第24話 ウサギとオオカミのものがたり(前編)
「……む。もうこんな時間か」
帰還から、早くも三日が経とうとしていた。
シュニーは意識を書から窓の外に向け、夕暮れが真っ暗闇に変わっているのを確認する。
それから疲労の溜息をひとつ付きながら、机に置いた懐中時計へと目を向ける。
夕食を終え机に向かってから、既に四時間も過ぎていたらしい。
「疲れた、が……まだ寝るには少々早いか」
帰ってから、シュニーの生活はずっとこの調子であった。食事と風呂を除いた殆どの時間、この狭い自室に引きこもっている。
辺境伯の執務室というにはあまりに寂しい部屋だ。
質素な木細工の机とベッドがある程度で、他に目立つものといえばやけに面積を取っている本棚とそこに並ぶ本の数々くらいだろう。
走り回れるだけの広さも当然ない。机から立ち上がって三歩と歩き体を投げ出せばそのままベッドに寝転がれる。実家の物置の方がはるかに広い。
ただまあ、贅沢は言うまいとシュニーは自制していた。
そもそもが狭い小屋のため、主人用の私室と居間で部屋分けがされているだけでも奇跡だと喜ぶしかなかろう。
むしろ、すぐ本棚に手が届いて都合がいい。
そう思える程度にはシュニーは今の生活に適合していたし、真摯に目的に向けて取り組んでいた。
「次にあちらを訪れる時までに、彼らを説き伏せるに足る根拠を得たい」
己に言い聞かせるように、シュニーは掲げた目標をはっきり口にする。
突然の誘拐から始まった視察は、あんまりな幕開けに反してそこそこ満足のいく結果であった。だが、決定的な成功を収められたとは言い難い。
シュニーはフィンブルの町で過ごした数日間をそう評価している。
「の、だが……」
そして今現在、シュニーはとある問題に頭を悩ませていた。
「このまま解決できなかったら……できなかったら……」
こちらに帰ってからやる気に満ちて調べ物をしている最中、ふと襲い来た違和感。
その正体に思い当たり、いやいやそんなはずはと何度も考え直したが、毎回同じ結論に辿り着いてしまう。
「別に、問題にはならないのだよ」
どうも、少々おかしな状況になっている。
今現在解決すべきは、分断されているふたつの町事情だ。
だがそもそも解決するとはどのような状況を指すのだろうか?
状況を改めて整理するために、シュニーは紙へとそれぞれの思惑を書き出してみる。
・ラズワルドとステラの希望:領主の地位(=自分たちが安心して町を治める権利)がほしい。
・自分の希望:ふたりに従属してもらって、臣下として正式に向こうの町を取り仕切ってもらう。
・現状の関係性:ふたりはあちらの町を治めている。こちらとしては無理やり手出しするつもりはない。
「……実質的に、片付いているようなものだ」
お世辞にもきれいとは言えない走り書きを見直して、シュニーは嘆息する。
『解決が困難』ではなく『解決する必要性が薄い』と言えてしまう状態だったからだ。
現時点で、シュニーの希望はほぼ叶っていると言っていい。
自分をこうして大人しく返してくれた時点で、ステラ達が領主の地位を狙い強硬手段に出る可能性は低い。
ふたりの良心を考慮せず純粋な利害で考えても、実行したところで帝国中央から討伐隊が差し向けられてくる可能性が高いと考えればやるだけ損だ。
シュニーの側からしても、何か強い対応を取る意味が薄い。別に暴政を敷き民を苦しめているわけでないのは、ここ数日の通りだ。
領主の隷下でなく独立した権力を有しているのは少々問題だが、それによってシュニーが損を被る要素は現状ない。
きっと、このままなあなあで済ませるのが、無難な選択だ。
「領主として認めさせて跪かせてやる」なんて派手な啖呵を切ってしまったが、それは一旦置いておいて。
無理には触れず、必要な時には対応を話し合う程度の関係性を保ち続けるのが良いのかもしれない。
「だが……本当に、それでいいのだろうか」
そのはずなのだが、決めかねていた。
たしかに現状差し迫った問題でない以上、城壁の修復や食糧問題への対応など領地の安全に直結する物事に取り掛かる方が良いように思える。
しかしこのままでは、長期的に考えて良い方向に転ばない気がした。
今はよかったとしても、今放置したツケによって何かがじわじわと蝕まれ、大きな問題に繋がる気がしてならない。
理屈でうまく説明できない直感だったが、自分の悪い予想や勘はよく当たるのだと嫌な自信がある。
加えてシュニーにとっては、個人的心情で現状を動かしたい理由があった。
机の片隅に置いた靴下、ラルバからの預かり物をちらりと見る。
親と子が分かたれている現状が、心苦しい。
ただ、全員が全員親や子との再会を望んでいるわけではあるまい。
十二歳の少年にしては少々シビアな思考だったが、親子観に関して、シュニーには若干冷えた考えを抱いている。
親子の情が絶対的なものなどとは信じていない。
過酷な環境に疲れて子を守るのを諦めた親がいて、道連れにしようとした親までいた。
だからこそラズワルドとステラは奮起して、子供たちはふたりに付き従って領地は分断されてしまった。
「……皆が皆、憎しみだけとは思いたくないな」
それでも、じゃあそれで終わりにしようとは思えなかった。
そうなってしまった原因はきっと環境にあって、もし壁を取り払うことができれば再び元の形に戻れるのだと信じたい。
手ひどい仕打ちを受けてなお、シュニーは両親への敬愛を抱き続けている。
自分の思考がおかしいのではないかとシュニーは悩んでいたが、ラルバもまた似たような感情を持っていると知れた。
「結局、だからこそこうして頭を抱えているわけなのだが」
そんな己の思考を踏まえた上でも、シュニーにとってどちらを取るべきかは悩ましかった。
感情に従って今すぐこの問題に取り掛かるべきか、理性的に食糧問題などより生命に直結する問題を優先するべきか。
シュニーはずっとどうするべきか悩み、時間を無為にしてしまっている。
結局は心情の話なので教科書に答えが書いてあるわけも無いのに、それを探し求めて本を読み漁ってしまう。
おかげでいくらか知識は増えたが、今必要なものではなかった。
こういう時に、優秀な人間はどんな答えを出せるのだろうか。
誰にも思いつかないような妙案でスマートに事態を収拾するのでは?
それができない自分はやはり領主など向いていないのではないか?
「……む」
そこで、ガタンという音が思考の海に溺れかけるシュニーを引き戻した。
なんのことはない、風でガラス窓が軋んだだけだ。
しかしいきなり物音がすれば、反射的に振り向いてしまうのが人間である。
シュニーが思わず窓の方を見た、瞬間。
「んにゅ」
気の抜けた声と共に、ぬっと顔が浮かび上がった。
血のように赤い瞳が、シュニーをガラス越しにじーっと見つめている。
「ぴっ」
そろそろ慣れてきたので、今回は小さな悲鳴だけで済んだ。
こんなものに慣れたくなかったというのがシュニーの切実な想いである。
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