誘蛾灯

空閑夜半

誘蛾灯

 まるで蛾ね、と彼女──漆原桃子は言った。

 梅雨前の湿気を含んだ空気に、長袖のブラウスでは汗ばむようになってきた昼下がり。中庭のベンチでお弁当を食べていた私の隣から、抑揚の欠けた声が聞こえてきた。

 私は玉子焼きを口に入れる寸前で動きを止め、少し迷い箸を下ろした。蛾という単語に食欲が減退した。

 その原因を作った相手を見ると、彼女はいつもの涼しい顔をしていた。ノンフレーム眼鏡の奥にある長い睫毛を伏せて、切り分けたコロッケを口に入れている。艶やかな黒髪は食事の邪魔にならないように後ろで緩く束ねられていた。

「蛾?」

 私の問いに、桃子はゆっくりと嚥下してから頷いた。

「さっきの光景って、電灯に群がる蛾みたいだったでしょう?」

彼女の言う“さっき”とは中間テストの順位が貼り出された直後のことだろう。

我が校では生徒の向上心を高めるという名目で、定期考査のたびに上位五十名の名前が各学年の掲示板に貼り出されている。その一番上に桃子の名前が載っているのを見たクラスの数名の女子が、賞賛の言葉と共に彼女を取り囲んだのである。

普段、あいさつくらいしか言葉を交わさない女子たちがここぞとばかりに集まっている様は、確かに似ていると言えなくもないが。

「蛾は酷いんじゃない?」

私は苦言を呈した。桃子なら他にましな比喩くらいいくらでも思いつくだろうに。普段、人を遠ざけるようなオーラを発している彼女と話しをするチャンス掴みに行った、勇気ある少女たちがさすがに不憫である。

しかし、隣に座る女は私の言葉など聞こえなかったように話を続ける。

「蛾には正の走光性を持つ種類が多いでしょう。あれは月明かりのない夜になると、蛾に見える光が紫外線だけになるからなのだけど、それと同じで人間も、代わり映えしない凡百の中にいると、特に優秀な個体に群がる習性があるのではないかしら?」

「桃子って、自己肯定感の塊だよね」

私は返答に困ってそう返した。私もその凡百の一人であり、中間テストの順位は中の下といった感じであるので、反論のしようもない。

そんな私の反応をどう解釈したのか、桃子は少し考えてからため息をついた。

「そうね。優秀な個体っていうのは確かに言い過ぎね。たかだか定期考査で一度首席を取ったくらいで、自分を過大評価しすぎてしまったわ」

「いや、そこまで言ってないけど」

「私が優れているわけではなくて、彼女たちが愚かなのよね」

「言ってませんけど?」

「けれど、愚かなことは悪いことはないわ。ただ、哀れなだけ、でしょう?」

「したり顔で、私がそう思ってるみたいに言わないで!」

私の抗議など聞こえなかったかのように、桃子は昼食の続きを始めた。涼しげに、けれど満足そうな顔をして。

桃子は私の従妹であり、幼馴染である。彼女はワーカホリックな両親の間に生まれ、幼少期から私の家に預けられることが多かった。そのため、一緒に育った彼女は私にとって、従妹というより妹に近い存在である。

だが、桃子はそうは思っていないだろう。彼女が他人に興味がないのは昔からで、実の両親に対してさえ、冷淡に思えるほど無関心だった。

あれは小学三年生の時。私はニュースで一組の芸能人夫婦が離婚したことに衝撃を受けた。芸能人に詳しくない私でも知っている二人で、結婚した時もお似合いだと思っていた。しかも、「仕事が忙しさからお互いにすれ違ってしまったから」離婚すると知ってだったため、居ても立ってもいられなくなり、大急ぎで父の書斎にいる桃子の元へ飛んで行った。もしかしたら、桃子の両親も離婚をしてしまうかもしれない。そう思ったのである。

しかし、私の話を聞いていた桃子は文字を目で追いつつ、短く「そう」とだけ言った。

「心配じゃないの? 叔父さんも叔母さんもいつも仕事で忙しいって言って、全然桃子に会いに来ないし」

「心配したところでなるようにしかならないでしょう。あの人たちにはあの人たちの人生があるし、利害関係が成立しなければ別れもするでしょう。それに、」

特に興味はないわ。

桃子の、本のページを捲る音は、ひどく乾いていた。

その時の私には彼女の言っていることがよく理解できなかった。そして、彼女のその達観というには冷めきった態度に、ただ呆然とした。

「……はあ」

桃子のため息が聞こえた。いつの間にか下を向いていた私が顔を上げると、本に視線を落としていたはずの彼女と目が合った。

「あなたの頭には脳が入っていないのではないかと常々疑ってはいたけれど、本当に無脳ね。脳が無い、と書いて無脳」

桃子は呆れたように、いい?と人差し指を立てた。

「想像力が著しく低いあなたでも理解しやすいように説明してあげるけれど、まず、あの二人をそこらにいる一般的な夫婦と同じだとは思わないで。あの二人はね、ナルシストなのよ。三度の飯より自分が大好きなの。夫は『家族のために身を粉にして働く俺』に酔っているし、妻は『会社に必要とされている私』に高い価値を感じているのよ。そんな二人が評価を落とすような真似をすると思う?」

そこまで言うと、話は終わったとでもいうように桃子は再び、紙面に目を落とした。私はかける言葉が見つからず、その場に立ち尽くすだけだった。


「そういえば、小学生の頃」

お弁当を食べ終わり、ぼんやり過去の出来事を思い出していると、隣で文庫本を開いていた桃子が唐突に口を開いた。

「な、なに?」

「いえ、あなたって、子供の頃から事あるごとに私のところへ飛んできていたわよね。それこそ蛾のように」

「蛾って。そこはせめて蝶とか言ってくれない?」

「それで、さっきの蛾の話なのだけれど」

「流された」

「蛾はね、好きで火や電灯に向かって飛んでいるわけではないの。蛾は日中、太陽や月の光が翅に対して直角に当たるように飛んでいるの。そうすれば、地面に対して平行に飛べるから。その後、人類が火を使い始めたり、電灯を作ったりするのだけど、太陽や月の光線が地面に対して垂直である一方で、電灯などの光線は放射線状に広がるから、翅に対して直角に光が当たるように飛ぼうとすると、蛾は自然と円を描きながら光源に向かって飛んで行ってしまうというわけ。だから、」

別に好きで飛んで行っているわけではないのよ。そう締め括って、桃子は再び読書に戻った。いつものように、涼しげな横顔で。それなのに、いつもと同じに見えないから、なぜなのか。

「いたらどうする?」

え、と珍しく桃子の目が私を素早く捉える。私は何がとは言わず、黙って彼女を見つめた。桃子は初め怪訝そうな顔をして、それから真意を問うように目を眇めた。なんとなく目は逸らしてはいけない気がして、私はその瞳をまっすぐ見つめ返す。

どれくらい、そうしていただろう。桃子はゆっくりと正面に向き直り、文庫本を閉じた。その瞬間、昼休みの終わりを告げるチャイムが響く。

「戻りましょう」

そう言って立ち上がった彼女は、いつもの桃子だった。ちなみに、最近では蛾と蝶に生物学的な違いはないとされつつあるわ、などと意地の悪いことまで言ってくる。

しかし、そんな桃子の様子に私は少なからずほっとしていた。知らぬ間に肩に力が入っていたようで、ベンチにへたり込んでしまった。桃子は当然私のことなど気にかけることなく、校舎へと歩いて行く。

遠ざかっていく背中を目で追っていると、バカだと思うわ、と桃子の声がかろうじて聞こえた。

「そんな蛾がいたら、相当なバカだと思う」

いつもより微かに柔らかい声音。その声に誘われて私はゆっくり立ち上がり、彼女の背中の後に続く。

そんな自分が本当に蛾になったように思えて、なんだか笑ってしまった。

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