最後のショパン

吉江 和樹

第1話 

 その日以来その学校から昼休みに、そのピアノの音は聞こえなくなった。


 札幌のずっと外れにある小さなその高校では、昼休みが始まり少しすると古いピアノのある音楽の教室から、何時もの様に静かに淋しくピアノの音が流れてきた。どこか悲しげで、虚し気なピアノの音。それはよく聞くとショパンのワルツだった。


 何時の頃からか、道子が昼休みになると音楽の教室の冷たく重い木の椅子に腰を掛け、大きな古いピアノで弾き始めていた。生徒達は誰も聞いていなかったが道子は一人で弾いていた。しかし、彼女は音楽の教師ではなかった。数学の教師だった。

 

 高校は道内でも5本の指に入る歴史のある進学校だった。進学校と言っても、トップクラスの生徒でも国立大に入学する生徒は5、6人程度で、しかも、その生徒には受験期になると授業とは別に特別授業が行われていた。


 道子はその高校に赴任してから3年目、まだ25歳の若い独身教師。その若さで女子生徒からも男子生徒からも慕われる存在だった。

 

 この高校は男女ともに部活動がとても盛んだった。バスケットボール部テニス部などは毎年全国大会でも活躍し、いわゆる文武両道と言える高校で、特に女子バスケットボールは全国でも優勝経験のある実力だった。


 高校の近くには、生徒たちが、授業が終わり家に帰る途中によく寄っていく、古くてとても美味しいお好み焼き屋があり、道子も同僚の教師と時々、帰宅途中に利用していた。お好み焼きは彼女の晩御飯の代わりだった。


 また、その高校の広いグランドの隅に大きな桜の木がポツンと立っていた。なぜか道子はその桜の木が好きだった。


 毎年、何人もの新入生が、満開の桜の木の下で写真を撮り、そして何人かの卒業生がその木の太い幹に自分の将来の夢を刻み込んでいくのだった。

そして彼女はその卒業生の将来の夢を読むのが好きだった。


 今年も受験の時期が来て、選抜者に特別授業が毎日行われていた。

琢磨は特別授業に参加していたが、彼は国立志望で、選抜されて特別授業に参加していたのだった。


 

 実は、教師でありながら、道子は、人前に立って話すことが本当は苦手だった。

黒板の前に立ち、生徒達の極端に真剣な眼差しにさらされ、話すことが嫌だった。

そんな生徒達の、鋭く真剣な眼差しは、彼女には刺すように痛かったのだ。


 しかし、彼女はそんな数人の生徒達の中の、ある一人の眼差しを、何時頃だったからか、強烈に意識するようになってしまっていた。

 

 何故かその瞳が、彼女にはまるで紫の夜空に輝く美しい、二つの星の様に、静かに輝いて見える様になってしまったのだった。その二つの視線が優しく彼女に語り掛けてくるようだったのだ。その美しく輝く二つの星が琢磨だった。


 そんな道子は今日も教団の前に立っていた。何時もの数学の授業の最中だった。

 彼女は黒板に数式を書き込むと振り向いた。

「いいですか、最後の問い2の結果を考慮して、答えはX=3となることが分かります。質問はありますか?」道子が恐る恐る教室を見渡し言った時、彼女に優しく輝く紫の視線が目に入った。


 するとその美しい紫の視線が、スッと素早く手を挙げた。琢磨だ。

「先生、最後の問い2の結果がどうしても理解できないのですが」

道子はドキリとして一瞬、何と言っていいか分からなかった。

 道子は質問の内容にドキリとしたのではなく、質問者が琢磨だった事にドキリとしてしまったのだった。


 しかし、その時ちょうど彼女を救うように、授業の終了を知らせるチャイムが校内に鳴り響いたのだった。

 道子は言った。

「琢磨君、あなた特別授業を受けてるわよね?それに関しては今日の特別授業で説明しましょう」道子は内心ホッとしてしまっていた。そして教科書を持つと、そそくさと教室を出た。


 その日の数学の特別授業で二人は席を並べ、肩が接近する程に寄り添い、座っていた。ほかの生徒は自習中という事だったが、自習中のほかの生徒はそんな二人の様子を不思議な目で見ていた。

「いい、琢磨君。ここの式の結果があなたは間違っているわ」道子は、そう言うと、ずいっと琢磨に体を近づけた。


 その時、極端に琢磨に接近した道子に、彼の息遣い、彼の体温がなまなましく感じられた。

「でも・・・」琢磨はそう言うと、振り向き、ノートに落としていた目をそんな道子に振り向けた。すると二人の顔が極端に接近し、二人の唇は接しそうな程に近づいてしまった。


 二人は瞬時に見つめあった。道子は再びドキリとしてしまった。と言っても琢磨は何も感じていなかった。ただ驚いただけだった。道子が一人でトキメイてしまっていたのだった。思わず彼女は身を引いた。彼女の頬は赤く色付いてしまっていた。


 琢磨は、そんな彼女の目の内を、不思議そうにただじっと見つめていただけだった。

「どうかしましたか先生・・・」彼が言った。

「えっ、いっ、いや・・・」

「琢磨君、大丈夫、今日の授業のノートを、家でもう一度、見直して御覧なさい。分かるはずよ」

「今日はこの辺にしましょう」彼女が逃げるように言った。

琢磨は何となく釈然としない気分で席を立った。

授業の内容ではなく、道子の様子に釈然としないものを感じていたのだった。

 

 その日の帰り道子は同僚の国語の教師幸子と学校の近くの例の古いお好み焼き屋に寄る約束だった。道子はカバンに教科書を詰め込み、先月の給料で買ったブランドの帽子をかぶり学校を出た。幸子は約束の場所にすでに一人で立っていた。


 二人が店に向かうと店の中には、その時間、部活帰りの生徒が数人見られるだけだった。席に着くと幸子が早速言って来た。

「道子先生、最近おかしいわよ」幸子は少しいぶかしげな表情を見せた。

「何処が?生徒から授業に対する不満でも聞いた?」

幸子が非常に鋭い感を持っている事を、彼女は知っていた。


「好きな人でもできた?」

幸子は、ためらわずに道子を問い詰めた。

「な、なに?私が恋をしちゃいけないの?」

道子は思わず語気を強め、幸子を睨みつけた。


「いや、私が心配してるのはね・・・。まさか、誰か生徒に・・・」

「何言ってるのよ。どうして私があんな子供相手に・・・」

そう言った道子は、少しきまり悪そうに幸子から目をそらせた。


「そう・・・、ならいいけど」幸子がそう言うと、二人はそれ以上何も言わずに何時ものお好み焼きを注文すると、黙って何も言わずに食べた。


 食べ終わった二人は伝票を持って立ち上がり何も言わずに別れた。


 そんな幸子の後姿を見つめ、彼女に気付かれているなら、 

琢磨本人も気付いているのではないだろうか。

そう思った彼女の胸中に、驚きというか喜びというか、強い衝撃が走ったのだった。


 しかし当の琢磨はそんな事には、全く気付いてはいなかった。


 そして、彼女の家路はいつもの電車に乗って10分程度の帰り道だった。彼女はこの電車の中の10分がなぜだか好きだった。地下鉄で帰れば5分とかからない家路だったが、なぜか電車の10分を選んでしまうのだった。電車の揺れに彼女は心地よい初恋の揺れを感じながら乗っていた。


 家に着くと、彼女は母に言った。

「帰りに、お好み焼きを食べてきたから晩御飯は、いらないわ」

「あらそう」

 言わなくてもこの時間に帰ってくる時、道子は、だいたい晩御飯を済ませていることを母は分かっていた。


 すると道子は2階の自分の部屋に上がり、着替えを済ませ、再び母のいる居間へ降り、そしてテレビのスイッチをつけた。

「お父さんは今度いつ帰ってくるの?」道子はテレビを見ながら何気なく母に聞いた。大手商社に勤めている父は、道子が大学に入った時から、函館に単身赴任に出ていた。


「知らないわ」母は少し怒ったように言った。

道子には、その時の母の心の内が見えていた。

父は函館に女を作って、何時の頃からか、札幌には滅多に帰ってこなくなったのだった。しかし、母にはそんな父を非難することはできなかった。

 何故なら、もともと父が単身赴任することになった理由は、母の浮気にあったのだった。


 10年前、父が「函館に転勤になったから、みんなで引っ越そう」そう言った時、母は嫌だといったのだった。

 道子は函館の街に魅力を感じていたし、どうせ大学は札幌の大学を受験するつもりでいたので、反対はしなかった。しかし、母は絶対に嫌だといったのだった。


 その理由を父も道子も本当は知っていた。

その頃、母は週に2回体操に通っていた。

その体操の講師と彼女は浮気をしていたのだった。

その講師とはもう別れたらしいが、そんな母が父の今の浮気を非難できるはずがなかった。


 母は、今の父の浮気を、あの頃の自分に対する復讐とさえ、とらえているらしい。


 それでも、道子は母の命を受けて、時々父の様子を探りに、函館に出かける事もあったのだった。彼女にしてみればいい観光旅行だった。経費はすべて母から出るのだ。彼女は函館の五稜郭と函館山から見る函館の街の夜景が大好きだった。

「函館に様子を見に行ってくる?」道子がその夜、母に、かまをかけてみた。

「べつに、そんなことしなくても、いずれ帰ってくるわ、そんなことよりあなた自身の事考えなさい。何時、結婚するの?好きな人はいるの?」

母が投げつけるように、道子に言った。


「いるわけないでしょ」道子が言う。

二人の寝る前のいつものやり取りだった。

そうして道子は、自身の寝室へ入っていくのだった。


 本当は、道子は家に帰っても琢磨が忘れられなかった。

家に帰ってからもあの眼差しが、瞳が、彼女にはまるで紫の夜空に輝く美しい二つの星の様に、静かに心の中で輝いて見えるのだった。

道子はその美しく輝く二つの星に、恋してしまっていたのだった。


 その琢磨の眼差しが、彼女は恋しくてしかたなかった。

琢磨のいない、今の自分の生活が寂しくて、しようがなかった。

寝るときも、自分の寝室に入って、しばらく琢磨の、あの星のように輝く瞳を思うのだった。

そして、「大丈夫明日会える。そして明日も特別授業があるわ・・・」

道子は思った。


 次の朝、カーテンを開くと、そこには銀世界が広がっていた。初雪だった。彼女は、本格的な冬が来る前に、一人暮らしを始めようと思っていた。

冬に引っ越す人は珍しいかもしれないが、彼女は少しでも早く、琢磨とそこで「特別授業」がしたかった。


 そう、一人暮らしを始めて、自分の思いのすべてを琢磨に告白し、優しく、愛おしく、そして激しく、そこで彼に「特別授業」を施すのだ。

彼女は思っていた。少しでも早く・・・・・。彼女は少し焦っていた。

部屋を出て、階段を下り、食卓のテーブルに着くと、彼女は朝食の味噌汁を温めている母にむかって、TVの朝ドラを見ながら、何気なく言った。


「この冬が始まる前に、私、家を出ようかと思うの」

「そろそろいいんじゃない」母は味噌汁を温めたまま、振り向きもせずに言った。

「あなたが家を出たら母さん、父さんと離婚しようかしら」

そう言った母に、TVの朝ドラを見たまま道子は言った。


「そろそろいいんじゃない」彼女は反対しなかった。

なぜならこの二人は、すでに、10年以上前から、夫婦として成立していないのだった。そしてなにか、その日、すっきりした気持ちで、彼女は学校に向かった。


 学校は大盛り上がりだった。

女子バスケット部が昨日、全国大会に勝ち進んだのだった。

去年、全国大会にも行っている彼女達の実力からすれば、当然の結果だったともいえるが、校内は大盛り上がりだった。

しかし、道子には少し不安があった。


それは、去年、全国大会に行った時の、応援団長が、琢磨だったことなのだ。

それには理由があった。

女子バスケット部には琢磨の彼女、他のクラスのレナがいたのだった。

そう、琢磨はレナと、つき合っていたのだった。


だから道子は、琢磨が応援団長になることが不安だった。

それは彼の受験勉強に及ぼす影響ではなく、これ以上、二人が接近することが不安だったのだ。道子は、自身でも恐怖を感じるほどに、琢磨を思っていた。


「道子先生、今年も女子バスケ部の応援団長をしたいので、特別授業をしばらく休ませてください」琢磨が道子に言ってきた時、彼女は怒りつけるように言った。

「ダメよ。あなた自分のことを考えなさい。今年あなた、受験なのよ。そんなことで、第一志望に合格できると思ってるの。今年の応援団長は、他の人に任せて、あなたは勉強に専念しなさい」


 本当は彼女は心の中で思っていたのだ。「これ以上、琢磨とレナを接近させない。そして、琢磨はいずれ、私のものにする・・・。」

そんな彼女の思いも知らずに、琢磨は構わない応援団長は俺がやる、そう思って、応援団長は自分でする事にした。


 そしてその日の特別授業も、彼女は彼の横に座り、ほとんど彼につきっきりの状態だった。他の4人の生徒には、質問があれば、その生徒のところに行った。他の4人は、そんな道子の状態に少し不満を持ち始めていた。


 道子は彼の横に腰を掛け、彼の温かな体温、柔らかな息づかいを感じるほどに接近し、ただうっとりとしていたのだった。

そして昼休み、彼女はピアノを弾き続けた。いつの日からか、琢磨を思い、情熱的に弾き続けていた。


 その日の下校時間だった、廊下で琢磨とレナが話をしていた。

「分かった、レナ。このことは誰にも言っちゃだめだよ。今年も応援団長は俺がやる」琢磨が言った。


 何も知らずに、それを見た道子は、鋭くレナを見つめた。

するとレナは、逃げるように、琢磨のそばから、離れていった。

一人になった琢磨に道子は近づき、

「応援団長の件はどうなったの?」


「はい、道子先生の言う通りに、ほかの人に任せることにしました」琢磨が嘘を言った。

「そう、安心したわ。とにかく、今は受験勉強に専念するのよ」道子は言った。


 道子は思っていた。何時か私の思いを彼に伝え、彼とレナを別れさせ、彼を私のものにするのだ。彼女は心の中で強く決意していた。

そして帰ろうとする道子の後ろから、その時、突然声がした。

レナだった。とっさに道子の顔色が変わった。その顔色には、明らかに嫌

悪感が浮かんでいた。女の醜い嫌悪感だった。


「先生、お話があるんですけど」レナが言った。

「なに・・・」

「・・・・・・・」レナは無言で、俯いていた。

「何なの・・・・」その口調は生徒に対するものではなかった。

「ここではちょっと・・・・・」レナは困ったように俯いていた。


「音楽室に行きましょう」道子が言った。

二人は音楽室で座ったまま向き合った。道子はピアノの古い木製の椅子に腰を掛け、ピアノに肘をついていた。そして彼女は言った。

「私に何か用があるの?」


 その口調からは、明らかに、敵意が滲み出ていた。二人は黙ったまま向き合った。すると黙り込んでいたレナが、突然口を開いた。

「私、妊娠してしまったんです・・・」

二人の間が凍り付いた様に、時間の流れが一瞬止まった。


「えっ、・・・・」道子は、その瞬間に青ざめた。彼女は、混乱した。「まさか琢磨が、私の琢磨が、こんな子と・・・・・」そして道子は絞り出すような声で、訊ねた。

「相手は、誰?」

「琢磨です」レナは、俯きながら、はっきりと、言い切った。


 俯くそんなレナを、道子は震えるような声で怒鳴りつけた。

「両親に言って、さっさとおろしなさい‼」

その言葉に、生徒に対する思いやりの思いはなかった。一人の女に対する、憎しみと憎悪に満ちた言葉だった。


 しかし、レナが驚いた事を口にしたのだった。

「先生、私、高校を辞めて、子供を産もう思うんです」

「そして、琢磨と一緒に育てていこうと思うんです」

その言葉は道子にとって、レナからの挑戦状にも思えた。


「何言ってんの。琢磨がそんなこと、了解するわけないじゃないの!」

道子はレナを、再び怒鳴りつけた、その時、彼女の背後から声がした。

「いや、僕は了解しました」

道子が驚いて振り向くと、そこに琢磨が立っていた。


「先生、僕は了解しました。僕は、受験をやめて、高校卒業したら、レナのために働きます!」

「ダメよ、ダメ。私が許さないわ!」彼女が激しく叫んだ。

「先生、レナを守ってあげてください。先生、レナは先生のピアノが好きなんです。これからも、レナのためにピアノを弾いてあげてください」


「これから変な噂が立つと思うんです。ですから、レナが退学するまでの間、彼女のためにピアノを弾いてレナを守ってあげてください」

それを聞いた道子は、呆然とし、何も言えなかった。

そして二人は、手を取り合って、音楽室を出て行った。

道子は思った。「私のピアノは、ピアノは琢磨、あなたのため・・・」


  彼女はグランドの桜の木に琢磨と自分の名前を書いた 。


 その日の道子の帰り道は、先日の初雪で覆われていた路面の白い雪は消え、並木から降った枯葉でまるで赤黒い絨毯が敷かれたように、赤黒く覆われていた。その赤黒い絨毯の上を道子は歩いていた。何かを考えながら・・・・・。


次の日の授業が終了し、昼休みを告げるチャイムが静かになった。

「それじゃあ、今日はこれまで」道子が言った。みんなが、少し鬱陶しそうに席を立ちあがったり、弁当をカバンから取り出したりし始めた。昼休みだった。

すると道子はレナを呼び止めたのだ。

「レナ、すぐに音楽室に来て」


レナは何も思わずに黙ったまま、音楽室へ向かった。

彼女が部屋に入ると道子が言った。

「そこに座って待っていて・・・」

レナは何も言わずに、言われるままに、音楽室のピアノに背を向けて、少し俯き、腰を掛けていた。


 すると道子も何も言わずに、そっとピアノに近づくと、少し重く、古い木製のピアノの椅子に、そっと腰を掛けた。


 そしてゆっくりと鍵盤蓋を開けると淋しげにピアノを弾いた。

道子はピアノを弾いた。悲しげに、虚しげに、木製の古い椅子に座り、道子はピアノを弾いた。ショパンを弾いた。ワルツだった。


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最後のショパン 吉江 和樹 @YosieKazuki

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