第26話「合わせ鏡」④
「返品ですか」
「ええ……申し訳ありません」
マリーという名で呼ばれていた妹が、今度は一人で店を訪れ、先日購入した鏡を返品したいと申し出たのだ。
「何か不具合でもございましたでしょうか」
「いえ、そういうわけでは」
「でしたら大変申し訳ございませんが、返品ではなく買い取りという形になります。ですので、お渡しする金額はご購入いただいたときより多少下がってしまいますが、よろしいでしょうか?」
「構いませんわ」
マリーは神妙な面持ちで頷いた。
わたしは引き出しから一枚の用紙を取り出し、カウンターに置いた。
「では、こちらにサインをお願いします。それと、もし差支えないようでしたら返品の理由をお伺いしたいのですが」
もしも商品に何らかの問題があるようなら、カタログにメモしておかけなければと思って尋ねたのだが。
「この品に影響を受けすぎたのです、姉が」
返ってきた答えは意外な一言だった。
「え? お姉さんの方が、ですか?」
「ええ」
あのときはまったく興味を示さなかったのに。まさかハマったのが姉の方とは。
「姉のコーデリアは生真面目で努力家で、とても勉強熱心な人なのです」
確かに店内での様子から、わたしもそんな印象を受けた。
「年ごろになっても美容の話などには興味を示さず、浮いた噂ひとつなく、サロンに招かれても参加しない。そのせいで堅物と思われているのか、十八になっても殿方からの求婚もなく、父も母も大変案じておりましたの」
興味を示すことと言えば魔法の研究ばかりで、と嘆息するその口ぶりはまるでマリーの方が年上のようだ。やはりこの人は見た目よりもやや大人びたタイプなのかもしれない。
(うーん……二十六で彼氏なし、流行りの服やメイクに疎いわたしには耳が痛いな)
わたし自身は学者肌というわけではないし生真面目でもないけれど、社交的かと問われれば否と言わざるを得ないし、現在の暮らしも半ば引きこもりに近い状態なので、あまり他人事とは思えない。
「ところが、あの鏡を覗いてから、すっかり様子がおかしくなってしまって」
マリーは悲しげに目を伏せた。
「あの、ご購入の際にご説明させていただきましたが、あの商品は長時間眺めたり、日を置かずに何度もご使用になるのは控えていただきたい品なのですが」
「ええ、ええ。それは伺いました通り、きちんと姉にも伝えました。ですが、聞かないのです」
まさに魅入られてしまった、ということか。
「では左側の虚像を日がな一日眺めていたりするわけですね」
「いえ、そうではありません」
どういうことだろうと首を傾げていると、クロが「なるほどね」と話に割って入ってきた。
「ああいう品にハマるのは、現実を見ようとせず虚像に耽溺するタイプが多いんだけど、あなたの姉上はむしろその真逆だったというわけですね」
「はい」
ああ、またクロとお客さんの間だけで会話が完結してしまった。たまにこういうことが起こる。わたしだけが理解の外で、置いてけぼりを食らうというやつだ。
「えーと、つまり……?」
教えてオーラを醸し出しつつ、さらなる説明を求めると、クロがわたしに向き直って話し出した。
「もしあの鏡を自分でも使えるとしたら、琴音は右と左、どちらから見る?」
(順番? それって大事なこと?)
「んー、やっぱり右を見て『こっちは普通』って確認してから、わくわくしながら左を見るかな」
「じゃあ、もしも逆の順番で見たら、どう思う?」
「んん? 逆だったら……理想の自分に『おおっ』となった後に、現実に引き戻される感があるから、もう一回だけチラリと左を眺めちゃうかも。そっちの映像を頭の中に残したいっていうか」
例えばスッキリ痩せたいと思っていてもなかなか運動やダイエットは続かないけど、最高にきれいな自分の映像が目に焼き付いていたら、多少は頑張り度合いも違ってくるんじゃないかと思う。完璧は無理でも。
「理想の自分を具体的にイメージできたら、ちょっとは前向になれそうだし」
答えながら、ふと何かが引っかかった。
――――本当にそうだろうか、と。
その違和感をクロが解きほぐしながら言語に換えてくれる。
「うん、そうだね。左の鏡が映し出すのはあくまでも夢、憧れ、理想の自分であって未来の姿ってわけじゃない。それでも左右両方の鏡を直視できる人は、いずれ左に近づくよう少しずつでも努力できる。そういう人があの鏡を持つと、いい効果が得られるんだ」
きっと妹のマリーはそのタイプだろう。自己肯定感高そうだし、陰陽で言うと明らかに陽の側だ。
「対して右の鏡は真実の自分を映す。本人すら気づいていない真の姿を暴いてしまうことだってある」
無邪気そうなマリーが実は意外と大人っぽい性格であることを映したように、ってことかな。
「自分自身が思っているよりみすぼらしい姿で映ってしまう人もいるし、嘘や虚栄心で飾り立てている人は実際の見た目よりも小柄だったり、幼かったり、貧しいボロ服を纏っていたりする場合もあるんだ」
「あ……そういえば右側の鏡に映った姉はずいぶんと幼い姿でした」
マリーの言葉に、わたしはなるほどと内心唸った。
この姉妹は見た目も正反対だったけど、内面もまたその逆で正反対だったのか。
「たとえ理想と今の自分が大きく隔たっていたとしても、その理想になかなか近づけないだろうと気づいていても、自分を責めない人なら大丈夫。問題はない。理想は理想、現実は現実と割り切れる。そういう人はあの鏡をただの道具として楽しめる」
「あ、わたしはそっち側かなぁ」
少なくとも今は。
「真実の右を認めず、左側ばかりを眺めて満足する人は己の思い描く虚像に逃避するタイプ。それこそが現実だと思い込んでしまう人もいる」
うん。いるいる、虚構の中の自分を信じちゃう人。
「でも一番まずいのは左側を自分の基準にしてしまう人だね」
「理想を追求しすぎるってこと?」
「そう。本当の自分はこうあるべきだ、と強く思ってしまう人。こちら側の姿こそ本来の自分であるべきなのに、なぜそうなっていないのか。どこが間違っている、何が悪い。なぜ自分はダメなのかって考えて、自分自身を否定して追い込んでいくタイプ」
「ああ……」
なるほど。もともと自己肯定感が低かったり、プライドと理想が高くて完璧主義だったりして、現実と理想のギャップを素直に受け止められない人がドツボに陥るやつか。
「その場合、とことん自分を責めて弱っていくか、他者に責任を押しつけて攻撃するかのどちらかになる」
「……ってことは、お姉さんは」
問うようにマリーに視線を向ける。
すると彼女は、目尻にうっすら涙を浮かべて「後者です」と頷いた。
「あの日以来、姉はほとんど眠らず、お食事もまともに取らずに研究を続け、常にイライラして物に当たり散らし、わたくしを罵倒するようになりました。何もかもあなたのせいだ、あなたがいるからだ、と怒鳴って」
「そんな理不尽な。どうして……」
「きっと彼女の鏡の左側に映った姿が妹さんに似てたんじゃないかな」
クロの言葉に、マリーがゆるゆると首を横に振った。
「正確にはわたくしどもの母によく似た姿が映っておりました」
「でも、キミの方が母上に似ているでしょう? 容姿も、おそらく性格も」
「はい。似ているとよく言われます」
姉は父親に似て言葉数が少なく、引っ込み思案なところがあるので、と彼女は小声で付け足した。
以前この店を訪れたときの無邪気で明るい笑顔はすっかり影を潜めている。あのときの姉と妹は顔立ちこそ双子のようにそっくりでありながら、陰と陽、右と左、裏と表、正反対の姿を映し出す二つの鏡のように真逆の印象だったのに。
今はその二枚の鏡が合わさったように近づいている。
「だからといって、どうして姉がわたくしを責めるのか、なぜあんなにも怒りっぽくなってしまったのか分からないのですが、鏡を眺めるたびに癇癪を起して乱暴するものですから、とにかくこの鏡を買ったからだという結論になり、手放すことにいたしましたの」
「……そうですか」
この人には姉の抱える闇が見えない。近づいたとしても、完全に重なり交わるわけじゃない。他人を認め、共感するというのも、また難しいものだ。
(それでもお姉さんを大事に思ってるのは嘘じゃないんだよね)
わたしは頷き、鏡を受け取った。
「では、こちらは買い取らせていただきます」
「ありがとうございます」
規定に従った買い取り価格を支払うと、マリーは優雅な仕草でお辞儀をして去っていった。
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