人として生く 5 ――幻想と自然な情動
夏の陽炎
第1話 Real Emotion
「もしもこの世界が勝者と敗者との
ふたつきりにわかれるのならああ僕は敗者でいい
いつだって敗者でいたいんだ」
と歌う浜崎あゆみさんの歌声が流れた。
それは、ここ数年で流行りだしたTikTokの画面で、ショート丈のあゆのライブの映像だった。
カウントダウンライブはちゃんと見逃し配信をmoneyと交換で見ていた。
だけど、帰宅後、孤独な家の中で頭が真っ白になり何も考えられずに何か救いはないかとスマホをめくる指先に…また再び現れたあゆさんは、——まるで過去の日々を巡る走馬灯の案内者のよう。
もう20年以上前の歌で、切ない曲調も相まってなんともいえないエモさがあった。当時16歳くらいだった時の私の記憶をそっと揺さぶった。
「嫌だわ。わたしは敗者なんて選ばない。」
16歳の私はそう呟いて、地元を去った。フリースクールに入所しそこで通信制の高校の勉強し卒業してくるために。
帰ってきた時に、きっと堂々と幸せの笑みを浮かべて立っていられるように。
時は今、37歳を目前にしていた。
「敗者、ということも必要だな。」
私はそう答えた。
浜崎さんがどんな経緯で敗者がいいと歌ったのかは知らない。
私は普通の人として普通の社員として必要とされる人間になりたかった。
そして自立して生きていける人間になりたかった。
ただ、この難しく絡み合う世界で、
私は統合失調症の精神障害者となり、多くの失敗を重ねてきた。努力しなかったわけではないけど、世間知らずの馬鹿であり、病識も持てず人に迷惑をかけた。
生まれつきの才能や運、それは――とても難しいもの。
重ねてきた日々は、自分の能力
ただ、私は人として、人を大事にし幸いを分け合える人間でありたい。
今年度春に、入社した牡丹ちゃんに、何から何まで敵わない。
私は責任の重い仕事は入社して数年できなかったし今もそうだし、そしてうまく人と話すこともできなくて人を遠ざけてしまう。
責任の重い仕事を最初から任され、そして明るく楽しく人と心を分け合える彼女と私はあまりにも違うのだ。それって隣の人まで元気にしてくれるよね。
「敗者でいい。」
私は棒おみくじのように、筒を丁寧に振ってみたり、抑えきれずにカチャカチャと振って吉を望んだり、焦っておみくじ棒を全部出して並べてみたりして、右か左か中か下かで、不運かラッキーかを一喜一憂した自分のくよくよにそっと手を振った。
残された札は絶望じゃなかっただろう。
毎日、フルタイムで働ける場所があることも、そっと上司の笑顔に安堵することも、悩み狂い悲しくなって連絡した障害者支援センターの存在も。
そしていつも職場での評価は
「評価はいいです。よく頑張ってます。」
と言われ続けた5年間だった。
―—2022年
柔らかい笑顔に火傷していた。どうかんがえても、仕事量は少ないし障害者でしかない私の唯一の心の逃げ場所が―彼の表情。
三つの(長い)夜が明けて朝が訪れることを、一緒に待ちわびられたら幸いだと、彼の名前を三明さんと名付けた。もしくは他の人の正妻だった源氏物語の女三宮を
奪うように、彼の心を奪い取りたいと三明さんとつけたのかもしれない。
どれくらい起きたまま夢を見てしまったんだろう。
だって三明さんは、悲しげな目で私の目を覗くことも、愛し気な瞳でまるで愛を囁いていることもあったと統合失調症の私は思っていた。
頭の悪い病気持ちの私に真偽は見えない、ただデスクの遠く向かいで見つめ合う日々が、傷だらけの泥だらけの私の人生に与えられた光であり、精神安定であった。
(ねえ、私と三明さんは愛し合っているの。きっと一緒になるの。)
そう心の中で呟けば、孤独の夜な夜な、彼が夢の中に訪問し私を優しく抱いて朝日の差す前に去っていった。
(ねぇ、あの頃も、年上で中性的な魅力の殿方の夢を見たよね。)
(フリースクールの先生に一度だけ朝方キスされたのに、そのあと私に対する愛も感じなくて狂いそうな精神喪失状態で、毎晩毎晩素敵な男性に抱きしめてもらう夢を見続けていたよね。)
私は派手な下着を買った。
もちろん日常用ではない。寝る時にだけ。そっと…。
毎晩、夢の中で三明さんを迎えなければ、余命はない。現実を眺める目は絶えて消えてしまう気がした。
だけども、昔の古傷も今の苦しみも全部——、かすかな何かを手繰れば…赤い運命の糸にたどり着けるような気がした。
夢を見ることにした。
そうして毎晩夢を待ち、朝を迎え続けた。
傷口が痛まない手段として、起きている時もずっと頭の中に三明さんを描き続けた。
日常生活でもたびたび、妄想と現実のはざまを行き来する統合失調症の私は、目の前にいる三明さんの本当に近づくつもりもなく。
頭の中に勝手に描いた虚像にそっとキスをしていた。
(きっと昔からの前世の前世からの知り合いの王子様なの。)
(わたしは、名もない、けどきっとシンデレラ姫なの。)
沸いては出る夢は収拾つかないようにも思えた。
だけど、彼と出会えるのは職場。
おとぎ話の神殿で手を取り合う王子様と姫君でもあるまいし…
それであっても遊んで生きているわけではないのだから、今、国がある。
彼は、生きるために毎日一生懸命に働いている。そして周りの人もまた仕事をし相互に支え合い、そこから零れた雑用を私が掴むことで私の生活の糧もいただいていた。
「三明さん、子供まだ幼いんだって。」
社員さんたちの噂話を小耳に挟む。
(確か、×一つだったかな?)
そっと頭の中の王子様の虚像に手を伸ばした。想像力のないわたしは…現実の三明さんを見つめ直さなければ描ききれない。
時々垣間見る笑顔は、子のいる父のような包容力。
2022年12月24日
「今宵も夢で、私を抱きしめて。」
白のレースのランジェリーを身にまとった。
そして布団と毛布に抱きしめられるようにして眠りついた。
2022年12月25日
……7:00AM
「夢で逢えなかった…。」
「何も感じなかった。」
え、どうして??
濡れたようにキスをする触覚も、愛しい面影を覗く視覚も何もかも夢で繕えたはずだった。夢はいくらか操作可能なはずだった。
時々猫背にしてみたり、足を貧乏ゆすりしたりする。時々、忙しすぎて苦しそうにする彼に、
夢を見るだけでは触れることはできなかった。
夢見るだけでは何一つ変えられなかった。
2023年
夢から現実に戻ろうと夢想する時間を消そうと心に願い、仕事をし始めた。
三明さんを眺める時間も短くなった。
ちょうど、天空からあらわれた天使のような牡丹ちゃんの存在も背中を押し現実へ引き戻された。
「月菜さん。」
突如、天から白羽の矢が飛んできたように、現れた三明さん。
普段は一緒にする仕事もないので話すことなんて全く皆無だ。
私は体を震わせた。頭の先から足の先まで真っ白で思考は停止した。
「何ですか。」
やっと出た言葉はそっけない刃のような言葉。
「この仕事やっておいてくれてありがとう。」
「・・・。」
私はこのあとなんて答えたのか全く覚えていない。
今でも思い出せない。
まるで今生まれたばかりの赤子のように、しゃべり方、愛想の仕方がわからなかった。
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