ドンッ

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第1話

 ドンッ


 都市部にある狭苦しい中学校、校門に入って早々聞こえた音に私は足を止める。


 ドンッ


 音が鳴る。冬の曇り空を切り裂くような、鋭い音。


 ドンッ


 音が鳴る。鼓膜に焼き付く、大きな音。


 でも、誰も気にしていない。みんな白い息を吐きながら、隣にいる人と笑いあって昇降口に向かっている。立ち止まってない。

 笑い声が寒空の下、広がっている。


 ひとり、ポケットに手を突っ込み、私は顔を上げる。タバコの煙を思わせる灰色にくすんだ空に、校舎。そして屋上。


 陸野栞りくのしおりは、そこから飛び降りた。

 彼女が落ちた音が、まだ耳に残っている。


 〇


 栞は私の親友だった。軽やかに波打つ髪に大きな瞳、小ぶりな鼻にゆるいカーブを描く唇。そして、綿あめみたいに甘い声。今も隣にいるみたいに鮮明に思い出せる。絵本の中の登場人物のような柔らかい雰囲気の子だった。性格も外見に合わせたみたいにおっとりしていて、栞の周りだけ時間が何倍も遅く流れているようだった。それこそ、栞と一緒に登校していると何回も遅刻しそうになった。でもそれで構わなかった。

 栞と一緒にいる時間はその分濃くて、暖かくて、甘くて。幸せだった。


 その幸せを壊された。


 栞を気に入らない子はどこにもいて、栞はよくいじめの標的にあった。小学校も、中学でもそう。靴の隠しにパシリに水かけ。典型的な、でもだからこそ心にくる悪行。いじめなんて許されることじゃない。いじめられていた栞を私は守った。いじめっ子を散らした。でも、二四時間いつでも見ていられるわけじゃない。私の見ていない裏でいじめはあって、そしてそれに栞は耐えられなかった。


 一か月前、グラウンドを見渡せる第一校舎から栞は飛び降りた。

 栞が死んだ音を、そのとき昇降口を出たばかりだった私は聞いた。一ヶ月が経ってもそれは耳鳴りのように響いている。病院に行けば薬とかで、耳鳴りを治すことはできるとは思う。でも、そうはしたくなかった。


 だって、音が聞こえている間、私が栞を忘れることはない。 


 三年生の教室に入ると、外とは打って変わり生温かな空気が肌に纏わりついた。

 シューシューと間の抜けた音がするエアコンと、間の抜けた笑い声をあげる生徒たち。四角形の小さな空間に音が満ち満ちている。でも、そんな小うるさい教室でも、ボイドみたいにぽっかりと無音の空間が存在している。


 窓際一番後ろ、栞がいつも居た場所。でも今は空っぽの場所。あるのは誰も座っていない机と、小さな花瓶に入った菊の花。栞の声はもう聞けない。

 それこそ、どんなに願っても。


「最下位、天秤座だって。まじ最悪なんだけど!」


 キンキンする不快な声に、私は目を向ける。教室前、チンパンジーみたいに騒ぐ佐藤さとうがいた。


「最悪な一週間になるかもって! 防ぐには嫌なことを思い出さないことって書いてある!」


 佐藤は見せるようにスマホを周りの女たちに向けた。


「ねえねえ、あたしって、なにか忘れてるのかな?」

「そうだな、一つ、アンタが忘れていることあるよ」

「え、なになに」

「明日、英語と数学のテストがある」

「それは確かに忘れといた方がいいね」


 ゲラゲラと、下品な笑い声をあげる佐藤とその一行。

 教室前で一際大きく騒ぐ佐藤たち。そうする権利があるとばかりに彼女たちは騒いでいる。


 奥歯を嚙み砕くほどの衝動が湧いてくる。なにか忘れてるのかなって? 忘れてるよ!


 栞をいじめた、栞を殺した! 


 なのにどうして騒げるの、どうして笑えるの!

 他のクラスの連中だってそうだ。栞がいじめられていたのを遠目から見てばかりで、助けなかった。助けようともしなかった。見殺しにした。そして今は栞なんて生徒は忘れたかのように友達と笑い合っている。笑い声が教室中に咲き誇っている。


 ムカつく、ムカつく、ムカつく、ムカつく!


 臭い物に蓋をして、都合の悪いことは忘れて。そして、都合の良いことばかり記憶する。そんな都合の良い生き方がムカつく! 私は都合の良い、身勝手なコイツらとは違う。栞がいたことを、栞を守り切れなかったことを、栞が死んだことを忘れない。忘れてたまるか。


〈嫌なことを思い出さないこと〉


 あの女の声が頭の中で再生される。確か、そう言っていた。天秤座、私の星座。


 私もなにか忘れているのだろうか。


 バカな、そんなわけない。私は園児ばりの都合のいい頭をしているコイツらとは違う。忘れたこと、なんてない。あるはずがない。

 音が満ちる中、私は机に突っ伏した。



 ここほど味気ない場所はないと思う。CMではなく、新聞のチラシで紹介されているような、面白みのない家。それが針葉樹のように何十件と道の左右で続いている。芸術とは程遠い建売住宅、右も左も、そっくりの家々が並んでいる中、その一つに入る。


 ギーコ、ギーコ


 音が聞こえる。他の家々では決して聞こえない、この家だけの音。口角を緩ませ、私はリビングの戸を開いた。


「おかえり、しいな」

「ただいま、おばあちゃん」


 外とは違う暖かな空気。そして温泉のように身に染みる暖かな声。

 私は固まっていた表情筋を動かす。微笑みは無理して出すものじゃない。自然と出るものだ。暖かなリビングの中、おばあちゃんはいつものようにぼうっと安楽椅子に座っていて、ギーコギーコと揺れていた。


 木工楽器のような温かみのある音がリビングを満たす。「ご飯、食べた?」と聞くと、「食べたよ」と、間延びした声が返ってきた。おばあちゃんはご飯を食べるのが早い。私が帰ってくる頃にはいつも夕食を食べ終わっている。


「学校、どうだった?」

「つまんない。栞は居ないし、それにクラスのみんなはバカだもん。絶対、頭がスポンジで出来てるから」

「しいなは賢いからね。おばあちゃんと違って」


 おばあちゃんと話しながら食べるご飯は美味しい。例えそれがコンビニで買ったおにぎりでも。思えば、栞と食べるご飯も美味しかった。公園で一緒に食べたおにぎりの味は忘れられない。なにを食べるではなく、誰と一緒に食べるか。それが大事。ご飯を食べ終わり、リビングで宿題をする。自室よりもおばあちゃんがいるリビングが好き。だから自室に戻るのは寝るときぐらいだ。


 自室は片付いている。綺麗好きとか潔癖症とかじゃなくて、単に物が少ないからだ。机とベッドくらいしかない。そういえば栞からは「性格が出てる」って言われたっけ。栞と一緒にいた日々が、ひどく昔のように思える。

 部屋に入って早々ベッドに倒れる。最近なんだか眠い。栞が死んでからは特にそうだ。眠気に抗えず、瞼を下ろす。



 ドンッ


 物音に瞼を開く。時計を見ると短針は頂点を指していた。肌寒さに布団を引き寄せる。

 栞が死ぬ音じゃない。別の音、父が帰ってきた音だ。


 私は父と祖母の三人暮らしだ。もっとも父とはまともに顔を合わせてはいないから居ないのと変わりない。

 私と父は血が繋がっていない。母の連れ子とかそんなんじゃなくて、母と不倫相手の子だからだ。

 確か、小学校三年生のときだった。長年、母が通っていた陶芸教室の講師と私の顔が似ていることに父が気づいた。『どういうことだ』父は問いつめた。母は否定したけど父は信じなくて、ついには遺伝子検査を決行した。結果は黒、私と父は親子じゃなかった。そこから父と母は不仲になり、結果として、母は家を出ていった。そんな母を忘れるように、父は母の痕跡を消し始めた。母が作った茶碗に、使っていた食器、母が買ったカーペットに、母が育てていた観葉植物。そして母が映っている私たちの家族写真。全て捨てた。でもそれだけじゃ足りないのか、こうして夜遅くまで毎晩酒を飲んでくる。

 

 正直、父のことは軽蔑している。母のことを忘れようと物を捨て、あまつさえ酒に逃げるなんて。軽蔑するなってのが無理な話。


 忘れてもなんの解決もしないのに。


 大事なのは忘れずに向き合うこと。母が不倫したこと、私が実子ではないことを受け止め、前を向くべきだ。なのに、父は事実から背を向け、全てを忘れようとした。

 そんな父のことをどうして尊敬できるのだろう。だから母が出ていって以来、私はおばあちゃんっ子になった。思えば栞と仲良くなったのもその頃だ。学校で親の似顔絵を描く授業があって、私はおばあちゃんを描いた。みんながお母さんとかお父さんを描く中、私の絵は随分と目立った。でも私のほかにおばあちゃんを描いた子がいた。それが栞だった。二人ともおばあちゃんっ子ってことで意気投合して、それ以来ずっと仲良くしていた。小学校を卒業して同じ中学校に進学してもそうだった。幸せだった。


 そんな日々を壊された。


「忘れるもんか」


 布団の中、シーツが破けそうになるくらい強く拳を閉じる。栞のことも、いじめをしていた連中も、何もしなかった連中も、全部覚え続けてやる。他の人たちのように、忘れる、なんてことはしない。してたまるか。


 〇


 ドンッ


 校門をくぐると、またあの音が聞こえた。親友が死ぬ音、幸福が終わる音、みんなが忘れた音。


 ドンッ


 その音が聞こえるたび、私は背筋を伸ばす。


 ドンッ


 その音が聞こえるたび、私は拳を握る。


 ドンッ


 その音が聞こえるたび、私は決意する。忘れまいと。


 教室に入ると、いつものように喧騒が耳に入ってきた。都合のいい頭をした奴らがブサイクな笑い声をあげている。

 ほんと、ムカつく。イライラしながら私は栞の机に目を向けた。


 女が座っている。


「……誰よ、貴女」


 唇が震える。

 栞の机、栞がいた場所。そこに知らない女が今、座っている。

 女と目が合った。


「え? えっと……その、鈴木……です」


 女は手を膝の上に置くと、ぺこりと、頭を下げてくる。

 カッ、と頭の奥が熱くなった。


「ふざけないでよ!」


 ドンッ、女が座っている机の天板を私は叩いた。


「ここは栞の席なの。なのに、どうして座っているの。離れなさいよ! それともなに、栞は死んだからもういいってこと?」

「え、い、いや」

「いやって、じゃあなんなの! そこは栞の席なの。いいから、は、な、れ、な、さ、い、よ!」


 机を掴んで引き放す。するとバラバラと、机に入っていた教科書やら筆箱やらが零れ落ちてきた。信じられない。座るだけじゃなく、私物を入れているだなんて。

 ここは栞の席だ、栞のものだ、栞の居場所だ。他の人には使わせない、使わせてなるものか。


 栞がいた証を、誰にも消させやしない。


「なんで栞の席に座ったの。それともなに、一ヶ月も経ったから良いと思った? ふざけないでよ! どうして良いと思えたのよ! 栞はここに居たんだよ。この席に座って、私たちと一緒に授業を受けてた。私たちと一緒に居たんだよ。後ろめたいとか、息苦しいとか、辛気臭いとか思わないでよ。そのままにしてよ、栞の痕跡を消さないでよ。栞を忘れないでよ!」


 息が切れる、身体が熱い。思えば叫んだのは随分と久しぶりだ。喉がヒリヒリと痛む。でもそれ以上に胸が痛かった。怒りと同じくらいに悲しかった。意識してないと、涙が出そうだった。みんながここまで栞の存在を邪魔に思っているなんて思ってもみなかった。栞を仲間と思っていたのは私だけなの? みんな、栞を居なかったことにしたいの? 栞を一刻も早く忘れたいの? 


 そんなの悲しいよ。


 ドンッ


 音が聞こえる。栞が存在していた音、栞が消えた音、私だけが覚えている音。


 栞の机に座っていた鈴木とか言う女は、机をどかされてもまだ椅子に座っていた。相変わらず膝の上に手を置いたまま、立ち上がろうともしない。


 ムカつく。


「どきなさいよ! 机だけでなく椅子も栞の物。貴女が座っていいわけないでしょ!」


 椅子へ手を伸ばす。

 そのときだった。ビチャと、髪が肌にくっつく。水をかけられたと理解したのは、彼女を視界に入れてからだ。


「なに……すんのよ」


 栞をいじめていた佐藤が、空のペットボトル片手に私の後ろに立っていた。


「それはこっちの台詞。いきなり騒ぎ出して、キモチわるい」

「キモチわるい? キモチわるいってなによ! だってこの女が栞の机を使うのがいけないんじゃない! キモチわるいのはこの女の方よ!」

「なに言ってんの? この席は元から鈴木さんのじゃない」


 はあ? 鈴木の? 


 佐藤から目を外す。見ると、女の周りにはクラスメイトたちが集まっていて、一様に彼女を慰めていた。誰も彼女を非難していない。

 その中の一人が栞の机を掴んだ。


「だめ!」


 叫んで、栞の机に抱きつく。


「これは栞の! 誰にも渡さない!」


 机を強く抱きしめる。じゃないと、栞の存在が完全に消えてしまいそうだった。

 誰にも渡さない、渡してなるもんか。キッと、クラスメイトたちを睨みつける。

 みんな、私から目を背けていく。ただあいつだけは違っていた。


「栞、ねえ」


 ため息交じりに言うと、佐藤はリップで濡れた唇を開いた。



 栞って、誰よ。



「……は、はあ? な、なに言ってんのよ」


 声が、震えた。


「栞よ、栞。私たちのクラスメイトで、この机に座っていて。そして、アンタがいじめていた陸野栞よ!」

「いや、知らねえし。つーか、なに。本格的に頭がおかしくなった?」


 嘲笑混じりに佐藤は応えると、クラスメイトたちに目を向けた。「知らんよな」と佐藤は言って、「知らない」と佐藤の取り巻きたちは応える。他の生徒たちも頷いている。誰も否定しない。


 どういう……こと?


 重力が反転したかのような気持ち悪さに襲われて、私は栞の机に寄りかかる。血液が逆流しているかのように、心臓が変な音を立てている。立ちくらみのときみたいに、視界が揺れる。


 気持ち悪い。


「おーい、ホームルーム始めるぞ……て、なんだこの空気は?」


 声に目を向ける。

 そこに居たのは怠惰を平和主義だと勘違いしている、うちの担任だった。


「先生、栞って居ましたよね」


 先生の元へ駆ける。先生は瞬きした。


「しお……え、なんだって?」

「栞ですよ、陸野栞! ほら、窓際一番後ろの席に居た、栞です!」

「窓際一番後ろ……ああ、鈴木だろ」


 目の前が真っ暗になるとは、このことを言うのだろうか。先生すら栞を忘れている。

 その後、先生は口を開きなにやら言葉を発していた。「よく来たな」とか、「待ってたんだぞ」とか、「これで全員揃ったな」とか。ザルを通る水みたいに、言葉が耳から耳へ通り抜けていく。意味を捉えられない。


 そんな時だった、先生が持っていた黒色の出席簿が目に入ったのは。


「あ、こら!」


 先生の手から出席簿を奪い、パラパラとページをめくる。

 陸野栞、陸野栞、陸野栞、陸野栞、陸野栞──。


 ない。


 栞の名前がない。

 どこにも栞がいない。


「いい加減にしろ!」

「あっ」


 出席簿をひったくられる。先生は私を睨みつけてきた。

 教室内を見渡す。クラスメイトたちもみんな私を見ている。黒い瞳で私を見ている。


 栞の瞳はそこにはない。


「あっ、おい!」


 先生の制止を無視して、教室を飛び出す。嘲笑のような笑い声が背中を突き刺してくる。目頭が熱くなる。でも、無視して走り続ける。


 わかんない、わかんない、わかんない! 


 どうして栞の席が鈴木とかいう子の席になっているの。どうして出席簿に名前が無いの。どうしてみんな、栞を知らないって言うの。


 ドンッ


 まただ。またあの音が聞こえる。

 栞が屋上から落ちる音。栞が死んだ音。栞が残した音。


 ドンッ


 ドンッ


 ドンッ 


 ドンッ


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ──


「止めてよ!」


 大声で叫ぶ。でも、鳴り止まない。耳を閉じる。でも、鳴り止まない。

 栞の死が頭の中で響き続けた。


 〇


 音が鳴り止まない。

 それは家に帰っても続いた。サイレンのように鳴り響く音。脳が焼ききれそうなほど頭が痛くなって、こめかみを押さえる。

 そんな折、別の音が耳に入ってきた。


 ギーコ、ギーコ


「あら、お帰り」


 家のリビング。いつものようにそこは外とは暖かくて、そしていつものようにおばあちゃんが安楽椅子に座っていた。

 いつもの音がリビングを満たしている。


「ただいま」


 歯磨き粉のチューブみたいに、頑張って笑顔を絞り出す。栞が居なくなった今となっては、私の大切な人はおばあちゃんだけだ。


 おばあちゃんに心配をかけたくない。


「……なにか、あった?」


 音が止まった。


「えっ……どうして、そう思うの」

「だって悲しそうな顔をしているから」


 そう言っておばあちゃんは微笑んだ。

 教室のみんなとは違う、栞みたいに暖かい瞳だった。


「うん……うん。あった……あったんだよ、おばあちゃん」


 おばあちゃんに近づいて、膝に倒れ込む。「栞、栞」彼女の名を呼ぶ。

 栞の声が、姿が、瞳が、頭に浮かぶ。胸が熱い。コールタールみたいに熱くてドロドロした液体が心臓を通って全身を駆け巡っていくのを感じる。

 想いが止まらない。加速する。


「大丈夫、心配ないよ。しいなにはおばあちゃんがついているからね」


 後頭部が撫でられる。しわくちゃでカピカピな、でも栞と似た温かい手。

 決壊するのに時間はかからなかった。泣いた。水道の蛇口を思いっきし開けたみたいに、思いっきり振った炭酸のペットボトルを開けたみたいに、私はおばあちゃんの膝に顔をうずめたまま涙を流した。


 〇


 着替えるため、私はリビングを出て二階にある自室へと上がった。

 目がジンジンする。思えば泣いたのは随分と久しぶりだ。それこそ、栞が死んで以来なかった気がする。どうやら私は随分と無理をしていたようだ。

 以前まで感じていた窮屈感のようなものがない。制服を脱いで部屋着でいるような解放感がある。感動モノを求める人の気持ちがわかったような気がする。これも全部おばあちゃんのお陰。おばあちゃんはいつだって私の味方だ。


 ギーコ、ギーコ


 階下から聞こえる安楽椅子の音に頬を緩ませながら、私は自室の戸を開いた。


「遅かったね」


 ……。


「えっ」


 間の抜けた声が聞こえる。自分の声だと気づいたのは随分と後のことだった。

 ベッドと机ぐらいしかない、物の少ない自室。出るとき閉め忘れていたのか、空けたままだった窓からは冬の冷たい風が流れ込んできている。風でレースのカーテンがはためいている。


 軽やかに波打つ髪に大きな瞳。小ぶりな鼻にゆるいカーブを描く唇。

 栞が、そこにいた。


「な、なんでいるのよ」


 唇が震える。

 声が上手く出ていたか、それはわからない。でも、彼女の目が動いたのは確かだった。


「いちゃ悪い?」

「茶化さないで!」

「わかった、わかった。ちゃんと説明するよ。だからそう騒がないで。耳が痛いんだから」


 栞はおどけた仕草で耳に指を突っ込むと、ベッドに腰かける。以前見られた柔和な彼女の面影はそこにはない。


「と言っても何処から説明しようか。あたしの正体にはもう気づいてるんでしょ」


 栞の声が槍みたいに私の身体を貫いて、一周してそのまま蛇みたいに纏わりつく。

 唾を飲み込む。カサブタを剝がすような痛みが喉に走った。


「……私の、妄想?」

「ピンポンピンポーン、だいせいか~い!」


 キャッキャッと栞は騒ぐ。本当にあの栞かと、思えるような行動だった。


「しいなの頭の中の友達。それがあたし、陸野栞の正体なのです」

「頭の中の友達って……じゃ、じゃあ死んだのは嘘?」

「そ、噓。てか、そもそも実体がないのに死ねるわけないじゃない」


 パタパタと、子供みたいに栞は足を揺らす。実体がないのを証明するかのように、彼女が腰かけているベッドは凹んでいなかった。


「じゃ、じゃあどうして校舎から飛び降りるような真似をしたのよ」

「ひどいな~、それしいなが言う? しいながあたしを追い詰めたのにさ」

「私が……追い詰めた?」


 なにを……言っているの。

 言葉を詰まらせていると「あれれ~」と、嗜虐的な笑みを浮かべて栞が立ち上がる。そして瞳に私が映りこみそうになるほど近く、顔を近づけてきた。


「もしかして忘れた?」

「そんなこと!」

「良いよ、別に。だってしいなは忘れることが得意だもんね」

「とく、い?」

「だってそうでしょ。あたしが空想上の存在だってことを忘れて、この世に存在する友人のように接した。自分がいじめられていることを忘れて、いじめられているのはあたしの方だと記憶を捏造した。後半は特にひどいね。都合のいい道具みたいに扱わないで欲しかったよ」


 粘ついた汗が頭皮から流れる。脂汗ってこういう汗なんだと、頭の隅で思った。


「わ、忘れたくて忘れたわけじゃない」

「だから自分は悪くないって? じゃあさ、いい加減思い出した? 一ヶ月前のあの日、しいながあたしになんて言ったか」


 栞の瞳が私を射抜く。

 教室のみんなと同じ、真っ黒な瞳だった。


「……あんたなんてもういらない。消えてよ」

「ピンポンピンポーン、またまただいせいか~い!」


 キャッキャッと、またしても栞は騒ぐ。そして栞は私から離れると、開かれたままだった窓の枠に腰かけた。


「じゃ、さようなら」


 栞は後ろ向きに倒れていった。遅れて、ドンッ、と音が鳴る。


 それは頭蓋骨が砕けた音だった。

 脳髄がこぼれた音だった。

 脳みそが飛び散った音だった。

 目玉が飛び出た音だった。

 肉が裂けた音だった。

 肺が露出した音だった。

 腕が曲がった音だった。

 橈骨が突き出た音だった。

 背骨が折れた音だった。

 指がちぎれた音だった。

 血が噴き出た音だった。

 栞が──消えた音だった。


「ヴエッ」


 ゴミ箱に行く暇もなく、私は吐いた。給食で食べた卵スープやら子持ちししゃもが胃液に混じって床を汚していく。


 思い出した、全部。小学生の頃からずっといじめられてたこと。友達がいなかったこと。居場所がなかったこと。そこから逃げだしたくて妄想ばかりしていたこと。妄想が形になったこと。栞って私が名付けたこと。


 栞と一緒に登校したことも、お弁当を一緒に食べたことも、テスト勉強を一緒にしたことも、映画を一緒に見たことも、家で一緒に遊んだことも、全部ひとりだということ。


 一ヶ月前、保健室の先生に精神科に行った方が良いと遠回しに言われたこと。栞が空想上の存在だと気づいたこと。栞に『消えて』と言ったこと。そして、それが原因で彼女が消えたこと。


 全部、思い出した。


「嫌なことを思い出さないこと……」


 震える手で顔を覆う。えた匂いが鼻についた。


 〇


 制服に着替え、家を出る。左に三回、右に五回。そうすれば見慣れた壁が見えてきて、これまた見慣れた門から中へ入り込むことができる。

 辺りには私と同じ恰好をした人が大勢いる。でも、わたしとは違い、みんな友達と一緒だ。笑い声が辺りに広がっている。

 昇降口に流れ込む人波から外れ、ひとり、顔を上げる。


 でたらめに青い空に、白く輝く第一校舎。

 もう、音は聞こえない。


 教室に入るとさっきまで聞こえていた笑い声が止まった。凪の海のように静かな教室。でも、嵐前の海のように不安定な教室。

 みんな黒い瞳で私を見てくる。特に彼女たちはそうだ。


「あれれ~、今日は『しおりー』って言わないのかな?」


 佐藤とその取巻きたちが歯茎を見せるような歪な笑みで私を見てきた。

 何も応えず、机へと向かう。


『しおりーw』

『しおりを忘れないでww』

『糖質ww』

『診察はこっち→http://www……』


 ライトブラウン色の机が黒色の文字で埋まっている。

 思い出した、佐藤たちからこんな風にいじめられていたこと。一ヶ月前、保健室で騒いだことがきっかけでいじめが鳴りを潜めたこと。

 そのいじめがまた始まった。

 また苦しみの日々が始まった。

 もう栞は居ない。


 嘲笑に包まれる中、私はひとり、椅子に座った。

 

 〇


 チャイムが鳴って、私は一目散に外へと出た。

 嫌な人、嫌な目、嫌な音から解放される。そのまま駆け足で住宅街へと向かう。建売住宅特有の、つまらない、記憶に残らない家。でも、そんな家が私は好き。

 だってそこには学校とは違い、私の味方がいる。

 一刻も早く会いたい。声を、聴きたい。


 心臓がバクバクとなっている。

 感情の赴くまま、戸が壊れそうなほど玄関を強く開ける。

 靴がどこかにいきそうになるほど強く脱ぐ。

 柵を越えるように足を大股に開く。


 息継ぎをしないまま、私はリビングの戸に手をかけた。


「ただいま!」


 シャツが掛けられたテレビ。

 床に散らばった空の瓶。

 ハエが飛んでいる満タンのゴミ箱。

 崩れている雑誌の山。

 空けられたポテトチップスの袋。

 中途半端に崩れた段ボール。

 空けられていない封筒。

 何枚あるかわからないビニール袋。

 散らばる輪ゴム。

 シンクに溜まっている食器。


 そして──無人の安楽椅子。

 音が聞こえる。


「数学の宿題、どうする?」


 友達の会話。


「ただいまー。今日の晩御飯なにー」


 家族の会話。


「学校どうだった」「明日体育だったっけ」「洗濯物、畳むの手伝うよ」「カイロ余分に持ってくればよかった」「こら、ご飯前にお菓子を食べない」「明日、一緒に行こうよ」「母さん、ここに置いといた本知らない?」「誰が好きなの、教えてよ」


 音が満ち満ちる。

 膝を崩し安楽椅子に縋る。安楽椅子が揺れる。


 安楽椅子の音は冷たかった。

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