第1話「夢じゃなかった」


 家に帰って一晩寝て、起きたら、全部夢でしたってなるかと思っていたのに、そうはならなかった。翌朝、目が覚めた途端にクロがしゃべりかけてきたからだ。


「おはよう、琴音」

「お………おはよう」

 店にいたときと違って頭の中に直接声が響く感じだったけど、とにかく普通に会話ができてしまった。


「今日もよく晴れてるよ。よかったね、引っ越し日和だ」

「引っ越し?」

 誰の?


「じきに来るから早く支度しなよ」

 誰が? なんで?

 起き抜けで頭がぐらぐらする。

 どうして猫がしゃべってんのかな。ゆうべの夢の続き?


「ここの荷物は全部向こうの部屋に移すように言っておいたから、琴音は身支度だけすればいいよ」

「嘘でしょ」

「ホントだよ。だって前の店主はもう旅に出ちゃったんだから。今日も店を開けなきゃいけないだろ」

 ああ、なんかそんな展開でしたね。


「まさかあんたが引っ越し業者に依頼したの?」

 どこの世界に猫からの依頼を受ける引っ越し業者がいるんだか。しかも安心おまかせパックですか。全部丸投げですか。


「引っ越し専門ってわけじゃないけど、まぁいろいろと運んでくれる便利な連中だよ」

「何その不穏な響き」

「大丈夫、ボクらとは友好的な関係だから」


 めちゃくちゃ気になるけど深く追及したくもない感じだ。

「……わかったわ」

 考え始めるとよけいに頭が痛くなってくるから、一旦考えることを放棄して、仕方なく手を動かすことにした。


 洗顔、着替え、身だしなみ程度の軽いメイク。

 パンとコーヒーとヨーグルトだけの朝食。出勤していたころと同じ、いつも通りの朝だ。

 そうしているうちに、しっかり目も覚めてくる。


 残念ながら夢ではなさそうだし、自分の頭がおかしくなったわけでもないと思いたい。


 支度が終わると、まだ捨てずに残していた段ボールを広げ、旅行用のカバンも引っ張り出して、チェストの上に並べてあった小物や着替え、身の回りの品々を詰め始めた。


(何もしなくてもいいって言われてもねぇ。まだ洗濯してない下着だってあるし、洗面台に置いてある歯ブラシやメイク道具まで他人に触られたくないもんね)


 そうして収納ケースに収まっていない物をざっと片付けてしまえば、実際、荷物はかなり少ない方だと思う。


 もともと狭い部屋での一人暮らしだし、節約をしていたから衣類や靴、鞄はもちろん、食器や調理器具なんかも最低限の数で使い回していた。家電もコンパクトな物を揃えているし、家具は備え付けのクローゼット以外、組み立て式の小さなケースがいくつかある程度。趣味でたくさん集めているような小物もない。我ながら質素な暮らしぶりだ。


「けどさ、いくらなんでも昨日の今日で引っ越しって急すぎない? 大家さんにもまだ話してないし、役所への届け出とか郵便電気ガス水道の手続きとか何もやってないんだけど」

「…………」


 文句を言ったら、そんなときだけクロは普通の猫のフリをして後ろ足で耳を掻いた。


 半信半疑だったけど、十時を回った頃、本当に業者らしき人たちがアパートにやってきた。揃いのツナギを着ていて、一見すると、ごく普通の運送業者に見える。


 あくまでもパッと見は普通な感じ。だけど。

(なんか、白目がない……ような)

 うっすらと背筋が寒い。


(…………うん、気のせいということにしよう)


 寡黙な運送業者たちは手際よく荷物を運び出し、瞬く間に部屋を空っぽにすると、クロに向かって一礼して去っていった。依頼者はクロなので当然と言えば当然なのかもしれないけど、家主は一顧だにされなかった。


 ガランとした四角い部屋の壁や床を眺めてしばらくぼうっと呆けていた私を、早く立てとクロが促す。

「行こう」

「……あ、うん」


 まさか本当にこんなことになるなんて。


 まだどこかピンとこないまま、慌てて近所に住んでいる大家さんのところへ挨拶に出向いた。ずいぶん急だねと驚かれたけど、そりゃそうだ。こっちだって面食らっているんだから。


 何かトラブルを起こして逃げ出すのかと勘繰られたみたいだけど、両腕で抱えているクロを見せて「家族が増えることになったので」と告げたら納得してもらえた。


 どうせ移り住む先も徒歩圏内の隣町だ。

「何かあったらここに連絡をください」

 返却する鍵と一緒に店の住所と電話番号のメモを渡しておいた。


 さあ、これでいよいよ後戻りはできなくなった。

 新しい生活のスタートだ。

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