第31話「新世界より」④
チェコの作曲家ドボルザークが最後に書いた交響曲第9番は「新世界より」という副題で広く世に知られている。ヨーロッパからアメリカへと渡った晩年、現地の音楽に強い影響を受けて書き上げた作品だ。
全体的にとても力強い曲調だが、第二楽章だけは穏やかで哀愁漂うやさしい旋律で始まる。後にその部分に歌詞を付け加えて編曲されたものが「家路」や「遠き山に日は落ちて」というタイトルで現在でも親しまれている。
「この曲を聞くと小学校の校庭を思い出すんだよね。友達と遊んでて、これが流れると帰る時間だって走り出してた記憶あるわ」
閉店から四十分後、わたしは夕飯を平らげ、食後のコーヒーを飲みながらYouTubeで懐かしい曲に聞き入っていた。
いつ聞いても少し心寂しくなる曲だ。
「にしても、男の人があんなふうに泣くなんて思わなくてびっくりしちゃった」
「十六年の歳月の積み重ねだもの。性別は関係ないよ。ついでに人種もね」
クロはコーヒーよりココアが好きみたいで、ぬるめのココアを飲みながら穏やかな口調でわたしを諭した。
「……うん、そうだね」
頷いたわたしは、ふと、懐かしい光景を思い出していた。
三ヶ月前のある雨の日のことだ。
その日、わたしは黒猫を拾った。アパートの階段下で冷たい雨に震えていた小さな仔猫を。賃貸住まいで、本当は動物を飼う余裕などない暮らしだったのに、思わず部屋に連れ帰ってしまった。ただ、そうせずにはいられなかったから。
今になって振り返ってみると、もしかするとあの小さく弱々しい姿に当時の自分の状況を重ねていたのかもしれないと思う。
わたし自身が世の中の冷たい雨でずぶ濡れだったから。
大学卒業後に入社した会社では、希望した部署に配属されたこともあってものすごく頑張っていたのに、社内のパワハラセクハラに振り回された。間違っていると思うことに対して、間違っていると声を上げたら干され、罵倒された。正義の人を気取ったわけではなく、わたしの普通を主張しただけなのに、おまえは普通じゃないと揶揄された。おとなしく長いものに巻かれるのが普通、その中で上手くやるのが賢い人だよと諭された。
本当は戦いたかったけれど、折悪しく母が病で倒れ、亡くなった。
それもすらも自分のせいだとしか思えなくなった。
ああ、わたしが不甲斐ないからだ。よけいな心配をかけたからだ。
全部、全部、全部。上手くいかないのは、わたしのせい。
負のスパイラルに陥っているときというのは、そんなふうに考えてしまうものなのだろう。わたしは会社を辞め、アルバイトで食いつなぐようになった。もともと母子家庭で母親と二人きりだったから貯金はあまり多くなかった。母の保険金は葬儀と埋葬、一人暮らしのための引っ越しと、学費の返済などで儚い泡のように消えていった。
それでも生きていかなくちゃならない。
何もしないでうずくまっていたかったけれど、生活にはお金がかかる。仕方なく、いろいろなところでバイトをした。ホームセンターでは元気のいいパートのおばさまたちに、若いんだからもっと食べなさいとお菓子や果物をよくもらった。みんないつも声が大きくて明るく笑っていたけれど、少しずつ話を聞いていると子供の受験のためにと必死で稼いでいたり、長年親の介護をしていたり、見た目では分からない病を抱えている人たちだった。
短期のバイトで清掃に入ったこともある。わたしの親どころか祖母のような年齢の人が、腰が痛い、足が痛いと言いながら早朝から夕方まで立ちっぱなしで働いていた。考えていたよりきつい仕事だった。自営業の店を畳んで、夫婦の年金だけでは足りないからと働く人、早くに夫を亡くした人、離婚して女手一つで子供を育てて今は一人暮らしの老後を迎えている人。
会社勤めをしていたとき、同じようにトイレや廊下の清掃をしている人がいることは認識していたけれど、気にしたことはなかった。「しんどい」が口癖なのに、それでも「食べていかなきゃならんからね」と毎日ガサガサの手で便器を拭いたり給湯室のゴミを集める人たちを、自分と同じに考えたことは一度もなかった。
書店やスーパーでのバイトは意外と力仕事が多かった。ホームセンターのときと同じで、品出しのカートは重たいし、買い物中のお客さんの邪魔をしないよう注意しながらすばやく商品を並べるため、中腰で作業することも多い。逆にレジはまっすぐ立ちっぱなし。そしてお客さんのクレームも多い。
クレームの多さではドラッグストアもなかなかだ。商品の数も多いから配置だけでも覚えるのが大変だった。
ダブルワークでカフェのバイトをやったとき、掃除がとても丁寧で上手いと店長に褒められたことがある。若い子はトイレ掃除を嫌がるけれど、あなたは店の前の道路も床もキッチンもトイレも全部手を抜かずにきれいにしてくれるから、とても助かると。
ああ、見ていてくれてるのか、と嬉しくなった。
以前、掃除のプロに教わったんです、とわたしは答えた。あの清掃会社の女性たちに心の中でお礼を述べた。
そんな日々をしばらく続けたあと、わたしは派遣登録をした会社を通じて貿易関係の事務の仕事に就いた。会社で使用されるソフトやアプリは問題なく使いこなせたし、とりたてて難しい業務でもなかったので自分なりに工夫をして効率化を図ったり、改善できることは提案して働きかけた。おかげで課全体の残業時間が減ったと直属の上司にとても感謝された。そして契約更新の時期に、業務が減ったので人を減らすことにしたと告げられて、更新されずに会社を去った。
「やってらんねぇ」
正直そう思った。
世の中に等しく雨は降り注ぐ。
でも力のない弱い者は、冷たい雫を避ける傘を持たない。
わたしはずぶ濡れだった。弱かった。
「それでも生きていかなきゃならないもんね」
これまで出会ってきた人たちの声が耳の奥で響いた。
本当にそうだうろか、こんな思いで生きていくことにどんな意味があるんだろうと思ったりもしたけれど、母が残した最期の言葉が「ありがとう」だったから、わたしは自分を投げ出すわけにはいかなかった。
俯かず、しっかり前を向いて生きてやる。
ずぶ濡れだろうと構うものか。
そう決意した直後に――――あの雨の中、クロと出会った。
まさか人語を解する猫とは露知らず。
魔道具などという不思議なものを売る店の主になるなんて、思いもせずに。
クロに導かれてあの店の扉を開けた瞬間が、新しい世界へと踏み出す一歩になった。暮らしているのは今も昔も変わらぬ同じ町の一角だけど、日々の中で目にする世界は一変した。
わたしの場合は押しつけられたわけではなく、自ら選び取って踏み出した一歩だ。
だからなおさら、この新しい世界をきちんと楽しもうと思う。
精一杯、自分にできるだけのことをして。
「ねぇクロ、あの電気ネズミを捕まえる罠だけどさ。こういうのは作れないかな」
わたしは思いついたことをクロに話してみた。イメージを伝えるのが難しかったけれど、どうにか分かってもらえたようでオーダーを出してみようということになった。
夢乃屋では魔道具の受注製造販売も行っているのだ。
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