバル氏に近寄ると、小声で耳打ちした。
「あれ本当は家に持ち帰るつもりじゃなかったんですか? 他の本と一緒に売るつもりで持ってきたけど、止めたんですよね?」
「はい、やはりわたしにとっては人生そのものと言ってもいい特別な一冊ですから。でも、どこかにこの魔法を必要としている人がいるのであれば伝えたい。そう思っていたのも事実なのです。わたしと同じ思いを繰り返させたくはありませんから」
彼はにこやかに告げた。
「きっと妻も喜んでくれるでしょう」
「……ええ、そうですね。きっと」
この老紳士の奥様は、彼岸でさぞかし安堵されていることだろう。あちらで再会したときには、さすがわたしの旦那様と褒めてくれるかもしれない。もちろんそんなのはこちら側に都合のいい勝手な解釈だけど。
それでも、わたしはそう思うことにした。
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