60 -陰影
「ババア。昨日、運んだ連中はどんな感じだ?」
「いきなり来て、その言い草か!」
新月丸とエルネアの医師長との会話はいつも、こんな感じに始まるが、互いに信頼しているのは間違いない。ババアと呼ばれた医師長、ミュラーは白衣を纏い忙しそうに歩いていた足を止め、新月丸に入院患者の容態を伝える。
「男は傷に残った残留魔素を取り除く為に、お前から貰っているあれを溶かした水に浸けてある。魔素が十分に抜ければ、本格的な治療に入れる。入院期間は早くて1ヶ月、長いと3ヶ月といったところで、全身の皮膚が焼かれ肉が潰れ骨も砕けているのに、よく持ち堪えたものだ」
やれやれ……といった表情で続けて言う。
「女のほうは、お前に傷の状態を詳しく言うのは控えるが、傷んだ組織を取り除き魔素を抜く薬を詰めてある。意識もそろそろ取り戻すだろう。こっちの全治は2ヶ月前後といったところと見ているが、気になるのは精神面じゃな……」
それを聞いた新月丸は、何か忌まわしいものを見たような顔で「そうか」と短く返事をした。詳しく聞かなくとも、彼女の身に何が起きたか、容易に想像がついているからだ。
「ケケイシはわしが診ておらんが案外、大火傷をしていたと聞いておる。だが、回復力が高い若い獣人は治りが早いでのう、帰れるくらいに治りおった」
新月丸はそれに対しても「そうか」と短い返事をしたが、表情は穏やかだ。
けれど——と話が続く。
「先に話した女のためにも、ケケイシはもう少し、ここに置いといて構わないよな?それを考えてケケイシを連れてきたんじゃろ?」
新月丸は何も言わなかったが、チラリと見返した顔を肯定とみなし、ミュラーは話を続ける。
「あの者らを本格的に匿うつもりか?」
「んー……治療してから『さぁ、お帰り』と返すってのもどうかと思うしな」
後頭部で手を組み、軽く上を見た姿勢で言う。
ハーララはああいった国であり、自国民——特に一般階級民と体の良い名を付けた奴隷が、他国へ逃げるのを極端に嫌い、体裁や面目を善く見せるのが大好きだ。そういった身分を設けているのを他国に知られないよう、取り
あそこを詳しく知らない者は、観光で行けるところだけを見て『全てが美しく楽園のようだ、さすが神都』といった感想を持つ。その裏にある街と国家体制を、一般の他国民へ見せない。
数百年も前のことになるが——亡命者を匿った国へ一方的に攻め入り、亡命者本人と保護していた者を捕らえ、連れ去った上に賠償金を求めた、という事実は裏で有名な話だ。
賠償金は莫大な額で、外見上は独立国として存続しているが事実上、植民地に近い扱いを今もされている。以降、この国へ逆らう国はほとんどない。武力にある程度、自信があったとしても痛い目を見る確率があるのなら、関わりを持たず腫れ物にさわるような扱いをしておいたほうが楽である。
連れ去られた者たちの末路は、言うまでもない。
「エルネアに迷惑をかけないよう、俺がなんとかするよ」
新月丸の口調は、いつものように軽い響きだが、目は何かを真剣に見据えた雰囲気を出している。
大怪我の男女と母子、合わせて5名。
あの国がこのまま黙って引き下がるわけがない。今もほら、何かが着々と、月光へ向かって来ているじゃないか——それを考えると、自然と口角が上向きに歪んでしまう。
「『エルネアのことは気にせず、お前のやりたいようにやれ』と、うちの皇帝が言っておったぞ」
それを伝えると、止めていた足を忙しそうに先へ進ませた。
手を上げ、その言葉に合図をした頃、すっと光は消え、同時に新月丸の姿も消え去る。
「ウデー、なるべくそっちで蹴散らしておいてくれ」
新月丸が執務室へ一旦戻ると、そこではいつも通りの仕事風景——いや、いつもより忙しそうではあるが、特に変わったところはない。「おかえりなさいませ」はタロウの声。その近くから「おかえりなさい、思ったより早いお戻りでしたね」と聞こえてきた。
机の上の書面は、そこそこの高さに積み上がっている。
「それくらいなら俺抜きでもう少しの間、2人で捌けるか?」
クレアとタロウは戻ってきた新月丸を見て、何かを察っする。いつもなら面倒くさそうに書面を手に取り、自分の席で気怠そうに目を通し始めるからだ。
「昨日の件への質問と疑問だけで、被害があるなどの急ぎ案件は今のところ、見かけません。別の用事があるのなら、王はそちらを片付けてください」
クレアの言葉を聞き
「わかった、ありがとう。何かあったら
とだけ言い残し、返事を聞く前に姿を消す。周辺には光った跡が薄く残っていたが、それもほどなく消えていった——
——新月丸が移動した先は、何も見えない闇の中。
そこはウデーが潜っている漆黒の空間。地面の下ではあるのだが、ここが地下と呼べる場所かどうかは別だ。ウデーの能力により次元を極僅かずらしてある。大抵の者はそこへ入れない。
ここから上を見ると、黒い霧の中から青空を見上げたように風景が広がり、多数の有翼人が飛んでいるのを確認できた。
「ざっと見たところ、戦力に強弱の差が多少あって約5000体」
高級スピーカーで流されているような、透き通った重低音の響きを帯びたウデーの声が続けて聞こえてくる。
「通常の者には見えない
(なるほどな……)
数百年前も、こういった卑怯な手口で国を落としたのだろう。有翼人は訓練を受けているだけの存在で
羽を有する者へ訓練をさせ魔素値の強い者や、攻撃力に長けた者へ
「どう、なさいますか?」
「そのまま、数をもっと減らしてくれ」
短い会話だが、それだけで2人には十分である。
途端、上からギャッとかウワッなどの悲鳴があがり、ポトポトと落下した。それは新月丸のところまでは届かない。一定のところで止まり、落とされた者はそこへ
メキメキと骨が砕ける嫌な音と、空気が漏れる音程度の小さい悲鳴をあげ、体の内側から吸い込まれるように消えてゆく——落ちた瞬間から、次々と。
一般の者から敵の姿は見えない。だから消えゆく死体も新月丸とウデーしか気付けない。
多数で攻め入ってきた者は、どこから攻撃を受けたのか見えない。静かな一方的虐殺が、月光国に隣接している
「一定魔素値以下の者を落とし終え、残り約2500体」
ウデーの声がそれを告げ「そうか」と短く返事をする新月丸。ここは漆黒の暗闇なので表情こそ見えないけれど、「そうか」には喜びが混じった雰囲気が漂う。
(半数を減らされたあと、引き返すか?)
それとも——
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