『世界はすでにそこにあった』
羽瀬川由紀
第1話 始まりの日
物心ついてから、もう何度目の春が来たのだろう。窓から見える桜が、もう少しで散りそうだ。大学を今年卒業して、春から新生活が始まった。
あぁ。いろいろな準備がある。このふかふかな布団から出たくないなぁ。だが、そうも言ってられない。
明日から、第一志望だった郵便局で働くことになった。緊張するけど、新しい事が始まるのは楽しみだ。
『裕斗ー。ご飯出来たよ!起きて!!』
母さんが一階から呼んでいる。朝ご飯なんだろー。俺は階段を下りて、一階のリビングに向かった。
いつもと変わらない炊きたてのご飯、野菜多めの味噌汁。だし巻き卵。そして、父さんが釣ってきた魚の塩焼き。
いつも食べてるはずなのに、うまかった。ご飯を食べ終わり、自分の部屋に帰る。視界がゆらりと揺れた。
まるで、自分の家じゃないようなそんな感覚に襲われる。
少し目を瞑ると8ミリフィルムのような、映写機に映されるみたいに、1コマ1コマ流れて行く風景。
決して裕福ではないけど、慎ましい生活。名前の知らない妹、弟。
少し生真面目そうな父。とっても優しくて、暖かそうに笑う母。
あの家に戻りたい。そうただそれだけなんだ。自分の居る場所は、ここでは無いんじゃないのだろうか?
そんな思いが、数秒頭をよぎっては消えていった。昔からそうだった。
ふと気を抜くと、何か大事なものが、手のひらから零れ落ちそうな感覚に襲われる。
最近よくこんな時がある。何かを思い出そうとした時に、波のように音も無くやってくる。あぁ。そうだ。
俺は郵便局で働きたいルーツを思い出していたのだ。
幼いかった頃、親戚の叔母さんが海外から郵便でビデオや手紙をよく送ってくれていた。郵便屋さんが運んで来てくれる異国のおもちゃやビデオはとても興味深くて、届くのがとても楽しみで、自分も誰かにワクワクを届けられるそんな仕事がしてみたい。ただそれだけだった。
異国のビデオの内容は木彫りの人形の男の子が女神に魔法を掛けられて、バッタと旅をしながら、自分を作ってくれたおじいさんを助けて、人間に生まれ変わるという話し。
字幕が付いていたけれど、幼い頃には読むのが難しくて、ただひたすら登場人物達の表情、仕草、声のトーンで何が言いたいのか、何を伝えているのかを考えて、答えを見つけるのが大変だった。
ずっと異国のビデオを見ていると、ふと異国の言葉が頭の中で日本語に変換されている瞬間に気づいた。
家族にその感動を伝えたかったが、自分の持っているボキャブラリーが少な過ぎて、家族に上手く伝えられない。ただ悔しかった。だから俺は手当たり次第、本を読み漁った。
本の世界に一度浸かってしまうと、読み進める時のドキドキ感、次は何が起こるのかと好奇心をくすぐるあの感覚がたまらなく好きで、時間があれば本を開いて、文字を追いかける生活をしていた。
やがて学校を卒業して、今日に至る。やってみたかった仕事にやっと就けると思うと、胸の奥がワクワクして、なんだか落ち着かない。
時間は流れて、俺は大人と呼べる年齢になっていた。仕事も下積み生活から軌道に乗り、ちょっとずつだが、やりたかった事を出来るようになってきた。
大学の時から付き合っていた彼女とも4年目を迎える今月、籍を入れる事になった。
暖かい友達や家族に囲まれて迎えた結婚式。幸せだった。
そして、また時は流れて、大好きな人と自分の間に子どもを授かった。
この人達の為に自分の出来る事を精一杯させてもらいたい。ずっと笑顔で居て欲しい。そう願った。
願いは順調に叶っていった。
俺は、いつの間にか歳を重ね、今年で65歳になった。子どもは3人授かり、それぞれがやりたい事を伸び伸びとしていた。
夫婦二人っきりの生活もなんだか新鮮で、若い頃に戻ったみたいで、不思議な感覚だ。
今日もあっと言う間に日が落ち、一日が終わる。縁側で柚子酒を飲んでいると、妻が隣にやってきた。
『ねぇ。隣いい??』
『あぁ。どうぞ。』
特に何か話す訳でもないが、
妻はいつも飲んでいる甘めのホットのカフェオレ、私は少し苦味のある柚子酒を飲んでいた。
『今日から子ども達も巣立っちゃったし、なんだか新婚生活に戻っちゃったみたいね。』
『だな。俺もさっきそれ思ってた』
『あはは。私達同じ事を考えていたのね』
二人でたくさん笑い合った。
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