第18話

「ディートリヒ様」


 レナが石を投げるようにその塊に声をかけると、たちどころに人がはける。

 中心には、目的の人物、ディートリヒが立っていた。もともと目を惹くような美貌だが、今夜は更に磨きがかかっていて、その超越した美しさにシェリルは目を細めた。

 シャンデリアの光を取り込み輝く瞳が、人の塊の先にあるレナの姿を捉えてぱちりと瞬く。

 周囲の女性に断りを入れながら、ディートリヒは真っ直ぐにレナを目指す。断られた女性は不満げに顔を歪め、静かに立ち去っていく。数歩進んだ先にいた貴族らしき男性を見つけ、ぱっと表情を変える技は流石である。


「ディートリヒ様、ご紹介します。こちら、親友のシェリルです」


 シェリルは慌てて、スカートを持ち上げ深く頭を下げた。ルフュージュでは散々に会話をしているが、貴族として仮面のない状態で直接顔を合わせるのは初めてだった。

 

「お初にお目にかかります。わたくし、ソワイエ伯爵が娘、シェリルと申します。ディートリヒ様の素晴らしいご功績の数々は、わたくしのような者の耳にも届くほど。今宵お目にかかれたこと、大変光栄なことに存じます」

 

 ディートリヒが、驚いたように息を呑んだ音がした。

 なにか失礼なことでも言ってしまっただろうかと、シェリルは冷や汗を流す。これだから貴族の挨拶、付き合いは苦手だ。

 頭を下げたまま固まるシェリルの上から、おほんと軽い咳払いがかかった。


「失礼。堅苦しい挨拶は不要だ、顔をあげてくれ」

「……はい」


 シェリルは礼の姿勢を解き、恐る恐る顔を上げる。そこにはいつもと変わらぬ――いや、いつもより外向きの笑顔を浮かべたディートリヒが立っていた。

 当然だが今のシェリルに対して、ルフュージュで対峙するような気軽さはない。そのことを少し残念に思っている自分に驚く。気付いて欲しいわけではない。むしろ、気付かないで欲しい。

 最後に会った日、シェリルが一方的に追い出すかたちで別れてしまった。その後、ディートリヒはルフュージュを訪れていない。怒っているのかもしれない。もう二度と、ルフュージュに来てくれないかもしれない。腹痛は大丈夫だろうかなどと、心配をする資格はない。

 ディートリヒとシェリルの間に、微妙な空気が流れる。レナは切り替えるように、ぽんと手を叩いた。

 

「ディートリヒ様はもう食事はお召し上がりになりました? どれかひとつでも、お口に合うものがあるといいのですが。シェリルもどうぞ遠慮なく食べてね。おすすめはキッシュよ!」


 言いながら、テーブルに並んでいる食べ物をひょいひょいとお皿に乗せ、シェリルに手渡してくる。なにか食べていれば、喋らずに済む。シェリルは有難く、レナに盛り付けてもらった皿を受け取った。


「ディートリヒ様はいかがなさいます?」

「いや、僕は結構だ。お心遣い感謝する」

「そうですか? 次は、ディートリヒ様のお好きな食べ物や飲み物をご用意しますわ。何かお好みの食べ物や飲み物はおありですか?」

「僕の? そうだな……」


 レナはぐいぐいとディートリヒに迫る。その怖じけなさと積極性にやや引きながら、シェリルは皿に乗ったキッシュを小さく切り分け、口に入れた。レナの言うとおり、おいしい。

 もぐもぐと咀嚼していると、ディートリヒがちらりとシェリルを見た。


「最近は、ハーブティーに興味があってね。詳しかったらぜひ色々と教えて欲しい」

「ハーブティーですか? ごめんなさい、私はあまり分からないわ……」


 レナは困ったように、頬に手を充てた。

 シェリルは口の中のものを呑み込むより先に、フォークで残りのキッシュを突き刺した。勢いよく突き刺したためかキッシュを貫通してしまったらしく、フォークの先が皿とぶつかり、カツンと金属音が鳴る。


「シェリル嬢は詳しいかな?」

「……いいえ、まったく」

「そう?」


 それ以上の追及から逃げるように、シェリルはフォークに突き刺したキッシュを口の中に押し込んだ。行儀が悪いと、レナに視線でたしなめられる。

(――なにか、怪しまれてる?)

 何を疑われているのか分からない。だが、挨拶をしたときからディートリヒの態度はどこか妙だ。

 適当なタイミングで、理由をつけて退出しよう。両親も、ディートリヒと話しているところをどこからか見ているだろう。初めての対面にしては上出来すぎる状況だ。文句は言わないはず。


「あ……ハーブティーはご用意していないのだけれど、ワインはいかがですか? 今日のために、オールドヴィンテージのものを開けましたの」


 見計らったように、給仕係の男が現れてワイングラスが乗ったトレーをディートリヒに差し出した。ディートリヒは一瞬ためらう仕草を見せるも、手前のグラスを手に取った。くるりと回って、レナとシェリルの間にも差し出してくるので、シェリルは仕方なく受け取る。給仕係はその場の三人がグラスを持ったのを見届けると、颯爽とその場を去る。断る間もなかった。

 これは、飲まないと失礼になるだろうか。シェリルはアルコールを飲んだことがないので、自身が強いのか弱いのかも知らない。ワイングラスに視線を落とし、もう片方の手に持っていたお皿を近くのテーブルに置く。万が一でも、酔ってお皿を落としてしまったらことだ。

 三人は、ワイングラスを軽く掲げる。

 一口飲んだら脇に避けよう、そう思ってグラスを傾けたとき。

 ディートリヒは懐から、折りたたまれた紙を取り出した。開くと、中には白い花が入っている。シェリルが渡したマキネの花だ。

 顔も分からない薬師の話を信用して、きちんとマキネの花を活用しているらしい。

 ネルヴェア家主催の夜会で、そんな危険な薬が紛れ込むとはとても考えられないので、神経質すぎる気もする。

 シェリルは興味なさげにマキネの花から視線を外したが、反対にレナは興味を持ったようだった。


「素敵なお花ですね。一体なんのお花ですの?」

「マキネの花、というらしい。飲み物に浮かべて使う。香りもないのでワイン本来の香りを邪魔しないし、華やかになるから、こうした場にふさわしい花だ」


 ディートリヒはあっけらかんとした顔で、いい加減な説明をする。何も知らずに聞いた人は、本当にそのような目的で使われるのだと受け取ってしまいそうだ。用途を知っているシェリルからするとあまりにも雑な解説である。少なくとも華やかさを目的とした使用方法ではない。

 流石に、毒を疑っているとも言えないから仕方ないのだが、レナに適当な知識を教えないで欲しい。薬師として、いただけない行為だ。

 シェリルは、何でもない顔をしているディートリヒを静かに睨む。くすりと、ディートリヒが笑った気がした。


「そうなのですね。恥ずかしながら、存じませんでした。次回はハーブティーと、そのマキネの花をご用意しますわ」


 ディートリヒは答えず、マキネの花をワイングラスの中に落とした。ふわりと落ち、ワインの水面に波紋を描く。

 ディートリヒの言ったとおり、真っ白な花が赤いワインのアクセントになって綺麗ですね、で終わるはずだった。

 しかし、嘲笑うように花の色は瞬く間に濃いオレンジ色へと変化した。

 シェリルはひゅっと背筋が凍る思いがする。


「まあ、綺麗。そんな仕掛けが」


 花の色が変わる意味を知らないレナは、ワインに浮かべて色が変わった綺麗な花を見て目を輝かせた。そういうパフォーマンスだと思ったらしい。

 だが、ディートリヒとシェリルの顔色はさっと青くなっている。

 マキネの花は、マキネの種子の粉末に反応して色が変わる。色が変わらなければただのワイン、何事もなかったかのように安心して飲めばいい。薄く色が変わる程度であればただの催淫剤、飲んでも性的興奮状態が強くなるだけで身体に害はないので飲んで問題ない。ディートリヒは催淫剤でも嫌がっていたが。そして、濃いオレンジ色へ変わるのであればそれは――


「毒だ」


 ディートリヒの低く、僅かに緊張した声が、騒がしいホールの中に槍のように投げられた。

 レナが小さく悲鳴をあげた。怯えたように、自分の持っているグラスに視線を落とす。同じ給仕係から受け取ったワインだったからだ。

 シェリルはたまらず叫んだ。


「――っ! そこの給仕係を捕らえなさい!」


 シェリルの命令を皮切りに、混乱はディートリヒたちを中心に波紋のように広がっていく。

 当然だ。状況はよく分からないが、次期レスター侯爵に毒が盛られたらしい。暗殺を企てた人間が、この夜会に紛れ込んでいるという。

 ある者は悲鳴をあげ、ある者は逃げ惑い、ある者は恐れおののいたように床にへたり込む。

 早々にばれるとは思っていなかったのか元々逃げる気はなかったのか、幸いにもディートリヒたちにワインを持ってきた給仕係はまだホールを出ていなかった。呆然と立ち尽くしている。


「エリック」

 

 ディートリヒは何の感慨もない顔で、片手を前に出す。手のひらから光の糸が紡がれ、一直線に給仕係に飛んでいく。ぐるりとその男の周りを取り囲んだかと思うと、急速に収束し身体を拘束した。

 彼の手にあったワイングラスの乗った盆が支えを失い傾くが、いつのまにか近くまで来ていた男が何かの術式を書き、間一髪で受け止めていた。

 シェリルはほっと息を吐く。

 シェリルやレナのワイングラス、残りのワイングラスにも、木の実の粉末が混入されているか否か、量はどれほど溶け込んでいるのかで、犯人の目的も分かってくる。

 

「な、なにっ、なに? どういうことなの、シェリル? 毒って」


 状況が一番飲み込めないのは、混乱のど真ん中に立つレナだ。恐怖にまみれた顔で、シェリルとディートリヒを交互に見やる。


「とりあえず、レナはそのワインは飲まないで。後で調べなきゃいけないから」

「そっ、それはもちろんだけど。なんで、毒なんて……ほんとに?」


 そもそも、毒自体が本当かどうか疑っている。実害が出ていないし、どうして二人が毒と判断したか分からないようだった。

 シェリルとて、この状況を飲み込めていない。

 ――天才魔術師のディートリヒと、有能な魔術師レナの二人を狙った犯行だろうか? シェリルの生死はどちらでもよく、巻き込まれただけ? 

 こんな人の多い場所で、敢えてマキネの種子を使用した犯行など、愚かにもほどがある。とはいえ、実際に実行しているのだから、よほどの命知らずかよほどの恨みを持つ者か、それとも――。


「まずは場所を移した方がいいわ。レナ、どこか落ち着ける場所は? それと、参加者をまだ外に出さないように」

「え、えぇ……」


 ぎこちなく頷くレナを確認してから、次にディートリヒに目を向ける。何かを考えるように、じっとワイングラスの中を見つめていた。自分が殺されかけたというのに、随分と落ち着いた様子である。

 シェリルがディートリヒにマキネの花を渡したのは、気休めのためだった。散々、催淫剤だ毒だと脅してしまったから、しばらく花の色が変わらなければ安心してくれるだろうと。

 マキネの木の実の粉末が、催淫剤として娼館に売れるのは本当。藪薬師から買い上げたらしく、死亡したケースもあると聞く。だがそれはあくまで、庶民階級だから起こること。貴族の間でマキネの木の実の粉末が使用されるケースは稀だ。ほとんどないと言ってもいい。

 そもそも貴族は、そんな俗な薬の存在を知らないのが普通だからだ。万が一どこからかその存在を知って使用するにしても、専属薬師から手に入れれば、細かく使用方法を指導されるだろう。

 シェリルは「ふむ」と、自分のグラスに視線を落とした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る